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☆ えいじょ(おうい) かつしか 葛飾 栄女(応為)浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』  ☆ 天保四年(1833)
 ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「葛飾為一」の項)
   「葛飾為一系譜」〝葛飾為一 女子栄女【画ヲ善ス、父ニ従テ、今専画師ヲナス、名手ナリ】〟     ☆ 天保十五年(1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (「葛飾為一」の項)
   「葛飾北斎系譜」〝葛飾為一 末子 女子 栄女 画を善す父に随て今専画師也 始南沢に嫁し離別す〟    ☆ 弘化四年(1847)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化四年刊)    葛飾栄女画『女重宝記』五冊 画図応為栄女筆 高井蘭山著 和泉屋市兵衛板    ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永元年刊)    葛飾栄女画『煎茶手引之種』一冊 応為栄女筆 都龍軒山本主人誌 須原屋茂兵衛板  ☆ 刊年未詳    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(刊年未詳)    葛飾栄女画『女訓必用頭書絵抄 千載百人一首倭寿』葛飾応為画(書誌のみ)〔跡見987〕    高井蘭山著 板元未詳 刊年未詳    ☆ 没後資料(没年未詳のため、以下の資料は没後と推定した)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪187(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「宮川氏系譜」の項)
   「宮川長春系譜」〝(北斎)女子 始南沢ニ嫁シテ離別ス。父ニ学ンデ画ヲ能ス。栄女〟    ◯『葛飾北斎伝』p308(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)    ※( )は底本のルビ。〈 〉本HPの注記   〝三女、名は、阿栄、南沢等明に嫁す。等明は、橋本町二丁目水油屋庄兵衛の男なり。幼名を吉之助とい    ふ。長じて画師等琳の門に入り、画法を学び、等明と号す。阿栄を妻とせしが、睦まじからずして、離    別せり。      関根氏曰く、阿栄の挙動、北斎翁に似たれば、其の離別せらゝも、亦宣(うべ)ならずや。且かの等明     は、画を嗜みて画きたれど、阿栄より拙し。故に阿栄は、常に其の画の拙所(つたなきところ)を指し     て笑ひしと。    阿栄家に帰りて再嫁せず。応為と号し、父の業を助く。最美人画に長じ、筆意或は父に優れる所あり。    かの蘭山作の『女重宝記』のごとき、よく当時の風俗を写して、妙なりといふべし。     按ずるに応為の名、何に拠るを知らず。一説に、応為は、訓(よ)みて、オーヰ、即呼ぶ声なり。阿栄     父と同居、故にオーヰ、オーヰ親父ドノといへる、大津絵節より取りたるならん。蓋し別に意味ある     にあらずと。或は然らん。    北斎翁嘗(かつて)人に語りて曰く、余の美人画は、阿栄におよばざるなり。彼は妙に画きて、よく画法    にかなへり。【露木氏の話】梅彦氏、嘗阿栄に依頼し、稲荷神社に供する発句の奉納の口画を画かせた    るが、阿栄諾して盆栽の桜のかげに、猫児の戯るゝ所を画く。下筆細密にして、説色佳麗なり。同氏阿    栄に謂て曰く、奉灯の口画なれば、此の如く細密なるを要せずして可なるべし。阿栄曰く、此絹本は、    裏打せし者なれば、画きたるなり。従来裏打せし絹本は画き難きものなれば、尋常の画工ならば、謝絶    して画かざるべし。妾は、試みに其の画き難きものに画きたるなり。知らず/\、細密になりたれど、    他人のいふごとく、画き難きものにあらずと。同氏携へ帰りて、熟視すれば、気韻生動、筆力非凡なり。    よりて奉灯となすは、おしければ、更に他人をして、口画を画かしめ、神前に供し、しかして此の阿栄    の画は、裱装して珍蔵せしが、後火災に罹り、これを失ふ、惜むべしと、同氏の話。    阿栄父の性格に似て、小節に区々たらず。恰(あたかも)男児の如し。頗(すこぶる)任侠の風を好み、清    貧を楽みて、悪衣悪食を恥とせず。三食の下物は、毎日、煮売店より買ひ来りて、これを食ふ。故に竹    の皮、座辺にうづたかし。されど敢て意とせざるが如し。絵画の余、観相卜占をよくし、晩年仏門に入    り、誦念おこたりなし。奇行多きが中にも、常に茯苓を服して、女仙ならんことを願ひ、又嘗芥子人形    【一文人形、又豆人形ともいふ】を製造して、これを売り、巨利を得る事あり。これ芥子人形の始なり    といふ。奇女といふべし。    北斎翁の死するや、阿栄悲嘆座に安ぜず。これより居所を定めずして門人或は親戚の家に流寓し、後親    戚加瀬氏の家に居りしが、一日出てゝ行く所を知らず。一説に阿栄、加瀬氏の家を出でゝ、加州金沢に    赴きて死す。年六十七。又一説に、徳川旗下の士某の領地、武州金沢の近傍に到りて死せり。又一説に    は、信州高井郡、小布施村、高井三九郎の家に到りて死せりと。詳ならず。白井多知女の遺書には、安    政四年の夏、東海道戸塚宿の人、文蔵といへる者阿栄を招き画を請ふ。阿栄筆を懐にし、出て行きしが、    夫より知れずなりしと。     露木氏曰く、阿栄の挙動、北斎翁に似るたれども、唯翁と異なれるは、少しく酒を飲み、又煙草を喫     すること是なり。阿栄一日あやまちて翁が画きし絹本の画に、煙草の吸殻をおとし、自悔ひて、以来     煙草を禁ずべしといひけるが、暫くして又旧のごとし。又曰く、阿栄は、其の面貌甚だみにくゝ、腮     (あご)出でゝ、頗異相なりし。翁は、常に呼びて、アゴアゴをいへり。     梅彦氏曰く、余が始めて北斎翁の所に到り、一面せしは、実に二十歳の時にして、其の頃、阿栄は、     四十歳前後なりし。【梅彦氏は、今七十余歳なり】     又曰く、阿栄門人あり。大抵商家の娘、および旗下の士の娘などなりし。晩年には自往きて教授せり。     又曰く、北斎翁は、もとより乱惰にして、室内の掃除をきらふといへども、阿栄は、翁ほどの乱惰に     あらず。されば頭髪などは、常に乱だせしことなし。其の室内を掃除せざりしは、枉げて翁の意に従     ひ居たるものゝごとし。しかして其の品行は、頗正し。惰夫などありたることを聞かざるなり。常に     翁の傍にありて、孝養怠りなし。感賞すべきことなり。     白井孝義氏曰く、阿栄は、余が母方の祖父加瀬崎十郎の家に居りしが、其の気象恰男子のごとくなれ     ば、祖母を善からず。常に曰く、妾は、筆一枝あらば、衣食を得ること難からず。何ぞ区々たる家計     を事とせんやと〟     〈関根は『名人忌辰録』等で知られる考証家・関根只誠。露木は北斎門人の絵師で、為一と号した人。梅彦は戯作者      ・四方(ヨモノ)梅彦。梅彦は文政五年(1822)生まれ、ここからお栄の生年を推定してみると、梅彦二十歳の時(天保      十二年(1841))にお栄は四十歳前後とあるから、仮に四十歳とすると、享和二年(1802)頃の生まれということに      なろうか〉  ◯『浮世絵師便覧』p212(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝応為(ヲウヰ)葛飾北斎の娘、美人画に巧なり、◯天保、慶応〟  ◯『日本美術画家人名詳伝』補遺(樋口文山編 赤志忠雅堂 明治二十七年(1894)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾応為 北斎の女 通称栄 美人画を善す 嘉永年中の人〟  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(47・82/103コマ)   〝栄女【寛政元年~十二年 1789-1800】    葛飾為一の三女、はじめ画工南沢といふ人に嫁しゝが、後ち離縁して父の許にあり、画を善くして『女    童重宝記』その外、板本を多く画けりと云ふ〟   〝応為【安政元~六年 1854-1859】葛飾為一の女なりと云ふ、なほ考ふべし、美人絵を善くせり〟  ◯「集古会」第七十二回 明治四十二年(1909)三月 於青柳亭(『集古会誌』己酉巻三 明治42年9月刊)   〝竹内久一(出品者)北斎女栄女筆 女重宝記 挿画 一冊〟  ◯『浮世絵』第七号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵手引草(二)」(23/25コマ)   〝春宵秘戯の画に北斎と称するもの多くは北斎の娘栄女の筆に成れり〟  ◯『芸苑一夕話』上巻(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(221/253コマ)   ◇四八 葛飾応為     女僊志願の閨秀画家     葛飾北斎の三女を阿栄(おえい)と云うた。北斎の晩年、左右に居つたものは、此の女子のみである。    阿栄は親に習うて画を善くした。殊に美人画に妙を得た。北斎も常に美人画は娘に及ばぬと云うたと伝    へられる。阿栄は、父の傍らに在つて其の業を助けたが、後には己が名で絵入本などを書くに至つた。    現に版本になつてゐる高井蘭山の『女重宝記』の挿絵は阿栄の筆に成り、能く当時の風俗を写して居る。    阿栄、一旦南沢等明と云ふに嫁したが、離縁となつた。此の等明は水油屋の長男で、等琳に画を学むだ    が、実は妻の阿栄よりも技が拙であつた。阿栄は北斎の性質を受け、頗る勝気の女で、良人(おつと)な    ればとて負けて居らず、常にその画を批評して、忌憚なく拙なる処を指摘し、兎角折合よからず、終に    破鏡となつた。阿栄、それより人に嫁せず、応為と名乗つて、父の補筆など遣つて、傍ら台所を司(つ    かさど)つた。此の応為と云ふ名の由来は、父が娘を呼ぶに「オーヰ」と云ふのが常であつたので、そ    れが名となつたと云うて居る。     阿栄の性質は父によく似て覇気あり、すべての挙行は男子的で、小節に拘はらず、任侠を好み、清貧    に安んじて、衣服などの好みなく、常に麁服を着(つ)けて一向頓着しなかつた。元来、面貌醜い方で、    腮(あご)はひどく突出して居つたので、父は「アゴ/\」と呼むだ。     此の女に畸行多く、画を作る傍ら、人相卜(うらなひ)を習ひ、晩には仏門に入り、誦念を事とした。    併し、最も奇なるは、女僊たらんの冀望を抱き、或る人に図つたら、茯苓を呑めば、僊人になれると聞    き、それから此の草を呑み始めたなどは、奇と云はねばならむ。     斯様(かやう)に変つて居(を)つたが、父には孝養を怠らず、品行も甚だよかつた。尤も、男の様に何    でも構はぬ流儀で、台所に立働くのが面倒とあつて、煮売屋より、煮豆の様なものを竹の皮に包んで購    ひ来り、三食とも済ますのが常で、阿栄の座辺には、いつも竹の皮が累々として散り乱れて居つたと云    ふ。北斎没して後は家を去り、門人や知人の家に寄宿し、六十六に死したと云ふが、死所は判然しない〟    ◯『狂歌人名辞書』p30(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝葛飾栄女、北斎の三女、画を父に学び、一旦、南沢等明に嫁せしが離別せられて家に還りて父の業を助    く、天保頃〟    ◯『浮世絵師伝』p24(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝応爲    【生】  【歿】  【画系】北斎の女  【作画期】文化~弘化    葛飾を称す、俗称栄、常に父の傍らにありてオーイ/\と呼ばれしより其の発音に因て応爲と号せしな    りと云ふ、初め南沢等明(堤等琳門人)の妻となりしが、睦からずして離別され再び他に嫁せず、安政    四年の夏、家を出でたる侭行く所を知らず、或は加賀金沢に赴きて彼の地にて歿すともいへり、歿年月    は明かならざれども、行年六十七と伝へらる。画風よく父に似たるが、美人画に最も得意とせしものゝ    如く、殊に父の助手となりて描きし春画は、その妙技実に驚くばかりのものあり。また肉筆にて浮絵風    に画きし「吉原青楼夜景の図」あり、頗る異彩に富みしものなり。高井蘭山の作『女重宝記』(弘化四    年版)及び、山本山主人著『煎茶手引の種』(嘉永元年版)の挿画を描く〟  ◯『浮世絵師歌川列伝』「浮世絵師歌川雑記」p225(飯島虚心著・昭和十六年刊)   〝諸国富士の横画三枚(【尾州富士見原の図は大桶の中より遙に富士を見たる意匠甚だ妙なり】)前北斎    為一筆の落款ありて、地名の文字は樋口逸斎の筆也。此画北斎にあらずとて排斥するもの多し。熟視す    るに意匠筆力は絶妙なれども、少しく筆勢の柔なる所あり、よりて考うるにこれは北斎が死後娘阿栄の    手になりて出板せしものか、紙の年代にては嘉永四五年頃のものとおもわる〟    ◯『浮世絵年表』p236(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   「安政四年 丁巳」(1857)   〝此年夏、葛飾北斎の女阿栄(雅号応為)絵の需めに応じて東海道戸塚に行き、それより行末知れずにな    りしといふ〟  ◯『浮世絵年表』p226(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   「弘化四年 丁未」(1847)   〝正月、北斎の女応為の画ける『女重宝記』出版〟  ◯「集古会」第二百二十三回 昭和十四年九月(『集古』庚辰第一号 昭和15年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)葛飾為栄女画 煎茶手引之種 一冊 山本山主人著 嘉永元年〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:2点    画号他:栄女・応為・応為栄女    分 類:往来物    成立年:弘化4年(1点)嘉永1年(1点)    〈二点は『女重宝記』(高井蘭山作・応為栄女画・弘化4) 『煎茶手引の種』(山本都竜軒著・応為栄女画・嘉永1)〉