Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ みつのり とさ 土佐 光則浮世絵師名一覧
〔天正11年(1583) ~ 寛永15年(1638)・56歳〕
 ◯『浮世絵師伝』p192(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝光則    【生】天正十一年(1583)  【歿】寛永十五年(1638)-五十六    【画系】土佐派       【作画期】慶長~寛永    土佐光則は土佐宗家の画人、光吉の男なり、源左衛門と称し、また右近と昌ふ、画所預となる、故あり    て官位なし、父の教へを受けて業を継ぎ、数年調進の画を勤む、寛永十五年正月十六日歿す年五十六。    或は云ふ光則は剃髪して宗仁と名づくと、一説に曰く宗愬(又は宗思又は光則に作る)、泉州堺に住す    と、是れ或は光則薙髪隠居の後ならんか、遺蹟著名の品は源氏小扇面五十四枚、金地舞樂屏風、人麿、    蘆鴈屏風とす。(皇朝名画拾彙、扶桑画人伝)     右は大日本人名辞書より抜萃    浮世絵師伝の編纂も終り、活版印刷へ廻さんとする際、浮世絵として未曾有の大作を実見した。    吾人は浮世絵師伝を編輯するに当つては、在来編纂史料が少ないのと誤りの点多き爲め、主として現品    に順拠し、画家の落款、印譜、作風、作画期等を根本資料として誤り無き正確の浮世絵師伝を作るのが    目的である。     浮世絵の初期、桃山時代、慶長…元和…寛永頃には遊散、舞楽、祭礼、酒宴、遊芸等、有名の画あれど    も、惜いかな無落款のもの多く、彦根屏風も岩佐又兵衛画と伝へられたが具眼者の批評には手腕優れた    る狩野派の画師が描ひたのであらうと云ふだけで判定が付かない。其等の意味は序文に記すとして、実    見した其作品に就て要点だけ批評す。     大形六曲屏風一双にて片双の画面は歳末の図で、右側に錦襴を売る店、其主人が枚持ちの老人と若侍に    向つて奥の方へ指さして招ぎ入れんとして居る。道を距て中央の扇屋へ武家の隠居が縁喜の扇子を註文    して居るのと、後ろ方へ腰掛けて待つ供人。隣家では破魔弓を買て居る武士を眺める公卿の公達と従者    の童子。左方店は糸屋で三人の女が仕事をしながら往來を眺めて居る。道路には懸想文売、干柿売、公    家の奥方と娘及び供の女と挿み箱を荷ふ男、小松売、馬を休ませて居る百姓、節季候(セキゾロ)の踊り    (小児も一緒になつて)、小間物屋、井戸端に大根を洗ふ女と水を汲む男等…各人の動作は自然である。    片双は正月の図で公卿宅の入口に注連飾(シメカザリ)。門松あり、座敷では烏帽子を冠り礼服着で主客の    応対、玄関では礼服着の廻礼者を執事が受付けて居る、邸内で万歳の踊を児抱き、児負への母親達と幼    児等が羽子板、弓を持ちながら眺めて居る。左り隣は町家で格子窓の内より老母、児抱きの母、娘等が    …尚ほ土間から縄暖簾を開けて二人の女が戸外の大黒様見立の踊り、胴上げしたり、白色の釆配を持ち    烏帽子を冠つて寿老人の姿をし、また三色の采配を持て踊の拍子をとつて居る、水桶を持つ人々、天蓋    を捧げて恵比寿様見立の人々が縁喜に関した一群の舞踊を眺めて居る図。     双方の画面には橋、水の流れ、松梅樹を配置よく描き。歳旦の情調を表現し、画面を統一して居る。     流石に土佐家本格の画師であるから現代に得難き本質の緑青、群青、金砂、朱、胡粉等の顔料を精妙な    る技倆を備へて使用したるため、三百年以上経過しても感じの良い色調を保つてゐる、在來展覧会へ出    品されたもので斯くの如き感じの良い色彩を見たことがない。特に緑青と金砂子の配合に拠て画面を引    立たせることは他の画家では模倣し能はぬ技倆である。     一寸眼に付かぬが見立寿老人の持つ采配に附いた、二つの小さい玉を見ると、金の橙の実で葉も三葉づ    ゝ付いて居る、金の上に針の穴ほど小さい代赭色の点々が百個ほどある、其れは橙の実を円みに見せる    爲である、葉も枝葉線に合せて光線をとり緑青を盛り上げてある。一つの持物でも能ふ限り細密の筆を    揮ひ、精妙を尽しある故、一人の画を描くだけでも相当の筆力を要するであらう。     構図は慶長時代の士農工商、老若男女の社会世相、家と樹木、人物との取合せ方、此時代としては整つ    た遠近法である。人物の動作、其の配置、顏の表情、服装の描写及び家屋の作り風等、真を尽し、丹誠    を凝らし、其を現はす筆の巧妙、洗練されたる絵具の使用法、見れば見る程、深みあり、雄大にして荘    厳の品位ある優秀作である。当時の社会風物の面影、特に歳旦の光景…目前に見られる、現代の人々に    も殊に興味を惹くことであらう。慶長頃から浮世絵外、山水花鳥の大画を作る競争時代(現代の帝展出    品と同じく)でありしなれど、一画面に数百千人配列せし図が多いが、只雑踏を表はしたゞけで単調子    に過ぎ画面を統一しない、また四五人の大人物を描いても品位の無い絵がある。     光則が大和絵の描法を更に醇化して現代風俗を作るのに適当の描方に改め、画面を綜合統一し、余韻風    致ある画を遺したるは偉とすべきである。     画面の隅に珊瑚珠の粉末で長円形の中へ『画所預』と、尚ほ其下の角形の中に『土佐光則』と捺印あり、    初期浮世絵の大小作にて画家の名判明せるは異例なれども、第一流の画家が心血を注いで描き、会心の    作たる事を自信して捺印したのであらう(此時代には書文字落款は殆ど無し)     画所預の格である故、生活には不自由なからんも斯る大作は一部分の人物でも非常に技巧を尽し居るゆ    ゑ、全画面を完成する迄には二ケ年以上も要したであらう。然るに此屏風の出所は山陽道に名高き大名    の所有でありし故、此時の新大名から賞鑑の爲め依頼され、特別に揮毫されたのであらう。浮世絵の祖    と称へられたる岩佐又兵衛(勝以)の画で、真実の浮世絵…、其時代を現はしたる大作は無い、光則は    勝以の師、また妙手と称へられたる土佐光起の父である。斯くの如く構図、絵具の使用法、技巧に於て    も群を抜く完全の大作を遺したる功労に報ひんため、有識階級の諸君と共に一致して浮世絵の始祖と推    賞したい事を申上げて置きます……渡辺生〟