対抗戦略としての地域労働運動

―北大阪合同労組連続労働講座報告D 脇田憲一(労働運動史研究者)―

 企業別組合またはその連合体、あるいは産業別やナショナルセンター(中央組織)の組織形態であったとしても、その主体が企業別組合である限り、資本や権力の直接的、間接的な支配介入には対抗できないというのが、日本的労働組合の今日的評価ではなかろうかと思います。同時に、これからの対抗戦略としての労働運動とは何かが基本的に問われているわけであって、これを地域別、産業別運動のモデルとしてその可能性を考えてみたいと思います。
 今回は地域労働運動として、大阪北摂地域の能勢農場と関西よつ葉連絡会と北大阪合同労組の関係を取り上げてみたいと思います。北大阪合同労組の場合は、その活動のルーツは1950年代の吹田地区労の中小企業未組織対策だったと聞いておりますが、能勢農場や関西よつ葉連絡会と一体的に活動を始めたのは1970年代の半ば頃です。私が総評北摂地区評の担当オルグとして接触したのは、1980年代の半ばでした。すでに彼らには約10年間の地域活動の実績があったのです。
 第1回講座「総評はなぜ解体したのか」で述べましたように、1985年9月、北摂6市に対するパート条例請求運動をこの運動グループと一緒に取り組み、その後、総評オルグを退職してから能勢農場、関西よつ葉連絡会のバックアップで北摂・高槻生活協同組合の設立に加わり、それ以後今日まで約20年間、主として高槻での地域運動を一緒にやってきました。
 私がこの運動グループと行動を共にしてきた最大の関心は、一つは、このグループの中心的な活動家はほとんど経済活動のリーダーであったことです。つまり、自立した社会活動とは各自の生活の自立が基本であって、そのための集団的自立として経済活動を捉えていることへの共感でした。二つは、労働者が、あるいは人民が経済活動に主体的に関わることは、労働主体の当事者として資本に取り込まれた労働過程および生活過程を取り戻す闘いであり、ここに資本・支配権力との対抗関係が存在すると考えるからでした。
 18世紀のイギリスにおける産業革命と、19世紀のフランス革命によって発展した資本主義体制は、20世紀のロシア革命と中国革命によって社会主義体制との東西両極体制に入りましたが、20世紀末にはソ連・東欧の国家社会主義の崩壊による敗北によって、新自由主義一極支配のグローバリゼーションの時代に入りました。しかし、資本主義の本質ともいえる失業と貧困、環境の破壊は解消されることなく、現代社会は資本体制と非資本体制の二重構造の矛盾を抱えて推移しています。資本主義と社会主義の基本的な対抗関係は存在していることを、見落とすことはできません。
 初期資本主義の段階から、社会主義の地下水脈は、労働者、人民の協同による多様・多元的な相互扶助活動として、労働組合・生活協同組合・生産協同組合活動の経験を蓄積し、約1世紀を経た1970年代になってようやく労働者アソシエーション(労働者生産協同組合と訳されている)運動として世界的に顕在化してきました。それは、労働者を賃金労働者から社会資本、社会的経済の共同所有者へと移行させる新しい試みです(「社会運動」誌300号記念、早稲田大学名誉教授・佐藤慶幸先生特別講演参照)。
 私は、1985年に原生協(北摂・高槻生協の前身)の再建運動に参加した際に、同じ問題意識において能勢農場での合宿勉強会で「能勢農場・関西よつ葉連絡会の活動は、労働者生産協同組合の具体的な実践である」という話をしたことがあります。しかし、当事者たちに「それはなりゆきでそうなっているだけであって、そんなにいいもんちがうぜ。買いかぶりや」と、ひやかされたことを記憶しています。
 実際に「労働者生産協同組合」的活動でありながら、当事者にその自覚と認識がないと、自然発生的なその場かぎりの活動に終わってしまいます。しかし、北摂地域を中心に今日まで30年間も運動が持続し、事業も運動も拡大強化されていることは事実であって、筆者は、この北摂地域のこの運動こそ、従来の労働組合や生活協同組合からより進化発展した労働者アソシエーション運動として意識化(理論化)することがもっとも重要だと思っています。
 地域・アソシエーション研究所も作ったことでもあるし、もっと足下の運動から理論総括を始めるべきだと思います。ポイントとしては、能勢農場・関西よつ葉連絡会としての労働者アソシエーション運動の中に、北大阪合同労組の運動をどのように位置づけるか、次回は最終回になりますが、 この議論をしてみたいと思っております。