Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ もりかず いずみ 泉 守一浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 文化11年(1814)11月5日・50余歳〕
(目吉〈めきち〉参照)
 ☆ 享和二年(1802)    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   (享和二年奉納。画題記さず。絵柄は駆け馬に鞭)    落款 〝寿香亭藤原守一〟〝奉納〟〝享和二壬戌歳三日〟    識語 「本郷真光寺天満宮 壬戌写之」    〈「壬戌」は文久二年(1862)〉
   『武江扁額集』(駆け馬に鞭の図)下図寿香亭藤原守一画(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    ☆ 文化六年(1809)    ◯「朝寝坊夢羅久落話会披露之摺物」(『落話会刷画帖』式亭三馬収集・文化十二年八月序)   (『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝文化六年己巳八月廿八日、開莚於柳橋大のし富八楼〟    〈夢羅久(夢楽)最初の落語会、この摺物に、春英・豊国・北馬・拙亭翠・泉目吉が絵を添えた。以下は三馬のコメント〉   〝寿香亭目吉ハ雪舟家の門人、当時本郷に住す、本名藤原守一(モリカツ)、俗称吉五郎、生質侠者也、眼する    どきゆゑ渾名して目吉と呼べり、再改吉兵衛、文化十一年甲戌秋物故〟    〈三馬のいう「当時」とは、「当時本郷に住す」と「文化十一年秋物故」とあることからすると、この画帖が仕立てら     れた文化十二年ではなくて、この落語会のあった文化六年なのであろう〉  ☆ 文化十二年(1815)    ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝豊島区 講安寺墓地(西巣鴨四ノ三六六)浄土宗(寺は本郷湯島)    泉守一(画家)通称吉兵衛、香寿亭と号す。文化十二年十一月五日没。秀誉蘭底信士〟    〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は没年を文化十一年とし、享年は五十余歳とする〉  ☆ 文化年間(1804~1817)    ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。筠庭云ふ(中    略)目吉は板行ものにも見えず。金太郎をかけるを俗人賞す。随分何をもよくかきたり〟    ☆ 没後資料    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   (「本郷」合い印「古人・画家」)   〝目吉 (号)寿香亭 二丁目 泉吉兵衛〟   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③319(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)   〝泉守一【寛政、享和、文化中歿、五十余歳】     俗称吉兵衛、泉氏、居本郷一丁目、号寿香亭、江戸ノ産也、目吉ト称ス、俗中ノ渾名也、    始めは古等琳の門人也、後狩野探信門人となり、守の字をゆるさる、町画には可惜の名筆なり、武者画    をよくかけり、父は泉義信と云し狩野流の門人にて画工なりし、俗称の目吉を以て画名とす、本郷の一    侠客たり、能狩野流の画法を学び、墨絵の雲竜、鍾馗の絵に妙を得たり、戯れに、摺物画、花鳥の団扇    絵等を出せり、泉吉兵衛は諸社御普請の修覆、彩色御用を勤む、【日光久能山、江戸両山ノ類】町絵職    人の頭なり、【斎藤源左衛門請負ナリ】親吉兵衛より二代勤む、【三代目吉兵衛ハ門人林之助ト云シ者    也、実子聟女ニテ相続キ業ヲ勤ム】生涯名を不好、画(えがき)し額、王子権現為朝の図あり、本郷弓町    天神の社頭に、五郎時宗の額あり、湯島天神には童子遊びの図ありし、是も額なり、其他多し、門弟に    泉鉄あり、号寿川斎と云、能師の画風を学びたり〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)(目吉参照)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)
   「堤等琳系譜」(三代堤等琳の項、二代目等琳門人)      〝泉守一 寛政、享和、文化中没 五十余才     俗称 吉兵衛、泉氏、居 本郷一丁目     号  寿香亭 江戸産也     目吉と字す 俗中の渾名〈アダナ〉なり    始古等琳の門人也。後狩野探信門人となり、守の字を免許さる。町画には〔所』〈可〉惜の名筆也。武    者画を善かけり。父は泉義信と云し狩野流の門人にて画工なりし。俗称の目吉を以て画名とす。本郷の    一侠客たり。摺物画、花鳥の団扇画等を出せり。又諸社諸普請の修復の彩色の御用を勤む(日光久能山    江戸両山類)町絵職人の頭なり(斎藤源左衛門受屓なり)親吉兵衛より二代勤む(三代目吉兵衛は門人    林之助と云し者也。実子女にて相続し業をつげり)生涯名を不好りし、画し額、王子〔権現に為朝〕    〈稲荷に頼政隼太、清水堂に主馬判官〉の図なり。本郷弓町天神の社頭に五郎時宗の額有。湯島天神に    は童遊の図あり。其他多し。門弟に泉鉄有、号を寿川斎と云、師の風をよく学びたり(月岑按、近年人    形細工人に泉目吉と号るもの有、此人の門人にや、いぶかし〟
   「堤等琳系譜」    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1412(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)   〝泉守一 渾名目吉、文化中〟    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)
   「堤等琳系譜」〝(堤等琳二代門人)守一〟(名前のみ)     ◇⑪205   〝泉 守一    泉氏、俗称吉兵衛、号春香亭。江戸の産にして、本郷一丁目に住す。世俗目吉と渾名す。始故等琳の門 人、後狩野探信門人となり、守の字を免許さると〔割註 探信は狩野探幽斎の長男、名は守政、図書と 称す。享保三年十月四日歿す。守一は寛政、享和を盛にして歿す。その歿年へだゝる事九十年に近し。 探信の門人と云はいぶかし〕町画には可惜の名筆なり。武者絵をば善画く。父は泉義信と云し狩野家の 門人にて、画工にて俗称の目吉を以て画名とす。本郷の一侠客たり。摺物画、花鳥の団扇画等を出せり。 又諸社御普請日光久能山江戸両山御修復、彩色の御用を勤む。町画職人の頭なり。親目吉より二代勤む。 門弟に泉鉄道、号を寿川斎といふあり。其師の風をよく学びたり。近年人形細工人泉目吉といふ者あり。 此人の門人にやいぶかし〟    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   (名前のみ、記事なし)   〝東都     春川秀蝶・田中益信・泉守一・山本義信・古川三蝶・歌舞妓堂・【別人】勝川春章・勝川春常    勝川春山・勝川春扇・葛飾一扇・如蓮北昆・卍亭北鵞    東都    歌川国長・歌川国政・歌川国久・歌川国安・歌川国直・歌川秀丸・歌川月丸・北川菊丸、北川美丸    細田栄理・細田栄昌・細田栄亀〟    ◯『日本美術画家人名詳伝』p20(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝春香貞ト号ス、通称吉兵衛、江戸ノ人、世俗目吉ト云フ、始故等琳ノ門ニ入リ、後狩野探信ノ門人トナ    リ、守ノ字ヲ許サルヽ(探信ハ探幽斎ノ長男、名ハ守政図書ト称す、享保三年十月四日歿ス、守一ハ寛    政享和ヲ盛ニシテ歿ス、其ノ歿年ノヘダタル事九十年ニ近シ、探信ノ門人ト云ハイブカシシ)町画ニハ    惜ムベシ名筆ナリ、武者絵ヲバ善クス、父ハ泉義信ト云狩野家ノ門人ナリ、俗称ノ目吉ハ以テ画名トス、    摺物画花鳥ノ図団扇等ヲ出セリ、歿年未詳〟    ◯『名人忌辰録』上巻p3(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝泉目吉 守一    俗称吉兵衛、号香斎。本郷一丁目に居住す、続浮世絵類考に始め、古等琳門人、後狩野探信の門に入り、    守の字を許さると云ふ。文化十二年十二月五日歿す、無縁坂講安寺に葬る〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年(1894) 新聞「小日本」に寄稿)   ◇「歌川豊春伝」p77   〝(豊春)寛政年間、日光神廟修繕の時、豊春狩野家に従い、町絵職人の頭となり、門人を率いて廟内の    彩色に従事せり、時人これを栄とす。     按ずるに、類考に寛政の頃、日光山御修復の節、彼地に職人頭を勤めしとぞあり。此の時町絵職人の     頭となりて日光に至りしは、豊春のみにあらず、かの本郷の侠客泉守一なども、門人等を率いて赴き     たり〟     ◇「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そして     それを保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その     題材故に陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけ     た「骨法筆意」があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉     守一、清長、歌麿、北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(50/103コマ)   〝泉守一【寛政元年~十二年 1789-1800】    通称吉兵衛、寿香斎と号す、渾名を目吉といへり、江戸の産にて、本郷一丁目み住めり、父は泉義信と    て、狩野家の門弟となり、渾名の目吉をもて画名とす、本郷の一侠客と呼ばれ、幕府祖廟日光山および    久能山、また江戸の芝、上野両山の修繕彩色御用を勤めし、町画師職人の頭なりき、守一は二世等琳の    門弟にて、父の箕裘を嗣ぎ、殊に善く武者絵を画けりとぞ、文化の中頃没す、享年五十余歳〟  ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   ◇「堤等琳系譜」p74
   「堤等琳系譜」〝守一 泉氏、目吉と云ふ〟        ◇「泉守一」p76   〝泉守一(ルビいづみもりかず)    泉守一、通称は吉兵衛と云ふ、寿香斎と号す、二世等琳、二世探信等に就きて画を学べり。守一の名は    狩野家より得たるなり、父は信義と称し、狩野風の画家なり、日光久能両社、寛永寺増上寺、其他(ソノ    タ)神社仏閣修復の受負人斎藤源左衞門が下職(シタショク)となりて、彩色の用を務め、町絵職人の頭なり、    異名を目吉と呼び、本郷壱丁目に住して、未だ侠客の名ありき、守一長じて父の職を継ぎ、亦(マタ)其異    名をももうけたり、守一の画は尋常の浮世絵に比して其品格稍々(*ヤヤ)あがれり、これ其画風狩野家よ    り出でたるゆゑなるべし。花鳥を描くに巧にして摺物団扇等を出せり、守一嗣子なきを以て、門人林之    助を養子となし、幕府営繕の用を初めしむ、二世泉吉左衞門とは即ち此人なり〟    ◯『狂歌人名辞書』p230(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝泉守一、通称吉兵衛、春香亭と号す、江戸の人、世人呼んで日吉(ママ、目吉か)と云ふ、初め画を堤等琳    に学び、後ち狩野探信の門に遊ぶ、武者絵に巧みなり、寛政頃の人〟    ◯『浮世絵師伝』p195(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝守一    【生】           【歿】文化十二年(1815)十二月五目-五十余    【画系】二代等琳門人    【作画期】寛政~文化    泉氏、名は義信、俗称吉兵衛、本郷一丁目に住したる侠客にして、徳州家霊廟の修繕彩色の用を勤めた    る町絵師職人の頭領なり、別号を寿香斎或は寿香亭といひ、渾名を目吉といふ、蓋し一丁目の吉兵衛を    略したるものなるベし、最も武者絵をよくす。墓所無縁坂講安寺〟    ◯『浮世絵年表』p187(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   「文化一二年 乙亥」(1815)p187   〝十二月五日、泉目吉歿す。(目吉は守一と称せり。本郷に住せりといふも、伝記詳ならず)〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    収録なし
Top浮世絵師総覧浮世絵師名一覧