エッチ度。.... 渋谷塔一

(04/4/24-04/5/15)


5月15日

SILVESTROV
Stufen
Alexander Lubimov,Valentin Silvestrov(Pf)
Jana Ivanilova(Voice)
MEGADISC/MDC 7832
先日、いきつけのCD店に行った時のこと、レジの前のカゴの中に、法外に安いCDの山を見つけました(ほうがい<東北弁)。どうも売れ残りの商品らしいのですが、1枚300円という度を逸したプライシングには、正直驚いてしまいましたね。私が覗いたのはセールを始めて3日くらいたってから。「1500枚くらいありましたが、めぼしいのは初日に売切れてしまいました」とお店の人の話です。300円にしても売れ残るものは一体どんなアイテムでしょう?とその山を丹念に見ていきました。
すると、こんな拾い物を発見。シルヴェストロフのCDではありませんか。それも8枚も同じものが!最近は、ECMレーベルから定期的にシルヴェストロフの作品がリリースされていますし、クレーメルの「アフター・モーツァルト」にも「エレジー」が収録されていたので、かなり作曲家としての知名度があがったはずですが、このCDの発売は2000年ですから、まだ彼の作品が話題になる前のもの。
リュビーモフのアルバムに収録されていた「エレジー」は、どちらかというと「癒し」を全面に押し出した構成になっていましたが、、彼の作風も年代を追うごとにかなり変化していまして、半年ほど前に出た「メタムジーク」は、かなり衝撃的な音も含まれていてとても癒しどころではなかったですし、最新作の「メリッサのためのレクイエム」は、愛する人を追悼するための曲だそうで、全編苦悩の影が濃い重い作品です。ですから、こういうアイテムは、聴いて見ないと全く内容が判りません。そんなこんなで、恐らく入荷したものの全く売れることなく、4年間倉庫に眠っていたのでしょう。
さて、このstufenと題されたアルバム、(ちなみにタイトルは「段階」という意味のドイツ語です)裏を見るとピアノがあのECMでもおなじみのリュビーモフ、そして共演は「ヴォイス、イワニロワ」とあります。歌曲集のようなのですが、わざわざヴォイスと記すあたりが意味深です。曲ごとの題名は、シルヴェストロフお得意の「エレジー」であったり、「私の魂」であったり、「夢の中へ」や「失った恋」という言葉さえあります。もしかしたら・・・と思ったとおり、これは、ほとんどヒーリングといってもよいほどの穏やかな音楽で満たされた、静かな1枚でした。解説を見ると、1970年から80年代にかけて、彼は歌曲集をまとめて作曲したとあります。この曲も81年から82年にかけて作曲されたもの。この頃の彼は、ノスタルジックなものへの憧憬が強かったのかもしれません。
静かなピアノの分散和音にのって歌われる「My soul」などはまるで、あのバッハの「アヴェ・マリア」のような佇まいを持っています。メロディは、それこそ一度聴いたら繰り返して歌えるほどの平易なもの。途中で、現れる転調の方法はまさにフォーレやリストのやり方。(一つの音を基点として、そこから別の調性に移るアレです)「Lost love」は、あまりにもどこかで聴いたことのあるメロディで、この曲が作曲されたのが82年ということを知らなければ、誰かの曲のパクリであると信じて疑わない人も出るだろうなと思ってしまう・・・そんなある意味通俗的な曲集でした。
しかし、忘れてはいけないのは、この歌曲集に含まれた曲は、全て商業的な目的をもって書かれたものではないということ。例えば、映画のラストシーンに合わせて書かれたバラードでもなければ、デビューしたての歌手に歌わせるために作曲されたものでもないのです。89年に音楽祭で演奏されてはいますが、こうしてCDになっても、誰も話題にすることもなく、最後にはCD屋の店頭で10分の1の値段で処分される・・・・所謂「忘れられた歌」たちです。

5月12日

Flûte Panorama
Sophie Cherrier(Fl)
Laurent Cabasso(Pf)
Frédérique Cambreling(Hp)
Nicolas Bone(Va)
SKARBO/DSK 4039
ソフィー・シェリエというフランスのフルーティストのソロアルバムです。彼女は、あのアンサンブル・アンテルコンテンポランのメンバー、20世紀の作品ばかりが収められているこのアルバムは、いわば彼女の十八番とも言うべきものでしょうから、楽しみです。
彼女は、ソリストであると同時に、パリ国立高等音楽院で後進の指導(決して「ギアをバックに入れて!(@茂木大輔)」などという指導をしているわけではありません)にあたっており、日本にもお弟子さんがたくさんいるようですね。彼女自身のキャリアとしては、ライナーに「1981年のランパル・コンクールで優勝」とありますが、これはまちがいで、コンクールのサイトで確認すると「1983年に4位に入賞」が正確なデータであることが分かります。1980年に創設されたこのフルートコンクール、その年にはご存じ工藤重典が優勝を果たしていましたが、1983年の第2回では、やはり日本人である佐久間由美子が17歳という若さで第1位を獲得して、大きなニュースになったものです。その時の第2位が加藤元章、第5位が長山慶子という、まさに日本人ラッシュとなった受賞者の中で、4位を獲得したのが、このシェリエというわけです。
アルバムの収録曲は、20世紀の作品とは言っても、大半はもはやフルーティストの一般的なレパートリーになっているものばかり、したがって、ここでシェリエならではの個性が発揮され、他の似たようなアルバムとの差別化を図れるものは、1953年イタリア生まれの作曲家イヴァン・フェデーレの「Donax」という作品になるのでしょうか。この作曲家も作品も、私は全く聞いたことがありませんでしたが、1992年に作られた、ライナーの解説によると太古のパンパイプのイメージを現代のフルートで表現する「旅」をめざしたものであるというこの曲には、いわゆる「現代奏法」と呼ばれる特殊な技法が、数多く取り入れられていてなかなか興味深いものがあります。とは言っても、それらの技法のめざすところはかなりソフィスティケイトされた表現であって、ひところの騒音と紙一重といった過激なものではないところに、この時代のテイストを感じることが出来るでしょう。シェリエは、フルートだけによるこの困難な曲を、淡々と吹ききっています。
ほかに収録されている、「スタンダード」な曲は、ドビュッシーの「ソナタ」、マルタンの「バラード」、バルトーク/アルマの「ハンガリー農民組曲」、そしてヒンデミットの「ソナタ」です。すべての曲について感じられるものは、中庸をわきまえた品の良さ。まるで模範演奏のような、テクニック、音色共に過不足のないフルートは、それなりに聴き応えのあるものですが、いまいちインパクトに欠けるのは否めません。その分、ピアノ伴奏のカバッソが仕掛けているアグレッシブな表現には、惹きつけられるものがあります。この伴奏に支えられても、はじけきるところがないあたりが、「4位入賞」の限界なのでしょうか。

5月9日

SCHUBERT
Winterreise
Nathalie Stutzmann(Alto)
Inger Södergren
CALLIOPE/CAL 9339
(輸入盤)
キング・インターナショナル
/KICC-4391(国内盤)
最近、何となく「冬の旅」のリリースが多いように感じます。今回は、名アルト歌手シュトゥッツマンがこの曲を歌ったもの。この曲は男声で歌われるのが一般的であるため、録音でもほとんど女声のものはありません。その意味でも貴重な1枚といえましょう。
個人的に言えば、やはりこの曲は男声に限ると思っています。それもやや硬質のバリトン。クヴァストホフやハンプソンはちょっと好みではなく、ホッターは古い気がします。ディースカウはあまりにも整っている気がするし、ゲルハーエルは若々しくてよかったけど、もう一味欲しいし。となると、やっぱり最近聴いたゲルネでしょうか。
なんて言ってますが、いろいろ聞き比べていくと「私は一体何を求めているんだろう?」と判らなくなってしまうのが本音でした。どれも良いところがあり、気に入らないところがあるんですね。たくさんの人に「どれが1番ですか?」と訊いて、一番多い答えをベストにするやり方もありますが、(レコード芸術なんかにそういう記事ありますよね)別にラーメン屋のランキングを決めるわけでもないのだから、多数決はいかがなものかとも思ってしまったりもするのです。
で、このシュトゥッツマンです。私がこの曲を好きな理由は、ここには暗く厳しい世界があるから。ひんやりと澄み切った空気と雪の冷たさ、全てを拒絶する世界。しかし、もともとふくよかな声の持ち主であるシュトゥッツマンの歌は、その冷たさを全て払拭するようなものでした。それは、冷たく冷えていると思って口にした飲み物が生ぬるかった・・・・そういう感覚にも似ています。色が赤いのもちょっと・・・(それはケチャップマン)。
私がこのような違和感を感じてしまうのは、恐らくこの曲を聴く時、自らを旅人になぞらえているからなのだと思うのです。予想外の暖かさに戸惑ってしまったのでしょう。ピアノ伴奏のセデルグレン(この人も女性です)の弾くピアノも、ものすごく濃い味付けで、時には表情過多とも思える演奏。シューベルトを古典派ととるか、ロマン派ととるかと聞かれたら間違いなく「ロマン派」と答えそうな人です。(この人のモーツァルトも聴きましたが、同じテイストでした。)
この演奏を楽しむためには、頭を切り替えるとしましょう。第三者として、旅人を応援するのです。あまり寒い思いをさせないで下さい。あまり悲しい思いをさせないで下さい。と願いながら聴くとよいのでしょう。これは、某有名アニメの最期の場面を見るような気持ちです。犬と少年が教会の床に崩れ落ちると、天使たちがやってきて、彼らを天上へ誘う・・・・・というアレです。このアニメ、大抵の人気ランキングで上位に推されますね。というわけで、随分話が飛びましたが、やはり私はこの曲は男声で聴きたいと思いました。すみません。

5月7日

BRUCKNER
Symphony No.4
Christoph Eschenbach/
Orchestre de Paris
ONDINE/ODE 1030-2
(輸入盤)
キング・インターナショナル
/KKCC-4396(国内盤)
最近、なぜかブルックナーの4番のCDを頻繁に聴いています。たまたま新譜が重なったためなのですが、これは私にとってはなかなか嬉しいことでした。実は、今頃はARTE NOVAからもう1枚新譜が出ている予定があるってのが情報として伝わっていたのですが、諸般の事情で発売が延期になったとか。この「4番」、非常に珍しい「第1稿」による久しぶりの演奏なので大いに期待していたところ。遅れてもちゃんと発売されれば良いのですが。ただ、このCDの広告が「レコ芸」あたりにすでに掲載されているものを読むと、この「第1稿」という点が全く強調されていないのはちょっとまずいのではないかと、他人事ながら心配になってきます。ご存じのように、この「1874年版」というのは、現在普通に演奏される「第2稿」、つまり「1878/80年版」とは、同じ「4番」とは言っても殆ど別の音楽に聞こえるほど異なった仕上がりになっているものです。この広告ではそのことに全く触れてなくて、ただ単に「1874年初稿ノーヴァク版」とあるだけ、一応「初稿」とはありますが、「ノーヴァク版」と言えば一般的な楽譜だと思っている普通の人は、おそらく「第2稿」だと思って買ってしまうのではないでしょうか(この曲の場合、「ノーヴァク版」は「1874年版」、「1878/80年版」、そして「1878年版のフィナーレ」の3種類が存在するのです)。もしかしたら、「これは曲が違う!」と言って怒り出すお客さんが出てくるかも。うまい具合に発売延期になったので、再度そのあたりを押さえたコピーを掲載するのはいかがなものでしょう。
さて、このエッシェンバッハによる最新録音盤、一応公式録音とされているリストを見てみると、最初にこの曲を録音したベーム盤から66年の歳月を経て、初めてのフランスのオーケストラによって録音されたCDということになりました。もちろん、これは単なる偶然で、CDにはならないコンサートや放送ではとっくにフランスのオケも演奏していたのでしょうが、なにはともあれ、ブルックナーの中では最も有名な「4番」をパリ管が録音したと言うことは、ある意味歴史的なことではあるわけです。そして、その歴史を作ったのが、今や、ドイツ、フランス、そしてアメリカと、同時に3つの異なる文化圏のオーケストラのシェフを務めているエッシェンバッハというのも、何か象徴的なものを感じます。
というような先入観を持って聴くことにどれほどの意味があるのか、このライブ録音の最後に収録されている割れんばかりの拍手を聴きながら考えてしまったのは、この演奏がとことん魅力にあふれるものだったからです。第1楽章は意外にもねっとりとした、ひょっとしたらドイツのオケと思える重心の低い音楽。第2楽章では、そこに雄弁な語り口が加わります。それが第3楽章になると、エッシェンバッハはこのオーケストラの金管セクションの持つとびきりの明るい音色を縦横に使いこなして、ドイツのオケからは到底聴くことの出来ないとても華やかな世界を繰り広げてくれました。そして、フィナーレこそはすべてのたがが外れた生命力あふれる乱舞、こんな弾けた音楽、ジャケットのお堅い顔から想像できますか?

5月4日

Obsessions
Arias and Scenens by Wagner and Strauss
Debora Voigt(Sop)
Richard Armstrong/
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
EMI/557681 2
最近の新聞記事で、立て続けに「太りすぎで舞台を降ろされたプリマ」の話を読みました。1人はロシアのバレリーナ。何でも相手役が彼女の体重を支えきれなかったとか。そしてもう1人が、今回のアルバムの主人公デボラ・ヴォイトです。「出腹」ヴォイトと言うぐらいですから、コヴェントガーデンでの「ナクソス島のアリアドネ」の公演で、「太りすぎてロココ調の衣裳が似合わない」という理由で降ろされたのだそう。何とも気の毒というか、最近はもう「プリマ=太っている」という図式は当てはまらないんだと、納得したというか。ただ、食べることに執着しているのだとしたら、それは健康のためにも改めて欲しいと、ファンとして心から願うのでした。
さて、その「執着心」そのものをアルバムタイトルに据えた今回の1枚。内容は、ワーグナーとR・シュトラウスのアリア集というもの。並んだ曲を一瞥すると、確かに「取りつかれた女心」がくっきりと浮かび上がってくるではありませんか。
そもそもオペラに登場する女性は、そういう激しい性格が与えられがちですが、とりわけワーグナーの描く女性像はエキセントリックです。見ず知らずのオランダ人のために、命を投げ出すゼンタをはじめ、殆ど全ての女性が愛する男のために命を投げ出すといっても過言ではありません。(例外はマイスタージンガーのエヴァくらいでしょうか)愛の陶酔のうちに恍惚としてこときれる・・・端からみたら滑稽でしょうが、彼女たちは全く他人の目は気にしません。
ヴォイトの歌うエルザ、ジークリンデ、イゾルデは、それらの女たちの特徴を丁寧になぞっています。イゾルデの「愛の死」での感極まった歌を聴くと、やはり彼女は現在最高のワーグナー歌手であると、再認識せざるを得ないというものです。
そこへ行くと、シュトラウスの場合はもう少し女性を見る目がシビアです。確かにエレクトラもサロメも、妄執に取りつかれ、歓喜の踊りを踊りながら最期の時を迎えますが、これ以降の作品ではシュトラウスは決して、女性に対してそういう扱いはしません。もしかして彼は「女は本当のところは、すごく計算高い生き物だ」ということを身を持って知っていたのではないでしょうか。
一つ面白かったのが、エレクトラからのアリアは「クリテムネストラ」のものだということ。復讐を願う姉と対比させるように描かれる、普通の女の幸せを願う妹クリテムネストラ。「私は、井戸の周りおしゃべりをして、子供を生んで育てるの・・・・」この内容を「取りつかれた女の叫び」と受け取るのだとしたら、それはとても深いものなのだろう。と思いましたが。(このアリア、通常の前曲盤や、実際の公演ではほとんどカットされる部分です。)

5月2日

Watercolours
Swedish Songs
Anne Sofie von Otter(MS)
Bengt Forsberg(Pf)
DG/474 700-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1185(国内盤)
先日、仕事でイギリスの方と話をする機会がありました。相手の話す事は大体わかるのですが、なんと言っても、自分の言いたい事が伝わらない!と言うか、伝える言葉が見つからない・・・。身振り手振りで、何とかコミュニケーションを保ちましたが、「言葉の壁」を強く感じた一時でした。NOVAにでも通わネバ、思わず頭の中にピンクのウサギが浮かんだくらいです。
その「言葉の壁」のまさに最たるものが、今回のオッターの歌曲集でした。1月に輸入盤が発売されて、もちろんすぐに入手したのですが、これは全てスウェーデン語の歌詞のよるもの。輸入盤のブックレットでは、内容を把握するのは困難でしたし。英語の訳もついていますが、これをきちんと読み下すほどの英語力すらないのにも情けなくなりました。
ここに収録された作曲家自体、日本でほとんど馴染みのない人たちばかりです。かろうじてラーション、アルヴェーン、ラングストレムの名前が知られているくらいでしょうか。曲の書かれた時期は概ね1910年から50年代。この時代の北欧の音楽というものが、まだまだ知られていない事を考えると、その点でも貴重な録音といえるのです。
で、内容については、国内盤が出るのを待つことにして、ずっと音だけで楽しんでいました。(そういえば、最近のカサロヴァの“ブルガリアの心”もそんな1枚でした)オッターの心地良い歌声とフォシュベリの達者なピアノの音を、歌として出なく音楽として楽しむわけです。「北欧の作曲家は必ずどこかに自然の音の刻印を入れる」といつか読んだ書にもあったような気がします。確かに、耳を澄まして聴いていると、いろいろな音が描写されているようです。風の音、波の音、せせらぎの音。もしかしたら間違っているかもしれないけれど、自分なりの想像力を働かせて聴いてみるのも、なかなか楽しいことでした。総じて、ドイツやフランスの歌より素朴な印象。やはり独自の道を歩んできたのだなと感じさせる内容です。
で、やっとお待ちかねの国内盤が発売されました。対訳を読むのがこれほど待ち遠しかったことがあるでしょうか。どれもが、本当に自然と一体になっている歌が多く、例えばフルーメリー(1908-87)が「心の歌」で用いた歌詞はほとんどの時の流れを、自然界の現象に重ね合わせて表現しています。あのマーラーのように、真夜中に宇宙や神に思いをはせるような壮大なものではなく、あくまでも身近な自然から時を感じること。これに尽きるのだなと感心した次第です。
相変わらず、何回聴いても歌詞は全くわかりませんが、言葉の響きは実に音楽的。そういえば、風の音も波の音も意味はないでしょうが、美しい響きとして感じることはできますよね。

4月30日

MAHLER
Symphony No.3
Petra Lang(Alt)
Riccardo Chailly/
Royal Concertgebouw Orchestra
DECCA/475 514-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1108/9(国内盤)
その昔、そう、LPレコードの時代は、マーラーの交響曲全集なんて、5本の指で数えられるくらいしかなかったように思います。私が一番最初に買った全集が、クーベリックでした。箱にクリムトの「水蛇」があしらってあるオシャレなデザイン。カレーも作れるし(それはターメリック)。その次はショルティ、そしてハイティンク。あまり好きでなかったけれど、とりあえずバーンスタインも・・・。あと輸入でアブラヴァネルが出ていましたが、それだけが入手できずくやしい思いをしていたものでした。それがどうでしょう。約25年の年月を経た現在、CD店のマーラーの全集コーナーはほんとに花盛り。インバル、レヴァイン、エド・デ・ワールト、シノポリ、小澤征爾・・・まだあるでしょう。そして全集になるであろうブーレーズ、今回のシャイー、リットン、そしてザンダー・・・・。これだけ選択肢が多いと何から聴こうか迷ってしまいそうですね。
さて、そんなシャイー。今回3番をリリースしたことで、全集完成に王手をかけました。残すは9番のみ。(大地の歌も入れるでしょうけど)シャイーのマーラーの特徴はとにかく丁寧な音つくりでしょう。それは最初にリリースされた第7番から変わることがありません。どの曲のどの部分を取り出しても、これでもかというくらいに緻密な音が張り巡らされています。(4番に至っては、「軽やかな音で聴きたい」と日頃思っていた私の好みにあわずに一聴して人に譲ってしまい、後で聴きなおしたくなって再度買いなおしたという苦い思い出すらあります。)
今回の3番も冒頭から圧倒され尽くしです。あのホルンのファンファーレはもとより、それに応える太鼓の鳴らし方。ここを聴いただけで、シャイーの拘りがよくわかるというものです。アバドにしても、ブーレーズにしても、バーンスタインにしても、ここまで思いいれたっぷりに叩かせているのは今までに聴いたことがありません。第1楽章だけでも34分。全曲でおよそ100分。コンセルトヘボウが良く付き合ったな。という感じを抱くほどに至れり尽くせり。終楽章の最後の音が消えるまで、その拘りは全く変わることがありません。まるで、贅を尽くしたハリウッドの映画をみているような気分になれます。
全曲聴き終って、同僚が漏らした一言。「割りと普通の演奏だったね・・・。アバドの方が良かったな」と。で、その違いについて訊いてみました。彼がいうには「シャイーの演奏は、余裕たっぷり。アバドのは、はっきり言って瀕死の状態。ぼろぼろになって終楽章に辿り付いたという感じで、それがたまらないな」とのこと。私も、いつだったかオグドンのメシアンを聴いた時、同じような感想を抱いたことをふと思い出しました。確かに、マラソンでも、余裕たっぷりにゴールのテープを切る走者より、よれよれになってゴールに駆け込み、そのまま倒れこむ走者の方に「よくがんばったね」と声を掛けたくなるような風潮があります。ただし、それが音楽に於いて本当に必要なことなのか。今の私には、はっきりとした答えがみつかりません。ただ、私はどちらの演奏も「好き」ではあることに変わりはありません。

4月28日

BEETHOVEN
Piano Sonatas opp.10&13
Maurizio Pollini(Pf)
DG/474 810-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-3207(国内盤)
前作のベートーヴェン「中期ソナタ集」でも素晴らしい演奏を聴かせてくれたポリーニの新譜です。今作は、ピアノ・ソナタ5番から8番というベートーヴェンの初期の作品集。無論ポリーニにとっては、初期の作品の録音は初めて。後期、特に最後の3つのソナタではあれほどまでに高い評価を受けている彼が、敢えて手をつけなかった分野とも言える作品群です。
若い頃のベートーヴェンの作品は、かなり革新的な書法を用いているとは言え、まだ取り掛かりやすいため、ピアノ学習者用の教材として用いられることも多いですね。表題どおりの曲想を持つ「悲愴」はもとより、弾きこなすにはかなり体力を要する「第7番」。これらを勉強したことがあるという人も私の周りにちらほらいて、このアルバムを聴きながら、「このオクターブは汗をかくんだよね」などという話で盛り上がったりもしました。そんな、ある意味親しみ易い作品であるにもかかわらず、「完璧主義者」と言われるポリーニは、敢えて60歳を過ぎるまで手をつけなかったのです。30代半ばで「最高に難しい」とされる後期の5曲を録音した人なのに。
さて、そんな彼の初期ソナタ集ですが、全く期待に違わず、とにかく素晴らしいものでした。テクニックの冴えは相変わらずで、どんなパッセージでも音が濁ることがありません。粒カラシをつけて温かいうちに味わいましょう(それは、ソーセージ)。いつも思うことですが、どんな音楽でも言葉でも、きちんとした技術に裏打ちされてこそ、本当に言いたいことが表現できるのですね。例えば、私が大昔汗をかきながら練習した第7番。彼はこの曲をいとも楽しそうに弾きこなします。何しろ、時折鼻歌まで聞こえてくるほどの上機嫌さです。この第1楽章は、上昇する動機と下降する動機の呼応の素晴らしさが曲のテーマになっていますが、ポリーニの演奏を聴いていたら、なぜか、最近はまっているパルジファルの花の乙女の合唱を思い出しました。美しい乙女が、あちらからこちらから笑いながら呼びかけてくる・・・そんな鮮やかな光景です。ベートーヴェンの音楽に色っぽさを感じる事などにわかに信じ難かったですが。
そして、「悲愴」の第2楽章での静かな美しさに完全に耳を奪われました。曲自体が魅力的で、ジャズやポップスにまで編曲されることもあるほどですが、ポリーニは、この曲の本来の姿を丁寧に再現しています。最近のポリーニは、シューマンもベートーヴェンも暖かさと深みを増したとは良く言われますが、このソナタ集も、ジャケの写真で見られる温和な表情そのままの、暖かいベートーヴェンでした。いつかブレンデルが、「本当のモーツァルトは老人が演奏するもの」だという趣旨の言葉を語っていましたが、このベートーヴェンも、そのようなものなのかもしれません。何より、過去を振り返って初めて見えてくるものがある、というのは私自身でもよく体験することなのですから。

4月26日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.103
今から15年前、ノリントンが当時の手兵のロンドン・クラシカル・プレーヤーズというオリジナル楽器の団体を率いて「幻想」を録音した時には、殆どセンセーショナルな「事件」と受け止められたものでした。ついに、ベルリオーズにまでオリジナル楽器の波が・・・という驚きです。しかし、考えてみれば、この曲が作られたのは、そのオリジナル楽器で最も頻繁に演奏されていたベートーヴェンが亡くなってわずか4年後のことなのですから、なにも特別のことではなかったはずなのですね。事実、その後はガーディナーあたりもオリジナル、というか、彼の場合はまた別のアイディアも盛り込んで、この曲の「ロマン派」という既成概念を見事に取り払っていたのでしたね。
ノリントンが、「幻想」を再録音しようと思ったのは、ライナーの彼自身のコメントによると、昔は何がなんでも作曲された当時の楽器でなければダメだと考えていたものが、最近は、モダン楽器でも「クレバー」な人が演奏すれば、自分が求めているものは表現できる、と思えるようになったからなのだそうです。それは、最近の彼と、彼のオーケストラ、シュトゥットガルト放送交響楽団の数多い演奏を聴けば大いにうなずけることでしょう。彼らの手になるベートーヴェンなどからは、モダン楽器でありながら、見事に、かつてはオリジナル楽器でしか生み出せなかったようなグルーヴを聴き取ることが出来るのですから。
かつてのLCPがそうであったように、今や、このオーケストラは、ノリントンの意図を忠実に表現できる団体となりました。一見突拍子もないようなアイディアでも、プレーヤーが確実に自分のものとして説得力のある音楽に仕上げている様が、聴くものに良く伝わってきます。これは、ひとえにノリントンが作り上げるフレーズが某○ノンクールのような人工的で不自然なものではなく、極めて納得のいくものであることに尽きるでしょう。さらに、弦楽器こそ徹底したノン・ビブラートで、やや窮屈な感じがありますが、管楽器にはオリジナル楽器にはない輝きが備わったため、旧録音よりははるかに華やかな仕上がりになったことも、歓迎すべきことでしょう。さらに、このライブ録音では、楽器の配置に独特のアイディアが秘められています。弦楽器はいわゆる「両翼」タイプ、そして、なんと言ってもユニークなのが、ハープとティンパニをそれぞれ上手と下手に完全に分離したことです。第2楽章でのスター、ハープは、さらにそれぞれのパートを倍増、弦のトレモロに乗って左右交互にアルペジオを奏でる様は、なんとゴージャスなことでしょうか。それに負けずにスペクタクルなのが、2組のティンパニ。スコアでは、第4楽章のマーチは1拍ごとに分担が変わっていますので、「ドン・タン・ドン・タン」の「ドン」が右、「タン」が左というように、きちんと「パン・ポット」していますよ。ベルリオーズがこの曲に込めた先駆性、未来を先取りしたその天才のアイディアは、現代の天才指揮者ノリントンの手によって、見事に花開いたのです。
とは言え、このような配置は演奏家にとってはとてもやりずらいもの、それを難なく成し遂げたこのオーケストラの驚異的なアンサンブル能力も、賞賛に値します。というか、ノリントンには確かな勝算があったのでしょう。

4月24日

CHOPIN
Études
Freddy Kempf(Pf)
BIS/SACD-1390
(輸入盤)
キングレコード
/KKGC-4(国内盤)
韓国の人気ドラマ「冬のソナタ」の再々放送が始まりましたね。韓国の農村の実情を描いた問題作(それは、「冬のイナカ」)ではなく、ただのラブ・ストーリーです。あんなベタなドラマを何回も見てなにが面白いのかと、門外漢は白けているフリをしていますが、ハマった人に言わせれば、見直すごとに最初見た時には気付かなかったことがよく分かるのだそうです。
さて、以前から注目している若手ピアニスト、フレディ・ケンプの新譜です。今回は彼が最も得意としているショパンのエチュード(練習曲)全曲です。私にとってみれば、このショパンの練習曲は、まさにヨンさまファンにとっての「冬のソナタ」、それこそ小さい頃から、幾度となく聴いたり弾いたりしてきましたが、その都度新しい発見があり、何回接しても「へぇ〜」と思える部分があって、汲めども尽きぬ楽しみが詰まっている曲集であるのです。
今回のケンプの演奏、聴いて見ましたが、かなり斬新な解釈で少々驚きました。そもそも、いつも「解釈」なんて偉そうなことを書いていますが、「解釈」ってなんでしょう?と原点に立ち返ってみました。そう、「自分はこの作品からこういうメッセージを受け取ったぞ」と言うデモンストレーション。それに尽きると思うのです。本でも映画でもドラマでもそうですが、その作品に触れて、自分なりに何かをつかむこと。そしてそれを再構築して、他の人に伝えること。もちろん、これは元々の作品が優れているのに越したことはないですが、なんと言っても、受け手の感性が研ぎ澄まされていないと不可能なことなのでしょうね。
さて、ケンプです。彼はこのショパンの練習曲に「攻撃的」な性格を与えているように思えます。以前、ぺライアの同曲を聴いた時は、まるで春風のような優しさが全編通して漲っていたことを思い起こすと、その違いに愕然とするくらいです。有名な「革命」や「木枯らし」は、もともと激しい性格を持った曲なので、このやり方は劇的な効果を上げています。この息を飲むような迫力。精神的に参っている時には聴いてはいけません。どの曲も鋭く、音の一つ一つが主張を繰り返し鬩ぎあっています。
では、このやり方を作品25の1などに行使したらどうなるでしょう?この曲は、「エオリアンハープ」などという俗称で呼ばれることもある叙情的なもの。終始柔らかいアルペジョで奏され、その中から時折情熱的なメロディが立ちのぼるという趣向の曲です。しかし、彼はこのアルペジョに隠されたメロディを「これでもか」というまでに強調するのです。そう、メロディが主体でアルペジョが伴奏。これはまさに「コロンプスの卵」的な発想だ。と一人にやにやしてしまいました。
一つのテキストから無限の楽しみを引き出すことができる。それを再確認するために、こうして同じ物を聞き比べ自分なりの感想を出してみること。これは、自分自身の感性を確かめるための試金石でもあるのかもしれません。

おとといのおやぢに会える、か。


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