Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ えんきょう かぶきどう 歌舞伎堂 艶鏡浮世絵師名一覧
〔寛延2年(1749) ~ 享和3年(1803)9月20日・55歳〕
(歌舞伎堂参照)
 ☆ 寛政年間(1789~1801)  ◯『浮世絵考証』〔南畝〕⑱447(寛政十二年五月以前記)  〝歌舞伎堂  役者似顔のみかきたれど甚しくなければ、半年斗にておこなわれず〟
  〈南畝の記事に「歌舞伎堂」とあるのみで「艶鏡」の名は見えない。なお歌舞伎堂は狂言作者・中村重助の画工名だとす    る説がある。そうだとすると狂名を歌舞伎の工と称する人で、南畝とは面識があった。天明三年五月頃、南畝の方から    面会を乞うと、重助は恐縮したか自ら南畝宅に来て逆に狂歌の入門を乞う、南畝も入門を許した。後日南畝も重助宅を    訪問し、庭を言祝ぐ狂歌を贈っている。表徳を故一という。(以上『巴人集』②408参照)また「判取帳」にも「へっ    つい河岸住」の「きやうかよもの門人」として名を連ねている。しかし南畝の中村重助記事はこれだけのようで、歌舞    伎堂艶鏡と結び付くような記述は見当たらない〉
   ◯『増訂武江年表』2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「寛政年間記事」)    〝浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北尾重政、同政演    (京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く画    きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長〟    ☆ 文化五年(1808)    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝歌舞伎堂艶鏡 役者似顔のみかきたれど、つたなければ半年斗にておこなわれず〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』と同文。但し「艶鏡」の画号を加筆〉    ☆ 没後資料(下記『浮世絵師伝』の作画期を参考にして、以下の資料を没後とした)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③297(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)   〝歌舞伎堂【(空白)年中の人】俗称(空白)、居住(空白)、    役者似顔のみ画たれども、拙ければ、半年ばかりにしておこなはれず〟    ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   〝歌舞伎堂艶鏡 寛政年中の人 俗称(空白)居住(空白)    役者似顔のみ画たれども拙ければ半年ばかりにして行れず〟    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1406(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)   〝歌舞伎堂艶鏡 役者似貌のみかきたれど、甚拙ければ、半年計にて行はれず【浮世絵類考】◯寛政間〟    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪204(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)   〝歌舞伎堂艶鏡 寛政中の人、役者似顔絵のみ画たれども、拙ければ半年計りにして行れず〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(41/103コマ)   〝歌舞伎堂艶鏡【寛政元年~十二年 1789-1800】    俳優の似顔絵を画きしが、その技拙かりし為めに、世に行はれずして、半年ばかり経て廃せりと云ふ〟  ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝艶鏡    【生】寛延二年(1749)  【歿】享和三年(1803)九月二十日-五十五    【画系】         【作画期】寛政    彼は写楽の後、国政の稍前に出現せし俳優似顔絵師にして、歌舞妓堂と号しき、其の技見るべきものあ    るにも拘らず、彼が伝記は殆ど拠るに足るもの無かりしが、曩に(大正十五年五月『浮世絵之研究』第    十七號)、落合直成氏の研究発表によつて、彼が狂言作者二代目中村重助と同一人なる事を明かにされ    たり。即ち、中村重助は明和元年十六歳にして初めて中村座に入り、其後立役者となりて重きを成すに    至りしが、寛政六年(四十六歳)以後の芝居番附には其の名見えず、恐らくは其の頃既に作者を辞して、    専ら画筆に親しみしものなるベく、そは寛政七年九月より翌八年五月の間に、彼が俳優似顔絵の出版さ    れし事と符合するものゝ如く。而して、彼が版画の全作数は極めて僅少なりしが如く、いま世に遺存す    るものとしては、僅かに左の七図を見るに過ぎず。     1中山富三郎の女役某(寛政七年秋?)    2三代沢村宗十郎の足利頼兼(同七年秋)     3三代市川八百蔵の伊勢三郎(同七年十一月)(口絵第四十四図參照)     4初代市川男女蔵の金屋金五郎(寛政八年春) 5二代中村仲蔵の松王(同 八年五月)     6三代市川八百蔵の梅王(同上)       7二代中村野塩の桜丸(同上)    右の内1より4までは「歌無妓堂艶鏡画」[*「無」の字、ママ]の落款を有し、5乃至7は単に「歌    舞妓堂画」とせり。尚ほ、以上の七図は何れも所謂大首絵にして、各図とも版元の印無し、それに就て、    落合氏の説には、「元来彼の作品は販売を目的とせしものには非ず役者側の自費出版を以て同好者に頒    布せしものなるベし」と云はれたり、或は然らむか〟    △『増訂浮世絵』p177(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝歌舞伎堂艶鏡    東洲斎写楽と、共通点を有する役者絵を作つた人で、寛政年間の製作と思はるゝ版画数種があるだけで    はあるが、相当の観るべき伎倆を有して居る。写楽の作に比べると、あれほどに極端なる癒(ママ)はなく    て、幾分穏和なる表現のものである。然し、役者絵の作家としては写楽と甚だ似たる傾向を有すること    に就て、特に注目に値する。浮世絵類考には、役者似顔のみ画きたれども、拙ければ、半年ばかりして    行はれずとある。挿図として市川男女蔵の大首絵を載せた。写楽の画境に倣つたものである。手を顔面    の表情とに学ぶ所があるのを見る。浮世絵類考には、拙ければとあるけれども、必ずしも拙とはいへな    い〟