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キリストの用事。.... 渋谷塔一

(01/12/12-01/12/31)


12月31日

MAHLER
Symphony No.9
Uwe Mund/
京都市交響楽団
ARTE NOVA/74321-89355-2
ポップス好きの友人(女)に言わせると、「クラシックマニアって変」だそうです。彼女は、「なぜ同じ曲なのにこんなにいくつも種類があるの?」と、いつも悩むそうです。たしかにポップスの世界ではカバーという表現法はあります。しかし、歌手=曲が大半ですからね。
実際、私はマーラーの4番ならLP時代に24枚集めましたっけ。自ら「何故?」と問い掛けてみましたが満足行く答えは出そうにありません。ただ、私の場合は、曲に対するイメージがきちんとある場合はそれに近い物を探すうちに、手元のCDが増えてしまうようです。例えばマーラーの4番の場合、ポイントは終楽章のソプラノ。いかに「天上の響き」に近いか。これで決まるのです。ちなみに満足の行く演奏は・・・・・永遠にないでしょう。
さて、今回のマーラーの9です。この曲も私の中ではいろいろとハードルが高くて、なかなか満足の行く演奏には出会いません。傷ついた心に荒塩を塗りこむようなバーンスタイン、終楽章で本当に息絶えてしまったようなノイマンの最後の演奏。傍観者たらんとするクーベリック。破壊に走るシェルヘン、おっとバルビローリも捨てがたい、ラトルはちょっと。こんな具合で挙げていけばきりがありません。聴く方もよほどの心構えがないと押しつぶされてしまうほどの重い曲ですから、なかなか「この1枚」とはいきませんて。
で、ムント指揮京響の演奏です。最初にこのオケでシベリウスを聴いた時、まあまあだけどイマイチである。と自ら評価を下してしまい、次のスメタナもインバルの方がカッコいいや。と冷たい仕打ち。(あくまでも主観です)正直、このマーラーも何も期待していませんでした。しかし・・・・。その80分後、すっかり京響のファンになった私がそこにいたのでした。
全体的にすっきりした響きですが、(アバドに近いかな)ラトルのようにひねった効果を狙うわけでもなく、飽くまでも正攻法で攻める第一楽章。至る所に出現する難所も軽々クリア。ここって、こんなに上手い人たちの集まりだったでしょうか?
第2楽章もすんなり耳に馴染みます。とても見通しのよい音作りと言えましょう。
第3楽章、少し早めのテンポでぐいぐい進む心地良い音楽です。複雑なリズムが交錯する箇所で一瞬音楽がばらけそうになりヒヤっとしますが、それも芸のうちなのでしょうか。
最終楽章、あの悲しみを振り絞るかのような主題の美しさがなんともいえません。深い呼吸を感じるゆったりとした歌わせ方にムントの余裕を感じます。
疲れた心を優しく包み込むような穏やかな良い演奏です。これはオケにむんと余裕がないと出来ないのでは。

12月29日

FAURÉ
13Nocturnes
Ewa Poblocka(Pf)
ビクター・エンタテインメント/VICC-60266/7
2000年のショパンコンクールの優勝者はリ・ユンディ。中国初の優勝者という事で大きな話題を呼びましたね。最近、CDのプロモーションではありましたが来日も果たし、私も実際の演奏を耳にする事が出来ました。かなり才能ある若者のようで、20年後が楽しみです。
さて、今から20年前の1980年のショパンコンクールはいろいろ大変でした。この年の優勝者は、ベトナム初の参加者ダン・タイ・ソン。このところ地味な活動を続けているようですが、優勝当時はかなり騒がれたものです。しかし、一番の注目はあのイーヴォ・ポゴレリチ。かの女流ピアニストが彼に肩入れして、審査員を降りてしまったとかで、そちらの記憶の方が鮮明な上、後の活動、注目度の高さも優勝者の比ではありません。やはりコンクールで優勝する事など、単なる出発点に過ぎないのですね。
さて、その時のコンクールは日本から参加した海老彰子さんが5位を獲得、同じく5位を分け合ったのが、エヴァ・ポブウォツカというわけです。決して華々しい活動をしているわけではありませんが、日本にも度々来日、心温まる音楽を聴かせてくれる人ですね。CDでは、ショパンの作品はもちろんですが、フィールドの夜想曲が格段に素晴らしく、ともすれば単調になりがちなフィールド=「ショパンの前駆作品」を情感豊かに演奏しているのです。
今回は同じ夜想曲でも、フォーレの全曲。たっぷりとした歩みで始める第1番。彼女のアプローチはとても自然です。あくまでも自分の歌を奏でる彼女の音は、あたかも流動的な音楽の流れに逆らうかのように、時として微妙な音のずれを醸し出します。(それは、ショパンにおけるテンポ・ルバートの効果にも似ています)残響のたっぷりとした録音も相俟って、それはそれはロマンティック。それが激しい中間部になると様相は一変。決してテンポを早めるわけではないのですが、まるで濁流に飲み込まれる小舟のように聴く者の意識を激しく揺すぶるのです。こんな調子で、全ての曲に彼女の心が息づいています。誰でも知るとおり、フォーレの作品、特に初期の物には如実にショパンの影響を見ることができます。しかし、そこにある音楽は全く異質の物。明らかにショパンの物より情報量の多い曲の数々で、その上、音楽語法も多岐に渡っているのですね。どう演奏するかは、フォーレをショパンの継承者と取るか、メシアンの先駆けと取るかで、全く違うのでしょうね。ポブウォツカはショパン寄りと見たようです。とても美しいフォーレがここにあります。フォーレに酔うならポブウォツカ、ぼく、ウオッカで酔っちゃった。

12月27日

Saison d'amour
Carole Serrat
ロックチッパーレコード/OWCM-2002
今年のクリスマスは、雪が降るでもなく平穏無事に終了しました。巷に流れていたのは、定番チューンの「クリスマス・イブ」、しかし、オリジナルの山下達郎に混ざって、なんとこの曲をラップでカバーしたキック・ザ・カン・クルーヴァージョンも大健闘、「新たな魅力を引き出したもの」と、ヒップホップには縁遠い層にもなかなか好評のようです(ヒップアップには多いに関心があるって)。
このように、名曲には自然と良いカバーができるものです。達郎の奥さんの竹内まりやにも、素晴らしい(?)カバーアルバムが誕生しました。そのアーティストはキャロル・セラ、10年以上前に、やはりユーミンのカバーアルバム「ルージュの伝言」(エピック・ソニー)をリリースしたフランス人です。歌詞をすべてフランス語にすることによって、あたかも最初からフレンチ・ポップスだったかのような気にさせる着眼点が見事に成功して、20万枚というセールスを達成したのは、まだ記憶に新しいところですね。
じつは、これを仕掛けたのは日本人で、みつとみ俊郎というプロデューサーです。この方は、もともとはクラシックの勉強をしていて、フルーティストとしてアメリカのプロのオーケストラ(聞いたことのない名前ですが)の団員だったこともあるという、たいした人です。ライターとしても、新潮新書で「オーケストラとは何か」などという立派な本まで著しているたいした人です。それが、スタジオミュージシャンなどをしているうちに、アレンジャーやプロデューサーとしての才能も発揮し始め、ついに、持ち前の語学力を生かして、フランス人にこんなカバーをさせてしまったというわけ、勢いとは恐ろしいものですね。
そこで、10年後に2匹目の泥鰌をねらったのが、このアルバムです。まりやのアイドル時代、7980年頃のシングルヒット「セプテンバー」や、アルバム曲の「象牙海岸」から、最新ヒットの「真夜中のナイチンゲール」まで、マニアにはたまらない、幅広い選曲となっています。最も成功していると感じたのは、「幸せの探し方」、オリジナルがすでにフレンチっぽいテイストを持っていますから、見事にハマっています。「駅」も、もともとは中森明菜のために書いた曲ですから、声量の乏しいキャロルでもなんの問題もありません。まりやのたっぷりした歌を聴きさえしなければ、十分に楽しめるものです。
しかし、正直言って、いくらカバーだからといっても、まりやの歌、達郎のアレンジで聴きなれている世界をこのハスキーヴォイスに置き換えて味わうには、相当な努力が必要とされたことは、告白しなければならないでしょう。そのあたりが、誰が歌ってもオリジナルよりは間違いなく聴きばえのするユーミンとの最大の違いなのでしょうね。

12月25日

R.STRAUSS Oboe Concerto
FRANÇAIX L'Horloge de Flore
John de Lancie(Ob)
Max Willcocks/Chamber Orchestra
BMG
ファンハウス/BVCC-37304
いつぞやここでも取り上げた「RCA100年の歴史」もそうでしたが、このレーベルには数多くの素晴らしい音源が存在します。その中から選りすぐりの50枚を集めた国内企画。今回取り上げたデ・ランシーのオーボエ作品集も、その中の1枚です。でも、なぜこんな地味なアルバムが選ばれたのでしょうか?
確かにデ・ランシーというオーボエ奏者の名前は、ローター・コッホや、ハインツ・ホリガー、若しくは名犬ラッシーほどには一般に知れ渡っているわけではありません。しかし、アメリカの「良き時代」を受け継ぐ名手でもあり、カーティス音楽院では数多くの後進を指導した実績を考えれば、幾多の名録音の中からこの1枚が選ばれた事も納得できるはず。
「しかしなぁ」まだ納得できない人もいます???このアルバムは、LP当時のジャケをそのまま使用しているため、これだけ見ると、上質なフランス音楽集に見えるかもしれませんね。もともとの収録曲はフランセの「花時計」、サティのジムノペディ第1番(オーボエソロ版)、それとイベールの「サンフォニア・コンセルタンテ」と言うもの。録音は1966年でした。ほんとにイベールなんて素晴らしいですよ。一聴の価値ありです。しかしながらこのアルバムの真の価値は、CD化の際にカップリングされたR・シュトラウスのオーボエ協奏曲にあるのではないでしょうか。こちらは1987年に録音されたのですが、なぜかすぐには発売されず、4年後の1991年に、前述の3曲がCD化された時におまけとして初リリースされたのです。しかしながら、そのアルバムではシュトラウスがメインとされていたのがなんとも不思議。
自称「シュトラウス研究家」である私の事ですから、このCDは当然輸入盤で持っているのですが、とにかく最初この盤を聴いた時は驚きました。日頃耳慣れたメロディとは微妙に違う・・・終楽章のコーダでは、全く違う音楽が奏でられているのですから。それはデ・ランシー自身による改訂版なのですが、何これ?それこそ「椅子から転げ落ちる」ほどの衝撃を受けたと言っても過言ではありません。
その後、デ・ランシーの存在なくしては、この協奏曲は書かれなかった事や、(彼が直接シュトラウスに「協奏曲を作曲して欲しい」と掛け合った)シュトラウスは約束どおり曲を作り上げて、その初演を彼に任せようとしたけど、様々な事情で世界初演も、アメリカ初演すらも他の奏者(ミッチェル・ミラー)に拠って行われた事などを知るにつれ、単なるピッツバーグ交響楽団のオーボエ奏者であった彼と、シュトラウスの関わりも理解できました。デ・ランシーにしてみれば、「自分のための作品」と言う思いが強かったのでしょう。それゆえ、オーボエパートが効果的に響く改訂版を自らの手で書き上げ、実際の音にする、(コーダは吹きやすいように簡単にしてある!)それは強い使命感によるものだったのかも知れません。もう一度この演奏を聴きなおしてみると、そこには他の誰もが介在できない「作品に対する愛」が感じられるのですね。
1945年に撮影されたシュトラウスとデ・ランシーのセピア色の写真からも、ひなびたオーボエの音色が立ち上ってくるような気がします。今回の日本盤はプレヴィンがメインになってしまったのが本当に残念です。

12月23日

WAGNER
Opera Arias
Bryn Terfel(Bar)
Claudio Abbado/BPO
DG/471 438-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1090(国内盤)
世界中で人気者の歌手ブリン・ターフェル、女癖が悪いのが玉に傷ですが(不倫ターフェル)、その実力はピカイチ。このたび、待望のワーグナーアルバムをリリースしました。某雑誌に早速レビュー記事が出たのですが、これがどうにも観念論的で読むに耐えません。しかし、筆者の言いたい事もわかるので、註釈をつけてご紹介しましょうか。
 女(註1)が舞(註2)の代償に求めた生首を提供するために地下牢から出てきた聖者は、長い幽閉生活のやつれなど微塵も感じさせない血色のよい肌と滋養に満ちた筋肉を持っていた。コヴェント・ガーデン(註3)の「サロメ」でヨカナーンを演じたブリン・ターフェルは、そんな風に観客の前に現われた。いかに演出家が厭世的な人格を与えようと望んでも、ターフェルの全身から発せられる開放感のあるオーラを隠匿するのは不可能だという事実は、この瞬間に明白になったのである。
 アバド/ベルリン・フィルと共演したこのワーグナー・アルバムは、そんなターフェルの手にかかりさえすれば、たとえ成仏できない船長(註4)であろうが存亡の危機に瀕した神々の長(註5)であろうが、いとも人間臭いキャラクターに生まれ変わることができることを教えてくれる。尋常ならざる緊迫感と、雄弁なフレージングでドライブされた冒頭の「さまよえるオランダ人」序曲に続くオランダ人のモノローグのなんと現実味のあることか。「ワルキューレ」の「ヴォータンの別れ」からは、恋人との惜別の情かと見まがうほどの、生々しくも切ない思いが伝わってくるではないか。「タンホイザー」の「夕星の歌」から、これほどやるせない情感を味わうことができるとは。ここからは、深刻ぶったドイツ人や北欧人の演奏では決して得られない快楽的な趣さえ感じ取ることも、そうむずかしいことではないだろう。
 かくして(註6)、この天性の明るさを持つウェールズ人は、ワーグナーですら自らの術中に引き入れることに成功したのである。はちきれんばかりの生命力と、みなぎるほどの力強さを持ったヴォータンの姿をオペラハウスで見ることができるのも、そう遠い未来の話ではないであろう。
註1:リヒャルト・シュトラウス作曲の楽劇「サロメ」の主人公、サロメ姫。
註2:有名な「サロメの7つのヴェールの踊り」。
註3:最近新装なった、ロンドンにある王立歌劇場。
註4:ワーグナー作曲の歌劇「さまよえるオランダ人」の主人公。
註5:ワーグナー作曲の楽劇「ニーベルングの指環」に登場する神。
註6:某ライターが良く使う言い回し。この接続詞を用いることによって、文章のキレが著しく向上する。

12月21日

CELESTIALS
Flute Concertos by Peeter Vähi and Urmas Sisask
Maarika Järvi(Fl)
Kristjan Järvi/
Tallinn Chamber Orchestra
CCn'C/01712
世界中には、数え切れないほどの個性的なマイナーレーベルがあり、それぞれが特色ある魅力的なCDを提供してくれています。ここでご紹介する「CCn'C」というドイツのレーベルは新しいクラシック(ちょっと変な言い方ですが)と、ワールドミュージック、さらにジャズを柱としていて、現代の音楽を広く聴いてもらおうというポリシーで設立されたものです。レーベル名は「New Classical, CrossCulture and Contemporary」の頭文字をとったもの、「シーシー・ン・シー」とでも呼ぶのでしょうか。同じくドイツの、有名な「ECM」と似たような路線だといえば、分かりやすいでしょうか。
このアルバムでは、エストニアの作曲家の弦楽合奏とフルートのための協奏曲が2曲演奏されています。エストニアといってすぐ思い出すのは、アルヴォ・ペルト。中世に回帰したような作風で、妙に現代人の琴線に触れる瞑想的な曲を沢山作っている有名な作曲家ですね。ここでその最新作が披露されているペーテル・ヴァヒとウルマス・シサスクという、現代エストニアを代表する中堅作曲家たちの中にも、このペルトのようなたたずまいを見出すことは、それほど困難ではありません。
1955年生まれのヴァヒの曲には、「天上の湖の歌」というタイトルがついています(これが、アルバムタイトルの由来)。この曲にはプログラムがあって、長い間答えを捜し求めていた少年が、最後には「愛の歌」の中に答えを見出すというアジアの伝説が元になっています。フルートの低音を多用した瞑想的な部分と、東洋的な旋法のリズミカルな部分が交互に現われて、いつ果てるとも知れない物語をひたすら紡ぎつづけるという、とても分かりやすい、もしかしたら心が癒されるかも知れない音楽です。
もう1曲の協奏曲を書いた、シサスク(1960年生まれ)は、天文学に関係したタイトルの曲で知られていますが、これも「獅子座流星群」という、はっきりしたタイトルです。ヴァヒよりはもっと伸びやかな音の使い方をしたフルートソロに続いて、弦楽器がそれこそ大量の流星群が降り注ぐような煌びやかな和音を奏します。リズムもなにもなく、広大な空間での出来事のように、音のカラーだけが刻一刻変化していく様子は、とても魅力的です。
それが、一転して、まるでバロック音楽のような弦楽器に乗ってフルートが超絶技巧でスケールを吹きまくると、いきなり現実の世界に引き戻されたような錯覚に陥ってしまいますが、このあたりの親しみやすさが、シサスクの持ち味なのでしょうね。
これらの曲を捧げられ、ここで演奏しているフルートのマーリカ・ヤルヴィは、バックのタリン室内管弦楽団の指揮者のクリスティアンと共に、名指揮者ネーメ・ヤルヴィの子供、パーヴォ・ヤルヴィは彼らの兄になります。生まれ育ったエストニアの曲を共感を込めて演奏していますが、「もっと気楽に吹いてやるび」と思いさえすれば、ある意味ヒーリングに近いこれらの作品の味がもっと出せるはずです。

12月19日

RAVEL,MILHAUD
String Quartets etc.
Juliane Banse(Sop)
Petersen Quartett
CAPRICCIO/10 860
今回はフランスの室内楽作品を。曲目は、ラヴェルとミヨーの弦楽四重奏曲がメインです。フォーレは好んで聴くけど、ラヴェルにはあまり手をださない私。普段ならこのアルバムも見過ごしてしまうのでしょうけど、間にひっそりとはさまれたルクーとショーソンの歌曲を歌っているのが、あのユリアーネ・バンゼという事ならば、ばんぜん興味が湧いてくるというものです。
演奏しているのは、ベルリンに本拠を置くペーターゼンSQ。1979年にアイスラー音楽学校の学生によって結成された団体で、お国柄もあってか、ドイツ物が得意です。以前リリースされたシュルホフの弦楽四重奏曲などは、この曲自体の盤が少なく、あまり比較に対象がないとはいうものの、いわゆる“頽廃音楽”の持つ爛熟した雰囲気に、モダンな感覚を融合させたとても見事な演奏でした。彼らはこの演奏で、いろいろな賞を取ったという事も聞いています。
そんな彼らのフランス物です。メカニカルな書法のミヨーの作品、かたや思い切り感覚的なラヴェルの作品。当然アプローチも違いますし、表現方法も違わなくてはいけません。彼らの以前の音をきく限りでは、軽妙洒脱を目指すというより、まったりとした音をつくる傾向にあるようでした。ですから、この2曲のなかでは、ミヨーの方が面白かったです。ラヴェルに関しては、過去にも名演と呼ばれる物が多く存在する曲なので、例えば、私が誰かに「ラヴェルの弦楽四重奏のオススメは?」と聞かれた場合、「このアルバムがいいよ」とは決して答えない・・・。そういう微妙なところです。しかし、たぶん後に続けるでしょう。「でも、これは聴いといたほうがいいですよ」とね。
先ほどにも触れたバンゼの歌うルクーとショーソン。これが聴き物なのです。中でもルクーの「夜想曲」。この曲を聴いたことがある人がどれほどいるでしょうか。私のフランス音楽好きの友人に「これ良いね」と話したところ、「ああ、これは素晴らしいの一言だけだ。」と寡黙な彼。「青く広がる平原の果てに、星の光が花のように降り注ぐ」で始まる自作の詩に付けられた美しい作品です。ワーグナーの「夢」やシュトラウスの「眠りにつく時」のように、官能と死が隣り合わせの世界である事を確認させてくれる曲とでもいうのでしょうか。24歳で夭折したルクーの晩年の(と言っても22歳)の作品です。この曲には、他にも録音があるのですが、そちらはあまりにも夜を前面に押し出していて、「酒場のネオン風」でちょっとついていけなかったのです。(その上ピアノ伴奏版)今回のバンゼの歌はとても端正で幻想的。ホント感動モノです。ラヴェルとは違って、まさにこの曲のベスト盤として押せますね。

12月17日

ADAMS
El Niño
Dawn Upshaw(Sop)
Willard White(Bar)
Kent Nagano/
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
NONESUCH/7559-79634-2(CD)
ARTHAUS/100 221(DVD)
ジョン・アダムスの音楽には、カリフォルニアの青い空が似合います。彼の創作の原点は「歓びと情熱」、理論におぼれて行き場を失ったヨーロッパの「現代音楽」からの訣別を決意した時から、彼の目は太陽がサンサンと降り注ぐ西海岸へと向いていたのでしょう。
「中国のニクソン」、「クリングホファーの死」に続くピーター・セラーズ(もちろん、「ピンク・パンサー」や「ドクター・ストレンジラブ」に出演していた怪優とは別人の、著名な演出家)との共同作業から生まれたオペラ、「エル・ニーニョ」も、そんなアダムスの楽天的な資質がとことん反映された仕上がりとなりました。
タイトルの「エル・ニーニョ」とは、スペイン語で「男の子」のこと、この場合は、「神の子」というような意味で、イエス・キリストを指し示しています。もともとはオラトリオとして構想されたもので、テーマは「キリストの生誕」、言ってみれば、現代版ヘンデルの「メサイア」ということになります。基本的な骨組みは新約聖書ですが、アリアに相当する、いわば叙情的なナンバーにスペインの詩人の作品などが使われており、そのあたりがタイトルがスペイン語になった由来なのでしょう。
200012月にパリのシャトレ座で世界初演された時の模様は、いち早くCDでリリースされましたが、このたび、その映像が、早くもDVDになって発売されました。CDのライナーにもステージの写真は載っていたので、ある程度の様子は知ることが出来ましたが、セラーズの演出プランを体現するためには、やはり実際に動く画像で見てみる必要があることは、明白です。
ケント・ナガノの指揮によるベルリン・ドイツ交響楽団が、まるでスティーヴ・ライヒのようなパルスを奏で始めた瞬間、この作品の音楽的なよりどころは明らかになります。たとえ、マリア役のドーン・アップショウが、その辺のスーパーあたりでレジを打っているパートのおばさんにしか見えなくても、ヨゼフなどの複数の役をこなすウィラード・ホワイトに、いくら拭い去ろうとしても足の不自由な黒人の物乞いの姿がついてまわっても、ミニマリズムの中での歌唱という困難な仕事を任せられる才能が他に見当たらないのでは、目をつぶる他はありません。常にテンションコードでハーモナイズされた、シアター・オブ・ヴォイセスの3人のカウンターテナーによる賢者たちがどんなにうっとうしくても、ストーリーの展開上欠くべからざるキャラクターなのですから、はずすわけにはいきません。
それよりも、合唱のロンドン・ヴォイセスも含め、すべての出演者が、セラーズによる、まるで能のように高度に様式化された「振り」を、最後の場面でだけ登場するパリ少女合唱団の一人一人に至るまでが完璧な習熟を持って演じていたということが、この舞台作品においては重要なことなのです。
ステージ上のスクリーンにのべつ映し出されている陳腐な映像には、あえて無視するだけの寛容さが求められます。異なる表現媒体を同時に扱いさえすれば、作品の質が高まるのだという勘違いに気付かない限り、現代の芸術に未来はありません。

12月15日

A.MAHLER
Lieder
志村年子(Ms)
志村安英
(Pf)
FONTEC/FOCD3485
今回はアルマ・マーラーの歌曲集です。
私の記憶が正しければ・・・・。かれこれ20年ほど前、ある愛好家の集まりの主催するコンサートで、日本で初めてアルマの数曲の歌が紹介されたのでしたっけ。その集まりというのは、「夫マーラーを愛する仲間達」の会。当然、マーラーの交響曲や歌曲の分析には長けていましたが、「彼の妻の作品」がいかばかりのものかは想像もつきませんでした。
その時の歌手の方の名前は失念しましたが、聴き手に、「あれま!」という驚きと感動をもたらした一時であった事は確かです。夫マーラーの素朴な民謡風の歌に比べ、アルマのそれは、その時代の空気を敏感に察知して、繊細で震えるような一瞬を捉えた音。マーラーが彼女の作曲を禁じた話は余りにも有名ですが、もしかしたら、夫は妻の才能に嫉妬した上での判断かもしれません。それほどまでに完成度の高い、美しい音楽でした。当時、何とか録音で聴けないかと、LPを随分探したのですが、結局入手できず、悲しい思いをしたものです。
あれから20年、月日の流れと共に、彼女の音楽も再認識されたのでしょう。スコアも容易に手に入るようになりましたし、今では輸入盤のカタログ上で10種類近くの録音を探せるまでになりました。今回のCD、歌っているのは、日本を代表するメゾ・ソプラノ歌手志村年子さん。彼女も以前からアルマの歌曲を積極的に歌って来た人で、私が聴いた昔のリサイタルも、もしかしたら彼女の演奏だったかも知れません。
そんな志村さんの演奏。さすがに思い入れが強く、どの歌もかなり濃い表情付けになっています。ただ、あまりにも重過ぎて、まるで恨みつらみを聴かされているようで少々つらかったと言うのは、贅沢な感想でしょうか?そう、もう少しだけ「しなやかさ」が欲しいと思うのです。特に1924年出版の「5つの歌」。これは扱っている詩の内容(夜と愛を賛美するもの)も含めて、もっともっと官能性を前面に出して欲しいところ。伝記には、どれにも「恋多き女」として書かれているアルマの曲。一筋縄に行くわけもありませんて。
同時に収録されている「日本の歌曲」。こちらも興味深く聴かせてもらいました。「ドイツ後期ロマン派歌曲」と「日本歌曲」。まったく性格の異なるジャンルの歌を並べることにより、志村さんは聴き手に何を訴えているのでしょう?それとも、たんなるCDの時間あわせなのでしょうか・・・。
この難問にぴったり合う答えを探すには時間がかかりそうです。
ともあれ、なかなか意欲的なアルバムです。雪が降り積もる夜にふさわしい1枚でしょう。

12月13日

EÖTVÖS zeroPoints
BEETHOVEN Symphony No.5
Péter Eötvös/
Göteborgs Symfoniker
Ensemble Modern
BMC/CD 063
トランシルヴァニア生まれの指揮者/作曲家、ペーテル・エトヴェシュが、自作とベートーヴェンの「運命」(!)を指揮しているCDです。自作の「zeroPoints」を演奏しているのがイェテボリ交響楽団で、「運命」がアンサンブル・モデルンとなっていますが、これがミスプリントではないのが面白いところですね。アンサンブル・モデルンが「運命」なんて!ちなみに、レーベルも「BMG」のミスプリントではありません。「BMC(Budapest Music Center)」というのは、ハンガリー音楽のデータベースを作成し、公開することを主要目的とする組織だそうで、これは、そこで出しているCDなのですね。
まず、大管弦楽団のための「zeroPoints」。ピエール・ブーレーズとロンドン交響楽団から委嘱された作品ですが、作曲者は「同じ作曲家で指揮者であるブーレーズから委嘱されたということは、大変な名誉だ」と語っていたそうです。全体は9つの部分からなる12分程度の小さな曲、打楽器と金管楽器の華々しい活躍で、一瞬にして刺激的な非現実の世界へと引き込まれます。後半には安らぎのある部分も聴かれますが、厳しい肌合いを持った音楽であることに変わりはありません。「癒し系」とは一線を画した、緊張感のある曲です。
さて、問題の「運命」、もちろん、アンサンブル・モデルンのメンバーだけで演奏できる編成の曲ではありませんから、弦楽器などはかなり多くの外部のメンバーが加わっているようで、サウンド的には、ベートーヴェンにとって不足はありません。と言うよりは、室内楽的なベートーヴェンは、もはや現代の常識ですからね。
そうなれば、興味の対象は、この20世紀の音楽を主に演奏している指揮者と団体が、どんなベートーヴェン像を見せてくれるか、ということになります。しかし、この点については、いささか、肩透かし。ティンパニ奏者が異常に張り切っている以外はあまりにまともすぎる音楽で、拍子抜けしてしまいました。これだったら、ジンマンあたりの方がよっぽど刺激的なことをやっています。ただ、よく聴いてみると、非常に高度な皮肉と言うか、とことんベートーヴェンの様式、それも、ちょっと前に主流だったようなものをきちんと再現してみようという意図が見えてきます。その顕著な例が第2楽章で、いかにも不器用で不自然なアゴーギグは、もし真面目にやっているのだとしたら、とんだ噴飯ものです。第3楽章でトリオを反復しているのも「ちょっと前」に流行ったやり方、今こんなことをやったら、確実に笑われますしね。
ところが、4楽章に入ったとたん、音楽が作り物ではなく内からの躍動感をともなったものになったのには、驚きました。ベートーヴェンをサカナに遊んでみようとしたところが、結局、ベートーヴェンの掌の中で遊ばれてしまった、そんな、なんか微笑ましくなるような演奏ですね。これからは、こんな風に、畑違いでもベートーヴェンに取り組むようなアンサンブルも、出るんでしょうね。

12月12日

BERLIOZ
Lélio, Symphonie Fantastique
Charles Dutoit/OSM
DECCA/458 011-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1053/4(国内盤1月23日発売予定)
今年も残すところ後2週間。街行く人も何となく忙しない今日この頃です。この私でさえ、内職で楊枝を削ったりと(長屋の浪人か!おまえは)いろいろ用事があるのですから、この時期は「神の子」にも用事があって当たり前ですね。
ですから、今回はベルリオーズの別の作品をご紹介しましょう。ベルリオーズと言うとまず頭に浮かぶのが幻想交響曲です。あとはせいぜい「ファウストの劫罰」。それも全曲でなく行進曲のみ。しかし、作品目録を一瞥すると、ベルリオーズは実に声楽作品を多く書いているのに気がつきます。オペラだけでも3曲、教会音楽、カンタータなどは実に20曲以上がカタログに存在します。しかし、ほとんど聴かれる機会がないのは何故なのでしょうね。
さて、今回のデュトワの新譜は、そんな声楽曲の一つ、「レリオ」です。この曲はあの幻想交響曲の続編として1832年に発表された物で、曲の概要を知らないで聴くと、全く取り留めのない曲に聴こえます。編成がまたユニークで、語り手(彼が主人公です)、独唱にテノール2、バリトン。合唱がソプラノ2部、テノール2部、バス2部。大オーケストラ、ハープソロ、ピアノ。曲自体も、実は彼がそれまでに作った曲をナレーターの独白でつなぎ合わせたと言うもの。全く変な作品としか言いようがありません。
幻想交響曲が作曲されたのは、女優ハリエットへの届かぬ思いからでしたが、この「レリオ」は彼の次の恋人マリーとの破局が元になっています。ここらへんの話は逸話集などでもおなじみなので省きますが、とにかく、出来上がったこの曲と幻想交響曲の2曲、(もちろん内容も似通っている)この初演時に、ベルリオーズはなんとハリエットとの初恋を実らせてしまうのですから「何事も想い続ければ望みはかなう」というところでしょうか。「レリオ」の最後で「幻想」のメロディがかすかに聞こえてくるのが、ちょっと意味深です。
さて、デュトワのアルバムです。以前録音された「幻想」もカップリングして2枚で1枚値段というとても親切なつくりなのが嬉しいですね。肝心の演奏ですが、ナレーター、ワトソンの美しいフランス語にうっとり。ソロのクレメント、ギエツもまあまあ。合唱も素晴らしく、特に合唱団が前面に出てくる「嵐に基づく幻想曲」での溌剌としたアンサンブルは見事としか言いようがありません。しかし全体的に真面目な演奏で(これは幻想交響曲もそうです)、ちょっと物足りない・・・というのは贅沢でしょうか。まるで「ピーターと狼」を聴いているような模範的な演奏です。この曲の性格上、もっと狂ったような表現でもよかった?気がします。インバルあたりで聞いてみたい曲ですね。

おとといのおやぢに会える、か。


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