☆ 安永二年(1773)
◯『噺本体系』第九巻(安永二年刊)
春重画『口拍子』署名「春重画」軽口耳抜作 聞好舎板〈春重は司馬江漢〉
☆ 文化八年(1811)
◯『春波楼筆記』〔大成Ⅰ〕②20(司馬江漢著・文化八年成立)
〝(江漢少年時)其頃、鈴木春信と云ふ浮世画師、当世の女の風俗を描く事を妙とせり。四十余にして、
俄に病死しぬ。予此にせ物を描きて板行に彫りけるに、贋物と云ふ者なし。世人我を以て春信なりとす。
予春信に非ざれば心伏せず、春重と号して唐画の仇英、或は周臣等が彩色の法を以て、吾国の美人を画
く。夏月の図は薄物の衣の裸体の透き通りたるを、唐画の法を以て画く。冬月の図は、茅屋に篁繞り、
庭に石燈籠など、皆雪にうづもれしは、淡墨を以て唐画の雪の如く隈どりして、且其頃より婦人髪に鬢
さしと云ふ者始めて出でき、爰において、髪の結び風一変して之を写真して、世に甚行はれける。吾名
此画の為に失はん事を懼れて、筆を投じて描かず〟
☆ 没後資料
◯『古代浮世絵買入必携』p20(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)
〝鈴木春重
本名〔空欄〕 号〔空欄〕 師匠の名 春信 年代 凡百二三十年前
女絵髪の結ひ方 第五図(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
絵の種類 中判、細絵、長絵等
備考 〔空欄〕〟
◯『浮世絵師便覧』p204(飯島虚心著・明治二十六年刊)
〝春重〟(名前のみ)
◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)
(国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)
◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉
春重「七福神見立子供遊図巻」絹本着色(図七段、奥の一段掛軸中に春重の款字あり)
◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝春重
【生】 【歿】
【画系】春信門人 【作画期】明和~安永
春信の画系に門人鈴木春重とあり、されど直門にあらざる旨『後悔記』に自ら云へり、後に司馬江漢と
改む。(江漢の項参照)〟
◯『浮世絵年表』p128(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
「安永二年 癸巳」(1773)
〝此年、春重と署名して画ける『俗談口拍子』といへる冊子あるが、蓋し二代春信たる司馬江漢曩に春重
と称したりしが、或は司馬江漢同人なるべし。江漢此時二十七歳なり〟
△『増訂浮世絵』p110(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝鈴木春重
鈴木春信の作風を継いだ一人である春重は、元文三年の出生、本氏に就ては説もあるが、安藤吉次郎と
云つたと思はれる。名を峻、通称を勝三郎と呼ばれ、又後に孫太夫と改めた。字を君嶽と称し、不言道
人、春波楼、蘭亭などゝ号した。後年、土田家へ入夫したといふ説もある。
(中略)
錦絵の創始された明和の当時に、名声嘖々たりし春信の風に倣つて美人画を画いた。春重の才筆は巧み
に春信の風を摸することができた。(以下『春波楼筆記』を引く。上掲、文化八年の記事と同文なので
省略した)肉筆美人絵で、蘭亭春重と落款して、春信の印章を捺したものがある。また(中略)鈴木春
重と署名して、春信の印を用ひた美人画がある。これらを綜合すると、春信に私淑し、春信風に画いた
ので、その門人であつたといふことも強て、否定し得ないかも知れない。然し必しも二世春信を名乗つ
て居るといへない〟
◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
作品数:1 画号他:勝川春重 分類:咄本1 成立年:安永2年
〈軽口耳抜(城戸楽丸)作の咄本『口拍子』一点のみ。ただ、画者を勝川春重とし、これを司馬江漢とみなしている。
武藤禎夫編『江戸小咄辞典』(東京堂出版)の「所収書目解題」の方は、「勝川」ではなく単に「春重(司馬江漢)
画」とする〉