Top
浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ ぶんぽう かわむら 河村 文鳳
浮世絵師名一覧
〔安永8年(1779) ~ 文政4年(1821)・43歳〕
※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」 〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』
☆ 寛政十二年(1799)
◯「絵本年表」
〔目録DB〕(寛政十二年刊)
河村文鳳画
『人物略画』一冊 河村文鳳画 『文鳳麁画』一冊 河村文鳳画 ☆ 享和元年(1801)
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕(享和元年刊)
河村文鳳画
『狂歌竹葉集』一冊 文鳳・景文・素絢等 聚楽庵度水撰 ☆ 文化元年(1804)
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕(文化元年刊)
河村文鳳画
『狂歌きゝ徳利』三冊 文鳳・若冲・芦雪・豊彦其他 長村太助板 ☆ 文化六年(1808)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文化六年刊)
河村文鳳画
『帝都雅景一覧』二冊 文鳳馬声図 吉田新兵衛他板 ☆ 文化八年(1811)
◯「絵本年表」
(文化八年刊)
河村文鳳画
〔目録DB〕
『南岳文鳳手競画譜』一冊 南岳・維石・文鳳・馬声画 河内屋喜兵衛他板 『海道狂歌合』二冊 渡辺南岳・河村文鳳画 上田秋成作 河内屋喜兵衛他板 『漢画指南』 三冊 河村文鳳 大和屋勘兵衛他板
河村文鳳画
〔漆山年表〕
『文鳳画譜』 二編 文鳳 一雲堤正敏 柳原喜兵衛他板 ☆ 文化十年(1813)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文化十年刊)
河村文鳳画
『文鳳画譜』一冊 文鳳 山陽外史序 柳原喜兵衛板 ☆ 文化十三年(1816)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文化十三年刊)
河村文鳳画
『帝都雅景一覧』二冊 文鳳馬声図 森本太助板
〈〔目録DB〕は後編、頼山陽編。前編は文化六年刊〉
☆ 文政元年(文化十五年・1818) ◯『平安人物志』「画」〔人名録〕①47(弄翰子編・文化十五年十月刊) 〝河村馬聲【字五游、号首陽館、釜座夷川北】河村文鳳〟 ☆ 文政三年(1820)
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
◇絵画
(文政三年刊)
河村文鳳画
『金波園画譜』一冊 河村文鳳 文化八自序 文政三版
☆ 没後資料
☆ 文政七年(1824)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕
◇絵本
(文政七年刊)
河村文鳳画
『文鳳山水画譜』一冊 文鳳有毛画 山陽外史序 吉田新兵衛板 ◯『古画備考』三十上「近世」中p1246(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆)
「丹青競行司」(相撲見立て絵師番付)
◯『古画備考』三十上「近世二」中p1256(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆) 〝河村文鳳 名亀、字俊声、平安人、師岸翁、末出入諸家、自為一格、長人物、筆力雄偉、又善邦俗人物、 不仮思慮、援筆立成、如其山水、秀閨奇逸、識者称其力量気局之壮矣、其義子琦鳳、字五逸、不遂家声、 弟子鳳僊、筆法似其師【
画乗要略
】 名駿声、字五遊、画譜アリ、上木行于世
【文化角力幕ノ内末】
岸駒門人ニテ、其画新奇ヲ極ム、於是一旦大ニ行レ師岸駒ト頡頑ス、少シ静マリシ頃ニ、物故セリ、
千春話
(補)[署名]「文鳳写」 (補)[署名]「文鳳駿聲」[印章]「駿聲」(白文方印)「刻字未詳」(白文方印)〟
〈「文化角力幕ノ内」とは相撲に見立てた絵師番付「丹青競行司」。前項参照。千春は高島千春であろうか〉
◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④235(川喜多真一郎編・安政二年春刊) 〝河村文鳳【名ハ亀、字ハ俊声、平安ノ人、岸駒ヲ師トシ学ンデ、後自ラ一風ヲ画キテ時ニ称セラル】〟 [印章]「南山寿」・「文鳳川亀」 ◯『本朝古今新増書画便覧』「フ之部」〔人名録〕④346(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補) 〝文鳳【河村氏、名ハ亀、字ハ俊声、京師人、初メ画ヲ岸駒ニ学ビ、後諸家ニ出入シテ、自ラ一家ヲ成ス、 初メノ名ハ馬声、字ハ五游、又邦俗ノ人物ヲ善ス】〟 ☆ 明治以降
◯『日本美術画家人名詳伝』上p208(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊) 〝河村文鳳 名ハ亀、字ハ俊声、平安ノ人、岸翁ヲ師トシ亦諸家ニ出入シテ、自ラ一格ヲナシ人物ニ長ズ、筆力雄偉、 又邦俗ノ人物ヲ善クス、思慮ヲ仮ラズ筆ヲ援テ立ロニ成ル、其山水ノ如キハ秀潤ニシテ奇逸アリ、其義子 琦鳳、字ハ五逸、声家ヲ墜サズ、弟子鳳僊、筆法其ノ師ニ似タリ(画乗要略)〟 ◯『病牀六尺』(正岡子規著・底本岩波文庫本) ◇「六」明治三十五年(1902)五月十二日 〝手競画譜を見る。南岳、
文鳳
二人の画合せなり。南岳の画は何れも人物のみを画き、文鳳は人物の外に 必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず 多少の意匠あり、且つ其形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず〟
〈「手競画譜」は文化八年(1811)刊、上田秋成作『海道狂歌合』の別名。挿画は河村文鳳と渡辺南岳〉
◇「十」明治三十五年(1902)五月二十二日 〝前にもいふた南岳
文鳳
二人の手競画譜の絵について二人の優劣を判じて置いたところが、或仁は之を駁 して文鳳の絵は俗気があつて南岳には及ばぬといふたそうな。余は南岳の絵はこれより外に見たことが ないし、殊に大幅に至つては南岳のも文鳳のも見たことがないから、どちらがどうとも判然と優劣を論 じかねるが、併し文鳳の方に絵の趣向の豊富な処があり、且つ其趣味の微妙な処がわかつて居るといふ ことは、この一冊の画を見ても慥に判ずることが出来る。尤も南岳の絵の其全体の布置結構其他筆つき などもよく働いて居つて固より軽蔑すべきものではない。故に終局の判断は後日を待つことゝしてここ には手競画譜にある文鳳のみの絵について少し批評して見よう。(以下略、文鳳画の解説と批評あり)〟 ◇「十二」明治三十五年(1902)五月二十四日 〝要するに
文鳳
の画は一々に趣向があつて、其趣向の感じがよく現はれて居る。筆は粗であるけれど、考 へに密である。一見すれば無造作に画いたやうであつて、其実極めて用意周到である。文鳳の如きは珍 しき絵かきである。然も世間ではそれ程の価値を認めて居ないのは甚だ気の毒に思ふ〟 ◇「二十二」明治三十五年(1902)六月三日 〝大阪の露石から
文鳳
の帝都雅景一覧を贈つて呉れた。これは京の名所を一々に写生したもので、其画に 雅致のあることはいふ迄もなく、其画が其名所の感じをよく現はして居ることは自分の嘗て見て居る処 の実景に比較して見てわかつて居る。他の処も必ず嘘ではあるまいと思ふ。応挙の画いた嵐山の図は全 くの写生であるが、其外多くの山水は応挙と雖も、写生に重きを置かなかつたのである。其外四條派の 画には清水の桜、栂の尾の紅葉などいふ真景を写したのが無いでは無いやうであるが、併しそれは一小 部分に止つてしまつて、全体からいふと景色画は写生でないのが多い。然るに文鳳が一々に写生した処 は日本では極めて珍しいことといふてよからう。其後広重が浮世絵派から出て前にもいふたやうに景色 画を画いたといふのは感ずべき至りで文鳳と併せて景色画の二代家とも言つてよからう。たゞ其筆つき に至つては、広重には俗は処があつて文鳳の雅致が多いのには比べものにならん。併し文鳳の方に京都 の名所に限られて居るだけに其画景が小さいから、今少し宏大な景色を画かせたら其景色の写し工合が 広重に比して果してうまくいくであらうかどうであらうか。文鳳の琵琶湖一覧といふ書があるならば、 それには大景もあるかも知れんが、まだ見たことがないからわからん〟
〈露石とは俳人水落露石。『帝都雅景一覧』は前編(竜川清勲編・文化六年(1809)刊)後編(頼山陽編・文化十三年 (1816)刊)〉
◇「五十三」明治三十五年(1902)七月四日 〝
川村文鳳
の画いた画本は文鳳画譜といふのが三冊と、文鳳麁画といふのが一冊ある。そのうちで文鳳画 譜の第二編はまだ見たことがないがいづれも前にいふた手競画譜の如き大作ではない。しかし別に趣向 のないやうな簡単な絵のうちにも、自ら趣向もあり、趣味も現はれて居る。文鳳麁画といふのは極めて 略画であるが、人事の千態万状を窮めて居てこれを見ると殆ど人間社会の有様を一目に見尽すかと思ふ 位である。崋山の一掃百態は其筆勢のたくましきことと、形体の自由自在に変化しながら姿勢のくづれ ぬ処とは、天下独歩といふてもよいが、しかし文鳳麁画に比すると、数に於て少なきのみならず趣味に 於てもいくらか乏しい処が見える。たゞ文鳳の大幅を見たことが無いのだ、大幅の伎倆を知ることが出 来ぬのは残念である〟
〈『文鳳画譜』は初編文化四年(1807)、二三編文化十年(1813)刊。『文鳳麁画』寛政十二年(1800)序。渡辺崋山の『一 掃百態図』は文政元年(1818)刊〉
◯『狂歌人名辞書』p194(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊) 〝河村丈鳳、名は亀、字は俊声、京都の画家、岸駒に学び、又諸流を取りて一格を為し、最も人物に長ず、 文化頃の人、其男埼鳳も亦能く家風を守る〟
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
〔河村文鳳画版本〕
作品数:10点
(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
画号他:文鳳・河村文鳳 分 類:絵画(画巻・画譜)9・狂歌1 成立年:寛政12年 (2点) 文化4・6・8・10・13年(5点) 文政7年 (1点)
〈狂歌本は渡辺南岳と共に絵を担当した上田秋成作『東海道歌合』(文化八年刊)〉