☆ 宝暦九年(1759)
◯「役者似顔画の元祖大場豊水」島田筑波著(「今昔」二ノ七 昭和六年七月)
(『島田筑波集』上巻 日本書誌学大系49(1))
〝役者似顔画に就いては、いろ/\説をなすものがあるが、私が見たものでは、大場豊水が宝暦九年に画
いた一巻の絵巻が、誰れのものより早く、また一大傑作であつた。
この一巻には、宝暦九年中村座狂言「初買和田宴」の名優と、当時江戸市中で名高い乞児とを併せて、
廿二人の似顔が写されてゐる。
市川升蔵 尾上菊五郎 市川団十郎 板東彦三郎 沢村宗十郎 榊山三五郎 瀬川菊之丞
庄 之 助 景 清 孫 六 素 六 鼠 小 僧 ハケ市兵衛 芥子之助
源 水 狂 歌 房 小山勘助 せき右衛門 山本宮内 重 忠 瑞 秀 軒
志 道 軒
であつて、巻末に狂言作者堀越菜陽が、豊水の芸術を賞賛した跋が付いている。その文章にかう書てあ
る。
豊水子いとなみに図画をものして、類に随ひ彩を賦す。かたはし披き見るに一大都会に渉猟する堂上
劇場の一部より、希有の乞児および神社仏閣の塵に倚る風流士、観音樹下の法師まで、面目精神ひと
つ/\生るが如し。凡歌舞の図中は、諸侯の雄略佳人の蛾美眉任侠野一敵奴婢の容儀に影の応るがご
とし。古今来の曲話といはんも又宜なり。今江都に行はる菱河の流にもあらず。奥村とやらん村を遙
に見なし、名だゝる鳥居を飛越しは、是や一派の物象なるべし。委は栗継が叙にあれば、繰言を述べ
くもあらねど、煎沙の苦を忘れて人の頤をほどくの誉は、恐らく顧長康が眼を点ぜるの類ならんか。
今昔の精妙たると聊猥に書添るものならし。
宝暦己卯七月上旬菜陽書
と述べてあるが、その栗継の叙と云ふものが添ふてないので、大場豊水その人に就いての委しい事はわ
からぬ(中略)
此大場豊水の絵巻は「劇場年評」の著者関根只誠翁の旧蔵であつて、箱には「大場豊水画、堀越二三治
跋、浮世人物の図松七はん(只誠蔵)としてある」
☆ 明和二年(1765)
◯「絵暦年表」(本HP・Top)(明和二年)
⑧「豊水画」紅摺絵? Ⅳ-12「うんすんかるた」(小鼓をもって三河万歳の才蔵を演ずる役者絵)
賛なし〈著者は画中に配されたウンスンカルタの図様が明和二年の小の月とする〉
◯『反故籠』〔続燕石〕②169(万象亭(森島中良)著、文化年中前半)
(「江戸絵」の項)
〝明和二申の歳、大小の会といふ事流行して、略暦に美を尽し、画会の如く勝劣を定むる事なり、此時よ
り、七八遍摺の板行を初て、しはじむ、彫工は、吉田魚川、岡本松魚、中出斗園等なり、夫より以前は、
摺物も今とは違ひ、至てざつとしたるものなり、其時、風来先生の大小は、一円窓の真中に沢村宗十郎
【後亀音】奴姿の鬼王にて立て居る、左に松本幸四郎【四代目団十郎】羽織工藤にて、横向に立て居る、
右に市川雷蔵五郎時宗、上下衣裳にて、睨んで居る、何れも半身宛にて、大場豊水が画なり、似顔の画
といふ物無きころなれば、大に評判にて有しなり〟
〈明和二年は酉年〉
◯『嵩鶴画談』巻之五(清筠舎著・天保五年成稿・『日本画談大観』「中編随筆」所収p976)
〝大場豊水
予友人偸閑子が蔵する浮世絵の中に、宝暦年間の俳優花見の高名なるもの肖像を描きたるあり、大場豊
水といふ印章あり何人なる事をしらず、主人に問ふに是も知らずといふ、此頃風来山人が六部集といふ
本を再刻せしを見たれば、其中に大場豊水がもてる天狗のしやれかうべに題する狂文あり、初てしる豊
水かの風来が友なる事を、かの天狗しやれかうべの賛の序は大場豊水かけり、其中の狂歌に人目をくら
まさんにもある(ママ)はこそもとより山の天狗でもなし、また風来が狂文の末に歌あり、天狗さへ野夫で
はないとしやれかうべ極めてやるか通りものなり云々〟
〈風来山人作『天狗髑髏鑒定縁起』序の豊水の狂歌は「人目をくらまさんにもあらバこそもとより山の天狗でもなし」「安
永五年丙申十一月日 大場豊水誌」とあり。豊水の挿絵が一葉入る。「天狗さへ野夫ではないと~」は風来山人の狂歌。
風来山人は平賀源内の戯作名。『嵩鶴画談』清筠舎及びその友人の偸閑子は不明〉
◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
『江都火災年表』一点のみ〈作画ではなく江戸の大火年表、明和九年の目黒行人坂の大火まで記す〉