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餅屋より餡を込めて。.... 渋谷塔一

(03/4/5-03/4/24)


4月24日

SCHUBERT
Klaviersonate,Lieder
Leif Ove Andsnes(Pf)
Ian Bostridge(Ten)
EMI/CDC 557460 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55568(国内盤 5月8日発売予定)
アンスネスとボストリッジのシューベルト第2集です。昨年リリースされた第1集で、その内容の濃さは保証付きですが、今回もすばらしいシューベルトを堪能することができます。
そもそも、この企画はシューベルトの同時期に作曲された歌とピアノ・ソナタを一緒に味わうというもので、いわば、小規模のシューベルティアーデといった構成になっています。今回は1825年〜26年の作品で、短い生涯の中でも最高傑作が書かれた時期。交響曲で言えば、ちょうど「グレート」が作曲された年でもあり、彼の充実振りがわかろうというものです。
まずソナタ第17番。このニ長調の作品は、規模も大きく演奏も困難な作品です。最後の3つのソナタのような冥府の底のような暗さはまだなく(メイフ・オヴェ・アンスネス)、ひたすらエネルギッシュな楽想を持つ、とても面白い曲なのです。第1楽章の忙しない楽想の変化は、よほど力量のあるピアニストでないと、ただただ翻弄されて終わるに違いない、と思わせるほど。流麗なパッセージが続くかと思うと、突然関係ない楽想で断ち切られる。かと思うと、あとからあとからメロディが湧いてくる、といった感じで、とにかく聴き手も一瞬たりとも気が休まらない音楽といえましょう。ところが、アンスネスは、この気まぐれとも思えるほど、たくさんの音で満ち溢れた音楽を完全に手中に収め、説得力ある演奏で聞かせてくれるのですよ。本当に上手い!まるでジェットコースターに乗っているように、スリリングな風景を味わわせてくれます。ただただ唖然とする1楽章が終わると、静かな第2楽章になります。とは言え、この楽章も後から後からメロディが湧き出てくる、本当に聴き応えのあるものです。これ1曲で充分「幻想曲」として通用するであろう、大規模なもの。冒頭の主題は現れるたびに形を替え、新たな装飾を施され、音の一つ一つが弾けるように眼の前に立ち現れます。ここでもアンスネスは、全ての音に深い愛着を注ぐかのよう。「もうどうにでもして。」とただただひれ伏すのみでした。そして力強い第3楽章、スケルツォ。この迫力も特筆すべきものです。男性的な第1主題、優美な第2主題、この対比がたまりません。うってかわってトリオの落ち着き、幽玄さ。これも驚きです。終楽章、ロンド。ちょっとおどけたような出だしの部分。民謡のような素朴な音楽なのですが、実は一筋縄ではいかないぞ、と曲自体が主張している挑戦的な部分も持ち合わせています。ここをアンスネスがどのように処理しているか。これはどうぞ、ご自分の耳で。私はこんなにすごいのは初めてでした。
それに続くボストリッジの歌曲がまた秀逸です。この部分だけでも軽く1000字行ってしまうでしょう。いつものような、壊れる寸前のぎりぎりのアブナイ声で、シューベルトの繊細な部分を表出するボストリッジ。アンスネスのピアノは適度に主張しながらも、ぴったり歌に寄り添う形。これも聴き手としてはなかなかスリリングな体験を味わうことができます。
次作も本当に楽しみです。

4月23日

山本直純FOREVER
〜歴史的パロディコンサート〜
山本直純/
日本フィルハーモニー交響楽団
コロムビアミュージックエンタテインメント
/COCQ-83645/6
 「こ・・・こんなものが36年前に!?」と耳を疑うようなとんでもない代物が登場しました。昨年、69歳という働き盛りで亡くなった作曲家、指揮者、山本直純が、日本フィルハーモニー交響楽団を率いて1967年から5年間にわたって毎年開催していたパロディコンサートのライブ録音が、ついに日の目を見たのです。このコンサートのことは、当時、このオーケストラの経営母体であったフジテレビで放送されていた「日フィルコンサート」を毎週欠かさず見ていたという一世代上の友人からことあるごとに話を聞いていたものでした。普段は燕尾服に身を固めている団員が、このときだけは全員普段着というラフな服装(裸婦はいませんが)、それだけで強烈な印象があったと、その友人は語っていました。彼のお薦め、伝説的な迷曲、ベートーヴェン作曲、山本直純変曲の「交響曲第45番・宿命」を晴れてこの耳で聴ける日が来ようとは。ご想像がつくことでしょうが、この曲はベートーヴェンの交響曲のパロディです。題名からして「45番」というのは、1から9までの数字を全部足したものなのですからね。このアイディアは、おそらく、当時日本でも知られていたイギリスの「ホフヌング音楽祭」をお手本にしたものでしょうが、「第九」の低弦のレシタティーヴォが、いきなりコンチネンタル・タンゴの名曲「ジェラシー」に変わったり、そのあとの「歓喜の歌」のオブリガートのファゴットがいつの間にか「木曽節」になっているというおかしさは、まさに現代でもちょっと味わえないほどのインパクトを持って迫ってきます。しかし、冷静に聴いてみると、この録音からは、「ホフヌング」というよりは、時期的に相前後して登場したアメリカの大パロディプロジェクト、「PDQバッハ」のオバカぶりに非常に近いテイストを感じることが出来るのではないでしょうか。そう、山本直純は、日本のピーター・シックリーだったのです。しかも、ここで聴ける日本フィルの演奏の上手いこと。相当めちゃくちゃなことをやらされているのですが、オーケストラとしての演奏のクオリティをきちんと維持しながら、生き生きと冗談につきあっている姿には、すごい物があります。このシリーズは5年間、毎年夏に開催されることになるのですが、それはオーケストラの解雇という不幸な出来事によって中断されてしまいます。この素晴らしいオーケストラが、そのことによって2つのオーケストラに分裂してしまったのはご存じの通り、このコンサートの聴衆はそんな未来も知らず、「レオノーレ序曲第3番」のバンダのトランペットの代わりに鳴り響いた、東京オリンピックの開会式のファンファーレに笑い転げていたのです。もっとも、私などは、当時の聴衆であればだれでも知っていたこのファンファーレすら知らないという世代ですから、永久にこの仕掛けの本当のおかしさは分からないのでしょう。これだけは、悔やんでも悔やみきれません。

4月21日

SCHUBERT
Schwanengesang
Christian Gerhaher(Bar)
Gerold Huber(Pf)
ARTE NOVA/74321 75075 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCE-38062(国内盤)
「シューベルトの三大歌曲集を挙げよ」と質問すると、大抵の人が「冬の旅でしょ、そして水車小屋・・・・え〜と、あとは思いださんだい(どこの方言?)」と答えるという現象(?)を最近発見しました。私の知り合いには音楽愛好者が多いはずなんですが。確かに他の2つの歌曲集とは違って、この「白鳥の歌」は連作歌曲ではありません。
そもそもタイトルからして、作曲家の死後、遺作を出版した出版業者ハスリンガーが「白鳥は最期に美しい声で鳴く」という逸話に基づいて付けた物。どうしても地味になってしまうせいでしょうか。しかし連作歌曲ではないとは言え、14曲中13曲は一つの歌曲集として出版される予定もあったとかで、ほのかに共通のテーマらしきものも見受けられるのです。
さて、今回のゲルハーエルのアルバムです。このアルバムは輸入盤としては、彼の最初のリリースにあたり、かれこれ2年前のものなのです。しかし私自身、彼のファンを自認しているくせに、実はこの歌曲集だけは未聴でした。かくいう私も「白鳥の歌」に関しては「セレナード」だけがあればいい、なんて思っていた不届き物だったのです。やっと先日、国内盤として発売されたおかげで聞く気になったのですが、その食わず嫌いのおかげで2年間も出会いが遅れてしまったのが悔やんでも悔やみきれません。そのくらい、この白鳥の歌は良かったのです。まず、第1曲目の「愛の便り」。このピアノの前奏の滑らかなこと。そして、彼の歌の美しく、その上情感のこもっていること。「冬の旅」の時もそうでしたが、彼は決して背伸びをせず、等身大の孤独を描き出すのに成功しています。この曲集のテーマは、遠くに離れている人に寄せる思いだとか。歌い手は溢れる思いを、川のせせらぎや、吹きぬける風、そして空を飛ぶ鳥に託すのです。それは、「冬の旅」のような厳しい孤独でもなく、「水車小屋」の青年のような、生々しい孤独でもありません。あくまでも透明で、かすかな希望を秘めた孤独。これを、まろやかな美声にのせて聴き手に届けてくれるゲルハーエル。全曲聴き通して、感嘆のため息を漏らすのは私だけではないはずです。
今や、彼を新世代のバリトンの第一人者と認定しても、誰しも異論はないはずです。「冬の旅」、「白鳥の歌」と続けて国内盤がリリースされ、これで彼の人気もいよいよ全国区となることでしょう。次は、先日紹介したマーラーの歌曲集もリリースされるとか。もっともっと多くの人に聴いて欲しい歌い手だと思います。
つい先日までヴォルフのある種陰湿な世界に浸っていた私ですが、こうしてシューベルトの世界に戻ってくると、同じ暗さにももう少し健全な暗さがあるんだな、としみじみ実感した次第です。

4月18日

LIGETI/REICH
AFRICAN RYTHMS
Pierre-Laurent Aimard(Pf)
Aka Pygmies(Vo,Perc)
WARNER/8573-86584-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11566(国内盤 4月23日発売予定)
アフリカの人たちが古来より伝承してきた複雑な太鼓のリズムは、ある時期理論でカチカチになり、行き場を失っていた現代音楽の突破口として多くの作曲家に影響を与えるという価値のあるものでした。現代作曲家が忘れていた何かが、確かにそこには存在していたのです。そんな作曲家の一人であるスティーヴ・ライヒの初期の作品2曲と、そのライヒに代表されるミニマリストの手法を積極的に取り入れたジェルジ・リゲティのピアノ曲を、アフリカのピグミーの音楽家による「本家」の演奏と交互に並べて聴いてみようというのが、このアルバムのコンセプトなのでしょう。ここでリゲティがもっとも信頼を寄せている演奏家であるエマールが演奏しているのは、ピアノのためのエチュードから4番、8番、12番、16番、17番、18番の6曲。中でも161718番の3曲は、SONYのリゲティ全集にも録音されていなかった最新作(18番はこれが世界初録音になります)ですから、これはそそられます。
しかし、このアルバムを聴き始めると、まずピグミーのパフォーマンスに圧倒されてしまいます。音を聴いただけではどんな形なのか想像もつかないようなさまざまな打楽器や、ありとあらゆる声のテクニックを駆使したコーラスで、直接人間の五感に訴えるエネルギー、そして、ジャズやR&Bにも通じる揺るぎのないリズムは、まさに感動ものです(ボビー・マクファーレンあたりのルーツは、この辺にあるのかも知れません)。なんでも、さるCDショップでは店員さんがこれに合わせて踊っていたのが目撃されたとか。それほどのインパクトが、この演奏にはあるのでしょう。ですから、この中に置かれてしまうと、リゲティの練習曲たちは、そのあまりにも精緻なディテールのため、名手エマールの腕を持ってしてもインパクトという点では勝ち目はありません。あくまで比較の問題ですが、なんか、頭でっかちのひ弱な作品のように感じられてしまうから、不思議です。
その点では、もっとシンプルなライヒの作品の方が、面白く聴くことが出来るでしょう(ここでは、エマールは果敢にも多重録音に挑戦しています)。一人二役を演じている「クラッピング・ミュージック」では、ひたすら「タタタンタタンタンタタン」というリズムのクラッピングを叩き続けるのに重ねて、もう一人がわずかにテンポをずらしながら同じリズムパターンを演奏することによって生じるモアレ効果を楽しむことが出来ます。本来はウッドブロックなどが使われる「木片のための音楽」では、ピアノによって一人4〜5役を演じ分けて、フレーズの断片をわずかに変化させながら繰り返すことによって現れてくる「変容」の世界を味わわせてくれます。このあたかも原初に帰ったかのような音楽からは、確かにピグミーと拮抗出来るほどの力強さが感じられるのではないでしょうか。

4月16日

のだめカンタービレ
二ノ宮知子著
講談社コミックスキス
(ISBN4-06-325968-4)
皆さんはレディコミなんかに興味がありますか?人形じゃないですよ(それはきめこみ)。私が最近はまっているのがこれ。講談社の「Kiss」というコミック誌に連載中の人気音楽コミックです。なんと言っても魅力は主人公の「のだめちゃん」。だって、とってもかわいいんですもの。でも、このネーミング、ちょっと入りにくいかも。なんだか「のつぼ」とか「こえだめ」を連想しちゃいますものね。私だって、最初目にした時、「のだめ」って何じゃらほいワケワカンナイわ・・・と思ったものです。でもご安心あれ。読み始めてしまえばすっかり「のだめちゃん」の虜、なんの違和感もなくなくなってしまうこと請け合いです。
「のだめちゃん」は、本名野田恵、「桃ヶ丘音楽大学」のピアノ科の学生です。でも、とっても天然なコで、クラスのお友達のお弁当を勝手に食べてしまったり、マンションの部屋は散らかり放題で、1年前に作ったクリームシチューが真っ黒くなって置いてあったりという、ぶっとびようなんですよ。頭を洗うのも5日に1回とか。ピアノの演奏もとても個性的、てゆうか、楽譜は殆ど読めないけれど、一度耳で聴いたら、完璧にその通りに弾けてしまうという、ある意味天才肌なんでしょうね。で、もう一人の登場人物が、学校中の女の子があこがれているという指揮者志望のイケメンの男の子、千秋真一。彼のマンションがなぜかのだめちゃんの隣の部屋で、酔って帰ってドアの前で寝ていたのを、のだめちゃんが見付けて自分の部屋に泊めちゃうってのが、二人の出会いなんです。あ、でも、そんないやらしい想像はご無用。これは実際読んでもらうしかありませんが、実におかしくって楽しい関係なんですから。
でも、本当に楽しめるのは、音楽を演奏しているときの描写なんですよ。クラシック音楽って、ちょっと取っつきにくいし、実際コアなCDの観念的なレビューなんてとても読んでなんかいられないものなのですが、二ノ宮先生の手にかかると、あら不思議、まるでそこにいて本当に音を聴いているように生々しく伝わってくるんですもの。のだめちゃんと真一がモーツァルトの2台のピアノのためのソナタを演奏するところなんか、ぞくぞくしてきますよ。実際、演奏が終わったらちょっとウルっとしてしまいましたもの。
ただ、その気になってつっこめば、いくらでもヘンなところも見つかったりもします。たとえば、交響楽団の指揮者を目指している真一が持ち歩いているスコアを見てみると、シュトラウスの「青きドナウ」なんだけど、バス・クラリネットやアルトサックスが入っていたりとか(吹奏楽用のスコア、ね)。でも、そんな細かいダメなところにこだわってもしょうがないですよね。これを読んでクラシックの面白さに目覚めた読者も全国的に増えてるみたいですし、「かしこい」お店はちゃっかりクラシックの書籍のコーナーに並べたりしているそうですよ。まさにブレイク寸前かも。読むんなら今のうちに、ね。

4月14日

WOLF
Mörike-Lieder
Roman Trekel(Bar)
Oliver Pohl(Pf)
OEHMS/OC 305
フーゴー・ヴォルフ(18601903)の歌曲集です。ピアノに於けるショパンのように、ヴォルフは、その短い生涯を殆ど歌曲の作曲のみに捧げたと言っても過言ではありません。同じ年に生まれた、かのマーラーにライヴァル意識を抱いてた話も良く知られています。特に、あのケン・ラッセルの映画では見るも無様な狂人として描かれていて、いくらデフォルメされているとは言え、思わず眼を背けたくなるような描写も忘れられません。
そんなヴォルフの作品には作品番号というものはありません。最初の歌曲が作曲されたのは1877年。最後の歌曲は1897年。その間におよそ300曲以上の歌曲が作曲されていますが、シューベルトのように、コンスタントに書かれたわけではなく、書ける時には1日に3曲以上、そして全く書けない時期が何年も。そんな創作姿勢には、やはり一抹の狂気を感じないわけにはいきません。
彼の作品は、同世代のマーラーやブラームスとは全く異なったものです。ごくシンプルな有節歌曲の中に、驚く程たくさんの感情を込めたブラームス、管弦楽と共に歌うことで、声と楽器の境を取り払ったマーラー。それに比べると、ヴォルフの歌曲は歌そのもの。効果的なピアノ伴奏も、全て歌に追従している感があります。そして、詩人を選ぶ審美眼の確かさ。これもヴォルフならではといえます。一人の詩人の作品に徹底的に作曲して、飽きると次の詩人・・・・。ここらへんも、ちょっと怖いものがありますね。
さて、今回のメーリケ歌曲集ですが、これは全部で53曲あり、1888年に作曲されたもので、彼の最初のお気に入りの詩人でもあります。少々挑戦的な事もしていて、例えば「時は春(Es ist't)」という1分20秒の短い曲。実は、この同じ詩にはシューマンも作曲しています。もちろんヴォルフはその曲の存在を知った上で、「もっといい曲をつけてやる」と意気込んだというのですから、全くいやはやですね。
そんなヴォルフの作品は、とにかく上手い人の演奏で聴きたいものです。どうしてもフィッシャー・ディースカウの名唱ばかりがもてはやされますが、このトレケルの演奏は、そんな過去のとろけるような名演すら凌駕するものとして高く評価されることでしょう。先ほどの「時は春」を聴いてみてください。たった1分少しの時間に春を迎える喜びと、ちょっとした感傷が見事なまでに表現されていて、それはもう鮮やかというほかありませんから。今までヴォルフはあまり聴いてきてないのですが、この機会に少しはまろうかな・・・と春満開のおやぢでした。

4月11日

CAGE(RE)MIX
高橋悠治(Pf,Radio)
高橋アキ(Pf,Toy Piano etc.)
FONTEC/FOCD3494
「高橋悠治リアルタイム」という、このレーベルの高橋悠治のライブ録音シリーズも、11集を数えることになりました。今回は妹の高橋アキとの共演でジョン・ケージの作品ばかりを集めたプログラムです。
60年代には、作曲家であると同時に「天才ピアニスト」として、クセナキスなどの超絶技巧を必要とされるその当時の現代音楽の演奏に無くてはならない存在だった高橋悠治は、70年代に入ると、知識階級の集まるサロンと化したコンサートホールには見切りをつけ、成田空港建設反対を叫んでいた三里塚闘争に参加したり、アジアの民族運動を思想的な背景として持つ音楽集団「水牛楽団」を結成したりと、それまでのクラシックの音楽家には見られないような特異な活動を始めます。もっとも、悠治にしてみれば音楽が社会から遊離した存在でありうるなどとは考えられるはずもなく、「政治」と「音楽」を不可分のものとして取り扱った結果の必然として、このような創作、演奏の状況が生まれてきたのでしょう。このような音楽家のありようも、現代における多様さの一つの現れではあるわけです。ただ、彼の場合、どのようなフィールドで活動していても、その独特のカリスマ性によって、決してファンが離れていくというようなことはなく、それどころか、さらに広い分野での新たなファンすらも獲得してきているのです。
一方の高橋アキは、現代音楽のオーソリティーとして、日本中の作曲家から信頼を寄せられている堅実なテクニックを持ったプレーヤーとして知られています。彼女の初演によって命を吹き込まれたピアノ作品は、膨大な数になることでしょう。
ここに収められているコンサートでは、ピアノが2台用意されています。右手奥に、録音でもややオフマイクにとらえられているピアノでは、悠治がケージの曲の中では割と「孤立した音色と沈黙に向かう傾向(悠治)」を持っている「Winter Music」という曲を、淡々と(というのは、あくまで比較の問題で、実際はかなり刺激的なサウンド)演奏しています。それと同時進行で、左手手前のピアノでは、プリパレーションを施されたり、弦を直接はじいたりという特集奏法をアキが行うというのが、基本的な流れです。このように、ケージの作品を再構築することによって、彼の中にあるサーカス的な世界(悠治は「MusiCircus」と言っています)を表出させるというのが、この二人の演奏家のもくろみだったのでしょう。それは、硬質で独特の刺激的なタッチを持つ悠治と、トイ・ピアノにさえリリカルなピアニズムを求めてやまないアキとの対照的なパフォーマンスを得て、鮮明なケージ像を伝えることに成功しています。
ある種混沌の様相を体験したあとの、2台ピアノのユニゾンによる「Experiences I」の単調なメロディーは、現代人にとっては「癒し」とも受け取られるかもしれません。ケージの生前には存在しておらず、音楽の経時変化によって図らずも生まれたこの概念、もちろん、ケージ自身にとっては、不本意なものではあり得ないはずです。

4月9日

Transcriptions
Laurence Equilbey/
Choeur de Chambre Accentus
NAÏVE/V 4947
マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」という、それほど有名ではない曲を、最近集中して聴くことが多くなっています。よく知られている「子供の不思議な角笛」とは全く異なった世界観(それはあるいはマーラーがアルマと知り合ったことによって拓かれたものなのかも知れませんが)と、柔らかで暖かい肌触りを持つ佳曲です。中でも、同じ時期に作られた交響曲第5番の中の、有名な「アダージェット」と良く似た、まるで夢の中のような雰囲気を持つ「私はこの世から忘れられ」は、ひときわ印象深いものとして心を打ちます。
この「私は〜」は、もちろんオリジナルの歌曲も素敵なのですが、クリトゥス・ゴットヴァルトという人が無伴奏の合唱曲に編曲したものを聴いて、一層その魅力が増したものです。このバージョンは、以前ご紹介したベルニウスの演奏で初めて聴いて、すっかり虜になってしまったもの、マーラーの骨組みはそのままですが、ハーモニーに少し現代的な味付けがしてあって、もしかしたら原曲よりももっと詩の持つ世界の本質を表現できているのかも知れないと思えるほどです。
前置きが長くなってしまいましたが、このアルバムにはそのゴットヴァルト編曲の「私は〜」が収録されているというのが、聴いてみようと思った最大の理由です。おまけに、ここには「アダージェット」を、やはり無伴奏の合唱に編曲したものもあるというではありませんか。これはもはや聴かないわけにはいかないでしょう。
と、期待に胸をふるわせて「私は〜」を聴き始めました。しかし、技術的にはそこそこ上手、一人一人の声は確かに立派なものがあるのですが、聞き慣れたベルニウス盤とは何かが違います。最初のハーモニーが響いた瞬間から眼前に広がってくるはずの荒涼とした風景が、まるで見えてこないのです。もっと言えば、歌の中に確かに存在していたはずの「祈り」が、まるで感じられないのです。心底、このアルバムを最初に聴くことの無かった自らの幸運さを感謝したものでした。
「アダージェット」の方はどうでしょう。これは、演奏以前に編曲に問題がありすぎます。オリジナルはご存じのように弦楽合奏とハープのためのもの、そのハープの扱いがまるで原曲と違っているのです。弦の背後でそこはかとなく鳴っているべきものが、合唱版では男声によってまるでドゥー・ワップのベースような力強さで歌われるものに置き換わっているのです。もちろん、演奏も表面的な響きのみを追求した平板なもの、がっかりです。
ローレンス・エキルベイという美しい女性(あの、エリック・エリクソンに師事)に率いられたアクサントゥス室内合唱団、私が今まで聴いてきた、声の力で確かに新しい世界を見せてくれた多くの合唱団のレベルには、未だ到達してはいないようです(聴いていて飽きるべい)。

4月7日

Mozart Edition Volume26
Collegium Jaroslav Tuma
Nicol Matt/
Chamber Choir of Europe
BRILLIANT/99738
おそるべし、ブリリアント!バッハの全作品が4〜5万円で買えてしまう「バッハ全集」で世のクラシックファンを驚かせてくれたと思ったら、それからほんの3年足らずで今度はモーツァルト全集を完成させてしまいました。総数170枚、この第26巻が最後のリリース、完結編となります。もちろん、お値段もバッハ同様信じられないほどのものになっているのは、言うまでもありません。
このレーベルは、なんと言っても大半を占めるのは、ライセンス契約によるほとんど入手困難なマイナーレーベルのアイテムです。最近では日本のDENONあたりも供給源になって、ますますレパートリーが拡大しているのはご存じの通り(インバルのマーラーやベルリオーズが出ています)。この全集の場合は、自社録音による交響曲全集が某雑誌でも大きく取り上げられていましたし、今まで入手困難だった珍しいオペラがいとも簡単に揃ってしまうのが大きな魅力です。たとえば、第2巻に収録の「アポロとヒアキントゥス」とか、第17巻に収録の「シピオーネの夢」などという、おそらく普通に生きていたらまず一生聴くことの無いような、しかし内容は豊かなマイナーな作品が、現在望みうる最高の演奏で聴くことが出来るのですから。
ところで、シリーズの最後を飾るこの第26巻、背中には「イドメネオ」と「エジプトの王タモス」としか書いてなかったので、オペラしか入っていないのかと思ったのですが、実はよく見てみると、それだけではなく、さらにもう2枚含まれていたのです。それは、「教会ソナタ」と、「カノン集」。特に「教会ソナタ」は、まだこの全集では出てなかったので、待望していたものでした。これは、まるでオルガン協奏曲のような、オルガンが大活躍する単一楽章の短い曲ばかり17曲。オルガン好きの私としては、昔からのお気に入り、アランのERATO盤のCD化を首を長くして待っていたのですが、一向に実現しそうもないので、この新盤の登場は嬉しいものです。全く聴いたことのない演奏団体ですが(クレジットは「コレギウム・ヤロスラヴ・トゥマ」ですが、「ヤロスラヴ・トゥマ」がオルガニストだという説も)あまりオルガンが立っていない、室内楽の響きが、なかなか爽やかに響きます。
もう1枚、「カノン集」も拾いもの。器楽と声楽のカノンが全部で41曲、中でもK.231(K6:382c)"Leck mich im Arsch"と、K.233(K6:382d)"Leck mir den Arsch"という、ちょっとここに日本語訳を書くのは憚られる(あとで調べてみてください)歌詞を持ったカノンの実際の音が聞けるのは何よりです。K.233の方は女声だけの合唱、なんか怪しい雰囲気が漂ってきますよ。
オペラの方は、「イドメネオ」が、なんとEMI音源のシュミット・イッセルシュテット盤。ちょっと時代がかった(72年録音)仰々しい演奏ですが、往年のニコライ・ゲッダやエッダ・モーザーの貫禄あふれる声を聴くことが出来ます。

4月5日

Best of James Bond
Ingrid Peters(Vo)
Dieter Reith/
SWR Rundfunkorchester Kaiserlautern
HÄNSSLER/CD 93.083
快進撃を続ける、HÄNSSLERSWRの共同企画"faszination"シリーズですが、ギーレンやノリントンに混じってこんなアイテムが出たのにはびっくりしてしまいました。日本でも現在シリーズ20作目が公開中の「007」のテーマを集めたもの。ジャケに写っているのは、その最新作にも登場している5代目ジェームス・ボンド、ピアース・ブロスナンですね。
クラシックのオーケストラが演奏しているボンド・ナンバーといえば、聴く前からおおよその見当は付いてしまうものですから、それほどの期待はしてはいませんでした。しかし、まず録音レベルというか、音圧の高さにびっくりして、あわててボリュームを下げてしまう場面が。これはどういうことかというと、クラシックの世界では録音レベルというのは昔も今もそんなに変わっていないというか、変わりようのないものとして存在していますが、ポップスに於いてはこの音圧というものがいわば売り物の一つになっていて、いかに高い音圧でカットするかということにしのぎを削っているのが現状なのです。極端な話、それは、昔のCDプレーヤーでかけるとひずみが出てしまうほどの、ほとんど初期のフォーマットを無視した感のある過大競争にすらなってしまっているとか。つまり、それほど高い音圧でカットされたこのアルバムは、音的にはクラシックではなく、ポップス寄りの作られ方をしていると言うことになるのです。
演奏の方も、しっかりしたミュージシャンによる(絶対、きちんとクレジットを入れるべきです)、揺るぎないリズムセクションが聴きものです。こんな当たり前のことに今さら感激するのも恥ずかしいことなのですが、これを聴いてしまうと、今までのボストン・ポップスなり、シンシナティ・ポップスが、いかにいい加減なリズムで演奏していたかがよく分かります。このオーケストラは、南西ドイツ放送が抱える3つのオーケストラの一つ、ほかの二つ(南西ドイツ放送響とシュトゥットガルト放送響)とは違って、日常的にミュージカルや映画音楽を演奏していますから、このような「なりきり」が可能なのでしょう。それと、指揮と編曲を担当している、ジャズ・オルガニストとしても有名なディーター・ライトは、ウェルナー・ミューラーとかベルト・ケンプフェルトといったドイツの正当派イージー・リスニングの伝統をきっちり受け継いだ(ミューラーとリカルド・サントスが同一人物って、知ってました?)、重厚さと華麗さを共存させたスコアで、見事なシンフォニック・サウンドを聴かせてくれています。
フィル・スペクターばりのエコーたっぷりのドラムスに乗った、幾分遅めのテンポの、しかし、思わず引きこまれずにはいられないようなエモーショナルな「ゴールドフィンガー」や「ロシアより愛を込めて」は、上質のイージー・リスニングとして、下手な「癒し系」クラシックなどからはとうてい得ることの出来ない深い感銘を私たちに与えてくれることでしょう。
2曲ばかり、渋いヴォーカルが入っているのも聴きもの。マドンナの歌う最新作「ダイ・アナザー・デイ」は入っていませんが。

きのうのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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