Fool。.... 佐久間學

(07/11/14-07/12/2)

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12月2日

BACH
Organ Transcriptions
Jan Lehtola(Org)
ALBA/ABCD 233(hybrid SACD)


「歴史的オルガンと作曲家」というシリーズの中の1枚でバッハ編、しかし、使われているオルガンは、フィンランドのビルダー、アールネ・ヴェゲリウスという人の作った1933年製の楽器ですから、ちょっと「歴史的」というには生々しすぎます。さらに、演奏されている曲目も、バッハのオリジナルではなく、20世紀の作曲家がオルガン用に編曲したもの、つまりトランスクリプションだったのです。と言うことは、ここでいう「歴史的」とは、バッハの時代ではなく、それが編曲された時代と「同時代」に作られた楽器による演奏という意味なのでしょうね。
実際、ヘルシンキの東部の町クーサンコスキの教会にあるヴェゲリウス・オルガンは、バッハの時代のオルガンとはかなり異なる響きで、ちょっとしたとまどいを与えられるものでした。レジストレーションのせいなのでしょうか、あるいはもともとパイプの種類がそうなっているのか、その音はなにか芯のない、フワフワとしたものでした。さらに、楽器の仕様を見てみると3段ある手鍵盤のうちの2段分は、「スウェルボックス」であることが分かります。これは、パイプを収納した箱に扉を付け、それを開閉することによって音の強弱が付けられるという機能です。これを使うことによって、滑らかなクレッシェンドやディミヌエンドをかけることが出来るようになります。もちろん、こんな機能はバッハの時代にはなかったもの、もう少し後の時代に、ロマンティックな表現を求められたことにより開発されたものです。
アルバムのラインナップは、まず、ドイツのオルガニスト、ヴィルヘルム・ミデルシュルテによる有名なヴァイオリン・ソロのための「シャコンヌ」。ブゾーニのピアノ編曲がよく知られていますが、この編曲はオルガンならではの、オーケストラのような多彩な響きが楽しめます。もうすぐお正月ですね(それは「オゾーニ」)。そして、これが世界初録音となる、シベリウスと同時代のフィンランドのオルガニスト、オスカル・メリカントによる「イギリス組曲」などの編曲や、マックス・レーガーによる「半音階的幻想曲とフーガ」などは、本来はチェンバロ独奏のための曲だったものです。
さらに、もう一人、フランスのオルガン音楽の大家シャルル・マリ・ヴィドールが加わることによって、一層のヴァラエティが見られるようになっています。彼の作品は1925年に初演された「バッハの思い出」というタイトルのものなのですが、これが単なる編曲ではなく、あくまでヴィドールの音楽に反映されたバッハ像というスタイルを取っているからなのです。それは、オリジナルもオルガン曲であった「Pastorale」を聴けばよく分かること、同じタイトルのかわいらしい作品の3曲目をそのまま使っているかに見えて、伴奏の音型などは微妙に異なっていることに気づくはずです。さらに、ソリスティックに歌うテーマに、先ほどの「スウェルボックス」で細やかなダイナミックスを付けていますから、バッハの曲とは思えないほどの濃厚な表情、殆どセクシーと言っていいほどの悩ましい語り口に変わっています。
やはり、バッハ自身によりカンタータ140番の中のコラールが「シューブラー・コラール」としてオルガン用に編曲された「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」も、ヴィドールによって「夜警の行進」というタイトルの全く別の肌合いを持つ粋な曲に変わっています。ヴィドールの時代にはバッハの真作として疑う人もいなかった「シチリアーノ」も、しっかり収められていますし、最後を飾るのが「マタイ」の終曲の大合唱、しかも、最後に長調の終止を付け加えるというあたりがヴィドールでしょうか。
確かに「時代」、もちろんバッハの時代ではなく、このオルガンが作られた20世紀初頭という「時代」をまざまざと感じることの出来る、ユニークなアルバムです。

11月30日

MOZART
Symphonie Nr.40, Requiem
Z. Kloubová(Sop), L. Smídová(Alt)
J. Brezin(Ten), R. Vocel(Bar)
福島章恭/
Legend of Mozart Choir
Czechoslovak Chamber Orchestra Prague
BLUE LIGHTS/BLCD-0909(CD-R)


以前「日本人によるモーツァルトのレクイエムの演奏」として、福島章恭さんのCDをご紹介したことがありましたが、なんと、最近になって福島さんご本人から、取り上げたことに対してのお礼のメールが届きました。これは、実は初めてのことではなく、前にもマリンバアンサンブルやロックグループのマネージャーからも、同様のメールを頂いたことがあります。そんなときには、あわてて元の「おやぢ」を読み直して、なにか失礼なことを書いてはいなかったかと冷や汗をかくことになるのですが。
福島さんの場合は、あのCDのあとにも同じモーツァルトのレクイエムを2回演奏する機会があり、そのプライヴェートCDがあるので聴いて欲しい、というものでした。そのうちの1枚は、ウィーンのムジークフェライン・ザールで、チェコのオーケストラと共演したものだとか、これはぜひ聴いてみたいものだと、早速送っていただくことにしました。
届いたものは、2006年の12月にウィーンで演奏されたものと、2007年の2月に倉敷で演奏されたものの、それぞれライブ録音でした。前の東京でのCDが2006年の10月のものですから、福島さんはモーツァルト・イヤーを挟んでの4ヶ月の間に、この曲を3回、別な場所で別な団体と演奏したことになるのですね。いくらあの年にはモーツァルトのインフレが進んでいたからといって、これだけの多彩なコンサートを実現させた指揮者は、そう多くはないことでしょう。
そのウィーンのコンサートでの合唱団は、日本から訪れたメンバーの他に、エキストラとして日本人留学生と、ウィーンの合唱団のメンバーが加わっています。総勢100人を超えるこの合唱団は、この響きの良いホールで、思う存分自らの力を出し切っているような伸びやかさが、最初から感じることが出来ます。そして、それを助けているのがここでのオーケストラ、1957年創設といいますから、半世紀の歴史を持つ名門団体です。彼らの奏でる柔らかい響きと、的確な音楽性は、まさに「ヨーロッパ」のテイストをこの演奏全体に与えています。それは、福島さんの誠実な音楽の作り方と見事に合致し、外連味のない正攻法のモーツァルトを生み出しました。
前のCDで特に感じたのは、この曲に寄せる熱い思いです。それが、このウィーンの地で、見事に一皮むけた姿に成長した様を、ここからはうかがい知ることは出来ないでしょうか。特に「Kyrie」から「Dies irae」あたりでの、たっぷりとしたテンポの上で繰り広げられる高揚感には、胸を打たれるものがあります。
Lacrimosa」でのオーケストラによる入魂のイントロに続く合唱の充実した響きにも、熱いものを感じることが出来ました。最後の二重フーガでは勢いあまって合唱とオーケストラが崩壊するという場面も見られましたが、これも有り余る情熱のなせる技と思えば、ほほえましい疵にすぎません。ただ、チェコ人によって占められたソリストたちが、この合唱やオーケストラのテンションにちょっとついていけないようなもどかしさがありました。
このCDには、同じコンサートで演奏されたト短調交響曲が収録されています。これも、演奏が始まったとたんから、オーケストラの明るすぎない響きに魅了されてしまいます。彼らは、福島さんの誠実さを見事に受け止めて、この曲を素晴らしいものに仕上げてくれました。
このCDは、オーケストラやソリストとの契約で、一般には発売出来ないことになっているそうですが、「会員用」としていくらか販売出来るそうですので、こちらからご連絡下さい(送料込みで1枚2500円だそうです)。ちなみに、録音は現地のエンジニアが行ったそうです。ホールの響きを生かしたとてもバランスの良い録音です。

11月28日

RIMSKY-KORSALOV
Piano Duos/Scheherazade etc.
Artur Pizarro(Pf)
Vita Panomariovaite(Pf)
LINN/CKD 293(hybrid SACD)


オーケストレーションの極致ともいうべき管弦楽曲、「シェエラザード」を作ったリムスキー=コルサコフが、それを自らピアノ2台のために編曲したバージョンが有るということにとても興味がわき、このSACDを買ってみました。あの色彩的なオーケストラの世界をピアノに移し替えるという大変な作業を、この職人的な編曲家はどのように処理しているのか、期待してみたっていいでしょう?
しかし、ポルトガルのピアニスト、アルトゥール・ピツァーロと、リトアニア生まれの彼の弟子、ヴィタ・パノマリオヴァイテによって奏でられた「シェエラザード」は、オーケストラ版の華やかさを知っている者にとっては、かなり拍子抜けのするものでした。この2人の演奏は、音の良さでは定評のあるこのレーベルのSACDによって、とてもクリアに響きます。それを意識したのかどうかは分かりませんが、彼らはとことん響きの美しさを追求しているかのように、ひとつひとつのアコードを丁寧この上なく演奏してくれます。2人のタイミングは完璧なまでに揃えられ、人間業とは思えないほどの精度を見せつけてくれているのです。
そんな澄みきった響きに慣れてきた頃には、彼らはこの編曲から、決してオーケストラの華やかさを引き出そうとはしていないことに気づくはずです。そもそも、リムスキー=コルサコフ自身は、オーケストレーションのスキルほどにはピアノ演奏には通じてはいなかったそうです。したがって、彼の編曲自体が、最初からあった音をそのままピアノに置き換えただけという素っ気ないもので、特別にピアノで演奏するための効果をねらった細工のようなものは何一つ加えていないという事情もあります。ハープの伴奏に乗って、シェエラザードのテーマがソロ・ヴァイオリンで披露されるという印象的な導入でのそのヴァイオリンの滑らかな音型はピアノのパルスだけで演奏されるとなんともゴツゴツとしたものに変わってしまいます。弦楽器によって演奏される蕩々とたゆとう波のような音型の上を、木管楽器が代わる代わる美しい歌を奏でるという場面でも、それぞれのパートを描き分けるだけの楽譜上の工夫がないことには、ピアニストにとっては手の施しようがなかったのかもしれません。
そんなわけで、彼らがひたすら淡々と音を連ねていった結果、元の曲とは似てもにつかない、殆どヒーリング・ピースのような「シェエラザード」が姿をあらわすことになりました。おそらくこれは、作曲家自身も気づくことの無かった、この曲の裸の姿だったに違いありません。逆にショッキングなほどに見えてくるのが、オーケストレーションの力の偉大さではないでしょうか。この間の抜けた音楽が、あれ程の輝かしいものに変貌するということ、そしてそれを成し遂げたリムスキー=コルサコフの偉大さこそを、ここでは思い知るべきなのでしょう。
同じ手法によったものでも、「スペイン奇想曲」の場合はとても素直にオーケストラと同じ感興が、2台ピアノからだけでも味わうことが出来ました。この曲の場合、みなぎるリズム感や、沸き立つようなグルーヴは、スケッチの段階からしっかり内包されていたことの証です。こちらの方は、余計な手を加えないほうが、よっぽど軽やかに聞こえるほどですし。
このアルバムにはもう1曲、リムスキー=コルサコフの奥さん、ナデージダ・ニコラエフナ・リムスカヤ=コルサコワ(ロシア語の場合、女性の名前は名字まで語尾が変化するというのが面白いですね)が編曲した「サトコ」が収録されています。ピアニストとしてはご主人より数段上回る腕を持っていた彼女の編曲は、元の曲の姿が殆ど分からないほど、ピアノの文法に満ちたものでした。もし彼女が「シェエラザード」を編曲していたならば、おそらくここで演奏されていたものとは全く別の姿を持つ音楽に仕上がっていたことでしょう。

11月26日

RHEINBERGER
Sacred Choral Works
Charles Bruffy/
Phoenix Bach Choir
Kansas City Chorale
CHANDOS/CHSA 5055(hybrid SACD)


アメリカのフェニックス・バッハ合唱団のアルバムは以前ご紹介しましたが、今回は同じ指揮者が芸術監督を務めているカンザスシティ合唱団との合同演奏でラインベルガーの作品集です。この2つの合唱団は、大人数が必要な曲を演奏するときには、このような形での共演を日常的に行っているようで、このレーベルへの録音もこれで3枚目となります。指揮者のブラフィーは、最初はテノール歌手だったものが、ロバート・ショウに認められて指揮者になったという方だそうです。今では世界中を駆けめぐる売れっ子指揮者、なんせ、今年シドニーでヴェルディのレクイエムを演奏したかと思うと、来年にはプラハでデュリュフレのレクイエムが予定されているというのですから。
左が、前のアルバムにあった写真。ほんの3年の間にずいぶん変わってしまいましたが、苦労も多かったのでしょうか。将来はどんなディスコグラフィーが生まれることでしょう。
彼に率いられた総勢50人のプロのシンガーから成るこの2つの合唱団は、大人数にもかかわらずとても精緻なアンサンブルを聴かせてくれています。その上に、この人数ならではの深い響きが加わって、この後期ロマン派の重厚な合唱作品をほぼ理想的な形に仕上げてくれました。
リヒテンシュタインに1839年に生まれたヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガーは、オルガン曲の作曲家として広く知られていますが、宗教曲でも魅力的な作品を数多く残しています。これらは多くの合唱団のレパートリーとして、演奏会に取り上げられることも多くなっています。実は、地元でも近々変ホ長調のミサ曲を生で聴けることになっているのですが、タイミング良くこのアルバムでもメインはそのミサ曲でした。
これは二重合唱のために作られた無伴奏のフル・ミサですが、そのしっとりとした味わいは、まるでブルックナーのモテットを思わせるものがあります。その上に、しっかりとした構成とさりげない転調がちりばめられ、とても親しみやすいものになっています。特に、各々の曲のテーマが非常にキャラの立つもの、それが幾度となく再現されますから、聴き手は安心して曲に浸ることが出来るはずです。「Credo」の跳躍の多いテーマなどは、一度聴いたら忘れることはないことでしょう(この曲の中での磔の場面から復活に変わる瞬間の音楽の素敵なこと)。「Sanctus」の終わり、「Hosanna in exelsis」などは、モーツァルトのレクイエムからの引用になっていますしね。
流れるような8分の6拍子(たぶん)に乗った、明るい「Benedictus」では、「Hosanna」がアーメン終止によって閉じられるという粋な扱いがなされています。それは、まるで次に現れる「Agnus Dei」での言いようのない暗さを導き出すためであるかのように聞こえます。この曲からにじみ出てくる哀しみには、深く胸を打つものがあります。そして、それに続く「Dona nobis pacem」こそが、このミサ曲全体のハイライトなのでしょう。このテキストを何度も何度も繰り返すうちに訪れるクライマックス、それは一瞬のうちにまた静かなものに変わります。
しかし、この部分の究極のピアニシモが、この合唱団のソプラノにはほんの少しのためらいが見られるのが非常に残念です。実は、その前の盛り上げる部分でも、このソプラノには主体的に先に進もうという意気込みがあまり感じられず、せっかくの緊迫感がそがれてしまうような場面が見られたのですが、そのあたりが「ほぼ」理想的と言った理由です。例えば「ポリフォニー」のソプラノだったらもっと自発的な音楽を産み出すことが出来るのだろうな、といった物足りなさを、つい感じてしまったのです。でも、それはテノールなどがあまりにも軽々と自分の仕事を完璧にこなしているために、つい高望みをしてしまったせいなのかもしれません。

11月24日

SALIERI
Music for Wind Ensemble
Ensemble Italiano di Fiati
BRILLIANT/93360


ボックスものが多いBRILLIANTにしては珍しく、1枚もののアルバムです。ですから、特別に割安という気はしません(ディズニーリゾートは浦安)。しかし、何しろ、曲目がサリエリの聴いたことのない曲という珍しいものでしたから、買ってみる気になりました。例によって外部のレーベルからライセンスを得てリリースしているもの、そのライセンス元がTACTUSという、今までの印象ではあまり音の良くないイタリアのレーベルのものでしたが、聞こえてきた音は至極まっとうなもの、というより、かなりクオリティの高いものでしたから、一安心でした。演奏もとても自発的な素晴らしいものです。
サリエリといえば、20年以上前に作られた映画の影響で、未だに「モーツァルトの才能をねたんだ凡庸な作曲家」というイメージがついて回っています。恐ろしいのは、こういうイメージは音楽のことを何も知らない人たちの間に、ちょっとハイブロウな知識として、実体のないまましっかり浸透してしまっているということです。先日アメリカの刑事物テレビドラマを見ていたら、殺された天才型のテニスプレーヤーと、その容疑者である努力型のプレーヤーを比較して、ある刑事が「モーツァルトとあれ、みたいなもんだろう?」と言ってましたっけ。「あれ」というのはもちろんサリエリのこと、名前すら忘れられても、映画で作り上げられた図式は殺人現場に於いてまで比喩として使われるという、情けない現実があったのです。
ここで演奏されているのは、サリエリの管楽器アンサンブルのための作品です。今まで彼のオペラや宗教曲は聴いたことがありますが、こういう分野のものは初めて、新鮮な思いで聴き進んでいくうちに、こんな曲を作った人が、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうという疑問と、さらには怒りが湧いてきました。おそらく王侯貴族のまえで演奏されるための機会音楽なのでしょうが、その軽やかなテイストと、センスの良いアレンジの妙は、現代の私たちの耳にも非常に魅力的に響きます。どの曲からも、心底美しいもので聴き手を安らかな思いに誘おうという、作曲家の温かい心が伝わってきます。
もっとも小さな編成であるオーボエ2本とファゴット1本という「トリオ」が何曲か演奏されていますが、そこに凝縮されているアンサンブルの愉悦感には、とても惹かれるものがあります。中でも、ファゴットパートがただのベースラインに終わらない、実にアイディア豊かなフレーズを繰り出しているのが魅力的、次々と現れる新鮮なからみが、曲全体にヴァラエティを与えています。
Armonia per tempio della notte(「夜の寺院のための合奏曲」、でしょうか)」という、クラリネットも加わった編成の長大な曲では、ゆったりと流れるような音楽の中で、そのクラリネットがソリスティックに大活躍してくれます。時折カデンツァのような所での終わり方が、たっぷりとした余韻を含んでとても美しいものです。
最後に収録されている6つの楽章から出来ている「カッサシオン」では、構成の見事さも見られます。次々に現れる豊かな楽想には、自ずと先の楽章への期待も高まります。と、4つ目の早い楽章でホルンが繰り出すリズムには、そんな期待を良い意味で裏切るような驚きも。
こうして聴いてみると、これらの曲から与えられる歓びというものは、今までモーツァルトの曲を聴いたときに得られるものと全く同質のものであることに気づきます。いや、下手をしたら、モーツァルトその人の作品でも、このアルバムの中のものより数段つまらないものもあるはずです。例えば、同じような編成による名曲とされる「グラン・パルティータ」の中のある曲などには(特に名を秘す)、明らかにサリエリほどのミューズは宿ってはいません。
これほどの作曲家を「凡庸」と決めつけることによって、モーツァルトの凡庸さを隠そうとしたのが、「アマデウス」の最大の罪なのです。

11月22日

MacMILLAN
Tenebrae
Alan Tavener/
Cappella Nova
LINN/CKD 301(hybrid SACD)


1959年生まれ、スコットランド出身のジェームズ・マクミランは、現在最も旺盛に活躍している人気作曲家です。ちょっと酸っぱいですが(それは「ナツミカン」)。「人気」の尺度は、演奏される頻度と、出版の多寡、彼の場合、作品はすべてブージー&ホークス社から出版されていますが、そのリストを見てみると多岐にわたるジャンルでおびただしい数の作品が出版されていることが分かります。遠藤周作の「沈黙」に題材を得た「交響曲第3番」は2003年にデュトア指揮のNHK交響楽団によって初演されましたし、最近ではウェールズ国立歌劇場のために「サクリファイス」というオペラも作っているようです。
今回の新しいSACDには、輸入元による日本語の帯に「合唱のための新しい音楽」とあります。そんな風に言われると、合唱を使ってなにか特別に「新しい」ことに挑戦しているように思えては来ませんか?ヴォイス・パーカッションとラップだけで演奏しているとか。しかし、元々のタイトルは「New Choral Music by James MacMillan」ですから、これは単に「J・マクミランの新作合唱曲」ぐらいでいいのではないかと思うのですが、どうでしょう。
そんな英語のサブタイトルのように、このSACDにはマクミランのごく最近の合唱曲が集められています。しかも、それらは、ことさらジャケットに表記はありませんが、すべて世界初録音となっているものばかりなのです。おそらく、そういう意味を「New」という言葉に込めたのでしょうが、日本の代理店の「帯」作成担当者は、見事にそのことを見逃してしまいました。
ただ、正確には、「新作」とは言えないものも、この中には含まれています。それは、1977年と言いますから、作曲家がまだ18才の時に作られた「ミサ・ブレヴィス」です。しかし、この曲は今まで演奏されたことはなく、すべての楽章が完全な形で、このSACDのアーティスト、アラン・タヴナー指揮のカペラ・ノヴァによってエディンバラで演奏されるのは、なんと本日、20071122日のことなのです。このコンサートでは、もう1ステージ、全部で7曲から成る「ストラスクライドのモテット集」も、やはり世界初演されることになっています。こちらは全曲が完成したのが2007年ですから、正真正銘の「新作」ということになります。このSACDが録音されたのは2007年の4月、と言うことは、その初演コンサートに先立って、「前録り」されたものになります。おそらく、コンサートの会場ではこのSACDが山積みになって即売されていることでしょう。まるで、アルバムを作ってからツアーを行うようなロック・グループのノリですね。ちなみに、このグループ(いや、合唱団)も、今日を皮切りにスコットランドの各地で4日間の「ツアー」を行うことになっているそうです。
さらに、このアルバムには、録音の直前にやはり彼らによって初演が行われた2006年の作品「テネブレの応唱」も収められています。つまり、これはマクミランの30年前の作品と、今出来たばかりの作品を初めて録音したという、まさに画期的なものになるわけです。
その、30年前に作られたという「ミサ・ブレヴィス」は、確かに若さ故の意欲にあふれた作品です。ことさらポリフォニーを多用して、「ミサ」ぶってはいますが、「Sanctus」で見られるような無機的な音列によるテーマには、確かな挑戦が感じられます。それから時を経た現在の作品にも、そのような挑戦的な意欲は十分に感じ取ることが出来ますが、それは若者のあがきではない、高い次元での訴えかけを持っているものです。そこに多く含まれているものは、ケルト文化に由来する要素でしょうか。最後のトラック、「テネブレ」の3曲目がそんなケルトのテイストをたたえてフェイド・アウトしていくときには、この30年の軌跡の確かさを誰しもが認めることでしょう。もちろんそれは、このような曲を歌うときのこのスコットランドの合唱団の共感に満ちた演奏があってこそのものであることも、忘れるわけにはいきません。

11月20日

VERDI
La Traviata
Teresa Stratas(Sop/Violetta)
Plácido Domingo(Ten/Alfredo)
Cornell MacNeil(Bar/Germont)
James Levine/
Metropolitan Opera Orchestra and Chorus
Franco Zeffirelli(Dir)
DG/00440 073 4364(DVD)


この有名な映画版「椿姫」、一度DVDにはなったそうなのですが、しばらく入手できない状態となっていました。このたび、待望久しい1982年に作られたこのゴージャスな映像が、やっとお手頃な価格で買えるようになりました。
もちろん、この映画は普通に映画館で公開されたものですし、その後も何度かテレビで放送されたこともありました。だいぶ前に見た、そのテレビでの映像では、主役ヴィオレッタを演じたストラータスがとても美しく撮られていたことに、強い衝撃を受けたものです。例えば「カサブランカ」の中のイングリット・バーグマンのように、なんの意味もなく、ただ彼女の美しさだけを見せるためのカットといったものが、数多く用いられていたような印象があったのです。ゼッフィレッリは、ストラータスの美しさを知らしめるためだけに、この映画を作ったのではないか、と。
しばらくぶりに再会したこの映画を、思い出しながら見ていくと、最初になかなか凝った設定が与えられていることに気づきます。前奏曲の間に描かれるのは、大きなお屋敷の中で、家具や調度品を梱包して運び出そうとしている場面です。その作業に当たっている好奇心旺盛な少年が、別の部屋の様子を見に行ってみると、その部屋の壁にストラータスが演じたヴィオレッタの肖像画がかけられているというところで、ここがヴィオレッタのお屋敷であることが分かるという仕掛けです。その肖像画の中のストラータスの、なんと美しいことでしょう。これこそが、かつて見た時の印象の源だったのでしょう。続いてネグリジェ姿でソファーに寝ぐりじぇるストラータスが登場すると、そこでこの部屋は第3幕でヴィオレッタが病に伏せっている場所であることが分かります。普通の演出での薄汚い小部屋とのなんという違い、しかし、屋敷中の他の部屋は、財産の差し押さえでしょうか、見るも無惨な姿になっているのに、この部屋だけが豪華なまま、そして、作業員の薄汚い少年でさえ入ってこられる状態になっているというところに、より一層の惨めさを感じてはしまわないでしょうか。
ところが、そこで初めて登場するストラータスは、なんだかそんなに美しくはありません。それに、やけにくたびれて見えます。もちろん、これは瀕死の状態を演じているのですから当然なのでしょうが、それにしても若さというものが全く感じられないのはどうしたことでしょう。もっとも、よく考えてみれば撮影の時点では彼女はすでに44才になっていたのですから、それはある意味当然のことなのかもしれませんが、昔見たときには、まるで20代のような初々しさがあったような・・・。ちょっとショックです。
気を取り直して映画に戻りましょう。前奏曲が終わると、今まで薄汚れた所だったものが一瞬にして絢爛豪華なサロンに変わるという、まるで「オペラ座の怪人」のような、映画ならではの場面転換となります。そこからは、ゼッフィレッリの本領発揮、贅沢この上ないセットの中で、リアリティあふれるパーティーが繰り広げられます。
第2幕になると、今度は広大な敷地の中にある別荘地のロケとなります。庭の中にある大きな池でボートを漕いだりと、信じられないほどの広さの私有地なのでしょうね。先ほどのお屋敷といい、これほどの財産を若くして手に入れられるなんて、「高級娼婦」というのはいったいどれほどの援助を「顧客」から得ているものなのでしょう。逆に、それだけの財産が得られる「職業」を捨ててまでアルフレードと暮らし始めたというところに、この愛の強さを見るべきなのでしょうか。
ストラータスには、さらに失望させられます。第2幕の幕切れ、アルフレードに札束を叩きつけられてよろよろと立ち去る姿は、まるで老婆のような足取りではありませんか。これは、遠景だと油断した監督の痛恨のミスショットです。
その分、まだまだ若々しいドミンゴの姿と、そして声には存分に満足させられました。ジェルモンのマクニールも、なかなか渋い田舎ものの味を出していましたし。

11月18日

JAZZDAGA?,JAZZDAJA!
伊藤君子(Vo)
大石学(Arr,Pf)
坂井紅介(Bass)
海老沢一博(Drums)
PM Music/VACP-0001


タイトルは、「ジャズだがぁ? ジャズだじゃ!」と読みます。隠れタイトルが「津軽弁ジャズ」、そう、これはジャズ・シンガーの伊藤君子さんが、スタンダードナンバーの歌詞を津軽弁に直して歌っているというものなのです。あの津軽弁タレント伊那かっぺいさんのリクエストで実現した企画だとか、かっぺいさんも最後の曲で参加しています。6曲しか入っていないミニアルバムですが、それだけでもう十分、お腹いっぱいにごちそうを食べた気分になれました。
最初に入っているのが、名曲中の名曲、「サウンド・オブ・ミュージック」の中の「My Favorite Things」です。例えば「Raindrops on roses」という最初の歌詞は、津軽弁だと「バラに もたずがる 雨コの雫」となるというわけです。その調子で、後半の歌詞の「Snowflakes that stay on my nose and eyelashes/Silver white winters that melt into springs」が「まつげサど鼻っこに ねぱる雪(ゆぎ)コ 春に融けでく 銀色の冬コ」と歌われた瞬間、オーストリアの豪邸の子ども部屋の風景は、北国の寒村に変わりました。そこから見えててきたものは、赤いほっぺたの女の子が、やがて来る春に思いを寄せて、降り積もる雪を眺めている、そんな情景だったでしょうか。そんな素朴な思いに駆られたのも、その時の伊藤さんの歌い方が、まるであの矢野顕子のようなほんのりとしたものだったせいなのかもしれません。そういえば、矢野顕子の故郷も青森だったはず。
そんな思いが、大石学のスマートなピアノソロで断ち切られ、そこは歯切れの良いジャズトリオの世界となります。この切り替えの落差もとてもたまらない魅力です。そして、最後にもとの英語の歌詞で歌わる頃には、伊藤さんの歌い方も都会的なものに変わり、オリジナルのロジャース/ハマースタインのブロードウェイ・ミュージカルの世界が戻ってくるという仕掛けです。こんなめくるめく多層世界が、まずこのアルバムの中にはありました。
それが、ガーシュインの「Summertime」になると、さらに衝撃的な体験が待っていました。津軽弁で歌われることによって、元の歌詞に込められた意味が、思いがけないほどリアルに迫って来るという、ちょっとびっくりするようなことが起こったのです。
オペラ「ポーギーとベス」の幕開けに歌われるこの子守歌、美しいブルースのメロディに乗って、「仕事は楽だし、作物も実る。父親は金持ちで、母親は美人だ」という、なんとも屈託のない歌詞が歌われます。まるでおとぎ話の中のような世界、つらい黒人社会の中にあって、せめて赤ん坊だけには素敵な夢を見てもらいたい、という楽天的な歌だと、ずっと思っていました。
しかし、これが津軽弁によって「とっちゃは稼(かえ)ぐす かっちゃは綺麗(きれ)だだ したはで 寝ろじゃ もううずげな」と、伊藤さんによってまるでつぶやくように歌われたとたん、そこからはもっと痛切な、まるで「叫び」のようなものが聞こえてきたのです。これは、黒人たちの精一杯のやせ我慢の叫びではありませんか。そこにあったものは、そんな幸せは未来永劫手に入るわけはないと分かっていても、赤ん坊に語りかけるという形を借りてせめてもの見栄を張ってみえたいという、悲しいまでの思いの丈だったのです。
オリジナルのオペラでのこの曲でのオーケストラ伴奏が、半音進行の不気味なものであることの意味も、これで分かったような気がします。すでにガーシュインは、この歌にそこまでの意味を込めていたのですね。子守歌に名を借りつつ、これはとてつもないメッセージが込められたナンバーだったのです。その事に気づいた瞬間、あふれ出す涙をこらえることが出来なくなってしまいました。ジャズを聴いて涙が出たなんて初めてのこと、それだけの確かな訴えかけが、このアルバムにはありました。
なんでも、伊藤さんご自身は四国のお生まれだとか、これだけの津軽弁をマスターされているのは、まさに奇跡です。
ちなみに、このアルバムは通常のレコード店では入手できません。詳細はこちら

11月16日

馬勒
大地之歌
梁寧(MS)
莫華倫(Ten)
水藍/
新加坡交響樂團
BIS/BIS-SACD-1547(hybrid SACD)


「馬勒」ってなんだ、と思ったことでしょう。「マーラー」を中国語ではこのように表記するのだそうです。つまり、これはマーラーの「大地の歌」を、中国語で歌っているバージョンの、もちろん世界初録音ということになります。ご存じのように、この曲のテキストは昔の中国の漢詩(「五言絶句」や「七言律詩」といったあれですね)をドイツ語に訳したものが使われています。それを、元の漢詩に戻して、現代の中国語の発音で歌ってみようという試みなのです。しかし、そもそものハンス・ベートゲのドイツ語訳はかなり自由なものですし、元の詩の正確な作者も分かっていないものもあるということですから、その作業はかなり大変だったことでしょうね。殆ど「修復」といった感じなのでしょう。
ジャケットに、演奏家まですべて漢字で(「新加坡」は「シンガポール」ね)書かれているだけでなく、ブックレットには中国語によるライナーノーツまで印刷されています。それによると、指揮者の水藍(ラン・シュイ、例によって姓と名が入れ替わります)は、巴爾的摩(ボルティモア)交響楽団で津曼(ジンマン)、底特律(デトロイト)交響楽団では賈維(ヤルヴィ)、そして任紐(ニューヨーク)フィルでは馬索爾(マズア)などの、それぞれ副指揮者として研鑽を積んだのだそうです(ふう、漢字を出すのが大変でした)。
そんな風に思いっきり中国語尽くし、おそらく中国語圏もターゲットにしたアイテムなのでしょうが、ここまでやってくれると、一足先にレビューを公開された山尾敦史さんでなくとも、中国っぽいテイストが満載の演奏を期待してしまいます。以前こちらで、同じ演奏家による思いっきり東洋風のドビュッシーを聴いてしまっているのですから、それも当然のことでしょう。
しかし、その演奏は際物ではない真摯なもの、そこからは見事なまでにマーラーそのものの姿が見えてきました。梁寧(ニン・リャン)、莫華倫(ワレン・モク)という二人の歌手は、歌い方は至極まっとうなもので、言葉が中国語に変わったとしてもびくともしないほどの世界が、すでにこの曲の中にあったということが、改めて確認できたことになります。実際、全曲が終わったあとに、最後の「告別」の460小節以降を、本来のドイツ語で歌ったバージョンが特別に「おまけ」として付いているのですが、そこで聴かれる梁寧のドイツ語よりは(「Ewig」というのが鼻にかかって、まるで中国語みたいに聞こえます)、今聴いたばかりの中国語の方がよっぽど自然に感じられるほどです。
興味深いことに、もろ中国風の音階が使われている3曲目の「青春について」とか4曲目の「美について」では、曲そのものが求めている中国テイストが、この東洋人のコンビによっていとも自然に現れています。西洋人だったら、もしかしたらしゃかりきになって中国風の味を出そうと苦労をした結果、変にデフォルメされてしまった「中国」が出来上がってしまうかもしれないところを、彼らはサラリと、等身大の「中国」を余裕を持って描き出すことに成功しているのです。これは、前作とは逆の意味で好感の持てた点です。
マーラーの造り出した絶妙のオーケストレーションは、冒頭の華やかな喧噪から、最後のチェレスタとハープの醸し出す静謐まで、SACDのスペックを最大限に生かしたとびきり優秀な録音によって、存分に味わうことが出来ます。特に2曲目の「秋に寂しきもの」などに聴かれる弦楽器のふわっとした感触を楽々と再現している様は、間違いなくCDの限界を突き破ったものです。もちろん、それは元のオーケストラの豊かな音色があってこそのもの、弦楽器はもちろん、木管楽器の暖かい肌触りはいつまでも耳の奥に残っているほどの美しさでした。

11月14日

BERNSTEIN
West Side Story
Kiri Te Kanawa(Sop/Maria)
José Carreras(Ten/Tony)
Tatiana Troyanos(MS/Anita)
Marilyn Horne(Sop)
Leonard Bernstein
DG/00289 477 7101


「ウェスト・サイド・ストーリー」がブロードウェイのウィンター・ガーデン劇場で初演されたのは、1957年9月26日のことでした。それは、その時から3年近くに及ぶロングラン公演と、それに続いて映画化されて全世界に衝撃を与える、まさに「幕開け」だったのです。このミュージカルは今に至るまで愛され続け、世界中で上演され続けてきました。初演からちょうど50年後の同じ日には、たまたま東京の四季劇場「秋」で劇団四季による公演が行われ、カーテンコールでは主演の加藤敬二が「今日、この作品を上演しているのは、世界中で私たちだけです」と誇らしげに挨拶を述べることになるのです。
そんな「50周年」を記念してリリースされたのが、このアイテムです。1984年に作曲者のバーンスタイン自身が初めてこの作品の指揮をして録音したという、まさに画期的なアルバムに、その時の録音セッションの模様を収録したメイキングDVDが同梱されているというもの、さらに、ブックレットには貴重な写真も満載ということなので、すでに持っていたものを買い直すだけの価値はあるはずです。。
CDは、演奏時間が76分ですから、今では難なく1枚に収められますが、最初に出た頃はは最高74分までしか収録できなかったので、ギリギリのところではみ出してしまい、やむなく他の曲をカップリングさせて2枚組となっていました。それだけでもすでに「歴史」を感じてしまいますね。DVDにしても、もちろん最初に発売されたときにはレーザーディスクだったはずです。ただ、こちらの方はわざわざ買わなくても、何度もテレビで放送されていましたから、それを見ていました。
指揮者でもありながら、27年間自作の指揮をする機会のなかった(ステージはマックス・ゴーバーマン、映画ではジョニー・グリーンという人が指揮をしています)作曲者が、満を持して録音に望んだ場には最高のキャストが用意されていました。マリア役にはキリ・テ・カナワ、トニー役にはホセ・カレーラスという、当代随一のオペラ歌手が主役を歌うべくスタン・バイをしていたのです。オーケストラも、スコアに指定されたピット用の人数よりもかなり大目、弦楽器はスコアの2倍、木管楽器もマルチリード数人ではなく、持ち替えなしで10人以上が座っていました。そう、まさにここでバーンスタインは、シンフォニー・オーケストラによる「ウェスト・サイド・ストーリー」を目指していたに違いありません。DVDによると、フルートのトップを吹いているのは、なんと、かつてニューヨーク・フィルの首席奏者を務めていたジュリアス・べーカーではありませんか。
ここでのバーンスタインの目論見は果たして成功したのか、それは、録音から23年も経っていながらも、このような形でのリイシューに耐えられることが、ひとつの評価であることは間違いありません。一方で、このような記念行事でもない限りは顧みられることはなかったのだ、という辛辣な見解もあり得ることでしょう。少なくとも、カレーラスに関しては、メイキングの中で赤裸々に指摘されていたリズム感の無さや発音の問題は、決して解決されることなく記録されてしまい、それは永遠に嘲笑の的になることだけは確実です。そう言う意味で、このドキュメンタリーを作ったBBCのハンフリー・バートンの嗅覚には、感服せざるを得ません。まさに腹を空かせたハンターです(それは「ハングリー」)。
このハードカバー仕立てのパッケージは、分厚い表紙の中にCDとDVDが収められ、その間は多くの写真を含む100ページにも及ぶテキストとなっています。その写真の中には、今まで見ることの出来なかった初演の時のステージの模様がありました。体育館でのダンスや決闘のシーンと並んで、ひときわ注目を引くのが、「Cool」の写真。これによって、このナンバーは本来は駐車場ではなくドクの店の中で踊られたものであることが良く分かります。その事と、この作品を演奏するには、バーンスタインは世の中を知りすぎていたことが再確認できたのが、今回改めて購入して得られた最大の成果でしょうか。
実は、このDVDにはボーナス・トラックとして他のDVDの「予告編」が入っています。その中のブーレーズ/シェローの「指環」を見ていたら、「神々の黄昏」の最後でいきなりさっき聴いたばかりの「I Have a Love」が聞こえてきたので、一瞬びっくりしてしまいました。それは「愛による救済」のライトモチーフ、そんな連想が出来るのも、バーンスタインが演奏していたせいなのでしょう。

おとといのおやぢに会える、か。


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