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☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂 初代浮世絵師名一覧
〔元禄4年(1691) ~ 宝暦10年(1760)4月28日・70歳〕
 別称 春窓翁(しゅんそうおう)(「日本古典籍総合目録」より)    ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』  ☆ 享保十五年(1730)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保十五年刊)    英一蜂画『父の恩』大本二巻 英一蜂画 浪花蔦性◎序 元祖市川団十郎追善    ☆ 享保十九年(1734)    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   (享保十九年(1734)二月奉納。月岑の識語に「趙雲図」とあり)    落款 〝享保十九年二月穀旦〟〝英一蜂敬書〟〝三河町河岸一丁目 願主 美濃屋清四郎〟    識語 「雑司谷鷲明神社に掛る所 趙雲図」    「此図筆太に画きてすこやかの出来也。彩色大かた剥落せり。文久二年十月十三日参詣してこれを摸す」
   『武江扁額集』「趙雲図」英一蜂筆 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    ☆ 宝暦元年(寛延四年・1761)    ◯「日本古典籍総合目録」(宝暦元年刊)    英一蜂画『画集図彙』一冊 英一蜂    ☆ 宝暦二年(1752)      ◯「絵本年表」(宝暦二年刊)    英一蜂画『画本図編』三巻 英一蜂 跋 寛延辛未之夏五 武江英一蜂    ☆ 宝暦四年(1754)    ◯「日本古典籍総合目録」(宝暦四年刊)   ◇絵本    英一蜂画『英氏画編』一冊 英一蜂画 大和田屋安兵衛板        (宝暦2年秋自在庵祇徳序・宝暦2年葉つき英一蜂跋画)    ☆ 宝暦六年(1756)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦六年刊)    英一蜂画    『わかな』一冊 英一蜂画 龍水図 須臾菴祇丞序 独菴買明跋    『発句帳』勝間龍水 英一蜂〈刊年・版元名なし〉    ☆ 宝暦七年(1757)    ◯『近世江都著聞集』〔燕石〕⑤54(馬場文耕著・宝暦七年序)   〝英古一蝶が画の浅妻舟と云絵あり、彼が門弟どもは、多く浅妻船の図を書く也、当時英一峰(ママ)など、    此図を専らとす、一年、浅草にて千幅画の節も、人々是を好み望雅人多かりしとかや、其舟の図は、彼    のおでんの方鼓打給ふ形をやつして、小舟に女の舞装束にてひとり鼓を打体也〟    〈おでんの方とは五代将軍綱吉の愛妾。多賀長湖(後の一蝶)は、おでんの方を白拍子にやつして「朝妻船」を画き、     それが原因で流罪になったと噂されていた。「朝妻船」は一蝶のみならず弟子達にとっても格好の題材となったので     ある。一峰とあるが、「(宝暦)当時」ということなので、一蜂の誤記と思われる〉    ☆ 宝暦八年(1758)    ◯「日本古典籍総合目録」(宝暦八年刊)   ◇絵本    英一蜂画    『英筆百画』六巻 英一蜂画 鈴木鄰松補画    『両兎林』 一冊 英一蜂画(注記「絵本の研究による」)    ◯『江都百化物』〔続燕石〕③20(馬場文耕著・宝暦八年九月序)   (「絵画の化物」の項)   “一蝶弟子の当時、百馬鹿の内にも入られて、一ッ風有英一蝶といふ者なりしが、とう/\化しすまし、    是も目出度白狐の化粧の類也、新吉原、虎少将が部屋の張付絵を頼まれ、虎が座敷は竹の一ッ色、少将    が座敷は西湖の夜の雨の景色、巴屋にて絵を書ながら、饅頭を取つて引喰ひ/\して、凡一分饅頭を八    十一程不残喰ひけると也、近き頃、西本願寺御下向の筋、小田原町より本願寺へ献上の巻物を、一峰に    絵がゝせ上しに、桃太郎一代記を認けり、本願寺御満足甚敷、御目見へ被仰付、蕎麦切とけんどん一ッ    宛被下けるに、御前にて右のそば切を喰ひて、大きに胸をつかへて騒ぎしとなり、堺町の中村利兵衛聟、    新材木町山形屋惣右衛門相伴にて、大きにこまりしと也、是も化物とほゝ敬白”    〈「日本随筆大成」第二期二巻所収の『当代江都百化物』に「英一蜂ノ弁」としてほぼ同文あり〉    ☆ 宝暦十年(1760)    ◯『増訂武江年表』1p167(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝四月二十八日、英一蝶(ママ)卒す。(深川法禅寺中南竜院に葬す)    ☆ 没後資料    ☆ 明和六年(1769)    ◯『古今諸家人物志』「英画」〔人名録〕③47(奥村意語編・明和六年十一月刊)   〝英一蝶【名信賀/字暁雲】── 男一蝶【多賀源内】── 一烽(ママ)     姓英 名(空白) 字(空白) 号一烽 又号春窻翁    東都人。初め古先生に画を学び、而して後に古先生二男多賀源内の維跡を嗣ぎ、画を以て行る。元禄四    年辛未に生れ、遂に宝暦十庚辰年四月二十八日病没す。寿七十歳。墓は東都築地本願寺寺中真光寺に葬    る。居東武北鞘町。    一、絵本図編 三  一、同画編 三  一、両兎林 三〟    〈「国書基本DB」は『画本図編』宝暦二年刊、『両兎林』宝暦八年刊とする。「絵本画編」は未詳〉     ☆ 安永二年(1773)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永二年刊)    英一蜂画『英筆百画』六巻 百画春窓翁一蜂画 鈴木鄰松補画 山崎金兵衛板    〈「日本古典籍総合目録」は宝暦八年刊ありとする〉    ☆ 享和二年(1802)
 ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年十月記・文政元年六月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   「英氏系図之略」    ☆ 文政元年(文化十五年・1844)
 ◯『江都諸名家墓所一覧』「深川」「画」〔人名録〕②268(老樗軒編・文化十五年一月刊)   〝英一蜂【初代、号春窓翁、宝暦十年四月廿八日】法禅寺中南龍院〟    ☆ 天保三年(1832)
 ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝一蝶〔一峯、一舟、一川、嵩谷附〕    一蝶の子を一峯と為す。一峯の義子を一舟と為す、一舟の子を一川と為す。皆家学を能くす。近来嵩谷    なる者有り、其の法を学び、江戸に住す。浅草観音堂に頼政鵺を射るの図有り。設色高古、布置頗(スコ    ブ)る工なり、世に能手と称す〟    ☆ 天保四年(1833)
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③284(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「英一蝶」の項、初代一蝶門人)
   「英一蝶系譜」〝門人 一峰 号春窓翁〟    ☆ 天保八年(1837)
◯『一蝶流謫考』〔続燕石〕①145(涼仙老樵(山東京山)編・天保八年八月成立)   (「一蝶家譜之略」の項)   〝一水門人一蜂【明和九年七月六日、年六十六没、春窓翁と号す】〟    〈春窓翁とあるから、初代の一蜂と思われるが、没年年が違う。山東京山の記憶違いか〉     ☆ 天保十二年(1841)
 ◯『用捨箱』〔大成Ⅰ〕⑬128(柳亭種彦著・天保十二年刊)   「折りかけ燈籠」(模写あり)   〝此半葉は画も発句も『父の恩』に見えたるなり。此草紙享保十五年刊行人の知り給ふ如く才牛斎三舛著。    沉詳の句は小島平七といふかぶきの追善なり  敦守の御臺の役にて世を去て二十余年 沉詳    折かけて扇のみかは魂燈篭    (笹に折かけ燈籠、藁つとの絵)英一蜂画〟    〈『父の恩』は二世市川団十郎編 英一蜂・小川破笠画。初世団十郎二十七回忌追善句集。享保期の代表的な「絵俳書」〉    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)
 ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)
   「英一蝶系譜」〝門人 一峰 号春窓翁〟    (「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」)  ☆ 嘉永年間(1848~1853)
 ◯『古画備考』四十四「英流」(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1932   〝(一蝶)門人 一蜂 号春窓翁 宝暦十年四月廿八日歿、葬于深川法禅寺中南龍院〟
   「英流」(英一蝶系譜)     ◇「英流」下p1945   〝一蝶肖像二幅あり、    一は英一蜂【初代】画、賛無し、    一は英一舟画、賛あり、辞世と書て、世に伝る所の     まぎらかす浮世のわざの色どりもありとや月のうす墨の空     像はあとにて、紙を継て、一舟が画添しなり、       此二像年月隔りし故か不似、只目の大なると、鼻の大きくて丸き処ばかりは同じ、一舟書たる像は一     圭まで伝りしが、典物に入たるか、売たるか、一蝶の印も不残伝りしを、質に入候て、今は三河町な     る、三文字屋と云へる酒屋い伝へたり〟    〈この記事の直前に「観嵩月老話 文政十年十月廿五日聞之」とあり、一蝶肖像画のことを聞いた日付か〉     ◇下p1955   〝英一蜂 絵方    此人が無いと、此風儀はめつもん、宝暦八年比評判記     一蜂翁肖像賛    世人と交るに、黙して詞少し、書くときは、人情世態写さゞる処なし、山水田野に遊ぶ事を好まず、大    都広陌のかまびすしきに居て、ゑがくときは、よく朝夕陰晴の隈をわけ、高低遠近をあやまたず、其餘    は衣食器財竹木禽獣、一物として愛するなし、画くときは、万象こまやかに知る、さりとて粉本のたく    はふるなく、禿筆みづから快しとす、まことに千枝のしげみを分て、北窓のはかなさを、味はひしるが    故なるべし、蝶去て游蜂有、筆勢蜜より猶うまし、          宝暦十年庚辰十二月廿日友人皐月平妙書[印章]「珍」「(一字未詳)叔」(共に方印)     [署名]「英一蜒画」[印章]「印字未詳」〟  ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)  ◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇英一蜂([31]巻十之五 雑家 76/108コマ)   〝一蜂    姓名詳ならず 英氏一蜂【或は一峯また一峰につくる】また春窓翁と号す 一水の門人といへり【或は    一蝶の門人とす】 宝暦十年四月廿八日死す 年七十【或は明和九年七月六日 六十六歳にて没すとす】    (以下『江都名家墓所一覧』記事省略 上掲参照)    「掌中書画年契」云 宝暦十年四月廿八日 英一蜂没 年七十    (以下『一蝶流謫考』『画乗要略』記事省略 上掲参照)    『古今墨蹟鑑定便覧』巻之中【画家之部二右】云 英一嶂 一蝶ノ門人タリ 宝暦十年四月廿八日没ス     年七十    按ふに この一蜂の峰字かつ其伝も一定ならず 一覧には初代一蜂と見え 流謫考には一水門人一蜂と    載せ 要略には一蝶の子として一峰とし 鑑定便覧には一蝶門人一嶂とす 推考するに 一蝶の男或は    門人などいへるには 蜂の字のかた其縁ありて聞え また一水門人とする時は峰字 はた其因みなきに    あらず されど蜂のかた多く見ゆれば 姑くそれに従ひ また鑑定便覧に一嶂とあるは誤りなめり さ    るは同書また別に一蜂の伝を載て それには一蝶男 名は信勝 通称長八とし その没せし年月日及び    年齢 みな一蝶信勝に同じく また一嶂と挙げたる方は上件に記せるがごとし こはまたく一蜂とした    る方は一蝶信勝を混じ 一嶂の方は蜂字を嶂に誤りたるなるべし また流謫考は其没年月日年齢等 み    な他書に異なり これはたよしやあしや決めかたけれど 姑く墓所一覧によりて載せつ〟    〈そもそも『古今墨蹟鑒定便覧』の記事には二つの誤りがあった。一つは本来「英一蜂」とすべきところを「英一嶂」     としたこと。もう一つは「英一蝶二代」とあるべきところを「一蜂」としたこと。按記はその点を指摘したのであ     る。下掲安政二年参照〉    ☆ 安政二年(1855)  ◯『古今墨蹟鑒定便覧』「画家之部」(川喜多真一郎輯 須原屋他板 安政二年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション 3巻[2])   〝(英)一蜂 一蝶ノ男 名ハ信勝 通称長八 画風ヨク父ノ格ヲ得テ妙ナリ 元文二年十一月十一日没す〟   〝(英)一嶂 一蝶ノ門人タリ 宝暦十年四月廿八日没ス 年七十〟    〈「一蜂」は「一蝶二代」、「一嶂」は「一蜂」の誤り〉  ☆ 刊年未詳  ◯「本朝近世画工鑑」(番付 刊年未詳)〔番付集成 上〕    (二段目 西)    〝前頭 橘守国  同 英一蜂  同 橘保国  同 月岡雪鼎〟  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)     ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「英一蝶系譜」〝(一蝶)門人 一蜂【号春窓翁、宝暦十年四月廿八日卒、深川法禅寺中南竜院ニ葬ス】〟    ☆ 明治十七年(1884)  ◯『(第二回)内国絵画共進会会場独案内』(村上奉一編 明治十七年四月刊)   (第二回 内国絵画共進会 4月11日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝英一蜂 一蝶ノ長子ニテ、名ハ信勝ト云フ。宝暦十年卒ス〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p37(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝英一蜂 一蝶ノ門人、春窓翁ト号ス、宝暦十年四月廿蜂日歿ス、七十〟  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『浮世絵師便覧』p203(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝一蜂(ポウ) 一世一蝶門人、春窓翁と号す、宝暦十年死〟    ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『名人忌辰録』上巻p8(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝英一蜂 春窓翁 通称彦輔、宝暦十辰年四月廿八日歿す、歳六十四〟    ☆ 明治三十年(1897)  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都    (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉  ◯『浮世画人伝』p17(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊)   〝二世 一蜂    初代一蝶ニ一蜂閑人ノ号アリ、故ニ二代目トス、号春窓翁。宝暦十年四月廿八日歿ス。深川法禅寺中南    龍院ニ葬〟
   「英一蝶系譜」    ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝一蜂 一世一蝶門人、俗称彦助、師の没後二世一蝶の初号を冒して英一蜂と号す、春窓翁とも号し、別    に一家をなす、宝暦十年四月廿八日没、七十歳〟    ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『狂歌人名辞書』p13(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝英一峰(初代)、東都の画家、初代英一蝶門人、通称彦助、春窓翁と号す、一峰は二代一蝶の初号なれ    ども、世人は此一峰を呼んで初代とす、宝暦十年四月廿八日歿す、年七十〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
  ◇「享保一五年 庚戌」(1730) p84   〝二月、小川破笠と英一蜂の挿画に成れる元祖市川団十郎追善の書『父の恩』二巻出版。本書彩色摺にし    て珍しきものなり。世に彩色摺の絵本の嚆矢は延享三年の大岡春卜の摹になれる『明朝紫硯』なりなど    といふ説あれば、該説を破するに好料材といふべし〟
  ◇「宝暦六年 丙子」(1756) p110    〝此年勝間龍水と英一蜂の画に成れる『発句帳』ありといふ説あるも未だ見ず〟
  ◇「宝暦一〇年 庚辰」(1760) p115   〝四月二十八日英一蜂歿す。行年六十四歳。(一蜂は春窓斎と号す。一蝶の末子なり。)〟
  ◇「安永二年 癸巳」(1773) p128   〝三月、英一蜂の画を刻せる『英筆百画』出版〟    〈この『英筆百画』(英一蜂画・鈴木鄰松補画)は宝暦八年版の再刊本〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔英一蜂初代画版本〕    作品数:7点 画号他:一蜂・英一蜂・春窓翁 分 類:絵画4・俳諧3 成立年:享保15年   (1点)        宝暦1~2・8年(4点)