福井県。.... 渋谷塔一

(04/6/11-04/6/28)


6月28日

KAPUSTIN
Piano Music
Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA 67433
先日、面白い新聞記事を見つけました。「クラシックはジャズにできない?」というもので、ある人気ジャズバンドが制作したCDが出荷停止になったというもの。そのCDは、あの有名な合唱曲「大地讃頌」をジャズにしたもので、メンバーが中学時代から愛唱していたものだったというのです。しかし、この曲の作曲者佐藤眞氏はこの編曲を認めず、「私の“大地讃頌”とは全く異なる曲だ。といって別の曲でもない」と販売停止、演奏停止を求めて提訴したそうです。ジャズではなく、フランス風のアレンジでしたら、問題なかったのでしょうが(「大地シャンソン」)、メンバーは、作曲家への敬意を示す意味で、その言い分を認め、CDの出荷、演奏停止も了承したとか。このような話は昔からあることで、遠い記憶では、あの「君が代」をジャズにして、訴えられた教師もいましたね。
どんな作品でも、原曲はきっちり尊重すべきだ。と言う意見と、世に出た瞬間から、全ての人の共有財産になる。という意見は永遠に対立するのではないかと、多くの人は思っているに違いありません。ただ、先日のショパンではありませんが、原曲が知られていなければ、どんなに上手い編曲でも、「ふ〜ん」と言われてしまう危険性も孕んでいるのですが。
さてさて、今回のアムランのカプースチンですが、これこそ究極のクラシック=ジャズともいえるでしょうね。普通、ジャズと言えば即興性(インプロヴィゼーション)が命。御存知の通り、ここは本来楽譜には一切記されず、その時の奏者の気分に一任されるのです。しかし、カプースチンが学んだ1950年代のロシアには、そういう習慣が知られていなかったのでしょうか、彼が作曲したジャズ(もどき)の作品は、一音たりとも漏らすことなく、全ての音符がスコアに記載されています。そう、即興の入る余地は全くありません。これはある意味すごい事ですよね。だって誰が演奏しても同じ曲になるジャズなんですから。そんなカプースチンの作品、アムランの演奏によるCDを待ち望んでいた人は多いはずです。かくいう私もその1人。2000年3月、彼のリサイタルのことでした。プログラムの最後に置かれた「カプースチン、ソナタ第2番」。ほとんどの人にとって未知の作曲家であったカプースチン。その彼の音楽がオペラシティに響き渡った時、至るところからため息が漏れたこと、まるで昨日のことのように思い出します。
CDとしては、ソナタはオズボーン君が先にリリースしてしまいましたが、この曲集に収録されたエチュードもホントに素晴らしいものです。まさにインプロヴィゼーションの炸裂・・・・(でも、何度もいうように、楽譜には全て書かれているのですよ。)これこそ、音楽史の片隅に咲いた徒花でしょう。ピアノ好きなら外せないアイテムと言えましょう。

6月25日

LISZT
St. Stanislaus
James Conlon/
Cincinnati May Festival Chorus
Cincinnati Symphony Orchestra
TELARC/CD-80607
ジェームズ・コンロンを中心として、1979年から毎年開かれている「シンシナティ5月音楽祭」という、由緒ある合唱のための音楽祭があります。もう暖かくなっているので、必要はないのですが(それは「コンロ」)。ここで2003年の5月23日にリストの未完のオラトリオ「聖スタニスラウス」が世界初演されました。ここに収録されているのは、その3日後に同じ会場でのセッションで録音されたものです。この、もし完成していれば4場(「ば」と読みます。「じょう」ではありません。念のため)から成る長大な作品となったはずのオラトリオは、リストが言うところの「教会と国家との間の永遠の争い」をテーマとしたもので、ポーランドのクラコフを舞台に、司教スタニスラウスが国王ボレスラフの圧政に苦しむ民衆を救うという物語がテキストとなっています。1874年に第1場の作曲を始めたリストですが、なぜか途中で中断、1882年に再び、今度は第4部から作曲作業を再開します。しかし、彼が死を迎える1886年までに完成したのは、結局この二つの場だけでした。これを校訂、第1場の最後に置かれた、ピアノ伴奏の形でしか出来ていなかったスタニスラウスの母のアリアにオーケストレーションを施して、1998年に出版したのは、ポール・マンソンという音楽学者でした。物語の流れとしては、1場では敵役だった国王が、次の場ではいきなり罪を悔いてしまうという唐突さがあるのは、もちろん仕方のないことでしょう。しかし、全曲で1時間程度、ソロあり、合唱ありのヴァラエティに富んだ作品として、これだけでもなかなか楽しめるものに仕上がっています。
TELARCの録音は久しぶりに聴きましたが、これはオーケストラのしっとりとした音がきちんと捕らえられている、なかなかのものです。全体の響きを大切にして、なおかつ木管の細かい音もきちんと聞こえて来るという、創立当初からのTELARCサウンドは、まだ健在でした。その中にあって、合唱からも、特に際立ったバランスで、確かな主張が伝わってきたのには、嬉しくなってしまいました。この合唱、写真で見ると200人近くの人数、普通はかなり大味なものになりがちなのですが、なんのなんの、その緻密な表現には本当にびっくりさせられてしまいます。ピアニシモでのはっとさせられるような響き、それがフォルテになっても、決して乱暴にならない「大人の」演奏は、ちょっとこの手の合唱団にしては珍しいクオリティの高さです。それが存分に発揮されているのが、第4部の「De profundis」、例の詩編129の「深き淵より」ですが、ここでの伴奏はオルガンだけ。今まできちんとした和声で流れていたものが、この曲だけそのオルガンによる不気味な無調風のパッセージと突然の不協和音に導かれて、男声だけで暗くユニゾン歌われるという曲調は、とことんブキミ、あのVia Crucisの世界が広がっています。それに続く「ポーランド万歳」という明るい曲調との対比も見事なもの、ここでも合唱の確かな力が光っています。

6月23日

BRAHMS
Ein Deutsches Requiem
Barbara Bonney(Sop), Bryn Terfel(Bar)
Claudio Abbado/
Swedish Radio Chorr, Eric Ericson Chamber Choir
Berliner Philharmoniker
ARTHAUS/101 047(DVD)
最近は、DVDのリリース数が格段に増えてきました。ですから、いつぞやの「こうもり」などのように、CDでは聴く事の出来ない演目すらも、手軽に映像で見ることができるという、オペラ好きにとってはまたとない良い時代になってきたといえるでしょう。ただ、確かにオペラは映像があった方が良いのですが、さてさて、今回のような声楽曲(合唱曲)の場合はどうでしょうか?そんなことを考えつつ、アバドの「ドイツ・レクイエム」をセットして見始めます。
この映像は1997年収録。ブラームス没後100年記念行事の一環として、ウィーンで行われたメモリアル演奏会のライヴということで、つやつやとした健康的なアバドの雄姿が拝めるのも売りのひとつ。ソロを務めるのは、さらにつやつやとしたターフェルとボニーです。最近、この曲ではどちらかというと少々異端の演奏に走っていたのですが、これは久々に聴くオーソドックスで、かつ壮麗な演奏でした。もちろんアバドのお気に入り、エリクソン室内合唱団とスウェーデン放送合唱団の透明感溢れる響きも健在です。まさに、「かゆいところに手が届く」ような懇切丁寧な演奏で、しなやかながらも、盛り上げるべきところはきちんと押さえると言った、所謂「ツボにはまった」名演とでも言うのでしょう。立て続けにこの曲を聴き漁った私としても、突っこみどころの全くない美しさに溢れたものでした。もちろん、アクサンチュスの時のような物足りなさはありません。ことさら音楽が粘っこくならないのも、アバドの美点の一つでしょう。
で、前述の問題に戻りますが、この曲を映像を見ながら聴くというのはいかがなものでしょうか。ということについて。第一楽章の静かな前奏、弦楽器のアップから始まります。そして、ヴィオラとアバドに映像が移ったとたん客席のオバサンの妙な動きがやたら気になります。咳き込んでいるのか、それとも既に慟哭しているのか・・・・。変わって合唱団が映し出されると、これまた妙に神がかった男性の容貌に目を奪われます。はらりと垂れる一筋の髪が苦悩を表しているのでしょうか。続く女性のアップ。これを見ると「日本女性は肌のきめが細かい」という話を思い出します。第2楽章の終り部分、最高潮に達した音楽が少しずつひいていく場面。音楽にあわせてカメラもひいて行くのですが、なぜか横切るムジークフェラインの太い柱。気になってしまいますねぇ。元来「気が散りやすい」ことを自分で認識している私は、オペラならともかく、この曲を映像をみながら聴くのは却って苦痛というか、全く曲に集中できなかったのでした。
しかし、ターフェルの表情豊かさもたっぷり堪能できますし、ボニーが意外とたくましい(ボイン・・・ですか)ことも今更ながら再確認できます。ベルリン・フィルの首席フルート奏者のアンドレアス・ブラウが、なぜか普段の銀の楽器ではなく木管を吹いているのも興味深いものです。全体がとても柔らかい音色に支配されているのが、この楽器の選択によるものだというのが分かるのは、映像ならではのこと。これは先ほどのデメリットを補ってあまりあるメリットでしょう。

6月21日

THEODORAKIS
Zorbas Ballet etc.
Charles Dutoit/
Orchestre Symphonique de Montréal
Philharmonia Orchestra
DECCA/475 6130
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1119国内盤 8月11日発売予定)
このレーベル、品番の付け方が変わりましたね。ユニバーサル系の場合、CDでは3桁の数字が二つ並んだあとに、最後に必ず「-2」が付いていたのに(DVDでは「-9」)これは最後が「0」、ハイフンもありません。これは、もしかしたら業界再編成の予兆なのでしょうか。
それはともかく、アテネオリンピックの開幕を間近に控えてのギリシャ特集ということで、ギリシャ人作曲家ミキス・テオドラキスのアルバムがリリースされました。ソクラテス、アリストテレスなどと、ギリシャ人の名前には最後に「ス」が付くものが多いようですが、作曲家でもクセナキスとか、テオドラキスとしばしば並べて紹介されることの多いハジダキスなど、その例に漏れません。そのハジダキスが、「日曜はダメよ」という同名の映画の主題歌(これって、娼婦の歌だったんですね。「日曜日は休みだからダメよ」って)のみで有名になっているように、テオドラキスもまず「映画音楽の作曲家」として知られている人です。確かに彼は、多くのオペラや交響曲を作り続けている作曲家であり、その方面の「真面目な」音楽のファンもいるのは事実ですが、なんと言っても「Z」、「セルピコ」や「その男ゾルバ」で音楽を担当していた作曲家、というのが、彼に与えられた安定したポジションではあるわけです。
このアルバムも、メインはその「ゾルバ(Zorba the Greek)」の中の曲を元に作られたバレエ組曲、カップリングとしては、そのテイストを裏切らない「謝肉祭」というバレエ組曲と、ボスニア戦争の犠牲者に捧げられたという瞑想的な曲調の「フルート・弦楽オーケストラと打楽器のためのアダージョ」が収録されており、テオドラキスのひとつの顔をあらわしたものには仕上がっています。初めて聴いても、すんなり入っていける平易さですね。
ここでの「ゾルバ」(但し、第二部だけ)は、バレエというよりは合唱とソプラノソロを伴うオラトリオといった印象を受けてしまいます。特に、クラシカルではない民族的な発声を取り入れたイオアナ・フォルトゥルの歌によって、それはいかにも地中海的な香りを振りまいてくれています。そして、ギリシャの弦楽器ブズキがフィーチャーされた、あの有名な「人妻」(それは「うずき」)ではなく、「ゾルバ」のテーマになるわけですが、そこで、何か今まで聴いてきたものとはちょっと違う印象を受けてしまうのです。軽やかさの全く感じられない鈍重な歩み、それがアッチェレランドが掛けられる前の段階というのは分かるのですが、そのアッチェルが始まってからのもたつきぶりはどうでしょう。どんな「映画音楽全集」を聴いてみても、これほどのみっともない演奏はありません。この録音は2000年に行われたもの。その2年後に、デュトワはこの演奏を行ったモントリオール交響楽団との25年にわたるパートナーシップを解消することになるのですが、その予兆をここから感じるのは、果たしてうがった見方なのでしょうか。
他の2曲はフィルハーモニアとの演奏。首席フルート奏者ケネス・スミスがソロを取っている「アダージョ」からは、そんな雑念など入り込む余地のない、穏やかな世界を聴くことが出来ます。

6月19日

Romance
Ensemble Planeta
PONY CANYON/PCCA-02031
昔から、男声のコーラスグループは掃いて捨てるほどあるというのに、女声版は殆ど見かけなかったというのは、どういうわけでしょう。ダーク・ダックス、ボニー・ジャックス、デューク・エイセス、タイム・ファイブなどという、今でも現役で活躍しているグループがある中で、女声で今もがんばっているのはピンク・レディーだけというのは、あまりに寂しいことではないでしょうか。というのは冗談ですが、確かに日本である程度の認知が得られたのは「スリー・グレーセス」ぐらいしかないというのは、本当のことです。外国でも、最近のR&B関係ですぐ思いつくのは「アン・ヴォーグ」しかいませんし。
そんな中で、2001年にデビューした女声コーラスグループ、アンサンブル・プラネタが、下品なグループ名にもかかわらず(それは、「アンサンブル・シモネタ」)早くも5枚目のアルバムを出したというのは、殆ど奇跡に近いこと、逆に言えば、今までぽっかり穴の開いていたこのジャンルを攻めた戦略が、見事に大当たりしたということになるのでしょう。事実、徹底したノン・ビブラートによって、まるで天上の響きのような美しいハーモニーを作り上げるという、正統的なヒーリング路線を推し進めた、アレンジャー、プロデューサーの書上奈朋子(元エキセントリック・オペラ)の目論見は、見事に時代の求めるものと合致したのです。
このアルバムでも、今までの基本的なコンセプト、よく知られている名曲を分かりやすいアレンジで(もちろん、それは表面上のことで、実際にはかなり複雑な仕掛けが施されています)聴いてもらうという路線は徹底されています。この、確かなテクニックを持った5人のメンバーの織りなすハーモニーの、なんと澄んでいることでしょう。まるで少年のようなその声は、少年には決して出すことの出来ない深みのあるアルトに支えられて、時にはしっとりと、時には抜けるようなハイノートを伴いながら、まるで夢のような世界を繰り広げてくれています。最も驚嘆するのは、まるでパルスのパイロットがあるかのような(もしかしたら、録音の時には使ったかもしれません)正確なビートです。すべての曲調がビート感を持たない流れるような時間軸を持つものばかりですから、そこからこんなビートを感じられるのが不思議な気がしますが、これはまさに、テンポの揺れによるエモーションを廃するという、ヒーリングにあってはもっとも必要なものを最優先させているからに他なりません。その結果、能面のように無表情な音楽の中からこそ、真の「癒し」が生まれるのだということに、はっきり気付かせられることになるのです。
最後に、書上の「パラダイス」というオリジナルが収録されていますが、これは誰が聴いても最近女声ヴォーカリストが一躍有名にしたホルストの「木星」を下敷きにしていることが分かるでしょう。彼女らの名前の由来となった「惑星」という名の組曲の中の1曲、そのイメージを喚起させるこの曲で、書上が届けたかったメッセージは、いったい何だったのでしょうか。

6月17日

MARTIN/Messe
MESSIAEN/Cinq Rechants
Daniel Reuss/
RIAS-Kammerchor
HARMONIA MUNDI/HMC 901834
RIAS(リアス)と言うのは、東北地方に多い入り組んだ地形の海岸ではなく(それはリアス式)、第二次世界大戦直後にかつての西ベルリンに設けられたアメリカ占領地域放送局(Radio in American Secter)のことです。ここに専属の合唱団が作られたのは1948年のこと、その2年前に作られたオーケストラ、RIAS交響楽団と共に、放送に、レコーディングにと、膨大な録音を行ってきたのは、ご存じのことでしょう。ベルリンへのアメリカの占領が終わると同時に自由ベルリン放送(SFB/Sender Freies Berlin)とというものが作られて、オーケストラの方はそちらと密接な関係を持つことになって、「ベルリン放送交響楽団」→「ベルリン・ドイツ交響楽団」と名称を変えるのですが、合唱団はそのままRIAS専属として活動を続けます。しかし、1993年にはRIASは「DeutschlandRadio」と改称、実体のない名称になってしまうのですが、この合唱団は、かたくなに「RIAS」にこだわっているようです。やはり、お馴染みさんをつかまえておくには、「昔の名前」で商売をする方が、何かとメリットがあるのでしょうね。これは、「サンクト・ペテルブルク・フィル」などと言われてもそれがかつての「レニングラード・フィル」と同じものだとはとっさには気付かなかったおやぢの、切実な思いです(余談ですが、「レニングラード」とタイプしたら、ATOKに「地名変更→サンクト・ペテルブルク」と叱られてしまいました)。
そのRIAS室内合唱団の最新アルバム、指揮は2003年にマルクス・クリードから首席指揮者のポストを引き継いだばかりのダニエル・ロイスです。前任者のクリード、さらにその前任者のウーヴェ・グロノスタイによって極めて安定した高いレベルの演奏を録音に残してきたこの合唱団、ヘレヴェッヘあたりに信望の厚いロイスとの相性はどんなものでしょう。
最初の曲は、このところのマイブーム、マルタンのミサです。録音会場のイエス・キリスト教会のせいでしょうか、かなり間接音が多い響きによって、音楽のディーテイルがぼやけてしまっているのが、まず気になります。それでも、「Kyrie」の切々とした歌い上げには、とても心を惹かれるものがあって、「さすがRIAS」と思わせられる瞬間も。しかし、細かいポリフォニーが出てくるあたりから、精度の悪さが耳に付いてきます。ソプラノの音程も、かなりいい加減。ですから、「Agnus Dei」あたりでは、その持ち味のリリカルな面が妙に空回りして、なかなか陶酔感に浸れないというもどかしさがありました。
しかし、メシアンの「5つのルシャン」になると、これはさらに困ったことになります。リリシズムを重視するあまりの、絶えられないほどのリズム感の鈍さが露呈されてしまっているのです。救いは、3曲目のようなめいっぱい美しいハーモニーで歌い上げるようなタイプの曲。これは、最後に収録されている「ああ聖餐よ」と共に、メシアンの色彩的なハーモニーを堪能できる名演ではあるのですが、その代償として、他の曲におけるメカニカルなスキルが大幅に損なわれているのは、非常に残念なことです。こんなに曲のキャラクターを選ぶ合唱団だったとは。

6月15日

LIGETI
Artikulation etc.
Reinbert de Leeuw/
Asko Ensemble
Schönberg Ensemble
TELDEC/8573-88262-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11755(国内盤)
1996年、SONYによってリリースが始められたリゲティ全集、途中でレーベルがTELDECに変わり、そのTELDECも親会社のWARNERの意向で消滅してしまうという多難な道を歩んだ末に、やっと最終巻であるこの第5集がリリースされて、晴れて完結の運びとなりました。この第5集の品番が、第2集第4集の間のものが用意されていたということは、WARNERとしてもこれだけは成し遂げたいわあなあという強い気持ちがあったのかもしれません。いずれにしても、SONYと合わせて13巻、全14枚というこの作曲家の殆どすべての作品が網羅された全集が完成したことを、喜びたいと思います。
このアルバムには、リゲティのハンガリー時代から、西側へ移った直後までの、ごく初期の作品が集められています。中でも注目すべきは、1958年にケルン放送局(現在のWDR)の電子音楽スタジオで作られた「アルティキュラツィオン」のリミックス版。もちろん、この曲は、電子音をテープに固定したものですから、以前WERGOから出ていた作品集に収録されていたものと同じものなのですが、きちんとしたデジタル・マスタリングがなされて、ヒスノイズも生々しい見事な音に生まれ変わっています。この、ほぼ半世紀前に作られた電子音源のみによる音楽は、現代のデジタル・シンセを聴き慣れた耳には、とても新鮮に感じられます。アナログの発振器とフィルターによって得られたその音たちは、あたかも太古の地球上にはもしかしたら存在したかもしれないような、ある種の「懐かしさ」すら覚えてしまうほどのもの。たった4分足らずのこの曲には、大オーケストラ曲にも匹敵するほどの確かなインパクトが存在しているといっても過言ではありません。そしてなによりも、この曲の世界を人間の声(+いくつかの楽器)によって再現しようというコンセプトによって作られた名曲「アヴァンチュール」と「ヌーヴェル・アヴァンチュール」が、SONYの第4集ですでに取り上げられているにもかかわらず、バリトン以外は別の演奏家によるライブ録音版が改めて同じアルバムに収録されているのですから、これらを並べて聴くことによって得られる希有な体験を、ぜひ味わって欲しいものです。
もう一つの目玉は、やはりSONYの全集にはすでにピアノ版が入っていた「ムジカ・リチェルカータ」のバヤン(ロシアのボタン式アコーディオン)による演奏です。ここで演奏しているマックス・ボネによって全11曲の中の8曲がこの楽器のためにアレンジされたものですが、ピアノソロとは全く異なる、この作品のカラフルな持ち味が見事に表現されたものになっています。第1曲目、前半でオクターブに渡ったひとつの音だけを使って作られた音楽がこれほど雄弁だとは。原曲の4曲目にあたるワルツも、なんという粋なアゴーギグでしょう。
バルトークかコダーイを思わせる「無伴奏チェロソナタ」や、ラジオ番組のために作られた「古いハンガリーの社交ダンス」といった落ち穂拾いもあって、この全集はすべてのリゲティファンの宝物となりました。
6/18追記)
「アルティキュラツィオン」のWERGO盤(WER 60161-50)を聴き直してみたところ、今回のリミックスとは殆ど別物といっても差し支えないほどの違いがありました。ミックス・ダウンによる音像の定位の変化だけではなく、ダイナミック・レンジが著しく広がっているために、WERGO盤では全く聞こえなかった低音がはっきり聞こえますし、音色というか、音源のテクスチャーが全く別物。その結果、生楽器だったら全く別の人が演奏しているような感じになっています。「電子音楽」でこんなことが起ころうとは。

6月14日

LISZT
Harmonies poétiques et religieuses
Roger Muraro(Pf)
ACCORD/4761887
昨年、日本のCDレーベル「トライエム」が活動を停止した時、ファンの間では「ここで持っている膨大な音源は一体どうなるんだろう?」という話題で持ちきりとなりました。何しろ、メロディアほどではありませんが、ロシアの知られざる音源を独自にライセンスを取って販売していたメーカーです。なかなか趣味の良いチョイスでした(それは「ハイセンス」)。邦人演奏家のアルバム制作にも積極的で、私が個人的に応援している高橋多佳子さんのCDもここからでしたっけ。1年経った今、若干の音源は他のレーベルに移行できたのですが、まだまだ眠っているものがたくさんあり、中でも、スヴェトラーノフの管弦楽小品集や、一連のカプースチンのピアノ作品集については、「なんとかしてくれ〜」とまるでファンの悲鳴が聞こえるかのように、再発が待たれているアイテムと言えましょう。
さて、フランスのレーベル、ACCORDADDAADESが活動を停止したのはいつのことでしたっけ。フランスの中でも、とりわけ粋な音を売り物にしていたこれらのレーベル。経緯はわかりませんが、ある時「どうも活動を停止したらしい」と聞き、慌てて購入しようと思っても、もう店頭にはほとんどなかったという代物です。それらのアイテムが、一昨年あたりからレーベルをMUSIDISCと替え、店頭に並び始めたのも御存知の人は多いでしょう。それからもちょっとした紆余曲折を経て、現在では比較的安価で安定供給されるようになり、今回のミュラーロの一連のアイテムも、ようやく陽の目を見たというわけです。
1988年に、パリで演奏されたメシアンの「幼子」が、作曲から大賛辞を受けたことで一躍注目を浴びた彼。以来、「メシアン弾き」として知られるようになったことはよく知られています。このリストは、1993年といいますから、それから5年後の録音ですね。当たり前といえば当たり前ですが、メシアンが楽々弾ける人はリストも(いくら超絶技巧を駆使したと言えども)楽々なんですね。今回のミュラーロを聴いて、それをしみじみ思いました。(以前、ここでも取り上げたオズボーン君なんかもその系統の人と言えましょう。)
この「詩的で宗教的な調べ」は、それほど技術的には難しい作品ではないのですが、その分、曲に盛り込まれた内容が恐ろしく多いためか、あまり演奏されることはありません。第3曲の「孤独の中の神の祝福」と、第7曲の「葬送」だけは有名で、アラウを始め、多くのピアニストが取り上げていますが、全曲のCDは驚くほど少ないのも以前書いたとおりです。
ミュラーロの演奏ですが、全体的にさっぱりめ。(時間も総体的に早目のせいか、全曲が1枚に収まっています。)しかしながら、つぼはきちんと押さえた演奏で、第6番の「眠りからさめた御子への賛歌」などは絶品です。恰もゆりかごに揺られながら歌われるような、いかにもリストらしい美しいメロディ。今まで聴いた演奏のどれもが、じっくりねっとりだったのに対し、ミュラーロはとてもさりげなく奏します。これがまた斬新でした。そう、リアルタイムで聞くのではなく、遠い昔に「こういうの聞いたよな」と思わせてくれるような肌触りです。そういえば、彼のメシアンもことさら細部を強調するのではなく、大きな流れを作って一気に聞かせてくれたのでしたっけ。
簡素だからこそ考えさせる余地がある・・・そんなことを思った1枚でした。

6月12日

What Is It?
Naturally Seven
FESTPLATTE/MUVE RECORDINGS/903172
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCP-66296(国内盤 CCCD
1998年にニューヨークでデビューした7人組のヴォーカルグループ「ナチュラリー・セヴン」は、2000年にPRIMARILY A CAPPELLAからリリースされたファースト・アルバム「Non Fiction」によって、一部の人には知られていたようですが、このセカンドアルバムが国内盤でも発売されたことによって、じわじわと日本でのファンが増えてきています。折からのア・カペラブーム、これからますます耳にすることが多くなってくることでしょう。というのも、黒人のコーラスグループである彼らの音楽は「R&B」とか「ヒップ・ホップ」と呼ばれるカテゴリーに入るもので、そういう方面とはあまり縁のない人たちはちょっと敬遠してしまうかもしれないのですが、どうしてどうして、これは、そんなブラック・ミュージック・ファンだけの間で聴かれてしまうのはもったいないほどの、多くの人が共感するに違いない素晴らしいアルバムなのですから。
ひとつ、このアルバムの特徴とされるのは、「すべて、人の声だけで録音されている」ということです。今や、ア・カペラ業界では、コーラスだけではなく、パーカッションまでも声で再現してしまう「ボイス・パーカッション」、略して「ボイパ」はなくてはならないものになっています。ほうれん草が必要という難点はありますが(それは「ポパイ」)、かつての「ナイロンズ」のようにリズムマシーンに合わせて歌う姿は、もはや過去のものとなってしまったのです。そして、なんと、「ナチュラリー・セヴン」の場合は、さらにその上をいく形、すなわち、リズム楽器だけではなく、ストリングスからホーン、果てはフェンダー・ローズのようなエレピや、ディストーションのかかったファズ・ギターまで、すべての楽器を人の声で再現しています。例えば10曲目の「Get Ready」でのジミヘンばりのギターは、とても人間の声だなどとは思えないほど、それぐらい、信じられないほどの「わざ」が駆使されているのです。この手法は、デビューアルバムではまだ模索の段階だったものが、このアルバムになって驚異的な「芸」として確立されました。こうなると、もはや、楽器を演奏するミュージシャンは必要ありません。
しかし、そんな「凄さ」さえも、このアルバムの魅力のほんの一部分にしか過ぎません。本当に心を奪われるのは、どのトラックも、たとえ耳に不快なラップで覆われていてさえも、その底には暖かさの漂う極上のメロディーが潜んでいるということ。中でも、6曲目の「Music Is The Key」という6/8のバラードと、殆ど素のア・カペラで歌われる8曲目の「More Than Words」はお勧め、彼らがライナーに書いている「我々が歌っている理由である、救世主イエス・キリストに感謝」という言葉が、確かなメッセージとして伝わってくるナンバーです。そして、最後のトラック、「アメージング・グレース」と「ダニー・ボーイ」をメドレーにした「Grace」では、それは祈りとなって心に響いてきます。彼らの先輩格である「テイク・シックス」も、同じようなメッセージを発していたものですが、そういえばそのファーストアルバムとこのアルバムのデザイン、どこか似ているとは思いませんか?


6月11日

SCHUBERT
Die Schöne Müllerin
福井敬(Ten)
横山幸雄(Pf)
AVEX/IOCD-20087(CCCD SACD Hybrid
月22日発売予定)
どんなに素晴らしい歌手でも、CDが出ていないと広く知られる事がない、という昨今の事情には、少々悲しいものがありますね。とりわけ日本の歌手の場合、リサイタルアルバムが出ている人はほんの一握り。逆に言えば、「何とかアルバムさえ出してしまえば大歌手の仲間入り!」と言っても差し支えないのは一体どうしたものでしょう。
今回の福井敬さんも、そんな「リサイタルアルバムのない」実力派の1人でした。(いえいえ、私は個人的に現在の日本人のテノール歌手ではピカイチの存在だと信じています。)以前、大阪センチュリーと共演した、「第9」のソロはありましたが、メジャーレーベルからの歌曲集というものはなくて、ファンとしてはとても寂しい思いをしていたのです。今回、待望のソロ・アルバムが発売されると聞き、伝手を頼って、発売前に音を入手することができました。「やった〜」って感じです。曲は「水車小屋の娘」です。それも日本語歌詞版!歌詞をつけたのが、なんと松本隆、薬屋ではありません(それは「マツモトキヨシ」)。「はっぴいえんど」の、などと言っても誰も知らないでしょうが、有名なものでは太田裕美の「木綿のハンカチーフ」とか、松田聖子の一連の大ヒット曲を作ったあの作詞家です。吉田拓郎の「外は白い雪の夜」という素敵な詞もありましたね。
先日のマスターの禁断ではありませんが、「歌詞を呪文として聞く」というフレーズがなんとなく頭に残っています。日頃、どちらかというと日本語以外の言葉による歌を聴くことが多い私ですが、ほとんど意味を理解せずに過ごしているんだな。としみじみ思うのです。この「水車小屋」にしても、粗筋、歌詞の大意は知っていますが、実際ドイツ語で聴いた場合、完全に理解しているわけではないですね。実は日本語でも「言葉を歌に載せる」ことは難しいことでして、例えば“巨人の星”の冒頭の「思い込んだら」を「重いコンダラ」と勘違いする笑い話は有名で・・・・。それでも、ドイツ語で歌われるよりは、日本語で歌われた方がストレートに心に響くことは確かなことなのです。(あまりにもストレートすぎて恥ずかしくなることもありますが。)今回の訳詩、音楽に気持ち良く寄り沿うところが最大の特徴でしょう。難しい言葉は一切出てきません。どの言葉も的確に青年の心を反映しています。例えば、第9曲「青い花」、この狂おしい程に優しい小さな曲につけられた歌詞。第3節の終りで繰り返される「忘れないでって」の部分。ここの美しい切なさ・・・・。たった一瞬のことなのに、忘れ難い印象を残してくれました。
これは、福井さんの輝かしい声と、見事なまでの表現力。そして横山さんの見事なピアノ伴奏にも起因するのでしょうが、この曲集が、改めて若者の愛の歌であったこと、それが心にじ〜んとしみたのです。クラシックなんて聴いたことのない若者に聴いてほしい。そんな希求力のあるステキな1枚です。とにかく発売日が待ち遠しくてなりません。

おとといのおやぢに会える、か。


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