Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ はすい かわせ 川瀬 巴水浮世絵師名一覧
〔明治16年(1883) ~ 昭和32年(1957)11月7日・74歳〕
 ☆ 大正十三年(1924)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正十三年刊)    川瀬巴水画    『人魚の胆』口絵のみ 巴水 江見水蔭 樋口隆文館(前後編 8月)    『勇魚組』 口絵のみ 巴水 江見水蔭 樋口隆文館(前後編 8月)  ☆ 大正十四年(1925)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正十四年刊)    川瀬巴水画    『暮れ行く浪』口絵・表紙 巴水 遠藤柳雨 樋口隆文館(前後編 9月)    『月光の曲』 口絵・表紙 巴水 遠藤柳雨 樋口隆文館(前後編 9月)  ☆ 昭和元年(大正十五年・1926)    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正十五年刊)    川瀬巴水画    『夜の蜘蛛』口絵・装幀 川瀬巴水 江見水蔭 樋口隆文館(前後編 4月)    『二人毒婦』口絵のみ  川瀬巴水 江見水蔭 樋口隆文館(前後編 7月)    『薔薇の曲』口絵・装幀 川瀬巴水 渡辺黙禅 樋口隆文館(前後編7 月)    『灯の華』 口絵・装幀 川瀬巴水 渡辺黙禅 樋口隆文館(前後編 7月)  ◯『浮世絵師伝』p147(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝巴水    【生】明治十六年五月十八日  現在    【画系】          【作画期】明治~昭和    川瀬氏、本名文治郎(戸籍は誤つて次とあり)、川瀬庄兵衛の長男、芝区露月町に生れ、明治の戯作者    仮名垣魯文は氏の伯父に当る、桜川小学校へ入学し高等二年で退学し、父の組糸業を継がされる爲め大    倉商業の夜学部へ一年許り通学したが、幼少の頃より画を好み十四歳の時、川端玉章門下の青柳墨川氏    に就て一ヶ年許り学びしが、両親が反對の爲め中止して家業を手伝つて居る内、十九歳の時、好画の心    は勃発して荒木寛友(南画)に画手本を貰つて新聞の挿絵、当時の錦絵等を写し書きを始めた、店の業    を手伝ひながら毎夜ランプを点じて半年以上習画勉強して居る内、又もや両親や親戚の反対で断然止め    させられた。幸か不幸か其後店の商売成立たず、遂に破産して了ひ、二十六歳の時、妹へ店員を聟にし    て商号を継がした、然し多年の宿望も叶つて画道に進むことを得て、其以前より懇意に成つて居た鏑木    清方画伯の許へ行き入門を依頼せし所、画伯の言には中年から始めるには洋画を習つた方が良からんと    云はれ、葵橋の白馬会洋画研究所へ通つて、写生を研究した。其当時の研究仲間に岸田劉生、岡本帰一    両氏があつた、白馬会へ通ふ傍ら岡田三郎助氏の知遇を得て種々導いて貰つた、其内に清方先生の許へ    行き懇請して入門した、中年から始めたこと故、非常に勉強した、明治十五年春、巽画会へ「うぐひす」    鴬を聞いて居る美人画入選して褒状を受く、烏合会へ「中幕のあと」を出して入選、鏑木清方画塾の郷    土会第一回展覧会へ「越路の秋」を続いて「女優の妹」また「十和田湖神代ヶ浦」を出品した。    大正七年郷土会第四囘展覧会へ伊東深水氏の近江八景の木版画出品を見て、風景版画は自信ありさうに    考へ、渡辺版画店へ行き、塩原の写生帖を見せて、店主と相談しながら「塩原おかね路」、「塩原畑下    り」、「塩原塩釜」等長判を試み、大体版画製作の順序も会得し、大正八年より東京十二題と付して市    内郊外を写生しながら十二図作る。八年夏仙台方面、八戸、十和田湖方面へ写生旅行し、「旅みやげ第    一集」に着手した。九年房州半島へ、同年初秋金沢より若狭方面へ、帰京して晩秋また塩原へ旅行して    旅みやげ第一集を完成した。十年二月は団体旅行に加はり伊勢、奈良、大阪、四国、宮島、丹後等山陽    山陰方面より京都に寄り二月末帰京して、「旅みやげ第二集」に着手した。同年八月より佐渡、越後、    越中へ写生旅行して第二集の追加を画き二十八図にて完成した。    大正十一年春、「日本風景選集」を出版する爲め、九州を主として中国地方を廻り京都へ寄て帰京した、    毎月三図宛製作して完結に近き頃、大正十二年九月一日の震火災にて版元の版木は勿論、版画も大部分    燒失し、氏の住宅は芝区愛宕下町(俗称仙台屋數)にあり、親戚の負傷者を病院へ遊ぶ手伝ひなどして    居る内、自宅も全燒し、スケッチブックは全部燒失した、震災後は東京に居ても落付かず、版元の勧め    にて十月二十三日東京出発、甲州信州、飛騨を横断して越中富山へ、金沢へ行き同地銀壺堂の後援で、    十一月二十日より二十五日迄、版元で持出した氏の版画を展覧即売し、また行く先でも同情を受けて旅    行費に当てた、出雲、但馬、石見を経て周防錦帯橋、宮島へ廻り、岡山京都名古屋を経て翌年二月二日    帰京した、氏は写真や参考図画より一度も版画にした事なく、写生帖より下図を描き版画を作る。    大正十五年六月末、伊東深水氏と同行して秋田方面の名所を写生して地方の図を作りながら東京附近の    風景を主として作図され、数十図出來て、昭和五年の郷土会は出品方を替へて同人交互の個人展観を行    ひ、他の同人も応接すると云ふ意味に改められ、第一回の試みとして巴水氏が選ばれ、六月十七日より    二十二日迄、上野広小路の松坂屋階上にて展観した、其展覧会のパンフレットの趣意を鏑木画伯が書か    れし文意を抜載す。    (前略)私の門に在ること二十余年、他の門人の悉く美人風俗を材とする中に、川瀬は一人風景画に赴    くのは、その好むところに従ふのは勿論だが、大正七年渡辺版画店主の知遇を得て、同店から野州塩原    の長判の風景を出して以来、彼の芸術道は版画に拓けて行くやうになり、版画には風景が尤も適するも    のであることも手伝つて、風景画家として且つ日本画壇唯一の版画家としての地歩を占むるに至つたの    である。彼の版画の特質その他は別項伊東が詳記してあるので省くが、版画は明日の芸術として尤も将    来を期待さるべき有力なる表現形式であり、技法の関係から洋画家は多く自刻自摺を行ひ、日本画家は    彫と摺とは、その道の人を使つて居る。版画はかくあらぬばならぬと、屡々版画に関しての言を聴く、    然れども私は版画を以て尤も自由なる技術と観る、一定の説に従つて拘束されざることを版画の生命だ    と思ふ。私はかねがね川瀬の版画を一堂に集めて、汎く世に示したい希望をもつてゐた。今度郷土会が、    同人交互の個人展観を行ふ最初に於て、川瀬に席を与へたことは、社会的に見て甚だ意義のあることだ    と云へる。私はこれを一私塾の内輪の催しとは見たくない、小さくともこれは今日当然行はるべかりし    展覧会の一つであると思ふ。    次で伊東深水氏が興味ある推薦文を書添へられ、其文中「旅情詩人」と称されて居るが或機会に転載す。    不可解の人は氏の版画を広重に似てゐると云はれる噂を聴き、昔と今は表現法も異り、少しも類似した    ものは無いが、其れが動機となり、氏は現今の東海道を行脚しながら感じの良い「東海道選集」を作画    する予定にて着手中である。氏は可なり移転したが、現今の住所は東京府下馬込町平張九七五である〟