※〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演年月日等のデータ
※『俗曲挿絵本目録』漆山又四郎著
☆ 宝暦九年(1759)
◯『俗曲挿絵本目録』
柳文朝画『鳴神鐘入桜』(常磐津)文朝画 並木良輔作 駿河屋・伊賀屋板〔宝暦09/03/03〕
〈『俗曲挿絵本目録』に刊年はないが、立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演デー
タに拠り、とりあえず宝暦九年に入れた〉
☆ 宝暦十年(1760)
◯『俗曲挿絵本目録』
柳文朝画『稲穂是当蝶』(常磐津)文朝画 壕越二三次作 駿河屋・伊賀屋板 宝暦十辰年春〔宝暦10/08/01〕
☆ 宝暦十一年(1761)
◯『俗曲挿絵本目録』
柳文朝画
『三重帯裾野模様』(常磐津)文朝画 金井三笑作 駿河屋・伊賀屋板 宝暦十一年〔宝暦11/05/05〕
☆ 宝暦十二年(1762)
◯『俗曲挿絵本目録』
柳文朝画
『垣衣艸千鳥紋日』(常盤津)文朝画 駿河屋・伊賀屋板板 宝暦十二年春〔宝暦12/02/09〕
『色見草須磨関札』(常磐津)文朝画 津打治兵衛作 宝暦十年〔宝暦12/11/01〕
〈宝暦十年刊となっているが、「日本古典籍総合目録」や「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」に従い十二年刊とした〉
☆ 宝暦十三年(1763)
◯『俗曲挿絵本目録』
柳文朝画
『帯曳小蝶昏』(常磐津)文朝画 津打治兵衛作 伊賀屋・駿河屋板 宝暦十三年〔宝暦13/02/13〕
『髪梳千鳥曙』(常磐津)文朝画 津打治兵衛作 伊賀屋・駿河屋板 宝暦十三年〔宝暦13/02/13〕
『准謡四季◎』(常磐津)文朝画 津打治兵衛作 伊賀屋・駿河屋板 宝暦十三年〔宝暦13/08/18〕
☆ 明和元年(宝暦十四年・1764)
◯『俗曲挿絵本目録』
柳文朝画
『留袖浅間嶽』(常磐津)文朝画 並木良輔作 駿河屋・伊賀屋板 〔明和01/04/10〕
〈『俗曲挿絵本目録』に刊年はないが、立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演デー
タに拠り、とりあえず明和元年に入れた〉
『振袖東街道』(常磐津)文朝画 津打治兵衛作 伊賀屋・駿河屋板 宝暦十四申年春〔明和01/04/10〕
☆ 明和二年(1765)
◯『俗曲挿絵本目録』
柳文朝画
『江戸名所都鳥追』(常磐津)文朝画 金井三笑作 駿河屋・伊賀屋板 明和二酉 〔明和02/01/15〕
『蜘蛛絲梓弦』 (常磐津)文朝画 金井三笑作 駿河屋・伊賀屋板 明和二年冬〔明和02/11/01〕
☆ 明和三年(1766)
◯『俗曲挿絵本目録』
柳文朝画
『鳰照月恋の最中』(常磐津)文朝画 金井三笑作 駿河屋・伊賀屋板 明和三、弥生〔明和03/08/23〕
『三橘菊咲門』 (常磐津)文朝画 壕越二三治作 駿河屋・伊賀屋板 明和三顔見世〔明和03/11/01〕
☆ 明和四年(1767)
◯『活花百瓶図』二巻 千葉龍朴撰 東雲堂板(漆山又四郎著『絵本年表』より)
上巻 英一蜓・鄰枩・小松軒・寒葉斎・龍水・魚彦・柳文朝・英一川等画
下巻 保国・宮川春水・宋紫石等画
☆ 安永三年(1774)
◯『俗曲挿絵本目録』
柳文朝画
『文相撲恋晴業』(常磐津)文朝画 桜田治助・川竹新七作 伊賀屋板 安永三年冬〔安永03/11/01〕
☆ 寛政十二年(1800)
◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)
(本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
日本絵役者絵 柳
一 朝太夫弟子浄瑠璃上手 文朝
二代目十町似上手 南油町
☆ 文政元年(1818)
◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)
(本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
〝三馬按、柳文朝門人ニ文康アリ、俗称安五郎、人呼デ文康安トイフ。老人ニシテ今尚在〟
〈「白楊文庫本」は〝老人ニシテ文政戊寅ノ今尚存在〟とする。「文政戊寅」は文政元年〉
☆ 没後資料
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)
〝柳文朝【(空欄)年中ノ人】
俗称(空欄)、住居通油町南新道、
文朝は、狩野流の画を学び、浮世画をかけり、儀太夫節を好て、朝太夫門弟なり、二代目大谷十丁の似
貌の上手なり
(三馬の柳文康に関する按記あり、略、「柳文康」の項参照)
深川霊巌寺に碑あり、今二代目柳文朝は、尾張町の辺に居住すと云り、呉服屋の仕入物などに画名見ゆ、
文化、文政の頃也〟
◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
(( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)
〝柳文朝 号 南龍斎 (空欄)年中ノ人
俗称(空欄) 住居 通油町南新道 或南油町、
文朝、日本画、役者画を画り(続類考に狩野等の流を学ぶと云)又義太夫節浄瑠璃を好て、朝太夫門弟也
二代目大谷十町の似㒵の上手也(以上類考附録)
三馬按、柳文朝門人に文康あり。俗称安五郎、人呼て文康安といふ。老人にして今尚存す(文政元戊寅
の三馬が書入なり)
深川霊巌寺に碑あり、今二代目柳文朝は、尾張町の辺に居住すと云り、呉服屋の仕入物などに画名見ゆ。
文化、文政の頃なり。
(月岑云、或説に明和の末、紺屋の上絵書、文朝始て天王祭礼の時似顔の行燈を画く。是役者似顔の始に
して、勝川春章に始らずといへり)〟
◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1393(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)
〝柳文朝、住南油町、日本画、役者絵、二代目十町似顔上手、朝太夫弟子にて浄瑠璃の上手、 浮世絵類考
明和頃人〟
◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪220(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)
〝柳文朝
号南竜斎、住居通油町南新道、或は南油町共いふ。役者絵をかけり。又義太夫節浄瑠璃を好て朝太夫門
弟となる。二代目大谷十町の似貌を能す。門人に文康と云有。称安五郎、人呼て文康安と云。深川霊岸
寺に碑ある〟
☆ 明治以降(1868~)
◯『扶桑画人伝』巻之四 古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝文朝 柳氏、名ハ文朝、文調ノ門人ニテ、浮世絵ヲ画ク、又俳優似顔ノ名手ナリ〟
◯『日本美術画家人名詳伝』下p333(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)
〝柳文朝
狩野風ヲ学ビ、後チ文調ノ門ニ入リテ、俳優ノ肖像ヲ画クニ巧ミナリ、江戸通油町ニ住セリ、儀太夫節
ヲ好ミテ朝太夫ノ門ニ入ル(燕石十種)〟
◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)
〝安永 柳文潮(*ママ)
一筆斎の門人、俳優似顔の上手なり〟
◯『浮世絵師便覧』p225(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝文朝(ブンテウ)
柳氏、南龍斎と号す、似顔画の上手、◯明和〟
◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(33/103コマ)
〝柳文朝【明和元~八年 1764-1771】
南龍斎と号す、通油町南新道に住めり、俳優の似顔絵を善くし、殊に二代目大谷十町の似顔に妙なりき、
また義太夫節の浄瑠璃を好みて、朝太夫の門弟となれりと云ふ〟
◯『新撰日本書画人名辞書』下(画家門 青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年(1899)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(163/218コマ)
〝文朝
文調の門人にして 浮世絵を画けり 此の人又俳優似顔を描くに妙を得たり 当時名手と称せり(扶桑
画人伝)〟
◯『浮世絵師伝』p167(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝文朝
【生】 【歿】文化十四年(1817)頃 【画系】 【作画期】明和~安永
柳氏、南龍斎と号す、明和の末頃、天王祭礼の行燈に後者の似顏を画きしと云ふ、居所通油町〟
◯『浮世絵年表』p127(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
「明和年間」(1764~1772)
〝柳文朝等盛に行はる〟