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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ びざん たけのうち 竹内 眉山
浮世絵師名一覧
〔天明1年(1781) ~ 嘉永7年(1854)7月21日・74歳〕
※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録」「国書データベース」国文学研究資料館 〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』
☆ 天保初年(1830~) ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②308(天保初年刊)
〈当時現存の「画家」として名があがる〉
☆ 天保三年(1832)
◯「絵入狂歌本年表」
(天保三年刊)
竹内眉山画
『俳諧歌彼賀古登集』一冊 竹内眉山画 淮南堂・秋長堂・四方滝水撰 ① ☆ 天保四年(1833)
◯「合巻年表」
(天保四年刊)
竹内眉山画
『御大相志目多発鬻』眉山画 十返舎一九(二世)作 竹孫板 ①
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(天保四年刊)
竹内眉山画
『戯劇百人一首闇夜礫』一冊 画工眉山竹孫 四方滝水序 鱗斎鱸戯述 保永堂板
(天童按 眉山ハ竹内也、保永堂主人ならん、述者越谷大人)
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕(天保四年刊)
竹内眉山画
『狂歌百人一首闇夜礫』一冊 葦原眉山画 越谷山人編 保永堂版
◯「百人一首年表」
(本HP・Top)(天保四年刊)
竹内眉山画
『狂歌百人一首 闇夜礫』口絵・挿絵
〔跡見1206 異種〕①
見返し「天保四癸巳孟春改刻 保永堂梓」 序 「天保四とせ癸巳初春 四方瀧水」 跋 「乙ひつじ春日 鱗斎鮜戯述」
〈乙未は天保6年〉
奥付「述者 越谷山人〔鱗斎〕印/画工 眉山竹孫〔竹孫〕印」 江戸地本問屋 霊がんしましほ町 竹内孫八板」
〈見返し・序と跋との年記の違いをどう解したものか〉
☆ 天保八年(1837)
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕(天保八年刊)
竹内眉山画
『職人尽花月集』一冊 眉山画 四方滝水・風月庵編 ◯『【現存雷鳴】江戸文人寿命附』畑銀雞編 天保八年刊
〔国書DB〕(画像)
〝竹内眉山 面白く画かける筆のはたらきは東一とや人のいふらん 極上々吉、寿七百五十年 霊岸嶋〟 ☆ 天保年間(1830~1843)
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕(天保年間刊)
竹内眉山画
『俳諧歌六々画像集』一冊 眉山画 秋長堂・四方滝水編 六船亭版 ☆ 刊年未詳
◯「百人一首年表」
(本HP・Top)(刊年未詳)
竹内眉山画
『戯 百人一首』口絵・挿絵
〔跡見413〕
奥付「画工 眉山竹孫」越ヶ谷山人〔鱗斎〕著 竹内孫八板 刊年未詳
☆ 没後資料
◯『浮世絵師伝』p124(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝東一 眉山の別号〟 ◯『浮世絵師伝』p163(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝眉山 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】天保 竹内氏、俗称孫八、別に東一と号す、江戸霊岸島塩町に住し、地本錦絵問屋を業とせり、即ち彼の広重 の傑作「東海道五十三次」の版元保永堂の主人なり。 彼が画く所の人物画(大錦横絵)数枚及び、天保三年版の『俳諧歌六々画像集』、同四年版の『御大相 志目多発鬻』、同年版の道化百人一首『闇夜礫』等を見るに、其の画風四條派の影響を受けたるが如き 点あり、且つ時勢粧を主とせざる画風なれば、これを浮世絵師とするは当を得ざれど、少数ながら版書 の作もあり、又広重との関係もあれば、姑くこゝに収録しつ。彼の作品は天保三年乃至同七八年頃に止 まり、風景を主としたるものは殆ど絶無なり、唯だ一つ「江戸名所の内、隅田堤のさくら」と題する大 錦三枚続は、例外として広重風の手法を模したり。 天保八年平亭銀鶏の著せし『【現存雷名】江戸文人寿命附』初編には彼を左の如く紹介せり、以て多少 画名ありしを知るべし。 『画』竹内眉山 面白く画かける筆のはたらきは東(アヅマ)へとや人のいふらん 極上々吉寿七百五十年〟 ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊) ◇「天保四年 癸巳」(1833) p211 〝正月、竹内眉山の画ける『戯劇百人一首』出版〟
〈『戯劇百人一首』とは「日本古典籍総合目録」の『狂歌百人一首闇夜礫』(越谷山人編・葦原眉山画)に相当するか〉
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
作品数:5点 画号他:竹内眉山・葦原・葦原眉山・眉山 分 類:狂歌4・合巻1 成立年:天保3序・4・8年(4点)(天保年間合計5点)
〈竹内眉山は広重の「東海道五十三次」を出版したことで知られる保永堂の経営者〉