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老舗か、囲炉裏。....渋谷塔一

(01/9/17-01/9/28)


9月28日

THE SINGERS
Birgit Nilsson
Birgit Nilsson(Sop)
Edward Downes/
Orchestra of the Royal Opera House etc.
DECCA/467 912-2
一概には言えないでしょうが、私の年代の人(幾つだ?)のオペラファンのイチオシの歌手は、大抵2つのパターンに分けられるようでして、イタリアオペラの好きな人が真っ先にあげるのが、あのカラス。そう、お墓でお供え物を食い散らかす(それはカラス・・・そのまんまやんけ)。今でも若手歌手が出るたびに、「カラスの再来」と言われる名ソプラノです。
かたやドイツオペラの好きな人だったら、何と言ってもこのニルソン。「え〜?フラグスタートだよ」なんて仰る方は、私よりかなり上の世代のはず。何しろ、私は彼女を生で聴く機会はありませんでした。彼女がどんなに素晴らしいソプラノであろうが、CDでは50年代の貧弱な音しか聴けませんし、カラスほどの伝説があるわけでもありません。
しかしながらニルソンは違います。そもそも私がワーグナー好きになったのは彼女の素晴らしいブリュンヒルデのせいですし、シュトラウスにはまったのも、もちろんニルソンのおかげ。そう、あのヴィーンのエレクトラは凄かった・・・。この話を始めると、2時間くらい平気でしゃべるので、やめておきますが・・・。
今回のTHE SINGERSシリーズは、UNIVERSALゆかりの歌手を20人セレクトして、各々の代表的な録音を集めたと言う企画モノCDです。他にはデル・モナコや、タルヴェラ、ダンコやライダーなど、有名な歌手から、マニア向けの歌手まで取り揃え、エンハンスト仕様でおまけ画像付き。その上1300円前後で手に入るという、まさにマニア垂涎のアイテム。(もちろんお約束のパヴァロッテイもありますが、あまり売れてないんですと。)
さて、このニルソンのアルバムです。これが全くの掘り出し物で、有名なショルティと共演した作品は一切収録されていなくて、メインは63年のコヴェントガーデン、ダウンズ指揮のワーグナー・アリア集。ここで彼女は、ひさびさのジークリンデを披露しているのです。ニルソンのイメージ、どうしてもブリュンヒルデなのですが、バイロイトにデビューしたての頃は、クナの指揮で57年に1回だけこの役を歌っていたのです。(翌58年はリザネクに替わってしまったのは、いかなる理由なのでしょう?)これは聴きモノです。さらに、何より素晴らしいのが、タンホイザーの「汝、高貴な殿堂よ」のアリア。さざめくオケの前奏にのって発せられる凛とした声。涙が出るくらい感動モノです。強靭かつ透明な声と表現力は、さすが当代きってのワーグナー・ソプラノ。63年の録音にしては音もよく、ダウンズ指揮のオケも生き生き。名演です。
最後に収録された3曲のクリスマスソングのチャーミングなこと。これも思わぬ贈り物でした。誰もが彼女を好きになる・・・そんな1枚です。

9月26日

MAHLER
Symphony No.4
Benjamin Zander/
Philharmonia O
Camilla Tilling(Sop)
TELARC/2CD-80555
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCT-2010(国内盤1024日発売予定)
いつの時代にも、「講釈好きのおやぢ」がいるものです。例えば、それは有名なすし屋の店主であったり、有名なラーメン屋の口うるさいおやぢであったり。「あ、スープは全部飲んでね。そこしゃべらない!」
ここまで言われても、店の外には延々と行列が・・・。なんてお店も存在するのですから、世の中なかなか面白い。(そういう店に限って不味かったりします。)
さて、この指揮者ザンダーも、講釈好きとしては人後に落ちません。毎夜毎夜オケの女性メンバーと、とっかえひっかえ(それは好色)・・・。失礼しました。そう。指揮者として、さらに音楽学者としても活躍する彼の新作、マーラーの4番は、いつものごとく2枚組み。これは、別に演奏時間がめちゃくちゃ遅くて1枚に入りきらないとか、はたまたカップリングに同じくマーラーの8番が入っているから、ではなくて、DISK1には4番の演奏、DISK2には、その解釈についての講義が収録されているというモノ。その上、DISK2の方が収録時間が長いのですから・・・・。
英語に堪能な方でしたら、このDISK2をストレートに楽しむ事もできましょうが、私レベルのリスナーでは、それは不可能なこと。彼の熱い思いを受け取るためには、日本語に変換するという作業がない事には歯がたちません。
マーラー自身のピアノロールを参考にした(らしい)とか、(そういえば終楽章の演奏が残ってますね)演奏時間にこだわった(らしい)とか、解釈を入念にした(らしい)とか、売りはたくさんあるらしいのです。
確かに、それだけの準備をして演奏に臨んだ気持ちは良くわかります。しかし、どんな演奏家でも、きちんとしたこだわりは必ずあるはずですし、もちろん、入念に楽譜の読み込みをする。なんて作業は当然であって、ことさら声高に念押ししなくても良いのでは・・・。
そう思いながら聴いてみました。聴こえてきたのは、ごく普通のマーラーでした。例えばブーレーズの時のような驚きもなければ、シャイーの時のような怒り半分、喜び半分の感動もない・・・。ただただ1時間、「聴かされている」気分でした。遊び心が欠如している真面目なマーラーそのもの。
楽譜を正確に演奏する事=素晴らしい音楽
もしザンダーがこのように信じて、この路線に喜びを感じているのなら、それはそれで幸せなことでしょう。しかし、「楽譜を通して演奏家の感情の表現を聞き取りたい。」そう思っている聴き手には、この演奏、極めて作為的なものとしてしか受け取ることはできないに違いありません。終楽章のソプラノが美しかったのが、唯一の救いでした。
ザンダーがどのように考えて、この演奏を行ったのか、国内盤が出たら、ぜひDISK2の対訳を読んでみたいと思います。

9月25日

WAGNER
Overtures&Preludes
Oleg Caetani/
R.Schumann Philharmonie Chemnitz
ARTS/47635-2
シュトラウスほどではありませんが、ワーグナーのオペラに関しても、人に負けないぐらいの知識は持っているつもりのおやぢです。それなのに、CD屋さんで「ワーグナーの『エンツィオ王』序曲の世界初録音」というコメントを見てびっくり。ワーグナーの未完のオペラの中にも、そんなタイトルのものはなかったぞ、と、一瞬あせってしまったではありませんか。
後で調べてみたら、これはエルネスト・ラウパッハという人が作った5幕物の悲劇の、付随音楽だったのですね。これを作ったのは1832年といいますから、最初のオペラとされている「婚礼」に着手した頃、まだまだ習作の時代です。赤胴鈴之助で言えば、千葉周作の弟子だった頃ですね(だから、だれも知らないってば)。
なにはともあれ、初めて聴くワーグナーの作品です。大いに期待は膨らみます。もっとも、この前のブルックナーではありませんが、作られた年代を考えれば、過大の期待は無用ということも良く分かっていますので、その辺は程々の楽しみです。
果たせるかな、聴こえてきたのは、ちゃんとしたオペラを作り始めた頃のワーグナーとは似ても似つかぬきちんとした、ということは、面白みの少ない音楽でした。イマジネーションよりは、主題の展開とか全体の古典的な構成に関心を注いでいるという、いかにも習作にありがちな堅苦しい曲、これも以前ブルックナーで述べたように、このようなことをやっていた人でも、後にはだれにも真似の出来ないようなものを作り上げることができるという、奇跡の証明として聴くべきでしょう。
申し遅れましたが、このCDはワーグナーの序曲や前奏曲を集めたもの。「エンツィオ王」もそうですが、タンホイザーの第3幕の導入などという、普通のこの手の曲集では絶対入ることはないような曲が収められていて、なかなか興味深い選曲になっています。
演奏者は指揮者もオケも全く聞いたことのない人たち。インテンポでサクサクと流れる音楽はなかなか風通しの良いものになっています。ただ、例えば「オランダ人」序曲のゼンタのテーマから、「救済」を読み取ろうとするには、あまりにあっさりしすぎていますし、「ローエングリン」の第1幕の前奏曲に「夢」とか「白鳥伝説」のイメージを求めるのも、ちょっと酷なこと。したがって、「タンホイザー」序曲と「妖艶」を同義語に感じたいと思っている人は、この「ヴァルキューレの騎行」の脳天気さに失望することになるのです。
このCDは録音の良さを売り物にしているようで、細かいデータが掲載されています。確かに機材やフォーマットは卓越していますが、結果として出てきたものは、60年代のショルティ/ヴィーン・フィルを超える音ではありませんでした。

9月24日

TCHAIKOVSKY Piano Concerto No.1
LISZT Piano Sonata in B Minor
FAZIL SAY(Pf)
TELDEC/8573-87009-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11026(国内盤9月27日発売予定)
昨年の夏、衝撃的な「春の祭典」のCDをリリースした、ゲルギエフ・・・ではなく、ファジル・サイの新しいアルバムです。何が衝撃的だったか?それは、あの、オケでも難しいハルサイを、たった一人でピアノで弾いたという事でしたね。
あのCDは、今でも事ある毎に売れているようで、CD屋さんでも、ちゃっかりと、今回のアルバムと並べて販売されているのでありました。実は、その編曲(2台ピアノ版)も彼自身の手に拠るもの。作曲家としても、多数の作品を発表、昨年は自作のピアノ協奏曲「シルク・ロード」を自らのピアノで録音、こちらもCD化されて、一緒に並んでいました。
そんな多な彼の新作は、なんとチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。「なぜ、今更チャイコフスキー?」と、ちょっと肩透かしを食らった気分。何しろ、オケで言えば、ベートーヴェンの「運命」を録音するようなものです。よほど変わったことをするか、または、全くの正攻法で攻めるか。そのどちらかなのでしょうね。
で、聴いてみました。オケはテミルカーノフ指揮サンクトペテルブルク・フィルです。冒頭のテーマ。さすがロシアのオケは鳴りが良いですね。その分厚い響きに負けることなく、サイのピアノも悠々と鳴り渡ります。これは気持ちいい。ご存知の通り、この第1楽章は本題に入ってから、ピアノがめちゃくちゃ難しくなるのですが、もちろんサイの演奏は、何一つ危ないところはありません。下手な人が弾くと、とことん歯切れの悪くなるオクターブの連打。(これが、とても多いのがこの曲のピアニスト泣かせの要因の一つ!)これも文句なし。もちろん、流れるようなアルペジオの素晴らしさも何一つ不満はありません。その上、微妙なテンポのゆれをしっかりまとめるテミルカーノフの棒さばきもばっちり。なにせ、これまた下手なピアニストだと、難しいところが早まる傾向にあり、オーケストラとの協調関係なんて完全に破綻してしまいますから。
そんなこんなで1楽章が終わって、2楽章、3楽章と聞き進むうちに、すっかり引き込まれてしまったのでした。気がついてみれば、全くの正攻法の由緒正しきチャイコフスキーでした。よく考えてみれば、この曲は楽譜を正確に現することそのものが、チャレンジ精神をくすぐるのかも知れません。
それにも増して面白かったのが、リストのソナタです。この曲も、なかなか侮れない曲。もちろんテクニックは難しいですし、それより何より、構成のつかみ所がなくて、実際に演奏する、いわゆる「起承転結」を読み取るのが困難な曲なのです。そんな場合、どこから手をつければよいのか。これはピアニスト任せなのですが、サイの場合は、一つ一つのエピソードの積み重ねと捉えたようです。「静と動」の部分の描き分けをはっきりさせて、曲に物語性を持たせる。そんな演奏でした。
あとでライナーを見てみたら、彼自身の考えが書いてあり、それによると、ピアノ・ソナタと「ファウスト交響曲」との関連に着目し、ソナタを演奏する、ファウストの登場人物を思い描いていたのだとか。だから、とても面白くきけたのかもしれません。

9月23日

SCHNITTKE
Requiem
Flemming Windekilde/
Chamber Choir HYMNIA
CLASSICO/CLASSCD 361
3年前になくなったロシアの作曲家、アルフレート・シュニトケは、近年、同郷のヴァイオリニストのギドン・クレメルや、ヴィオリストのユーリ・バシュメットの尽力で、かなり知名度が上がってきたところでした。64歳で死に、ホトケになったというのは、いかにも早すぎるという思いが募ります。
シュニトケの作品は多岐にわたっていて、その数も200曲以上と言われていますが、器楽曲に対するほどの関心は、合唱曲には向けられてはいないように感じられます。そんな中、彼のこの分野での代表作である「レクイエム」と「合唱のための協奏曲」がカップリングになったCDが発売されました。この方面の新しいレパートリーを探しているリスナーには、願ってもないものでしょう。
「レクイエム」は1975年の作品。もともとはシラーの戯曲「ドン・カルロス」の劇伴として依頼されたもので、ステージの陰で演奏されたとか。ほぼ伝統的なレクイエムのテキストに基づく、それぞれ2〜3分程度の短い曲で成り立っています。オーケストラは打楽器と金管楽器が中心の小編成のアンサンブルで、弦楽器はありません。曲は、チューブラー・ベルに導かれた合唱が、透明な響きで訴えかける「Requiem」で始まります。時折確信犯的に見え隠れする不協和音が、えもいわれぬ魅力をかもし出しています。想像したとおり、2曲目になると、例の無調の旋律が現われます。しかし、シュニトケの場合は、これは数多くの表現手段の1つに過ぎないことが、すぐに分かります。「Dies irae」ではクラスターのようなものも使われますし、「Rex Tremendae」あたりは、オルフの「カルミナ・ブラーナ」のもろパロディ、最後まで退屈とは無縁の刺激的な音楽が繰り広げられます。
最後に置かれたのが、普通のレクイエムには入ることはない「Credo」ですが、ここでは、なんとエイトビートのドラムスなどという、一見ミスマッチの楽器まで登場、通常のクラシックでは味わえない独特の昂揚感に浸れます。そして、最後には冒頭の「Requiem」が繰り返されて、しっとりと幕を閉じるという仕掛けです。
1985年に作られた「協奏曲」は、うって変わって、ア・カペラの重厚な曲。10世紀の詩人によるロシア語の「哀歌」がテキストになっていますが、ロシアの広大な大地を髣髴とさせる、腰の座った響きが聴かれます。シュニトケという人は、両親はドイツ生まれのユダヤ人。若い頃はウィーンで勉強もしましたが、長く育ったロシアの印象は、根っからのロシア人であるかのように、この曲に結実しています。
実は、この演奏以外にも、「レクイエム」は3種類、「協奏曲」は2種類のCDが出ています。それらと比較すると、このデンマークの団体は技術的な面でやや難点が無くはありません(特にソプラノの発声)。しかし、この演奏を、シュニトケの持つ多様性の中でも、ある種土着的な面に光を当てたものとしてとらえれば、決して魅力の無いものではなくなってくるのです。

9月22日

STRAVINSKY
The Rite of Spring
Valery Gergiev/
Kirov Orchestra
PHILIPS/468 035-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1035(国内盤)
「レコード芸術」という音楽雑誌は、我々CD紹介に携わる物にとっては、なくてはならないものです。いまどきのヤングの嗜好(それは「ワコード芸術」)とか、女性の下着の動向(それは「ワコール芸術」)を知るには欠かせません(もちろんうそで〜す)。本当に必要なのは、これからリリースされるCDの情報。広告も含めて、これらの詳細な情報をくまなく頭に入れることから、私達の作業は始まるのです。
そうは言っても、例えば読者の投稿欄あたりには、なかなかほほえましい意見などが掲載されていて、時折ホッとした気分にさせられることもあります。今月(10月)号では、「CDの宣伝について」というタイトルの、大学生の方の投稿にそそられました。ゲルギエフの「春の祭典」という、各方面で大評判だったCDの宣伝コピーで、宇野先生がこの演奏の最後の「オチ」をバラしてしまったために、初めて聴いたときの感動が薄れてしまったというのです。
まあ、これは痛し痒しというやつで、紹介する側としては、もっとも聴き所と思われるところを重点的に読者に伝えたいと思うでしょうし、そもそも、これだけ大量の商品が氾濫しているのですから、何か仕掛けないことには聴いてすらもらえないわけですからね。
幸い、私の場合は、そのような先入観を植え付けられるような物は何も目にしていなかったので、この演奏の最後の部分を聴いて、心臓が止まるほどびっくりしました。もうネタはバレているので書いても怒られないでしょうが、最後のアコードに入る前に、異常に長いポーズが入ったと思ったら、そのアコードの前打音(3〜4個の小さな十六分音符+大きな十六分音符)が、普通ですと「チャラララジャン」と、装飾音のようになるのが、十六分音符そのままの長さで「ジャジャジャジャジャン」と演奏されていたのです(「アコード芸術」・・・)。
件の宇野先生は、さすが本職の音楽評論家だけあって、この部分に何かもっともらしい解釈を下しておられましたが、私あたりには、楽譜に対する根本的な読み方の違いがあるような気がしてならないのですがね。というのも、ここに至るまでのゲルギエフの演奏が、とてもよく考えぬかれた物であるからなのです。例えば、「春のロンド」の「Sostenuto e pesante」の部分では、1拍目のバスを思い切り引きずらせて、本物の「pesante」、いまだかつて聴いたことのないような「重々しさ」を表現しています。
そのような分析的なことを考えなくても、この演奏のドライブ感に圧倒されない人はいないのではないでしょうか。単に指揮者が煽っているというのではなく、プレーヤー一人一人が指揮者の意図を理解して同じ方向を向いているというのが、とてもよく伝わってきます。さらに、ここからは、個人としてのプレーヤーの息遣いまでが、手にとるように感じられるのですから、すごいものです。
先ほどの投稿の主は、「結末を知らなければもっと感動できた」と書いていましたが、いえいえ、そんな些細なことにこだわらなくても、立派に感動できる演奏ですよ。

9月21日

MUSIC OF THE BEATLES
King's Singers
Erich Kunzel/
Cincinnati Pops O
TELARC/CD-80540
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCT-2009(国内盤)
キングズ・シンガーズというイギリスのコーラスグループがあります。創立されたのは1968年といいますから、もう30年以上も活動していたのですね。もっとも、日本でもダーク・ダックスが50年目とか、長さだけでは負けていません。「ダーク」の場合は全員オリジナルメンバー、一人減っても欠員のまま、他の3人も、もはや歌など歌えないのに、なぜか頑張っています。こういうのを、「ジジニナルメンバー」といいます。
そこへいくと、キングズ・シンガーズは、適宜メンバーを入れ替えて新陳代謝を図った結果、もはやオリジナルメンバーどころか、パートによっては5〜6代目になっているところも。初代ベースのブライアン・ケイなどは、ラジオの音楽番組のDJとして、余生を送っているとか。
このCDは、そのキングズ・シンガーズのTELARCレーベルへのデビュー盤です。共演がこのレーベルの稼ぎ頭、エリック・カンゼル指揮のシンシナティ・ポップス、これはそそられます。
出だしからして、凝ったアレンジ、「ツァラトゥストラ」風「エリノア・リグビー」ですから、うれしくなります。これはインストで、オケだけの演奏。2曲目の「愛こそすべて」で、コーラスが入ります。このアレンジが、なんと、ジョージ・マーティンではありませんか。オリジナル・ヴァージョンとほとんど変わらないオケに乗って歌われるコーラスは、ビートルズのそれよりソフィストケートされた格調高いものです。だから、ジョンのソロパートを歌うメンバーのフィーリングに全くロック・ン・ロールのテイストが感じられないのも、当然のこと。
3曲目になると、「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」のア・カペラヴァージョンです。これは確か、ずっと前のメンバーによってレコーディングされていた物ですから、もはや彼らのルーティンなレパートリー、ハーモニーにいささかの乱れもありません。
こんな感じで、ア・カペラ、オケ伴奏、インスト版と、ヴァラエティに富んだ構成で曲は進んでいきます。どれもお馴染みのビートルズナンバーですから、退屈するなどということは考えられません。何しろ、オケの中のリズムセクションのノリの悪さに気がついてしまうと、眠気などいっぺんに吹き飛んでしまいますからね。フィル・インなどを入れようものなら、リズムが木っ端微塵になってしまうのですからすごいものです。
最後の2曲、アンドリュー・プライス・ジャックマンのアレンジの「ヘイ・ジュード」と「レット・イット・ビー」は、なかなか聴き応えがあります。これまでの流れから予想される陳腐なイメージを覆すだけのインパクトを持ったアレンジ。メンバーも心なしかクリエティブな仕事に対する意欲を取り戻したかのように見えるから、不思議です。

9月20日

VERDI
Aida
Nicolaus Harnoncourt/
Wiener Philharmoniker
TELDEC/8573-85402-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11067(国内盤9月27日発売予定)
何度も書きましたが、今年は、ヴェルディ没後100年です。おやぢでは書きませんでしたが、ガーディナーとアバドがそれぞれ「ファルスタッフ」を録音していたり、珍しい初期の作品、「アルツィラ」が2枚組なのに、破格の1枚値段で発売されたり。最近では、期待の若手ソプラノ、テオドッシュウの歌う「ステッフィーリオ」がリリースされたのも、にわかヴェルデイマニアのおやぢとしては嬉しい限りです。
さて、今回の「アイーダ」です。何と言っても指揮をしているのが、あのアーノンクールですよ。もう発売予定のニュースを聞いたときから楽しみで楽しみで。アイーダをアーノンクールがあんな風やこんな風に・・・・。想像するだけで、楽しくなってしまったものです。本来ならば、8月の半ばに発売されるはずだったのが、諸般の理由で延びてしまったのにはがっかり。タイトルロールのガイヤルド・ドマスのアリア集だけ先に味わってしまったものだから、思いは一層募ります。やっと手にした時の喜び。これは私の愛だから誰にも文句を言わせるものですか。
演奏です。まず、アーノンクールが徹底的にこだわったというアイーダトランペットを聴くべく、例の凱旋行進曲から。さすがにかっこいいサウンドです。なんでも、ヴェローナ製の「アイーダトランペット」の忠実な再現を行い、演奏するためには臨時のメンバーを加える予定だったとか。しかし、ヴィーン・フィルのメンバーが「ぜひとも自分達で演奏したい」と、希望したとのこと。これは最高の結果をもたらし、リブレットにも、トランペット奏者の名前が燦然と印刷されることになるのです。
ただし、全体的に言えることですが、このアイーダ、かのレヴァイン盤のような絢爛豪華な音の羅列ではありません。どちらかというと控えめで柔らかな音。これは、アーノンクールの初演当時の音へのこだわりを如実に示したもの。
さらに、合唱を受け持つのが、アーノルト・シェーンベルク合唱団。この清冽な響きで歌われる「エジプトの栄光」を聴いてるとなんとなく荘厳な気持ちになってしまいます。もちろん、続く凱旋行進曲もその流れですから、ちょっと不思議な気がするのです。
しかしこれで終わるアーノンクールではありません。続くバレエの場面では、思い切りはちゃめちゃなノリを聴かせてくれます。「聖と俗」このメリハリがいいのですよ。
豪華な歌手陣にも注目です。アイーダ役は例のガイヤルド・ドマス。ボロディナのアムネリスとも堂々と渡り合う熱唱には好感が持てます。オペラ界の杉良太郎、ラ・スコーラの歌う、セクシーなラダメス。アモナスロ役は今や絶頂期のハンプソン。エキゾチックなアリアが当てられている尼僧役を歌うのはかのレッシュマン。いつもの事ながら、アーノンクールの歌手の選択眼には惚れ惚れします。
とにかく、今年の話題作の一つになるのは間違いありません。妙に挑戦的なジャケですが、見かけたらぜひどうぞ。

9月19日

SIBELIUS
Symphony No.5, Karelia Suite etc.
Sakari Oramo/
City of Birmingham SO
ERATO/8573-85822-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11074(国内盤9月27日発売予定)
先日、ニューフィルの次の定期の曲がシベリウスの交響曲第5番に決定したそうですね。その時におやぢがマスターに勧めまくったのは、なんと言ってもヴァンスカ/ラハティ響盤(BIS)。あまり熱心に勧めるので、もしかしたら顰蹙を買ってしまったかもしれませんが、私の手持ちの5種類の中では一番のお気に入りのこの演奏、初稿版が収録されているという資料的価値を超えての名演である事には疑いの余地はありません。ヴァンスカのシベリウスは、色で言ったら「深い青」。荒涼たる大地、寒々とした針葉樹林、あちこちに固まるペンギン・・・・。なんか違うイメージが混在してますが、およそ私の頭に浮かぶのはこんな風景。これは、私が抱いているシベリウスのイメージに近いものがあります。(で、バルビローリやバーンスタインの熱いシベリウスは馴染めなかったと。)
今回、このところ、すっかりお気に入りの指揮者、サカリ・オラモが、最新盤でこの「交響曲第5番」と管弦楽作品集を取り上げたとあって、発売前から大いに期待していました。前作のシベリウス「交響曲第2、4番」も大好評。各方面で絶賛を浴びたようで、すっかりバーミンガム市響の顔となった彼、来年は来日も予定されていて、ますます目が離せません。
オラモとバーミンガム市響は、今年のプロムスに出演したという事で、このCDはそれに先駆け、公演曲目を4月に収録したのだそう。最新のシベリウス、さっそく聴いてみることにしましょう。
ここで聴かれるオラモのシベリウスは、さっき述べたヴァンスカとは、まったく色合いが違っていました。第5番の冒頭のホルンの響きから、わくわくするような何かを感じさせてくれます。それは、まるで鬱蒼とした森のなかで聴く角笛のような、とても懐かしい響き。色で言ったら「濃淡取り混ぜた緑」のイメージでしょうか。
第2楽章の自由な変奏曲での、柔軟な表情付けも、聴いていてとても心地良いもの。そのまま終楽章に続いていきますが、どちらかと言うと変化に乏しいこの3楽章の最初の部分を、オラモは入念に色付けして、目の前に様々な風景を見せてくれています。
こんな彼の演奏、カップリングの「カレリア組曲」や「ポヒョラの娘」などが面白いのは、言うまでもないことでしょう。カレリアの「間奏曲」の最初のファンファーレを聴いただけで、もう「これはいい!」とつぶやいてしまったのは、いささか贔屓入ってますが。あまり聴く機会のない「吟遊詩人」Op.64も、とても美しい曲。いかにもシベリウスらしいメランコリックなメロディが、ハープの伴奏で奏されます。
さて、ニューフィルの皆様は、この美しいけど難曲(と言えばやっぱりペンギン・・・それは南極)の5番をどのように演奏されるのでしょうか?とても楽しみです。

9月17日

DVOŘÁK
Symphony No.9(tr. for organ)
Zsigmomd Szathmáry(Org)
BIS/CD-1168
(国内盤)
キングレコード
/KKCC-2323(国内盤)
オルガンのことを「一人のオーケストラ」と言った人がいました。オルガンという楽器(もちろん、パイプオルガンのこと、決して電子オルガンではありません)は、コンソールにある鍵盤とストップを駆使して音を出すわけですが、実は、その鍵盤の数だけの独立したオルガンで成り立っているのですね。さらに、それぞれのオルガンには20種類近くのストップが用意されており、その組み合わせは無限大です。
これらのストップと鍵盤を組み合わせることによって、それこそオーケストラ顔負けのサウンドを作り出すことが可能だということで、冒頭のような慣用句が生まれたのでしょうね。事実、オルガンでオーケストラのレパートリー、交響曲などを演奏しようという試みもなされており、ブルックナーなどを素材に玉石混交の成果が生まれているのは、ご存知のことでしょう。
今回登場したのは、ドヴォルジャークの超有名曲、「新世界より」です。演奏しているのは、現代曲を得意としている、自身も作曲家であるハンガリーの重鎮サットマリー、果たして、このいかにも陳腐な素材からどのような料理を作り出すのか、興味は尽きません。
この名シェフの手によって聴こえてきたものは、冒頭から、オーケストラ版とは全く異なる響きでした。ヤ○ハ音楽教室の発表会だったらどうしようと身構えていたおやぢの脳裏に、ある種の安心感がはしります。この演奏(編曲)からは、オリジナルとは異なる世界を追求していこうという姿勢が、痛いほど伝わってくるのです。和声などは変わっていないはずなのに、ドヴォルジャークの曲が、まるでセザール・フランクのように聴こえてくるのですから、これはなかなか大したもの。音形なども適宜オルガン風に巧妙に変えられていますから、最初からオルガンのために作られた曲だと思うことも、あながち困難なことではありません。
もっとも、終楽章のファンファーレは、もっともっと派手な響きで攻めて欲しかったと願うのは、どんなことをしてもオリジナルのイメージを拭い去ることができない凡人の浅はかさでしょう。そんな意味からは、カップリングのほとんど知られていない作品(私は初めて聴きました)のほうが、先入観がないだけ、いとおしく聴くことが出来るのではないでしょうか。
実は、私は生サットマリーを聴いたことがあるのですが、その時は、オルガン演奏には付き物の、譜めくりやストップ操作をするアシスタントを付けないで、すべての作業を一人でこなしていることにびっくりしたものでした。この録音でも、おそらく(断言は出来ませんが)ストップなどは自分で操作しているのでしょう。そのため、フレーズの最後に、独特の「間」が空いてしまうことがあり、音楽の流れを若干損なうことになってしまっていますが、これも表現のうちと思える様になってくる頃には、聞き手はすっかりサットマリーの術中にはまってしまい、サントリーを片手に夢の世界をさまよっているのです。

きのうのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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