
©2010 Keiko Kawashima / Emi Higashiura |
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1706:ブルトゥイユ男爵令嬢としてパリに生まれる。 |
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自由主義者の父の下で、知的かつのびのびとした少女時代を過ごす。父のサロンへの出入りも許されていた。 |
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1725:デュ・シャトレ侯爵と結婚。デュ・シャトレ侯爵夫人となる。 |
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1733:ヴォルテールとの出会い。ここからモーベルテュイらとも知己になり、本格的に科学の勉強をはじめる。 |
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1734:ヴォルテール作『哲学書簡』のせいで当局より逮捕命令。デュ・シャトレ家の領地にあるシレー城に逃げる。翌年にデュ・シャトレ夫人もシレーに行く。 |
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1735~1739:
ヴォルテールと2人で、科学に関して様々な執筆活動をする。また、シレーには内外の有名な科学者が訪問。 |
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1739:科学アカデミーの懸賞論文が次点となり、アカデミーの雑誌にのる。
1740:『物理学教程』出版。 |
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1741:『物理学教程』の21章が原因で、科学アカデミー常任書記メランとの間に、活力論争が起きる。
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1742:『物理学教程』第2版出版(自画像付)。
1744:『火の論文』(活力論争付)出版。 |
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1745:この頃『プリンキピア』の翻訳・注釈開始。また、ヴォルテールにはドゥニ夫人に接近。 |
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1746:イタリアのボローニャアカデミーの会員に選ばれる。 |
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1748:ロレーヌ地方のポーランド王スタニスワフの宮廷で、サン・ランベールに出会う。 |
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1749:1月、妊娠に気づく。ニュートンの注釈さらに進める。 |
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1749:9月『プリンキピア』草稿完成。出産後6日で他界。赤ん坊も一年ほどで死亡。 |
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1756(初版)・59(改訂版):ヴォルテールとクレローが残された原稿を整理して、『プリンキピア』仏訳・注釈の出版。これは現在なお唯一の『ピリンキピア』全仏訳である。 |
Fin. |