英雄の商売。.... 渋谷塔一

(04/11/14-04/11/29)


11月29日

MAHLER
Symphony No.9
Riccardo Chailly/
Royal Concertgebouw Orchestra
DECCA/475 6310
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1125/6(国内盤)
「芸術の秋」に相応しく、世界の名立たるオーケストラの来日公演が続いています。最近だけでも、ウィーン、ベルリン、そしてコンセルトヘボウと、あたかも万国博覧会の様相を呈しています。そんな中、このオーケストラの第6代首席指揮者に就任したヤンソンスについては実演を聴く機会にも恵まれて、感動のあまりDVDについてのレビューを書いてしまいました。しかし、やはりヤンソンスについて書くなら、この人のことを忘れるわけにはいかないでしょう。第5代首席指揮者として、コンセルトヘボウに15年在籍していたシャイーです。永年勤続者ですね(それは社員)。
第4代の首席指揮者は御存知ハイティンク。彼の穏当でニュートラルな演奏には確かに独特な魅力はありました。しかし、今聴きなおしてみると、ちょっと時代遅れというか、もっさりしたというか。良い意味でも悪い意味でも「ローカル色の強いオーケストラ」としてコンセルトヘボウを位置付けた功績が大きい人ではありました。そしてシャイーが就任したのは彼が35歳の時。伝統を大切にしつつも新しい風を吹き込むことを目標にしていたシャイーは、オーソドックスな曲から、イタリアの現代作品まで幅広く取り上げ、この楽団のレパートリーを格段に広げたのです。今、手元に13枚組みのBOXもありますが、ストラヴィンスキーやベリオ、ディーベンブロックなど、とにかく多彩な曲が並んでいて本当に驚く他ありません。
そんなシャイーとコンセルトヘボウのコンビで、マーラーの交響曲の全曲録音が進行していたのも御存知の方が多いことでしょう。こちらも、彼が就任して以来、ゆっくりゆっくりと熟成させてきたもので、この9番が文字通りの完結編となっているというわけです。いわば、コンセルトヘボウとの「決別の歌」。そういう先入観を持って聴くことがよくないのはわかっているのですが、どうしても、耳の方が、そういう感情を聞き取ろうとしているのに気が付き、ちょっと苦笑してしまうのです。
さて、いつも思うのですが、シャイーの指揮は本当に丁寧です。これは、電車の中で眠っているおやぢにふとんをかけて回るパンダのように、「親切」な音つくりです。それが曲によっては鬱陶しくて(4番のように)敬遠してしまう時もあったりしますが、この9番などは曲の性質上、やはりねっとりと、しかしすっきりと演奏してもらいたいと思いますから、この演奏はまさに理想的でした。第1楽章の冒頭の低弦の唸りの悠々たる歩み。ここに何の不満を漏らせというのでしょう。まさに音の一つ一つが慟哭しているかのよう。この楽章は、最初は音たちが有機的に繋がっていますが、終りに近づくにつれ、少しずつ崩壊していくのが魅力でもあります。(最後の方で突き刺さるかのように響くフルートの音色は恐らくバイノンでしょう。)ここでのシャイーの描写は本当にすごい。まるで手の中から零れ落ちていく音を慈しむかのようです。そして、終楽章の最後の音も。これを聴いて何かを考えない人はいないだろうな・・・・としみじみ思わせてくれる、そんな一抹の哀しさを帯びた音楽でした。

11月28日

Green Places
Matej Zupan(Fl)
Marko Munih/
Simfoniki RTV Slovenija
SAZAS/105210
上から読んでもSAZAS、下から読んでもSAZASという、まるで、大中恵の「トマト」みたいな名前のレーベルです。正体はよく分からないのですが、どうやらスロヴェニアのレーベルのようで、スロヴェニア放送交響楽団の首席フルート奏者、マテイ・ズパンという、泥棒のような(それは「ルパン」)名前の方による協奏曲集です。もちろん、こんな名前は初めて聞きましたが、生まれたのが1970年といいますから、あのパユ様と同い年、それよりもはるかに大人びて見えるのは、紛れもなくおでこの面積のなせる業でしょう。
このアルバムには、4曲の協奏曲が収録されています。タイトルにある「Green Places」というのは、アメリカのフルーティストでもある作曲家(自作自演のアルバムも出しています)、ゲイリー・ショッカーが1992年に、あのジェームズ・ゴールウェイのために作ったフルート協奏曲です。この作曲家、最近日本でも良く耳にするようになっていますが、もちろんメインの作品はフルートのためのもの、新たなレパートリーとして、フルーティストたちには歓迎されることでしょう。この曲も非常に分かり易いハッピーな音楽がベースにあって、超絶技巧のデモンストレーションが心地よく響くものです。第2楽章などはブルースっぽい雰囲気に支配され、聴いていても、そして、おそらく演奏していても、なかなか気持ちの良いものに違いありません。
2曲目は、演奏者の同国人、ヤニ・ゲロブという人の「コンチェルティーノ」。スロヴェニアの作曲状況というものは全く未知の世界、なんの判断材料もありませんが、この曲からは隣国ハンガリーのバルトークあたりの語法をそこはかとなく感じることが出来ます。ただ、1948年生まれといいますから、充分に現代のエンタテインメントも視野に入った聴きやすい曲に仕上がっています。ここでの演奏者、ズパンのために作られたもの、もちろん、これが初録音となっています。
3曲目は、半世紀ほど昔の、イギリスの重鎮マルコム・アーノルドの最初のフルート協奏曲。今となっては陳腐な和声が、なぜか懐かしさを誘います。そして、最後は、2世紀ほど遡った19世紀初頭のメルカダンテの、もっとも有名なホ短調の協奏曲です。様式的には違和感がありますが、ヴィルトゥオージティを駆使してのエンタテインメントという意味では、他の3曲と何ら変わるところはありません。
そういったある意味一つのコンセプトで貫かれているこのアルバム、演奏しているズパンの清潔感のある確かな技巧によって、実に聴きやすいものに仕上がりました。決して押しつけがましいところのない、しかし目の覚めるようなテクニック、そして、まるでリコーダーのような爽やかな音色は、さりげない「力」となって、私たちに喜びを与えてくれています。ズパンの同僚である放送オーケストラのサポートも、なかなか暖かいものが感じられます。

11月26日

MAHLER
Symphony 4
Dorothea Röschmann(Sop)
Daniel Harding/
Mahler Chamber Orchestra
VIRGIN/VC 545665 2
ハーディングとマーラー室内管弦楽団による、マーラーの4番の新譜です。最近大活躍のマーラー室内管ですが、こうしてじっくり聴いてみると改めてその素晴らしさがよくわかるというものです。
私がこの曲にはまったのは、それこそ20年以上も前の話。何しろ、最初に自分でお小遣いを貯めて買ったLPがハイティンク指揮コンセルトヘボウ(歌はアーメリンク)だったのですから。ちょうどその頃、NHKで何とも不思議な味わいのドラマを放送していました。「四季・ユートピアノ」という、ピアノ調律師をめざす女の子の話ですが、この曲が実に効果的に使われていたのです。例えば、第1楽章のクライマックスに合わせて、りんごに彫られたAの文字が大写しになったのにはどんな象徴的な意味があったのか、今でも理解できないのですが、それまで写実一辺倒の番組ばかり見ていた私にとって、そういう心象風景を綴った世界はすごく新鮮だったのでした。で、折りに触れこの曲を聴き続けてきた私、もちろん音源もいやというほど持っていますが、自分の中での理想が高くなるにつれ、どれを聴いてもどこかに不満が残るという、ある意味悲しい状態になっていたりもします。この曲に重苦しさは必要ないと思う私にとって、バーンスタインの濃厚さや、シャイーの丁寧さは、「すごい」と思うことはあっても「好きだ」とは思えないのが正直なところです。
このハーディングの演奏は仰々しさは一切なく、極めて自然な音。そう、本当に繊細な音が鳴っているため、聴き手にも高い集中力を欲求してきます。テンポといい、透明な響きといい、いつかのブーレーズの音に近い物もありますが、アンサンブルの緻密さはこちらの方が格段に上。小さい編成ならではの細かい立ち回り、そして浮き上がるソロの美しさは格別。第1楽章での、様々なメロディが現れては消えて行く様子を耳で追う楽しさ、そして、第3楽章でのたっぷりと歌う弦の音色。確かに「現代最高の室内オーケストラ」の名前に相応しい名演です。
終楽章でソロを歌っているのは、すでにオペラではお馴染みのドロテア・レシュマン、ニクマンのようなちょっと太めの体型ですが、その表現力には思わず唸ってしまいました。DVDなどで彼女の歌と演技を何度も見ていますが、とにかく言葉を大切にする人で、ここでもまるで物語を語るかのように、芝居っ気たっぷり。面白く聴かせていただきました。私はどちらかというと、この終楽章に関してはさらっと歌ってくれる方が好きなのですが、レシュマンには「やられた!」って感じでした。
オマケに収録されている「子供の不思議な角笛」より3つの歌。こちらも最近聴いたアルバムと比べ、やはり彼女の歌の世界の独自性にひきつけられてしまいます。例えば「この世の生活」。レシュマンの歌は、まるで小さなオペラアリア。子供と母親をきっちり歌いわけ、最後は救いようのない終りを迎える・・・これが心から実感できたのですから。

11月24日

Shakespeare in Song
Charles Bruffy/
Phoenix Bach Choir
CHANDOS/CHSA 5031(Hybrid SACD)
自国イギリスだけではなく、ヨーロッパ諸国の数多くの合唱団を紹介してくれていたCHANDOSレーベルに、初めて北米の団体がレコーディングを行いました。フェニックス・バッハ・クワイアというプロの合唱団、私も、ここを聴くのは初めてです。アメリカのプロの合唱団というと、すぐ頭に浮かぶのがあの「ロジェ・ワーグナー合唱団」でしょうか。指揮者のキャラクターにも支配されていたのでしょうが、確かなテクニックに裏付けられた上で、聴きに来てくれた人をとことん楽しませようという「プロ根性」が一本貫かれている心地よさが魅力でした。この、アリゾナの州都で半世紀近くの歴史を持つ合唱団の演奏にも、その「ロジェ・ワーグナー」に非常に似通ったものがありそな気がします。そこでは、いかにもアメリカらしい「高性能」の発声とハーモニー、声はきれいであって当たり前、ハーモニーは美しく響いて当たり前という思想が徹底されているのです(アインザッツが少し甘いというのが、気になりますが)。その土台の上で、出てくる音すべてを、喜びあふれるものにしようというサービス精神が加われば、これはもう聴いていて楽しくないはずはありません。どこの部分をとってみてもハッピーさがあふれる、楽しさいっぱいの合唱音楽が生まれます。
シェークスピアのテキストに基づいた20世紀の作品を集めたこのアルバムでは、そんな合唱団の特質が最大限に発揮されています。マシュー・ハリスとか、スティーヴン・サメッツといったアメリカの中堅合唱作曲家(なのでしょう、私は初めて聞く名前)の、殆ど「癒し」に近い平穏なハーモニーあたりに、一つ一つのフレーズに確固たる歌心が宿ると、とても上質なエンタテインメントが仕上がります。このページではすでにお馴染みのフィンランドの作曲家、ヤーッコ・マンティヤルヴィの「Four Shakespeare Songs」も、以前タピオラ室内合唱団の演奏で味わったものとは次元の違う世界が広がっていることが実感されるはず。あちらはいかにも生真面目な「合唱作品」といった趣だったものが、ここでは幅広い技法を縦横に駆使したこの作曲家の本質(もしかしたら、本人も気付いていないほどの)が、楽しさをふんだんに盛り込んで展開されているのですから。
こういうキャラクターの合唱団、当然のことながら、フランク・マルタンあたりのちょっと尖った音楽では、いささかミスマッチの趣が漂うのは、致し方ないことなのでしょう。もちろん、これを裏返せば、無機的な音列というものは本質的に「心地よさ」とは相容れないものであるということになるのでしょうね。同じような意味で、ニルス・リンドバーグという人のテンション・コードを多用したジャズ風の作品も、彼らのアプローチには少し違和感をおぼえることでしょう。
彼らの名前の由来であるバッハあたりでは、いったいどんな演奏が繰り広げられているのでしょう。機会があったら、ぜひ確かめてみたいところです。

11月22日

MOZART
Requiem(Ed.Beyer)
Hanns-Martin Schneidt/
シュナイト・バッハ合唱団
シュナイト・バッハ管弦楽団

LIVE NOTES/WWCC-7481
ハンス・マルティン・シュナイトという指揮者、なんでも、あのカール・リヒターが創設した「ミュンヘン・バッハ合唱団」を、リヒターの死去に伴って引き継いだ人なのだそうです。この合唱団(と、オーケストラ)は、私の中ではあくまでリヒターとの結びつきという範疇でしか捉えられていませんでしたから、それが後継者によって綿々と活動を続けていたなどということは、ちょっと意外な事実でした。もちろん、リヒター時代のような活発なレコーディングを行っていたわけでもなかったのでしょうから、普通のファンの耳には殆ど届くことはなかったのでしょう。もっと注意をしゅないといけません。
そのシュナイトを指揮者に迎えて、日本で1997年に作られたのが、この「シュナイト・バッハ合唱団」です。元々は、東京フィルハーモニー交響楽団がシュナイトの指揮で「ロ短調」を演奏した時に集まった合唱団、それが、その演奏会のあとに独立した形で活動を始めた、ということです。写真で見ると、この合唱団のメンバーはどう少なめに数えても150人以上はいます。シュナイトのもとで、大規模な宗教曲を歌いたいという人の力なのでしょう。
このアルバムは、最近行われたこの合唱団の演奏会のライブ録音です。最近の流れでは、この曲に関しては、少なくともレコーディングの上では、あまり人数の多くない演奏が主流になってきています。ですから、このような大人数の演奏には、聴く前から多少のとまどいがありました。果たせるかな、この合唱団の醸し出すハーモニーに馴染むまでには、かなりの時間を必要としたものです。なによりも、ソプラノパートのあまりの音程の悪さが、全体の響きをとてつもなく混沌たるものにしています。遅めのテンポによる演奏もかなり大味、少なくとも、バロックの最後に位置するモーツァルトの姿は、ここからは完璧に聴くことは出来ませんでした。
ところが、合唱団のメンバーとしての視点からこの演奏を聴いてみると、そこにはなんとも言えぬ「味わい」があることに気付かされてしまいました。かつてご紹介したアーノンクール盤(今回と同じ、バイヤー版を使用)とは対極に位置するテイスト、あちらのいかにも恣意的な音楽とは根本的に異なる、すべての合唱団員が共感して歌っている姿がありありと伝わってくるのです。そこには、指揮者の押しつけなどはかけらも見られない、真に心温まる音楽がありました。これも一つの表現のあり方、モーツァルトを通して聞こえてきたものは、一つものをみんなで作り上げようという、心地よい連帯感だったのです。
最後に、同じモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が収録されています。この曲では、ハーモニーの乱れはあまり感じられず、演奏としての完成度は高くなっています。実際のコンサートではレクイエムの前に演奏されていたものですが、このように最後に持ってくることにより、この合唱団の持ち味をきちんと印象づけられるという絶大な効果が現れています。

11月20日

Teczowy Chopin
Wojtk Mrozek(Cl)
Michal Nesterowicz/
Capella Bydgostiensis
IM PRESTO/
品番なし
ピアノの詩人、ショパンの音楽の魅力については今更言及することもありませんね。そして、「その美しいメロディをピアノだけに独占させておいてなるものか!」と、様々な編曲版が作られ、そちらも多くの人に愛されています。カラヤンの指揮で有名な、バレエ音楽「レ・シルフィード」(これはダグラスの編曲)や、グラズノフの「ショピニアーナ」などに始まり、“別れの曲”に詩をつけて歌ったものや、ヴァイオリンで演奏するものなど。ここらへんはまだクラシックの範疇で、もっと枠を広げれば、ジャズあり、ロックあり、CMあり(これは違うね)・・・ととにかく、どんな形に姿を変えてもショパンの音楽の本質は変わることがありません。
今回の「虹のショパン」と題されたアルバムは、クラリネットと弦楽合奏のために編曲されたショパン作品集です。けだるい午後のひとときに聴くにはうってつけ(それは「2時のショパン」)。ポーランドの本当に小さなレーベルからリリースされたものなので、普通のお店で入手するのはまず不可能。何しろCDに番号すら明記されていません。曲の表記も間違いだらけ。例えば作品25-2の練習曲が「作品10-9」と書かれていたり、(一瞬自分の記憶を疑ってしまいました・・・)作品21「夢」と書かれた曲は、実は元ネタが、歌曲「乙女の願い」だったり。(ちなみに作品21は協奏曲第2番)しかし聴き始めたら、そんなデータの不備など全く気にならない程の不思議な感動を覚えました。ちなみに編曲は全てポーランド人の手になるもののようです。
冒頭に置かれたのが、一番有名な夜想曲第2番。もともとクラリネットの音色は夕焼け色だと思っていましたが、ショパンの哀愁漂うメロディがこんなにクラリネットに合うとは想像もしていませんでした。で、柔らかな弦楽合奏の音色に溶け込むのどかな音色を楽しんでいたのですが、曲の最後の部分、(高音部できらきら輝くカデンツァのようなところ)ここで、突然クラリネットが雄弁に語り始めるのです。そう、音色も奏法もジャズのインプロヴィゼーション。「これはただのヒーリングではない・・・」との感触そのままに、曲が進むにつれて面白さ倍増。「別れの曲」での揺れ動く和声はまさに虹色ですし、表記の間違っていた練習曲、作品25-2は、まるで別の曲。上質なワルツでもあり、タンゴでもあり・・・。本来ならば、絶え間なく動き続ける細かいパッセージ。この変貌ぶりといったら、とても言葉では言い表せません。これは編曲者のセンスなのでしょうか。本当に侮れません。作品25-8の練習曲も面白いし、何より、有名な「子犬のワルツ」がサティの衣を纏って現れた時は、心の中で拍手してしまいました。
「最近こういうの聴いたよな」と思い起こせば、そう、それはあのクレーメルランド。どの曲も想像を良い形で裏切られることばかり。聴き終えてちょっとどきどきしてしまう。そんな秘密の1枚です。

11月19日

BACH
Goldberg Variations
高橋悠治(Pf)
AVEX/AVCL-25026
幼なじみとか、学校の同級生などは、長い間会っていなくても、顔を忘れたりするようなことはありません。たとえ、長い年月を経て髪はすっかり失われ、立って歩くことも出来ず、すっかり呆けてついさっき食事をしたことすら忘れるようになってしまっていたとしても(ちょっと大げさ)、その顔立ちの中には確かに昔若かった頃の面影がしっかり残っていて、再会した瞬間にお互いがその時代にタイムスリップしてしまいます。他人から見ればただの老人であっても、当人同士は小学生の時と同じ風貌を、お互いの中に見ているのです。そんなことをつい考えてさせられてしまった、この高橋悠治の28年ぶりに録音された「ゴルトベルク」、そこには、この1976年に録音されたDENON盤を知るものにしか分からない、懐かしさのようなものが確かに存在していました。
以前ヒューイット盤をご紹介した時に書いたように、このDENON盤は私にとっての「ゴルトベルク」の原体験となったものです。今回のAVEX盤のジャケットを見て、まず、悠治のベイズリー柄のシャツの趣味が、当時と全く変わっていないことを知り、それこそいっぺんに昔の同級生に再会したような気持ちになってしまいました。もみあげはありませんが(それは「プレスリー」)。そして、CDから聞こえてきたバッハも、かつて耳にタコができるほど聴いたあのバッハと全く同じテイストでした。テーマに登場する前打音は、拍の前に先取りするという、今では殆ど見られない(拍の頭に入れるのが「常識」)レアリゼーション、変奏の繰り返しを一切行わないという潔さも健在です。そして、なによりも細かいトリルや装飾をとことん強調するという独自のスタイル、かつて確かに感じたことのある先鋭的なバッハは、しっかりここにも存在していました。
一方で、昔日とは比ぶべくもなく老いさらばえたその風貌には、時の流れの非情さを感じないわけにはいきません。ピアノを弾くという行為に不可欠な体力の衰えは、実にはっきりとした形で演奏の中に現れていることにも、また、気付かずにはいられないのです。そう、かつて誰にも真似の出来ない超絶技巧を携えて、クセナキスなどの殆ど演奏不可能とまでいわれた難曲たちをものの見事に音にしてくれていた天才ピアニストも、齢66歳、完璧にコントロールされた音楽を望むことはもはや非常に難しい状態になってしまっていたのだという事実も、残念ながら認めないわけにはいかないのです。ですから、DENON盤での衝撃の一つである、第15変奏などに顕著に現れる不均一な音の処理なども、下手をしたらただの弾き損ないだと思われてしまうのではないかという危惧を抱かずにはいられません。私でさえ、最初のテーマの繰り返しでいきなりテンポが速くなってしまったのを聴いた時には、まるで、粗相をしてうろたえているような老人の姿をそこに見て、思わずドキッとなってしまったぐらいですから。
しかし、ここには紛れもなく、30年近く前から聴くものを刺激して止まなかった悠治にしか表現できないバッハが存在しています。彼がいかに変わらずに一つのものを追求し続けているかということを知るためにも、ぜひ、かつてのDENON盤を入手可能な状態にしておいて欲しいものです。あのグールドのように。

11月17日

MAHLER
Des Knaben Wunderhorn
Diana Damrau(Sop)
Iván Paley(Bar)
Stephan Matthias Lademann(Pf)
TELOS MUSIC/TLS1001
このマーラー、色んな意味で興味をひくアルバムです。まず「世界初録音」が含まれているということ。「どんなところが『初』なんですか?」とお店の人に訊いたところ、「いや、まだ試していないんですよ。H○VのHPに詳しく載っているそうですから・・・」なんて判ったような判らないような答え。普通、1枚で収まるはずの曲集なのに2枚組というのも気になるところです。何より、私が密かに思い焦がれているソプラノのダムラウの歌!これだけでも聴いてみたい!と力が入ってしまいました。
何故2枚組か?というのは、実はこのアルバム、歌曲集「子供の不思議な角笛」ではなく、「子供の不思議な角笛」の詩による歌曲集、だったのです。わかりづらいですが。普通「角笛」というと、12曲からなる歌曲集のことを指しますが、御存知の通り、マーラーはこのアルニムとブレンターノが編纂した民謡詩集(民話にありがちな素朴な喜びと、えげつない残酷さが絶妙にブレンドされた簡素な詩です)に、殊の他興味を抱いていました。そのため、初期から中期の彼の作品には、至る所に「角笛」のモティーフが使われています。有名なところでは、交響曲第2番、第3番、第4番(これらをあわせて角笛交響曲と呼ぶこともあります)。そして「若き日の歌」にも何曲か、この詩を持つものがあります。後は“レヴェルゲ”などのように、他の歌曲と組み合わされ別の名前で呼ばれるものなど、とにかく、マーラーの全作品の中に広範囲に散らばっている「角笛」を全部集めたら2枚になってしまったというものなのでした。で、世界初録音というのは、全ての曲をピアノ伴奏版でうたっている結果、面白いものができてしまったというわけです。先ほどちょっと書いた、交響曲第2番の第4楽章「原光」。これは本来オーケストラとアルトソロで歌われるのですが、ここではなんと「バリトン!」がピアノ伴奏で朗々と歌うのです。
いやぁ、これは何とも不思議な体験でした。良く知っているはずの曲なのに、全く違うものとして認識しなくてはいけません。これが歯がゆいというか、面白いというか。この演奏、総体的に「芝居がかって」いるとでもいうのでしょうか。最初にちょっと聴いた時は、あまりにもまったりしているのでリズム感に乏しいのか?と思ったのですが、実はそうではありません。1曲1曲のテンポを遅めにとって、ピアノもたっぷりと濃く歌わせます。特にバリトンのパレイ・・・この人は初めて聴きましたが、何とも表情豊か。この歌い方は、かのベルント・ヴァイクルに近いかな。普通ソプラノで歌うことが多い「ラインの伝説」の魅力的なことといったらたまりません。先ほどの「原光」も不思議な魅力を湛えています。
そして、お目当てのダムラウです。デイヴィスの魔笛で「夜の女王」役を歌い、容姿ともども圧倒的な存在感を植え付けてくれた彼女。ここでは、思いの他清冽な歌い方をしているのにはちょっとびっくりでした。しかし、ニルソンを思わせる硬質の響きと、そこはかとない色っぽさを併せ持つ彼女の声は本当に魅力的です。思わず「うまい」と心の中で叫んでしまうのに、なんのだむらう(ためらう)事もありませんでした。さっと駆け足で全曲聴いてしまいましたが、何度もじっくり聴き返してみたいステキなアルバムでした。

11月15日

TAVENER
Choral Works
Stephen Layton/
Polyphony
HYPERION/CDA 67475
お馴染み、現代イギリスを代表する作曲家ジョン・タヴナーの最新の合唱曲を集めたアルバムです。全部で8曲収録されているうち、今回初めて録音されたものが6曲、まさに、この作曲家の出来たての作品を味わうことが出来ます。実は、このアルバムのレビューがすでに某「レコ芸」に掲載されているのですが、そこに書かれていることは現代における宗教のあり方といった、何か漠然とした内容で、肝心の作品に関するコメントは一切述べられていません。こんな新しい作品では何かガイドがないと正確な情報が伝わってこないものですから、あわよくば何か参考に出来ないかと思っていた私の思惑は、見事に空振りに終わってしまいました。プロのライターでも、資料がないことには何も書けないのか、と。
ところが、実際にこのアルバムを全曲聴き終わってみると、そのライターの気持ちがなんだか分かったような気持ちになってしまったのですから、不思議としか言いようがありません。最初のうちは、個々の作品の由来とか、作曲技法とかを一生懸命追い求めながら聴いていたのですが、一番最後の「Shûnya」という曲を聴いているうちに、そんな些細なことはまるでどうでも良くなってしまったのです。2003年に作られたという演奏に18分を要する、ア・カペラの合唱曲にしては言ってみれば「大曲」、しかし、その構成は驚くほど単純なものです。仏教寺院で日常的に使われている「きん」または「けいす」(フォントがありません。「磬」の「石」の部分が「金」になったのが「きん」、それに「子」をつけて「けいす」・・・木魚とワンセットになってお経を読む際のリズムセクションを形成している、写真のようなちょっと大きめのお椀型の金属打楽器)が淡々と打ち鳴らされる中、サンスクリット語によるタイトルの言葉が延々と繰り返されるだけ、しかし、そのパターンが微妙にハーモニーを変えて歌われるうちに、まるで催眠状態にあったような不思議な感情がわき起こってくるのです。それを実現させたのは、今まで何度も紹介してきた卓越した音色とハーモニー感を持つグループ「ポリフォニー」。彼らが、その純正な響きはそのままに、時には声を荒らげ、とてつもないテンションを以て心の底から「何か」を訴えようとしている姿が、合唱とか、音楽といった次元を越えたメッセージとして伝わってきたのです。もちろん、それはタヴナーが帰依しているギリシャ正教とか、ここでその形を借りた仏教といった個々の宗教すら超越したものであることは、明白です。
もう1曲の「大曲」、ドイツ語の歌詞を持つ「Schuon Hymnen」は、「Mit der Sonne nur bekleidet」という、不思議な音列による呼びかけに対して豊かなハーモニーの応答が続くという、「レスポンソリウム」そのもの。数10分前にこの清らかな曲を味わうという心洗われる体験があったからこそ、最後になってこれほどの高揚感が得られたのではないか、というのは、単なる思い過ごしでしょうか。いったい、最近のタヴナーに何が起こったというのでしょう。写真で見るとますます痩せて・・・もっと食べなぁ

11月14日

STRAUSS
Ein Heldenleben
Mariss Jansons/
Royal Concertgebouw Orchestra
RCO/RCO 04103(DVD)
以前も書きましたが、私はあの大流行の韓国ドラマを全くと言ってよいほど見ておりません。オペラも、最初から映像を見ることはせず、とりあえずCDなどで音だけで聴いてみる事にしています。なぜなら私はとても影響されやすい性格だからなのです。オペラも最初観た映像が唯一のものになってしまうでしょう。ヨン様もテレビで見たら惚れてしまうだろうし(?)空港まで行って実物なんかを見た日には・・・・もう3日くらいは何も喉を通らなくなるのは必至です。
で、今回のヤンソンスです。実は、1週間前くらいまでは彼のことは何とも思っていませんでした。確かに最近、バイエルンとのCDが発売されて、「悲愴」と「浄夜」のカップリングがとても良く、おやぢの原稿にでもしようかな・・・それともシベリウスでも書こうか・・・と考えていた事は確かですが。それが、ひょんな事から演奏会のチケットを入手し、そのついでに彼のDVDも観ることになったのが演奏会の3日前。その3日間ですっかり彼の雄姿と音楽性にはまってしまった私です。
ここではそのDVDの方をご紹介しましょうね。2004年9月4日、ヤンソンスのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団第6代首席指揮者就任記念コンサートのライヴです。曲目は、今回の来日公演でも取り上げられたR・シュトラウスの「英雄の生涯」。この曲はメンゲルベルク時代に、シュトラウスがこの楽団のために献呈したというまさに記念碑的な作品。自ずと熱演が期待できるというものです。
オケを映像で見ることについては、いつだったか「ドイツレクイエム」の時にうざったいと書いてしまった記憶がありますが、今回は全く正反対。これは映像で見ることをぜひオススメします。御存知の方も多いでしょうが、コンセルトヘボウは独特の楽器配置の伝統があります。特に管楽器の並び方が面白く、フルートのすぐ後ろにファゴットが来ます(普通はクラリネット)。こう言ったことも映像で見るとまるわかり。もちろんマスターお気に入りのバイノンの姿もばっちりです。
何より、ヤンソンスのカッコいいこと!写真などでは、もっと大柄な人を想像していましたが、実物は案外小柄。そして、とても引き締まった体つきをしています。その棒から繰り出される音楽の見事さは、全く想像を上回るものでした。とにかく表情が豊かで、シュトラウス独特のクライマックスの部分では、まさに「恍惚」の表情を浮かべます。そしてその動きの優雅なこと。「戦場の英雄」の部分では指揮台の上で踊りだすかのようです。もちろん後ろ姿も華麗です。動きにあわせて揺れる燕尾の裾のかっこいいこと。こういうものは、CDで音だけ聴いててもわからないことですね。もちろん音楽は、その引き締まった動きにあわせるかのように、力強くスピーディ。一瞬たりとも緩むことはありません。私が気に入ったのはパーカッションの人。ぴったり撫で付けた髪は、どんなに激しく太鼓を叩いても決して乱れる事はありませんでした。
このDVD、おまけに「6人のマエストロ」というオランダ放送制作のドキュメンタリーが収録されています。こちらもとても興味深いものでした。以前NHKで放送されたシャイーの番組もそうでしたが、オランダ人は、このオーケストラのことを「俺(おら)んだ」と大切に思っているのだな、と感服させられる愛情深い内容でした。

おとといのおやぢに会える、か。


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