専任の校長職。.... 佐久間學

(06/6/29-06/7/15)

Blog Version


7月15日

SCHUBERT
Winterreise
Christine Schäfer(Sop)
Eric Schneider(Pf)
ONYX/ONYX 4010


まるで雪のように白いこのジャケット、お分かりでしょうか、そこにあるタイトルとアーティストの表示は印刷ではなく紙のエンボスによって、かろうじて「文字」と判別できるものです。2行目に並ぶのは作曲者、歌手、そしてピアノ伴奏者の名前、SCHUBERTSCHÄFERSCHNEIDERと、全て「SCH」で始まる単語です。そうなると、このあとに続く言葉は「Der Weg gehüllt in Schnee(道は雪に覆われている)」と第1曲で歌われる「SCHNEE(雪)」以外にはあり得ません。降り積もる雪によっていとも簡単に埋もれてしまうただのふくらみでしかないこれらの文字、それはあたかも夢の中の出来事のように、実体として感じられることを拒んでいるかのように見えます。
シューベルトの歌曲集の最高峰として、「冬の旅」は様々な演奏を産んできました。もちろん本来作られた男声、それも低い声の持ち主が歌ったものが圧倒的に多かったことは、ご存じの通りです。テノールのような高い声の人が歌う時には、余程の覚悟が必要とされることでしょうし、まれに女声が挑戦しようものなら、それはこの曲は「男が歌うもの」という「常識」の前で、あえなく討ち死にを余儀なくされたものでした。
クリスティーネ・シェーファーが「冬の旅」を歌う時には、「女声」であることと「高い声」であることの2点を、言ってみればハンディキャップとして背負うことになりました。しかし、彼女は最初からそんなものは重荷でもなんでもなかったかのように振る舞っています。
第1曲目、「おやすみ」のピアノ前奏が、まるで氷のような冷たさで始まった時、私たちは彼女のアプローチが世の男どものものとは全く異なることに気づきます。それは、「ルル」を演じてしまった女だけに可能な、シューベルトの最創造、ベルクのプリズムを通してロマン派の歌曲を「分光」するという作業だったのです。その「おやすみ」では、モノクロームの光の中でいとも寒々しい世界が広がります。と、どうでしょう、歌が長調に変わった瞬間に、その光はわずかに色彩を取り戻すのです。そのほんのわずかの変化は、なんと強烈な印象を与えてくれることでしょう。それは、芝居じみた大げさな動作からは決して生まれない、歌い手も聴き手も極度の緊張の中にあるからこそ伝わってくるミクロの味わいなのでしょう。
彼女のその様な姿勢は、「言葉」に強烈な意味を持たせることになります。時として、ほとんどメロディを失った、まるでシュプレッヒシュティンメかと思えるほどの息づかいで歌われる「言葉」は、言い様のない力で迫ってきます。第3曲「凍った涙」では、「Tränen」という言葉だけでまさに凍てつくような風景が眼前に広がってきます。たとえドイツ語が分からなくとも、彼女の歌にはそれを感じさせるだけの力がこもっているはずです。
彼女が拓いたこの曲の世界は、第11曲「春の夢」でさらに新しい地平へ広がっていくのが分かります。それは、最初にジャケットで与えられた印象がまさに伏線として準備されていたかのように、この曲に「非現実」の要素を最大限に盛り込むものだったのです。甘い夢が現実によって打ち砕かれるというこの歌詞そのままに、その「甘い」メロディの部分が「夢」という「非現実」、もしかしたらほとんど「狂気」にも近い虚ろな世界であることに、気づかずにはいられません。
彼女が歌う24曲全ての中に、今まで感じたことのなかったような新鮮な驚きが宿っていました。それは決して今までの「名演奏」を否定するものではありません。しかし、もしそれだけで終わっていたとしたらなんと無意味な人生なのでは、と思わせられるほどのものではありました。「『冬の旅』は男の歌うものだなどと、誰が決めたのだ」とでも言いたげなシェーファーのこの「アヴァン・ギャルド」な世界、そう、これはまさに、ヴォツェックではなくルルだから表現できたシューベルトなのです。詳細は、縷々お話ししましょう。

7月13日

STRAUSS, NONO, WAGNER
Choral Works
Les Percussions de Strasbourg
Marcus Creed/
SWR Vokalensemble Stuttgart
HÄNSSLER/CD 93.179


シュトラウス、ノーノ、そしてワーグナーの無伴奏合唱曲を集めたアルバムです。ノーノの曲には打楽器も加わります。ちなみに、シュトラウスというのは、「ワルツ王」ではなく、もっと濃厚な曲を作ったリヒャルト・シュトラウスのこと、オペラや歌曲ほど(「交響詩ほど」と言わないのが、粋でしょう?)知られてはいませんが、合唱作品も男声合唱を中心に幾つか作っています。その中でも異例の「16声部」という複雑なテクスチャーをもつ混声合唱曲が、作品34としてまとめられている「夕べ」と「聖歌」という2曲です。
CDをかけるなり聞こえてきた「夕べ」、その、まるでトーン・クラスターのような厚ぼったい響きには、それが作られた1897年という時代を軽く飛び越えて、まるで20世紀の後半の産物、同じ16声部の合唱によって歌われるリゲティの「ルクス・エテルナ」のようなテイストが宿っていたのには、軽い驚きがありました。呼吸感をほとんど無視したかのような延々と続く音のつながり(実際、それは始まってから4分ほど、全くのブレスなしに続きます)、そこからは、確かに「未来」へ向けられた作曲者の視線すら、感じることは不可能ではありません。幾重にも重なり合うフレーズがあとからあとから覆い被さって作られる一つの宇宙、それがア・カペラの合唱という人間の声で形づくられる時、言いようのない高密度の感触に圧倒されるはずです。その感触を、もし「ねっとり」という言い方であらわしたとしたら、あるいはこの演奏の肌合いが少しは伝わるのかも知れません。そう、芸術監督マルクス・クリードに率いられた南西ドイツ放送専属の合唱団、シュトゥットガルト・ヴォーカルアンサンブルは、まるで厚ぼったい油絵の具のような実に粘りけのあるハーモニーを聴かせてくれています。
もう一つのシュトラウスの曲「聖歌」では、後半の、なんと10声部という複雑な構造を持つフーガで、その「ねっとり」を感じて頂きましょう。およそ対位法のテーマの提示としては似つかわしくないベースの「ねっとり感」、それだからこそ立体的な骨組みよりは、絡み合った声部の混沌にこそ耳が行くという、この古典的な作曲技法のパロディとしての側面が際立ってくるのです。
実際に「ルクス・エテルナ」を最初に世に送り出したという因縁を持つ、1925年生まれの合唱指揮者クリトゥス・ゴットヴァルトが、同じく16声部の混声合唱のために編曲したワーグナーの2曲からは、別の意味を持つ「ねっとり感」を味わうことが出来るはずです。この録音のために2004年に出来たばかりのこの編曲、「ヴェーゼンドンクの詩」から、「夢」と「温室で」という、「トリスタンとイゾルデ」の第2幕と第3幕の萌芽とも言うべき2曲を、伴奏のパートにも全て歌詞を付けて合唱曲に仕上げたものです。このように、本来の伴奏と歌とを同じ次元で再構築することによって得られる「ねっとり感」は、まさに「トリスタン」の世界そのものを見せてくれるものです。全ての声部が同等の力で迫ってくる感触を味わえれば、もしかしたらオーケストラで演奏された時よりもはるかに濃厚な「ねっとり」した情感、ほとんど体にまとわりつくほどの粘着質が感じられるかも知れません。
ボーナス・トラックとして、このゴットヴァルトの代表的な仕事として広く知られるマーラーの「リュッケルト歌曲」の中の合唱版「私はこの世から忘れられ」のライブ・バージョンが入っています。聴衆を前にしてのこの演奏、会場内の全ての人と共有している「ねっとり感」は、感動的ですらあります。
このような文脈の中でルイジ・ノーノを味わう時、そこでは否応なしに聴き手のこれまでの体験と、音楽に対する感覚が問われることになります。シュトラウスやワーグナーとは根本的に異なる語法、そこにある種の違和感を抱いたとしても、同じ「合唱」という範疇の中で咀嚼することが出来さえすれば、自ずと類似点は感じられるはず、その先には豊かな稔りが必ずあるにちがいありません。

7月11日

MOZART
Symphonies Nos. 40 & 41
Marc Minkowski/
Les Musiciens du Louvre
ARCHIV/00289 477 5798
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1064(国内盤 7月26日発売予定)

最新の「ジュピター」のCDは、昨年の10月にグルノーブルで行われたライブ録音、ミンコフスキのオーケストラ、「ルーヴル音楽隊」の配置に、まず目を引かれます。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合うという、いわゆる「両翼」配置は、もはやこの時代の音楽では常識ですが、その間を埋めるはずのヴィオラとチェロが後ろに下がり、その代わりに木管陣が最前列に出ているという非常にユニークな形を取っています。コントラバスはさらにその後ろの中央、つまり、木管楽器は左右と後ろを弦楽器にすっぽり囲まれるということになります。これは音響的にも、そして、実際に演奏する時のアンサンブル的にも、非常にメリットの多い配置のはずです。そのせいでしょうか、木管奏者たちは実に伸び伸びと演奏している感じが良く伝わってきます。お互いのパートをすぐそばで聴き合って生み出された自発的なアンサンブル、それを指揮者のミンコフスキがすくい上げて、仕上げに塩を一振り、そんな理想的な音楽の作り方が、ここでは見られます。
ミンコフスキはここで40番と41番という二つの交響曲を演奏するにあたって、それぞれのキャラクターを思い切り際立たせているように見えます。そのポイントとなるのが、楽器編成。トランペットとティンパニを欠く40番ではしっとりと、そして、それらが加わって派手な音色となる41番ではドラマティックに、という感じです。そして、ここが彼の趣味の良さなのですが、その2曲の対比を強調するために、間に「イドメネオ」からのバレエ音楽を挿入しているのです。スタティックな世界からドラマティックな世界への、これは言ってみれば予告編のような役目を果たすものなのでしょう。
しかし、それほど周到な準備があったにもかかわらず、41番冒頭の堂々たるたたずまい、ほとんど田舎芝居かと思わせられるほどの大げさな身振りには、しっかり驚かされることになります。さらに、それがほんの2小節後にはガラリと風景が変わって、可憐で慎ましい世界が現れるのですから、その「ドラマ」の振幅の大きさは、度を超しています。そこから見えるのは、もしかしたら気性の変化の激しかったモーツァルトその人の姿なのかも知れません(最近気象の変化が激しいですね)。
第2楽章でも、「ドラマ」は続きます。淡々と清らかな風景がいつまでも続くのかと思われたころ、オーボエとファゴットの「ソ・ド・ミ♭」というアウフタクトに導かれた19小節目では、いきなりテンポが上がって、そのシンコペーションはまるで嵐のような激しい情景を描き始めたではありませんか。それは、まるで風に吹かれる木の葉のような細かい三連符に乗って、恐ろしいほどの厳しさで迫って来たのです。そして、ひとしきり嵐が収まると、何ごともなかったかのようにもとの静かな風景が戻ってくる・・・。この曲でこんな想像をかき立ててくれる人なんて、他にいるでしょうか。
締めくくりの第4楽章は、ですから、見所、いや聴きどころ満載の歌あり踊りありのミュージカルかレビューのよう、逆らうことの出来ないほどの力でぐいぐい引っ張られる爽快感にあふれています。最後のクライマックス、二重フーガが始まる前には、そのスリルに備えるようにきちんと一息入れるところまで用意してくれていますから、もはや逃げるわけにはいきません。この世のものとも思えないティンパニの咆哮がこれでもかと盛り上げるエンディングまで、どっぷりと「ドラマ」に漬かって頂きましょう。
これは、改装成った「文化の家」でのライブ録音。演奏中にははっきり聞き取れるざわめきでその場のお客さんの存在感が伝わってきたものが、演奏が終わるやいなや誰もいないがらんどうの空間になってしまうというのがいかにも不自然です。ミンコフスキにこれだけ煽られておきながら、声一つ立てない聴衆などあり得ません。せっかくの「ドラマ」がとても白々しいものに思えてしまったのは、商品としての完成度をはき違えているメーカーの見当外れの親切心のおかげです。

7月10日

MOZART/ZEMLINSKY
Die Zauberflöte(Piano for four hands)
滑川真希(Pf)
Dennis Russell Davies(Pf)
AVI/553019


「モーツァルト祭」の御利益がこれほどのものとは誰が予測しえたことか、と思わせられるほど、絶対にCDなど出そうもなかったようなものが平気で市場を賑わせています。しかも、それが店頭に並べられるやいなや飛ぶように売れているというのですから、すごいものです。モーツァルト大好き、「魔笛」大好き、しかし、ちょっと普通のものではもの足りない、そんな「マニア」にとって、これは間違いなく食指を動かされるものに違いありません。
まだCDや、そのずっと前のフォーマットであるSPすら存在していなかった時代には、家庭でオペラやシンフォニーのような音楽を聴くことなど出来るはずもありません。そこで、手軽に大編成の曲を聴くことが出来るように、ピアノ用に編曲された楽譜が数多く出回ることになります。1901年にヨーゼフ・ワインベルガーによってウィーンに創設された新興の楽譜出版社「ウニヴェルザール(いわゆる『ユニバーサル』)」もその様な楽譜の出版には積極的でした。そこで目を付けたのが、若く才能豊かな作曲家アレグザンダー・ツェムリンスキーです。ヘビースモーカーでしたね(それは「煙好き」)。1902年の4月に完成したベートーヴェンの「フィデリオ」の4手ピアノ版を皮切りに、モーツァルト、ニコライ、ロルツィングのオペラ、さらにはハイドンやメンデルスゾーンのオラトリオまでもが、彼の手によってピアノソロやピアノ連弾作品として生まれ変わることになるのです。1902年の9月に出来上がったのがこの4手版「魔笛」、20世紀初頭のちょっと裕福なご家庭には、現代のホームシアターのような感覚でこのようなオペラの名旋律を楽しむという、かなり豪華な娯楽が広まっていたのでしょうね。
一つ混乱のないように確認しておけば、これらの編曲はあくまで原曲の音符を忠実に20本の指で演奏するために置き換えたものなのです。それは、例えばゴドフスキーやツェルニーが、過去の名曲を技巧的に再構築した「パラフレーズ」とは全く異なるコンセプト、目的はひたすら元の楽譜を2人の奏者だけで演奏することであり、決してそれ以上でもそれ以下でもないのです。
さらに、オペラという声楽作品でありながら、ツェムリンスキーの編曲からは、「テキスト」という要素が全く抜け落ちているのは、ピアノだけで演奏するという大命題からしたら当然のことです。従って、「2番」のパパゲーノのアリアのように単に歌詞だけが変わるという有節歌曲では、2コーラス以下は惜しげもなくカットされてしまいます。もちろんジンクシュピール特有のセリフなどもありませんから、2幕の最初などはなんの脈絡もなく「3つのアコード」が鳴り響くということになります。「20番」のように、各コーラスで微妙にオブリガートのグロッケンシュピールが形を変えるものでも、「有節歌曲」だというだけで縮小されるという事情を汲まなければなりません。この「鳥刺し」が自殺を誰かに止めてもらおうと吹くパンパイプも、1回だけでは助けは出てこないでしょうに。
国立音大を卒業後、ドイツを中心に活躍しているピアニスト滑川真希と、最近ではブルックナーのCDが注目されている指揮者デニス・ラッセル・デイヴィスが組んだデュオ・チームが、このピアノ版「魔笛」を「全曲」録音したのは、21世紀の初めのこと、DVDやデジタル放送によって、誰でも手軽に本物のオペラを目と耳で味わうことが出来るようになってしまった時代です。その様な中で、もはや本来の意味での役割は失われてしまっているこの編曲を、自分たちの楽しみではなく、耳の肥えた聴衆に向かって演奏するという意味は、当然のことながら問われることになります。
彼らが行ったことは、しかし、この編曲では全く器楽と区別が付かなくなっているボーカルの質感、あるいは肌触りといったものを示したり、テキストの持っている意味を何らかの形で伝えるといった、本来のオペラが持っているメッセージを明らかにする、というものではありませんでした。そこにあるのは、一切のキャラクターを捨てたただの音の羅列、おそらく、モーツァルトであればどのような形でも音そのものから美しさが引き出せるのだという、それこそ今の世の中を賑わせている甘い幻想の産物です。元のオペラを聴いていない限り、そこからはただの肌合いの良さしか感じることは出来ないはずです。
1世紀の時を経て、ツェムリンスキーの仕事にはなんの意味もなかったことを残酷に宣言したことこそが、この演奏の最大の功績だったのかも知れません。

7月8日

ROSSINI
La Gazzetta
Cinzia Forte(Sop), Charles Workman(Ten)
Bruno Praticò, Pietro Spagnoli(Bar)
Maurizio Barbacini/
Intermezzo Choir
Orchestra Academy of the Gran Teatre del Liceu
OPUS ARTE/OA 0953 D(DVD)


バルセロナのリセウ大劇場で2005年7月に行われた公演のライブ、1年も経たないのにDVDになりました。ロッシーニの「ラ・ガゼッタ(新聞)」という非常に珍しいオペラ、もちろん、これが世界初のDVDです。年頃の娘を持つ商人ドン・ポンポーニオが、娘リゼッタの結婚相手を求める新聞広告(ガセネタ!)を出したのがそもそもの始まりとなるドタバタ喜劇、結局リゼッタは以前から恋仲だった宿屋の主人アルベルトとめでたく結ばれるというお話です。
リゼッタ役のチンツィア・フォルテについては、以前からマニアの間では密かに話題になっていたということです。実は、つい先日「カターニャ・ベッリーニ大劇場」というちょっとマイナーなオペラハウスの来日公演があったのですが、その「夢遊病の娘」という演目で主役を歌うために彼女も来日していたのです。しかし、この役はステファニア・ボンファデッリとのダブルキャスト、「ボンさま」が出演する東京公演はS席が29,000円だというのに、彼女の唯一の出番、横浜公演は23,000円という扱いでした。実際には、フォルテの方がずっと良かったという話も聞こえてきて、オペラの良さは歌手のランクや、それに伴う入場料の高さでは決して判断できないものだということが、改めて分かります。
指揮者のバルバチーニがピットに登場して、オペラが始まります。と、この曲は今まで聴いたことはなかったはずなのに、聞こえてきた序曲にはなにか馴染みのあるものが。そう、これは有名な「ラ・チェネレントラ(シンデレラ)」の序曲と全く同じものではありませんか。もちろんこれはロッシーニの常套手段、半年後に上演されることになる「チェネレントラ」に、この序曲を使い回ししたのです。
演出のダリオ・フォーは、舞台装置と衣装も担当しています。ジャケットでも少し窺えるように、そこで描かれた世界には、アール・デコのような世紀末の雰囲気が漂っています。このフォルテの脚線美(死語?)をご覧ください。彼女は惜しげもなくその足を高々と挙げて、居並ぶ紳士(死語?)を悩殺(死語?)してくれるのです。後半、トルコ人に変装という設定で現れる時には、おへそもあらわなビキニ姿、贅肉など殆どない悩ましい腰のくびれを十分に堪能させてくれますよ。今の時代、容姿も、そしてスタイルも良くなければ、オペラ歌手としては通用しなくなっていることが、よく分かります。というより、これはもはやショービジネスと同じ土俵に立って闘っているのだな、という印象すら受けてしまいます。この演出では、多くのダンサーが出演して、華やかな場面を描き出しているのですが、歌手たちもそのダンサーと一緒になって、踊りながら歌わなければならない場面というのが数多く用意されているのです。こうなると、ほとんど「ミュージカル」の世界です。芝居が出来るだけではダメ、きっちり踊れて歌える人でなければステージはつとまらないというミュージカルで求められる資質が、オペラに於いても要求されるようになっているのです。
もちろん、これは男声にも当てはまることです。第2幕の決闘の場面でのプラティコ、スパニョーリ、ワークマンの男3人のやりとりの中では、爆弾をジャグリングしながら歌わなければならないというところがあります。ロッシーニならではの早口言葉の歌を歌うだけでも大変なのに、まるで大道芸人のようなジャグリング、聴いている方もスリル満点です。
フォルテは、見た目だけではなく、歌も評判通りのものでした。周りを威圧するというのではなく、精度の高いコロラトゥーラでチャーミングに迫る、といった魅力に溢れています。これには「紳士」ならずとも虜になることでしょう。他の歌手も大健闘でした。ただ、リセウのオーケストラにもう少し軽やかさがあれば、もっと素敵なロッシーニになっていたことでしょう。

7月6日

Live in Japan
Burt Bacharach
ユニバーサル・ミュージック/UICY-93067

先日、78歳でニューアルバムを出してくれたバート・バカラック、そのおかげで、こんな35年も前のライブアルバムまでが紙ジャケットでリリースされるという、嬉しいことが起きてしまいました。最新の「紙ジャケ」仕様、オリジナルのダブルジャケットをそのまま復元しただけでなく、このようにかつてのレーベル面が印刷されたCD本体が、それこそ「昔のまま」の高密度ポリエチレンの袋(今までは不織布が使われていました)に入っているという様子まで再現してくれているのには、涙さえ。

1971年5月7日、バカラックが彼のバンドを率いて最初に来日した時の東京厚生年金会館での演奏を収録したこのアルバムは、日本のスタッフによって録音されたもので、日本とイギリスでしかリリースされなかったもの、もちろんこれが世界初CD化となります。というより、実は1997年に彼の来日と合わせてCDとして発売されることになっていて、実際に製品も出来上がっていたのですが、バカラック本人が発売を許可しなかったために、全てスクラップになってしまったという「触れられたくない過去」を持っていたそうなのです。それが今回めでたく手元に届きました。昔愛聴していたヴァイナル盤の正確なミニチュア、感慨もひとしおです。
かつての「発禁」の理由が、その時の来日メンバーがサンプリングのストリングスを用いたものだったために、本物のストリングスが入っているこのアルバムと比較されると困る、というものだったそうです。確かに、このストリングス(これだけは日本人が参加。「東京ロイヤル・フィル」などという怪しげなクレジットがあります)の重厚な音は、このライブに見事な花を添えています。
このライブの様子は、確かテレビでも放送されました。ステージの真ん中に置かれたグランドピアノとフェンダーローズに向かい、演奏するかたわら下手のストリングスと上手のホーンを指揮する姿は、ほれぼれするほどかっこいいものでした。MCも自分で行い(そのシャイな語り口は、このアルバムでも聴けます)、時にはメインボーカルも担当するというまさに八面六臂の大活躍、しかも、演奏する曲は全て自分の作品を自分でアレンジしたものだというのですから、すごいものです。
当時、このコンサートの模様をレポートしたさる音楽評論家は、「フェード・アウトを実際にステージで行っていたのにはびっくりした」と述べていました。レコーディングであればフェーダーを操作すれば簡単に出来てしまうことですが、それを、ミュージシャンが「演奏」でやっていたのに驚いた、というのです。究極のディミヌエンドをかけたのだと。今聴いてみると、それは明らかにPAによって操作されたものであることがはっきり分かりますが、それを客席で聴いていた「プロ」でさえそれに気づかなかったほど、最新の音響機材と、そのノウハウが使われていたということになりますね。そんな当時としては最先端のパフォーマンスは、2曲目の「Walk on By」のエンディングで聴くことが出来ます。
バカラックの渋いボーカルが味わえるのは4曲目の「Raindrops Keep Fallin' on My Head」と、11曲目の「A House is Not a Home」。特に後者では、最初ピアノだけの弾き語りだったものを後半フルオケで盛り上げるというアレンジが、圧倒的な感動を呼びます。ミュージシャンの中では、華麗なフィル・インのドラムスのハイテンションが印象的ですが、「復刻」にこだわるあまり、メンバーのクレジットが全くないのは、ちょっと残念です。
有名な「Close to You」が、カーペンターズのバージョンとはちょっとリズムが違っているのにも気づかされます。あちらは全てスウィングで跳ねているのに、こちらのオリジナルでは等価の部分とスウィングの部分がきちんと歌い分けられています。確かにこの方が表現に幅が出て、曲の深みが増して感じられます。アンコールの「Promises, Promises」のように、変拍子でグングン迫って来るというのも、バカラックの魅力ですが、最近のカバーではそれを全く無視して平板なリズムに変えてしまったものがよく見られます。これは、あの「Nessun Dorma」を全て4拍子に変えてアレンジするのよりたちの悪い改竄に他なりません。バカラックの他のアルバムも一斉に紙ジャケで発売になったこの機会に、オリジナルだけが持つ凄さを体験しさえすれば、まがい物のカバーの薄っぺらさには、たちどころに気が付くはずです。おにぎりには梅干しとこれ、ということにも(それは塩ジャケ)。

7月5日

RAMEAU
Les Paladins
T.Lehtipuu, F.Piolino(Ten)
S.d'Oustrac, S.Piau(Sop)
L.Naouri, R.Schirrer(Bar)
William Christie/
Les Arts Florissants Orchestra & Chorus
OPUS ARTE/OA 0938 D(DVD)


ラモーの「レ・パラダン」というオペラ、「遍歴騎士」という邦題が付いていますが、原題は複数形ですので、正確には「遍歴騎士たち」ということになるのでしょうか。アンセルムという年寄りの貴族によって城に幽閉されているアルジという娘が(ご想像の通り、この年寄りは娘と結婚しようと思っています)、昔から恋いこがれていた「遍歴騎士」であるアティスとその仲間によって救い出され、2人の愛は成就するというお話です。30曲以上あるというラモーのオペラの、これは最後から2番目の作品、もちろん、今までほとんど知られることはありませんでしたが、フランス・バロックの大家ウィリアム・クリスティの手によって、見事に蘇りました。
しかし、その蘇り方は、単に今まで知られていなかったオペラが日の目を見たなどという生やさしいものではありませんでした。2004年にパリのシャトレ座と、ロンドンのバービカンセンターとの共同制作によって「蘇演」されたこのオペラは、ジョゼ・モンタルヴォの演出と振り付けによって、「オペラ」という枠をも超えた破天荒な舞台作品として、その姿をあらわしたのです。
ステージ上には2段(3段?)となった大きなスクリーンがセットされています。そこに映し出されるのが、実際のキャストの画像を元にCG処理されたもの、それが非常にリアリティにあふれているものですから、DVDで見たぐらいでは実物の歌手やダンサーとの区別はほとんど付かないほどです。出演者は、そのスクリーンのスリットから出入りするのですが、その「スリットから出入り」するという映像までもがきちんと作り込んであるので、なおさらその区別は困難になってきます。そんな混沌とした非現実の映像と、実体のあるステージ上の人間とが一体となって繰り広げる目の回るような世界は、とことんファッショナブルでスピード感あふれるもの、一度見始めたら最後まで目を離すことは許されないという、まるで「ジェットコースター」のような刺激的な体験が味わえることになります。
そもそも、DVDのメニューに現れるのが、このステージの「地下鉄」のイメージであることからも分かるとおり、これはもろ現代の設定に置き換えられたプランにのっとっています。ラモー時代のファッションは、とりあえずCGの映像で十分に味わってもらうことにして、生身のダンサーたちにはストリートダンスによってほとんどヒップ・ホップのようなテイストをふんだんに撒き散らしてくれています。「フランス・バロックとヒップ・ホップ!」などと目くじらを立てるかも知れませんが、これが実にスッキリと様になっているのには、正直驚かされます。第3幕の「ガヴォット」で見せてくれたロボットのような動きの振りには、観客も大喜び、盛大な拍手が巻き起こっていました。
日本版の「タスキ」には、「18才未満への販売・貸出禁止」と書いてあります。そもそもCGには大量の男女のヌードが登場して場面転換の幕を引く、というシーンが頻繁に使われていますし、その様なある意味「エロ」の趣味が、おおらかな「愛」の記号としてふんだんに盛り込まれているのです。最後のシーンではついに4人のダンサーがオールヌードで登場するという「サービス・カット」まで現れ、男性も「1本」、女性も「3叢」しっかり見せてくれます。こんな美しい女性の叢(くさむら)には、やはり観客も「大喜び」のことでしょう。何たって作曲した人が裸毛(ラモー)ですからね。

歌手たちも、そして合唱のメンバーまでも、しっかりダンスをマスターしているのには驚かされます。最近出た他のDVD(これも近々アップします)でも感じたのですが、もはやダンスはオペラ歌手の必須アイテムとなってしまったようですね。アティス役のレーティプーなどは、全く遜色のない踊り、アルジ役のドゥストラックも、可憐さよりは力強さを感じてしまうのは、「鬼嫁」の観月ありさによく似たマスクのせいでしょうか。
このプロダクション、今年の11月にはほぼ同じメンバーで来日するそうです。このエネルギーあふれるステージ、ぜひ「生」で体験したいものですね。

7月2日

3時間でわかる「クラシック音楽」入門
中川右介著
青春出版社刊
ISBN4-413-04145-3

ここを訪れる皆さんは、クラシックにかけては「達人」と自他共に許す「クラシック・ファン」もしくは「クラシック・マニア」なのですから、今さらこのような入門書は必要ないはずです。そんなものをあえて取り上げたのは、クラシック界にまで(だからこそ)蔓延しているマニュアル依存の体質が、この書物によって見事に透けて見えるようになったからです(もっと透けて見えるのは「エマニュエル」)。
人がクラシックに親しむようになるには、どのような体験が必要なのでしょう。著者の主張は「最高のものを聴け」です。そして、その「最高のクラシック」を、抽象的な形ではなく、誰にでもはっきり分かる形で示すのが、マニュアルの基本です。それをやっているのが、まず凄いところ、それは、「フルトヴェングラーが1951年にバイロイトで録音した、ベートーヴェンの『第9』」だと言い切っているのです。そこで、早速「初心者」になりきってそのCDを聴いてみることにしました。この本にも述べられているように、もはや著作隣接権が切れている音源ですから、最近は様々な形で「商品」が出回っています。その中で選んだのがこれです。なんでも、HMV(つまり英GRAMOPHONE=EMIの初期のミント盤(つまり手つかずの「新古品」)などという「あり得ない」ものが手に入ったのだとか、たとえ板起こしであろうが、「最高」の演奏に接するためには、このぐらい価値のあるものでなければダメなのでしょうね。ちなみに、元は2枚組、4面からなるヴァイナル盤ですが、記載されているマトリックス番号を見ると、1枚目には第1楽章と第4楽章、2枚目には第2楽章と第3楽章が入っています。これは、2枚重ねてセットすると連続して演奏してくれる「オート・チェインジャー」用のカッティング、これだと、途中で1回裏返すだけで、全曲を聴き通すことが出来ます。

 OTAKEN/TKC-301

お恥ずかしい話ですが、この演奏をきちんと聴いたのはこれが初めてのことでした。スクラッチノイズだらけのいかにもバランスの悪い音は、古色蒼然たるもの、しかし、その中からは演奏家の気分を最大限に反映させるという当時の様式そのものの音楽がまざまざと聞こえてきたではありませんか。なかでも、第4楽章のテンションの高さはまさに異常としか言いようのないものすごいものでした。確かに、戦後バイロイトが再開されたという特別な状況の中でしかなし得なかったような、とてつもない情感が、その演奏の中には宿っていたのです。
こんなすごいものを初めて聴かされたとすれば、その人は一生クラシックから離れることは出来なくなってしまうはずだと、クラシックの達人は思うことでしょう。これほどの演奏に心を動かされない人なんか、いるはずはない、と。しかし、世の中そんなに甘いものではありません。同じものを聴いても、それを受け取る感性は千差万別、ツボにはまる人もいればそうでない人もいるというのは自明の理です。ある人にとって、それはビートルズだったでしょうし、別の人にとってはマイルスだったはず、私たちは、たまたまクラシックで「ピンと来る」ものを感じてしまったから、ここまで来てしまっているのではないでしょうか。
大切なのは、幸福な「出会い」、知識はその後に付いてくるものです。著者が、つまらないと決めつけている教育の中での「音楽教室」でさえ、目を輝かせて同じ波長を感じている少年は必ずいるものです。そこでクラシックに出会った少年ならば、自分の力でもっと面白いものを探し、どんどん「達人」の域に達していくことでしょう。
指揮者の末廣誠さんが、「ストリング」という雑誌に連載しているエッセイで、面白いことを書いています。ポーランドのさるオーケストラでは、定期演奏会の本番前のリハーサルを、子供達に解放しているというのです。もちろん、曲目は定期に取り上げるものですからなんの妥協もありませんし、なんと言っても本番前ですから、かなり立派な演奏になっています。「最高」ではないかも知れませんが「本物」ではある音楽に、子供達はとても生き生きと聴き入っている、ということなのです。
そういう「出会い」の無い人間が、いかにマニュアル通りに学習したとしても、本当にクラシックを愛する人になるはずはありません。それに気づかない人がまだいるということを、この本は教えてくれています。

6月30日

MUSSORGSKY
Boris Godunov(excerpts)
George London(Bas)
Thomas Schippers/
Columbia Symphony Orchestra & Chorus
SONY/82876-78747-2


「おやぢ」を始めてから何年も経たないというのに、その間だけでもレコード業界は大きくその版図を変貌させてきました。当初からリストを作るためのレーベル名の表記などは出来るだけ元からのものを使うようにしてきたのですが、ここに来て「SONY BMG」がしっかり一つの企業だとの認識が高まってくると、このままの表記でよいのかどうか、迷わざるを得なくなってしまいます。「BMG」こそまだ「レーベル」とは認識されてはいませんが、「SONY」はれっきとしたレーベル名、しかし、それはもともと「COLUMBIA」と呼ばれていたものなのですから、こんな昔の復刻盤などが出てくると、レーベルは「COLUMBIA」と表記した方が良いような気になってきます。今はまだ「SONY CLASSICAL」という概念だけは健在のようですが、それが使われなくなり、「SONY BMGレーベル」などというものが出現した時こそが、一つの文化がビジネスによって殺された時となるのでしょう。現に、他の巨大レコード産業「WARNER」や「UNIVERSAL」に於いては、ほとんどそれに等しい事が行われたか、あるいは行われようとしているのですから。
そんな、COLUMBIAが、今では同じ企業体になってしまったかつての競争会社RCA(と言うより、VICTORでしょうか)と互いにしのぎを削っていたという「懐かしい」時代の録音が、オリジナルジャケットを前面に出した形で何種類か再発されました。その中で、これは、「ボリス」のハイライトという体裁ですが、ほとんどタイトルロールを歌っているジョージ・ロンドンのソロアルバムのような印象を与えられる物です。
1920年(1919年、あるいは1921年という説も)に生まれたアメリカのバス歌手ジョージ・ロンドンは、今では少なくとも日本のネット上では全く忘れられた存在となっています。すでに1985年には亡くなっていますし、「声帯麻痺」という病気のために1960年代の後半には歌手を引退していたということですから、それも無理のない事なのでしょう。
しかし、彼には「最初にザルツブルクでモーツァルトを歌ったアメリカ人」、「最初にバイロイトに出演したアメリカ人」、そして、「最初にボリショイ劇場で歌ったアメリカ人」という輝かしい経歴が残されています。そして、そのボリショイ劇場で歌った役こそが、この「ボリス・ゴドゥノフ」だったのです。それは、1960年9月のこと、このCDはその「偉業」の半年後、1961年3月にニューヨークで録音されたものです。オーケストラと合唱は「コロムビア交響楽団・合唱団」という覆面団体(ニューヨーク・フィルあたりでしょうか)、そして、指揮者が1977年に47歳の若さで亡くなったアメリカの指揮者、トーマス・シッパーズです。閉め忘れにはご注意を(それは「ジッパー」)。演奏と録音は、いかにもこのレーベルらしいメリハリのきいたものです(プロデューサーはあのジョン・マクルーア)。シッパーズの指揮は非常に分かりやすい表現に終始、リムスキー=コルサコフ版のオーケストレーションと相まって、スペクタクルなサウンドが充満しています。そんな中で、ロンドンは堂々とした声で圧倒的な存在感を示してくれていました。それとともに、とても細やかな感情表現も伴わせるという、深みのあるところも見せてくれています。
元はLP1枚分、40分にも満たないものですから、CDでは余白にオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団の「展覧会の絵」が入っています。その「プロムナード」が聞こえてきた時、はたと、これは「ボリス」のプロローグの合唱にそっくりな事に気づきました。
この録音が弾みになったのでしょうか、1963年5月にはモスクワで、ロンドン以外は全てボリショイ劇場のキャストという全曲録音をこのレーベルが敢行します。あの「冷戦」時代にそんな事を可能にしたロンドンの人気と実力が、このことでもうかがい知る事が出来るはずです。こちらでも、「本場」のメンバーに一歩も引けを取らないロンドンの存在感が確認できます。

 SONY/S3K 52571

6月29日

MAHLER
Symphony No.8
Soloists
Antoni Wit/
Warsaw Boys Choir
Warsaw National Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.550533/34


このレーベル、本当に最近の躍進ぶりはめざましいものです。それを象徴しているのが、ジャケットのデザインの変化。左上にあるロゴマークがかつては黒字だったものが、今では青い背景に白抜きという粋なものに変わってきています。ほんのワンポイントですが、この違いはかなり大きなもの。これだけで、今までの垢抜けない印象がいっぺんに変わってしまうのですからね。そう思いませんか?
マーラーの交響曲をずっとクリムトのジャケットで出してきたヴィットですが、今までの「3、4、5、6番」ではまだ「白抜き」にはなっていません。それは、彼が2000年まで音楽監督を務めていたカトヴィツェのポーランド国立放送交響楽団との録音なのですが、今回の「8番」は2002年からの彼のポストを提供してくれたワルシャワ国立フィルとのもの、まるでよりランクの高いオーケストラとの演奏を記念するかのような、このジャケットの扱いです(たかがデザインで、そこまで・・・)。しかも、今回のクリムトの「花嫁」はより官能度がアップしていますし(そんなおやぢではいかんのう)。
このコンビでの演奏では、すでに「ルカ受難曲」を聴いています。あの時に受けた知的な印象は、ここでも健在でした。おそらくヴィットという人はこのような大編成の入り組んだスコアを音にするということにかけては並はずれたセンスを持っているのだということが、今回もまざまざと感じられることになります。
そんな指揮者の力量を余すところなく録音として伝えることに成功したエンジニアの力に、まず、驚いてしまいます。数多くのソリストや2群の合唱、そしてオルガンまで入った大編成のオーケストラというとてつもない音響を、彼らは全く濁らせることなくCDに収めてくれました。そのやり方は、まるでジオラマのようにパートごとの遠近感を持たせるという方法でした。例えば、第2部の練習番号77番からの「やや成熟した天使たち」の場面では、ソロヴァイオリン、その奥のオーケストラ、そして合唱、さらにはアルトのソロが、それぞれ程良い距離感を保ってあるべき場所から聞こえてくるという、非常にスマートな音場設定をとっているのです。その結果お互いが全く別のことをやっているという究極のポリフォニーを、マーラーが意図したとおりの分離の良さで味わうことが出来ることになったのです。
ヴィットの指揮は、予想通りクレバーなものでした。それは、もしかしたら「マーラーらしさ」からはほど遠い表現なのかも知れません。第2部の冒頭あたりからの管楽器の美しすぎるほど澄みきった響きを聴くに付け、そんな思いは募ります。淡々とした流れを突然断ち切るファーストヴァイオリンのフレーズ(練習番号14番)が、あまりに冷静なのにも驚かされます。しかし、それは決して不快な思いを抱かせるものではありませんでした。それどころか、非常によく訓練された合唱ともども、このオーケストラは極めて精緻でなおかつ見晴らしのよい世界を見せてくれていたのです。それは、それこそジャケットのクリムトのような「くどさ」とは全く無縁の心地よい世界のように感じられるものでした。
ところが、肝心のソリストたちがことごとくそんな世界をめちゃめちゃにしてしまっています。中でも「懺悔する女」のエヴァ・クウォシンスカが最悪。とてもソリストとは思えない稚拙な歌は指揮者の意図を汲む余裕などあろうはずもなく、見事にその場を台無しにしています。テノールのティモシー・ベンチも、この曲に要求される芯の太さが全くない悲惨なキャラ、彼らの尽力で、数多くの今までの「名演」がその存在を脅かされるという事態は、幸いにも避けられることとなりました。

おとといのおやぢに会える、か。


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