 ©2012 Keiko Kawashima
/ Emi Higashiura |
1 |
 |
1909(明治42年):上野に生まれる。三男四女の六番目。 |
2 |
 |
江戸っ子のお嬢様で文・理両方の優れた才能を発揮(絵もうまい)。 |
3 |
 |
1927:東京女子高等師範学校(現・御茶ノ水女子大)理科入学。 |
4 |
 |
1931:東京文理科大学(現・筑波大学)に、物理学科初の女子として入学。 |
5 |
 |
1937:東京女高師の助教授になる。この頃、フランスのジョリオ=キュリー夫妻の人工放射能の論文と出会う。 |
6 |
 |
1940.1.26:神戸港よりフランスに向けて出港。3月2日にパリ到着。 |
7 |
 |
イレーヌ・ジョリオ=キュリーにラジウム研究所入りを断られる。
|
8 |
 |
1940.3.29:コレージュ・ド・フランスのフレデリック・ジョリオ=キュリーがOKを出す。
|
9 |
 |
1943:フランス国家理学博士取得。 |
10
|
 |
1944.8月:大使館の命令でパリを退去。1945年7月に帰国。8月15日、日本はアメリカに無条件降伏=終戦。 |
11
|
 |
1945:東京女高師復帰。日本人学生や科学者に歓迎されるが、じつは実験ができず不満。 |
12 |
 |
1949:フレデリック・ジョリオ=キュリーの誘いで再渡仏。本格的に研究を再開。 |
13
|
 |
1954:お茶女(1952年より新制大学でこの名)を退職。パリで永住を決意。1956年にイレーヌ、1958年にフレデリック・ジョリオ=キュリー死去。(放射線障害) |
14 |
 |
これ以降、原子核物理学、少数核子系の研究者として、国際的に活躍。世界中の学会に出席。 |
15 |
 |
癌になっても休まず、日仏共同研究の実現に全力投球。 |
16
|
 |
1980:パリの郊外の病院で死亡。この日に日仏共同研究承認。 |
17
|
 |
2002:お茶の水女子大を主催機関として湯浅年子記念の奨学基金設立。 |
Fin. |