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レディー暴言。
そのコンサートでシュエンのバックを務めたのは、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団でした。シュエンは、かつてはこのザルツブルクのモーツァルテウム大学で学んでいて、その時に知り合った仲間が、このオーケストラとしてのメンバーにもいたそうなのですね。中でも、当時はヴァイオリンを学んでいたロベルト・ゴンサレス=モンハスが、ここではそのオーケストラの首席指揮者になっていて、自分のアルバムで指揮をすることなど、思ってもみなかったそうです。 さらに、ここではピアノ伴奏の曲も録音しているのですが、そのピアニスト、ダニエル・ハイデも大学時代に一緒に演奏した仲間だったのですね。 と、ここまでで、「モーツァルテウム」という言葉が付いている単語が3つ登場していましたね。それぞれは、根本的に、ザルツブルクが産んだ大スター、モーツァルトにちなんだもので、ただ「モーツァルテウム」と呼ばれることもあるのですが、厳密には別の組織のようですね。説明できませんけど。 ただ、かつては「モーツァルテウム音楽院(Konservatorium Mozarteum)」と呼ばれていた教育機関は、現在では先ほど書いたように「モーツァルテウム大学(Universität Mozarteum)」という名前に変わっているようですね。 ということで、まさに気心の知れた仲間たちとの演奏は、とてもフランクな感じに仕上がっていましたね。まずは、オーケストラとの、「3大オペラ」プラスアルファです。しかも、「フィガロの結婚」では、フィガロと伯爵という2人のバリトンのロールを両方とも歌っているのですからね。見事にキャラが変わって聴こえるのは、モーツァルトの音楽と、シュエンの柔軟さのせいでしょう。さらに、第3幕の16番のスザンナと伯爵のデュエット「Crudel! Perché finora farmi languir cosi?」と、17番の伯爵のアリア「Vedrò, menter'io sospiro」の間のレチタティーヴォ・セッコでは、伯爵と、ほんのちょっと出てくるフィガロの両方で登場していますよ。 そして、「ドン・ジョヴァンニ」でも、レポレッロとドン・ジョヴァンニの両方を歌っています。そして、有名な「セレナード」ではアヴィ・アヴィタルのマンドリンがフィーチャーされているのですが、それを歌う前に、そのマンドリンの伴奏で、「Komm, liebe Zither(おいで、いとしのツィターよ)」という、かわいらしい歌を聴かせてくれています。モーツァルトが純粋にマンドリンのために作ったのは、この2曲だけなんですよね。もう1曲リートがありますが、それはマンドリンかピアノの伴奏ですから。物足りんませんね。 「魔笛」からは、パミーナ役のソプラノのニコラ・ヒレブラントとのデュエットで「Bei Männern, welche Liebe fühlen」と、「Der Vogelfänger bin ich ja」という、パパゲーノの持ち歌です。このヒレブラントという人も、かわいらしい声ですね。「フィガロ」ではツェルリーナも歌ってますし。 そして、オペラのナンバーはもう1曲、「コジ・ファン・トゥッテ」のグリエルモのアリアとして作ったのですが、最終的にカットされた「Rivolgete a lui lo squardo(彼に目を向けなさい)」です。これは初めて聴きました。 そのほかにも、ピアノ伴奏の曲があるのですから、うれしくなります。とは言っても、いずれも初めて聴くものばかりでしたが。そんな中で、K.619という、モーツァルトが亡くなる直前に作られた小カンタータ「Die ihr des unermeßlichen Weltalles Schöpfer ehrt(無限の宇宙の創造者を崇敬する君らよ)」というのは、なんとも不思議な作品でした。それは、フリーメーソンの仲間だったフランツ・ハインリヒ・ツィーゲンハーゲンの依頼によって、彼のテキストに作曲したもので、「聞け、人類よ、聞け!私の作品を愛し、秩序、均整、調和を愛せ!」で始まり、「そうすれば、人生の真の幸福が達成されるだろう。」で終わる、およそモーツァルトには似合わないものです。 CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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この「古楽」だけを専門にリリースすることがポリシーだったはずのレーベルでは、確かに「古楽」つまりピリオド楽器による演奏もあったのですが、必ずしもピリオド楽器を演奏するアーティストだけではありませんでした。チェンバロのヘルムート・ヴァルヒャが使っていたのは「アンマー」といういかにも大きな音が出そうな(それは「ハンマー」)モダンチェンバロでしたし、数多くのバッハの作品を録音していたカール・リヒターが率いるミュンヘン・バッハ管弦楽団も、使っていたのはモダン楽器でした。 そんな陣容で、リヒターはバッハの主要な宗教曲を多数録音していました。「ヨハネ」も1964年に録音されています。もちろん、使っていた楽譜は旧バッハ全集でした。 しかし、1970年代になると、きっちりとピリオド楽器を使うという演奏が、かなり広まってきます。そして、1954年から始まった新バッハ全集の楽譜の出版も、その頃にはかなりのものが上梓されていて、1974年には、アーサー・メンデルの校訂による「ヨハネ受難曲」の楽譜も出版されました。そして、そこでは、あくまで、本体はバッハが1739年に新たに作った、途中までのスコアと、1749年に、その続きを1724年の第1稿をもとにコピストが筆写したという、バッハの生前には演奏されることのなかった旧全集の形をほぼ残したうえで、この作品の異稿の情報をしっかり明記していたのです。確かに、旧バッハ全集にも「付録」として、1725年の第2稿で加えられた3つのアリアの楽譜が掲載されていますが、そこには単に「オリジナル稿によるもの」という説明しかありませんでした。新全集では、現在私たちが知りえているのとほぼ同じだけの情報が提供されています。 ですから、ARCHIVとしては、このあたりでピリオド楽器による「ヨハネ」を録音し直そうと思ったのかもしれませんね。そこで、その頃、毎年夏にレーゲンスブルクの聖エメラム教会で、ピリオド楽器のオーケストラ「コレギウム・ザンクト・エメラム」と、レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊を指揮してコンサートを行っていたハンス=マルティン・シュナイトに、新たに「ヨハネ」の録音を行わせたのでしょう。その際に、新全集で示された「1725年稿(第2稿)」だけのために作られた曲も、おそらく世界で初めて録音されたのでした。 ですから、初出のLPでは、3枚のうちの最初の2枚と3枚目のA面に、これまでの全集版の全曲を収録し、B面にその第2稿のナンバーを収録してあります。Discogsではそのおのおののレーベル面を見ることが出来るのですが、その3枚目のB面には、確かにこんな表記があります。「1725年の第2稿」ですね。 ![]() ![]() さらに、このサブスクのトラック表では、「録音: 13- 20, 22-26 February, 5-9 April 1961, Hochschule für Musik und Theater, Munich, Germany」という表記があります。一体、どこからこんなデータを持ってきたのか、と思って調べてみたら、これは、リヒターが「ロ短調ミサ」を録音した時の日付と会場とぴったり合っていました。 そしてなぜか、このデータはDiscogsにも表記されているのですよ。ただ、そこではもう一つ、「Recording: Regensburg, St. Emmeram, 12.-24.7.1978」というデータもあるのですよ。なんたって、聖エメラム教会で録音されたのは間違いないので、これが正解でしょうね。 この録音では、楽器がピリオドだというだけでなく、ソリストやコーラスの女声のパートが、少年によって歌われています。ただ、そのような「新しい」ことを目指したことは評価できますが、その結果の演奏の精度が、例えば木管のピッチなどはガタガタですし、少年のソリストもかなりお粗末なのは、ちょっと困りますね。合唱でも、少年による女声パートでとんでもないビブラートが聴こえますし。 そのあたりが、CD化されなかった原因だったのかも。 Album Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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でも、その「レ・プレリュード」は、そんなピアニストとしての時代ではなく、もっと大人になったヴァイマールの宮廷楽長時代の作品なんですけどね。そこで彼は、作曲に専念して、多くの作品を作ることになるのですね。 しかし、そこでの生活も10年ちょっとで終わり、晩年はローマで過ごすことになります。そこでは、なんとリストはお坊さんになって、宗教的な作品を数多く作ることになるのですね。もはや、若いころのアイドルの姿は、そこにはありませんでした。そんなリストの一面だけをとらえて「嫌いです」と言った指揮者は、きっと冗談のつもりだったのでしょう。 そんな、ローマ時代の作品の一つが、今回のオラトリオ「キリスト」です。これは、なんたってリスト、ではなくキリストの全生涯を俯瞰しようという壮大なものですから、演奏も3時間近くかかるという大作です。テキストは、ラテン語による聖書の中の言葉が使われ、全体は、「クリスマス・オラトリオ」、「公現の後で」、「受難と復活」という3つの部分に分かれています。ソリストが4人、そこに合唱とオーケストラが加わり、オルガンとハルモニウムを使われています。 そんな大作でも、これまでにいくつかの録音もありました。おそらく、アンタール・ドラティが1986年にリリースしたHUNGAROTON盤が最初のものだったのではないでしょうか。 ![]() 確かに、最初の、オーケストラだけによる導入曲では、ピリオド楽器の弦楽器によるノン・ビブラートの演奏が、とてもピュアなサウンドをもたらしています。曲自体も、そんな大作には似つかわしくない割とシンプルなもので、和みます。 そして、次の曲になると、ソリストと合唱がメインとなっていて、もはやオーケストラの存在感は薄れてしまいます。ソリストによる四重唱なども頻繁に披露されますが、とてもよく響きがまとまっていて、聴き甲斐があります。合唱も、かなり人数が多いように聴こえます。女声は「ピュア」とは程遠い成熟した声ですが、的確な説得感をもって迫ってきます。何よりも、聴き慣れたラテン語による演奏ということで、英語やドイツ語のような生々しさがなく、いかにも「宗教曲の合唱」という感じが伝わってきます。この「クリスマス・オラトリオ」の部分には、全体的に透明感のあるひたむきな祈りというようなものが感じられます。 次の「公現の後で」は、前半は合唱とソリストがメイン、後半にオーケストラが活躍、という感じでしょうか。最後の「Hosanna」とか「Benedictus」と言ったおなじみの歌詞の部分は、ちょっと音楽全体が薄っぺらな気もします。 そして、最後の「受難と復活」では、2曲目の「Stabat Mater」だけで30分という長さで迫ります。そこでは、様々な編成での部分が出てきますが、その中でハルモニウムだけの伴奏でソリストや合唱が歌う、というところでは、とてもシンプルな美しさがありました。 最後の曲では、「復活」の喜びがストレートに描かれます。それは、合唱のフーガと相まって、華々しくエンディングを飾っていました。 これを、生で聴くというのは、かなり大変なことでしょうね。 CD Artwork © Rondeau Production |
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ロトは、その後2011年から2016年までは、現在のSWR交響楽団の前身であるバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団の首席指揮者に就任、2015年からは、もう一つのオーケストラ、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の音楽監督にも就任します。この頃になると、ベルリン・フィルなどのハイランクのオーケストラにも頻繁に客演するようになり、まさに世界中を股にかけての大活躍を行う「大指揮者」の仲間になっていました。 ただ、その一方で、彼は女性に対しても「大活躍」だったようで、2024年には、そのセクハラの実態が大々的に報道され、指揮活動もすべて休止せざるを得ない、という状況に陥ってしまいました。予定されていたレ・シエクルとの来日コンサートも、キャンセルされたようですね。まあ、脇が甘い、というか、「股」が甘い、というか。 ただ、今年になって彼はベルリン・フィルとのコンサートに登壇するとか、以前から予定されていた、テオドール・クレンツィスの後任としての、シュトゥットガルトのSWR交響楽団の首席指揮者のポストにも、就任が決まったようです。まあ、才能と実績がある人は、なにをやっても許される、ということなのでしょう。それにしても、ロトのあの顔でのセクハラ、というのは、不気味だったことでしょうね。吐いてしまいそう(それは「嘔吐」)。 今回の、彼とレ・シエクルにとっては2枚目となるリゲティのアルバムが録音されたのは2023年だったので、まだ「発覚前」のことなのでしょう。というか何もなければ、もっと早い時点でのリリースだったのかもしれませんね。 ここでは、ヴァイオリン協奏曲(1993年)とピアノ協奏曲(1988年)という後期の作品と、ハンガリー時代、1951年に作られた「ルーマニア協奏曲」が収められています。つまり、リゲティの代名詞として知られる、1960年代のオーケストラ作品が、見事に避けられているという選曲です。 ヴァイオリン協奏曲のイザベル・ファウストと、ピアノ協奏曲のジャン=フレデリック・ヌーブルジェというソリストたちは、この難曲をとても楽し気に演奏しているようでした。特に、ピアノ協奏曲でのジャズの模倣が、楽しいですね。 「ルーマニア協奏曲」が初めて録音されたのは作曲から半世紀も経った2001年のことでした。それは、ジョナサン・ノットが指揮するベルリン・フィルの演奏で、当時進行中だったリゲティの全作品の録音プロジェクトの第2期、TELDECからリリースされていましたね。第1期のSONYが投げ出してしまった仕事を引き継いだ、という形ですね。 これは、後のリゲティの作風を聴いた耳には、なんともほほえましい気持ちになれる作品です。彼の先達であるバルトークあたりをなぞったようなところも見受けられますね。つまり、バルトークがこの数年前に作った「オーケストラのための協奏曲」と、とても似通った感じがします。演奏上も、多少のスキルは必要ですが、それほど難しいこともやってはいないので、もしかしたら、「オケコン」が演奏できるぐらいのアマチュアのオーケストラだったら、充分に演奏できるかもしれませんね。緩・急・緩・急という4つの楽章から出来ていて、奇数楽章は何ともノーブルな宮廷舞曲のような第1楽章と、まるでブルックナーのようなホルンのソロで始まる哀愁に満ちた第3楽章が涙を誘います。 対する偶数楽章は、もう「速弾き」の嵐、木管楽器の超絶技巧や、まるでフィドルのようなソロ・ヴァイオリンが、軽快なダンスを踊っています。最後の楽章は、オープニングとエンディングでのクラスターが、後のリゲティを予言しているようです。 CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s. |
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この方は、最初はヴァイオリニストとしてオーケストラの中で活躍していましたが、ハーバート・ハウエルズのレッスンを受けた時に作曲への関心が強くなり、オクスフォード大学のキーブル・カレッジを卒業して、プロのヴァイオリニストとして活動したのちに、リース大学作曲科の講師となり、後には教授となり、作曲家としても大成します。中でも、ブラスバンドの曲に関しては、非常に多くの作品が作られています。 それと並んで、宗教的な作品も作っています。今回の「マタイ受難曲」は、マシュー・オーウェンズが指揮をするウェールズ大聖堂合唱団のために2018年に作られています。オーウェンズは、その後2019年に、北アイルランドのベルファスト大聖堂合唱団の音楽監督に就任し、2021年にこの曲を、そこで録音することになるのです。 このベルファストの合唱団の歴史は、1904年に大聖堂が今の形になった時から始まります。その時は、24人のボーイ・ソプラノと、24人の大人の混声合唱団という編成でした。その後、この合唱団は様々な編成になるという変遷をたどるのですが、2019年にオーウェンズが音楽監督のポストを得た時に、現在の、「すべて大人のプロフェッショナルな歌手たちによるアンサンブル」という形になっています。 その「マタイ受難曲」に先立って、ここでは2014年に作られた「Magnificat」と「Nunc dimittis」、そして2017年に作られた「God's Grandeur」という3曲のモテットが演奏されています。いずれもオルガンと混声合唱というシンプルな編成で、いかにもイギリスの作曲家らしい、ブリテンあたりの書法を大切にしている作品でした。その中でも、3曲目に演奏されている「Nunc dimittis」が、華やかさを持った魅力的な曲でしたね。 そして、それを歌っている合唱団の素晴らしさも、感動的でした。特に、女声パートがとても大人とは思えないほどのピュアな発声なのには驚かされます。 「マタイ受難曲」は、1時間弱の演奏時間を持つ大曲です。人のソロ・シンガーと混声合唱に、2台のオルガン(大聖堂に設置されている大オルガンと、コンパクトなポジティヴ・オルガン)が加わるという編成です。バッハの同名曲のように、聖書のテキストを朗読するという形をとっている部分では、イエスの言葉はテノールによって歌われ、それ以外のソリスト、そして合唱もエヴァンゲリストや他のキャストの言葉を歌います。その部分ではポジティヴ・オルガンが主に伴奏に回りますが、その書法はかなり前衛的な要素が含まれていて、なかなかの緊張感を演出しています。 もちろん、それらは英語で歌われますから、物語の進行もドイツ語よりは親しみやすく伝わってくることでしょう。ゴルゴタの丘でのピラトとのやり取りなどは、迫力満載ですね。 そして、この曲の最大の魅力は、バッハの場合の「コラール」に相当する部分が設けられているということです。それは、ヴォーン=ウィリアムズが編集した「イギリス讃美歌集」という労作の中から、5曲の讃美歌が選ばれて、それが聖書のテキストの間に歌われるというものです。それらは、いずれもシンプルなメロディを持った曲ばかりで、それを合唱が、ある時はユニゾンで、またある時はハーモニーをつけて、さらには、カウンターメロディを重ねてスペクタクルにと、様々な表情の姿で歌われているのです。これがあれば、「アリア」は必要ありません。 ソリストたち、そして何よりも合唱の素晴らしさが、大聖堂の響きをふんだんに取り込んだクリアな録音と相まって、ストレートに伝わってきます。中でも、最後の最後に歌われる讃美歌などは、まさにバッハの終曲にも匹敵するほどの壮大さをもって迫ってきますから、圧倒されます。 このアルバムがリリースされた2022年は、図らずもヴォーン=ウィリアムズの生誕150年という記念の年になっていました。 CD Artwork © Resonus Limited |
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このCDには、その「夏の夜の夢」の全曲が収録されています。オーケストラはもちろんピリオド楽器ですね。以前ガーディナーの指揮による録音を聴いたことがありますが、その時はモダン楽器のロンドン交響楽団だったので、これは初めての体験となりました。 そのガーディナー盤では、この音楽劇の中で使われる言葉は英語でしたが、今回はドイツ語になっています。それも、初めての体験です。というか、そもそもメンデルスゾーンがこの音楽劇を作ったのは、ポツダムの新宮殿で演奏するためにフリードリヒ・ヴィルヘルム4世から依頼されたからなので、当然テキストはシェイクスピアの英語による原作を、アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・シュレーゲルと、ドロテア・ティークがドイツ語に翻訳したものが使われているのでした。それは、1843年に初演されていますね。 今回は、そのドイツ語のテキストと、さらに、ミヒャエル・ケールマイヤーの新しい訳、そして、ここでナレーションを担当しているマックス・ウアラッハーによる自由なテキストが使われているようですね。 ![]() ![]() ただ、この録音は、そこでのものではなく、5月7日のフライブルクでの演奏がメインに使われていて、そこにスタジオでの録音も加えて編集されているようですね。 演奏は、最初の序曲から、いかにもピリオド楽器らしい、軽やかなサウンドで、新鮮な思いを演出してくれていました。木管楽器が、とても鄙びた音色で、いかにもシェイクスピアの世界のような雰囲気を漂わせていましたね。この序曲の最後、E-durの響きで終わるのですが、そのもっとも高音でフルートが第3音のGisを、とても低い音程で吹いています。一瞬、なんて低いんだ、と思ったのですが、実際はそれによって純正調の響きが出来ていたのですね。なかなか粋なことをやってくれていました。続く「スケルツォ」も、そのフルートのフィンガリングは華麗さを極めていましたね。 セリフと音楽が交互に出てくるメロドラマでは、先ほどのウアラッハーの、まさに独り舞台が楽しめましたね。合唱団との掛け合いも、見事でした。 最後近くの、有名な「結婚行進曲」でも、古い全集版の楽譜のおかしなところが、きちんと修正されていましたね。 ![]() ![]() ![]() ですから、この楽譜に忠実に演奏すると、このトランペットの三連符が、完全に宙ぶらりんになってしまいます。でも、少し前までは、誰もそれを不思議だと思わずに楽譜通り演奏して、録音を残していたのですね。いや、ほんの数年前にも、関係しているオーケストラで、それをやっていましたよ。 もちろん、今では「正しい」楽譜が出ているはずですから、この演奏ではトランペットが聴こえることはありません。 CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s. |
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「EP」と言えば、宇宙人ではなく(それは「ET」)ある年齢以上の人にとっては20世紀半ばに登場した7インチ径のシングルレコードの進化形を思い浮かべることでしょうが、最近では「シングルではないが、アルバムほどの曲数はない」というコンセプトのフィジカルCD、あるいは、デジタル・コンテンツのことを「EP」と呼ぶようになっているのです。かつては、そのようなものは「ミニアルバム」と呼ばれたものですが、「EP」の方が「新語」としてかっこいいな、ということで、広まっていったのでしょう。 ということで、このEPにはいずれも5分にも満たない短いア・カペラの合唱曲が5曲しか収められてはいません。 この合唱団が、デビューにあたってこのようなサイズの曲集をリリースしたのは、賢明なことだったのではないでしょうか。ここでは、無駄なものなど一切ない、彼らの魅力が凝縮されたとてもハイレベルな曲だけを聴くことが出来るのですからね。 まず、最初の、フォーレの「レクイエム」の「ピエ・イェス」から、それはとてつもない魅力を放つものでした。この、オーケストラの伴奏で本来はソプラノ、あるいはトレブルのソロによって歌われる曲が、ここでは、オーケストラのパートも合唱で歌われているのですが、そのソロの声には驚かされてしまいました。大人のソプラノには違いないのに、なんというピュアでナイーブな声なのでしょう。だいぶ前に、このような声で一つの時代を作ったエマ・カークビーという人がいましたが、この声はその無垢なカークビーの声をそのままに、ほんの少しのビブラートを加えて、さらに輝きを増した、という、この曲のまさに理想的なものだったのです。 そのソリストの名前はグレース・デイヴィッドソン、これまでに、バロックやルネサンスの多くの作品でのソロとしての録音がたくさんありますし、合唱団のメンバーとして参加しているものも数多くあるという方です。映画音楽のための録音もたくさんあるようですね。 それで、彼女はソリストとしてだけでなく、しっかりこの合唱団のメンバーの一員となっているのですよ。そんな「仲間」と一緒のこのフォーレは、これまでに聴いたものの中で最も美しいものとして、記憶に残ることでしょう。オーケストラのパートを歌う合唱は、音色もピッチも完全にソリストと一体化して、この世のものとは思えないような崇高な響きを作り上げています。もうこれを聴いただけで、彼らのレベルの高さに圧倒されてしまいました。 そんなレベルの演奏が、さらに4曲も続きます。次はイギリスの重鎮、ジョン・ラッターの「God be in my head」です。コラール風のシンプルな曲ですが、まるでコンクールのお手本のような美しいハーモニーを、いともすんなりと作り上げているのに驚かされます。 続いて、初めて聴いたラトヴィアの作曲家、ウギス・プラウリンシュという人の、「Kyrie eleison」です。これは、彼の「Missa Rigensis」というフル・ミサの最初の曲です。なんでもこの方は以前はプログレのロックバンドのキーボードを担当していたそうで、ここでもちょっとアヴァン・ギャルドなところも聴こえてきます。サブスクに、この曲をスティーヴン・レイトン指揮のケンブリッジ・トリニティ・カレッジ合唱団が演奏したものがあったので聴き比べてみたのですが、それよりもクールなアプローチが、メリディアンには感じられました。 そして、やはり初めて聴いた作曲家、ウクライナのハンナ・ハブリレツの「Prayer to the Holy Mother of God」という曲です。ここでもデイヴィッドソンのソロを聴くことが出来ます。民謡風のメロディが何度も繰り返される曲で、後半は悲しげなモードが漂い、最後は吐息で終わるというものです。なんでも、この作曲家は、ロシアによるウクライナ侵略によって、60歳台で命を失ったのだそうです。なんということでしょう。 最後は、ジョン・タヴナーの「Mother of God, here I stand」で、安心のハーモニーを堪能できますよ。 EP Artwork © Signum Records Ltd |
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そして、集まった資金は、メキシコのオアハカ州テワンテペク地峡の復興支援に直接役立てられ、イエズス会ミッションと市民社会団体「ウナ・マノ・パラ・オアハカ」を通じて地域経済の活性化にも役立てられることとなったのです。 そのようなコンサートのライブ録音が、初めてデジタル・コンテンツとしてリリースされました。ソリストは、バリトン以外はマルティネスを始めとしたラテン・アメリカにルーツを持つシンガーたちです。そして、指揮をしたのが、1988年からウィーン交響楽団のファースト・ヴァイオリン奏者として活躍しているクリスティアン・ビルンバウムです。彼は、オーケストラ奏者として活動する傍ら、1993年から4年間ウィーン音楽院の指揮者のクラスで学び、現在では指揮者としても大活躍しています。 モーツァルトの「レクイエム」と言えば、もちろん、彼が最後までは作れなかったので、普通に演奏されるのは、ジュスマイヤーが足らない部分を補った楽譜です。それ以外にも、様々な人がその修復作業を行って、今では数えきれないほどの楽譜が存在していますが、やはりメインはジュスマイヤー版であることに変わりはありません。 今回のアルバムでも、その版に関しての言及はありませんし、NMLなどではしっかり「F.X. ジュースマイヤーによる補筆完成版」などというクレジットがありますから、それを見た人であれば、これがジュスマイヤー版であることを疑うことはないでしょう。 ところが、ここで実際に演奏されていたのは、「ランドン版」だったのですよ。それは、ハイドンの研究者として名高いアメリカの音楽学者ハワード・チャンドラー・ロビンス・ランドンが1989年に完成させ、1992年にブライトコプフ・ウント・ヘウテルから出版した楽譜です。ランドンの修復のコンセプトは、ジュスマイヤーより前にその作業を任されたヨーゼフ・アイブラーの仕事を取り入れたことです。その詳細に関しては、こちらをご覧ください。前半の曲のオーケストレーションが、ジュスマイヤー版とはかなり異なっています。 この「ランドン版」は、あのゲオルク・ショルティが演奏したものが、映像とともに広く聴かれたために、ひところはかなりもてはやされたようですが、今世紀に入ってからは、全くそれを使った録音は見当たらないようになっていました。それに、こんなところでお目にかかれるとは。 さて、肝心の演奏の方はどうでしょう。まずは、最初のオーケストラの響きがとてもコンパクトで心地よいのに一安心です。ところが、合唱が入ってくると、オーケストラに隠されてほとんど聴こえてきません。でも、しばらくすると、そのバランスは是正されてきました。おそらく合唱のマイクのレベルを上げたのでしょう。ところが、そうなってくると、その合唱の響きがおかしくなってきました。明らかに入力オーバーでひずみが出ているのですね。そうなってくると、この合唱のアラしか聴こえなくなってしまいます。さらに、曲が進んでいくと、その合唱自体の演奏も、なんだか怪しくなってきますよ。 ソリストでも、歌手によってバランスが違っていますから、ただでさえ声が大きいテノールの人などは、もうやかましいぐらいに聴こえてきます。そんな、かなりクオリティの低い演奏と録音でしたが、おそらく、その場にいた人たちは、きっちりと修正して、その「情熱」だけはくみ取っていたのではないでしょうか。そして、その偉業は終生伝えられていくことでしょう。 Album Artwork © Cri Du Chat Disques, under exclusive license for Universal Music Ltd |
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メンバーを見ると、指揮者もソリストもすべてイタリア人、合唱団とオーケストラも、ほとんどがイタリア人という、とても珍しい布陣です。 これは、CDやサブスクで聴くことが出来るのですが、その映像も、全てこちらで見ることができます。 オーケストラも立って演奏していますね。 ![]() 何よりもユニークなのが、エヴァンゲリストのカルロ・プテッリという人です。 ![]() しかし、ここでの彼は、その外観で端的に分かるような、極めて場違いな歌い方に終始していたのではないでしょうか。彼は、聖書のテキストをなぞって物語を進行させる、という本来の役割を大幅に逸脱して、いかにもイタリア人らしい情熱的な演奏で、この作品の持つ品位を著しく貶めていたのです。「ペテロの否認」のあとのレチタティーヴォなどは、あまりにも感情をむき出しにしたもので、いくら何でもやり過ぎだと、誰しもが思うことでしょう。 オルガニストでもある、指揮者のチオフィーニは、最初の大合唱では、ちょっと他の人ではやらないようなことをやっていました。オーケストラによるイントロに続いて合唱が入って来たときには「Herr」という言葉を3回繰り返すのですが、それを1回目、2回目、3回目と、次第に音量を小さくしていたのですね。これも、イタリア人ならではの、なんかエモーショナルな表現のように感じられます。そして、その後になると、これまでにどんな指揮者もやったことのない演奏を披露してくれていました。普通に合唱とオーケストラが一緒に演奏していたと思っていたら、いきなり合唱のパートが4人のソリストだけになってしまったのですよ。一瞬、何が起こったのか分からなくなってしまいましたね。 まあ、少し前には、バッハの合唱は、1つのパートは1人だけで演奏するものだ、という主張が声高に唱えられていて、それにまんまと乗せられて実際にそのようなスタイルで演奏したものも数多く残っていますが、もはや現時点では、そのような演奏はまず顧みられないようになっています。チオフィーニは、そんな「過去の亡霊」を、ここで実現させていたのかもしれませんね。もちろん、そのような中途半端な演奏は、作品の品位を貶めるものでしかありません。最後の大合唱と、その次のコラールまでも、こんな「被害」に遭っているのは、耐えられません。さらに、バスと合唱の掛け合いのアリア、「Eilt, ihr angefochtnen Seelen」では、「Wohin?」という合唱までが、ソリストたちによって歌われているのですからね。 そんな、なんとも許しがたいほどのでたらめが横行しているこの演奏ですが、オーケストラと合唱のクオリティが極めて高いことによって、かろうじて鑑賞に堪えるものになっています。特に合唱は、全てのメンバーが同じ物を目指していることがはっきりわかる、素晴らしいものでした。 CD Artwork © La Bottega Discantica |
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ここでは、サン=サーンスは演奏していませんが、「幻想」と、そして、同じ年の9月に録音されていたラヴェルの「ラ・ヴァルス」がカップリングされています。 録音会場は、彼らのホームグラウンドのフィラモニー・ド・パリです。かなり豊かな響きが聴こえそうなホールですから、あまりクリアな音は期待できないような気がしていますが、どうなのでしょうか。 まず「幻想」の第1楽章では、とても繊細な弦楽器の音が聴こえて来たので、まずは一安心です。ヴァイオリンなどでは、もしかしたらノン・ビブラートで演奏しているのではないか、と思えるほどの、ピュアな音でした。そんな、ある意味禁欲的な演奏で聴くベルリオーズというのも、なかなかスリルがありますね。 ただ、木管楽器が、あまり前面に出てきてはいません。第3楽章のバンダのオーボエなどは、もちろん、遠くから聴こえてくるという設定なのですが、今回はあまりにも「遠」過ぎて、いくらなんでも、という気がしましたね。 フルートなども、完全に木管の一部となってハーモニーを作っているのは素晴らしいのですが、もっとソリスティックに聴こえるようなところも欲しかったですね。 第4楽章の「断頭台への行進」などでは、金管のパワーがものすごいことになっていましたね。そして、エンディングでは、弦楽器が面白いことをやっていました。 ![]() そこで、他にもこのような演奏を行っている指揮者がいるかどうか、調べてみました。そういう時のサブスクは、非常に役に立ちます。 その結果、マケラ以外にこのようなことをやっている指揮者が見つかりました。それは、フランツ・ウェルザー=メスト、ロジャー・ノリントン、サイモン・ラトル、ロビン・ティチアーティという4人です。ティチアーティだけは、聴いたことがありましたが、それほどはっきり伸ばしてはいなかったので、気づかなかったのでしょう。それに対して、普通に短く演奏している人は往年の「巨匠」など、とりあえず30人はいましたが、おそらく実際はそれ以上の人がいることでしょう。ですから、マケラは、非常に稀な演奏を行っていた、ということになりますね。 さる音楽ブログで、「第4楽章で一段ギアが上がったようで、かつて聴いたことのないほど細部まで彫琢された『断頭台への行進』。曲のイメージが変わる。お祭り騒ぎ的だと思っていたら、もっと奥行きのある音楽だったという。」と書いていた人がいましたが、もしかしたらこの箇所のことかもしれませんね。とにかくびっくりしましたから。 「ラ・ヴァルス」は録音の時期が違いますが、音もガラリと変わっていたような印象がありました。こちらは、木管がはっきり聴こえてきて、自然なバランスが楽しめます。後半に向けて盛り上げるドライブ感が、とてもすっきりしていますね。 CD Artwork © Decca Music Group Limited |
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おとといのおやぢに会える、か。
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