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静 寂
『アザー・イスラエル』編集部(2005年5月号)/訳:脇浜義明
米大統領が新パレスチナ議長アッバスを「いい奴」の部類に入れたので、シャロンは、ラマラ議長府を包囲したり、軍を突入させて脅かす戦術がとれなくなった。すくなくとも当分の間は、文明国の政治家らしく振舞わざるを得なかった。しかし、「和平交渉再開」ムードは長く続かなかった。シャルム・エル・シェイクでの握手や、紆余曲折する過程でもたれた各レベルの高官同士の会談は、すぐに忘れられていった。
国際レベルでは、「中東和平交渉再開」は、おおかた額面どおり受け取られた。キャンプ・デービッド会談が不首尾に終わった2000年以来、国際メデ
ィアは、イスラエル軍の占領と入植地拡大という厳然たる事実にはあまり注意を払わないで、「出口の見えない複雑に絡み合った紛争」とか「狂信者による憎悪と流血の応酬」などという用語が踊る報道ばかりしていた。ところが、一晩にしてがらりと豹変、「あらゆる困難にもめげず、新しい希望を探る勇敢な2人の指導者」―シャロンとアブ・マゼンが、お互いに近寄ろうと、覚束ない足取りで綱渡りしている戯画をつけて―と、類型化して報道し出したのだ。
事実、シャロンは「勇敢なピースメーカー」というイメージで、大きな外交的配当を得た。エルサレムの新ホロコースト記念館開設式典に各国の大物指導者を招待、得意満面だった。これは、60年前の虐殺の犠牲者を悼む式典というよりは、現在の政治的かけひきに利用する演出だった。
シャルム・エル・シェイクを受けて、2001年のイスラエル戦闘機によるパレスチナの町攻撃に抗議して本国へ引き上げていたエジプト大使、ヨルダン大使が、鳴り物入りでテルアビブの大使館へ戻ってきた。中東問題に関心を抱いているハリウッド・スター、リチャード・ギアがイスラエル・テレビに出て、「前回私がここへ来たときは、外出禁止令や銃撃戦や流血の最中でした。今回は新しい希望に満ちた夜明けが感じられてうれしい」と語った。
現地の住民は、大使や映画俳優ほど楽天的ではなかった。イスラエル住民にもパレスチナ住民にも、例えば1993年にラビンとアラファトが握手を交わしたときのような希望の高揚は見られなかった。2000年8月のバラク・アラファトのキャンプ・デービッド会談のときの、やや控えめな期待感もなかった。実際、両社会の世論調査を見ると、長期的安定状態が訪れると思っていない人の数の方が圧倒的に多く、現在の停戦が一時的休止にすぎないという見方が支配的であった。この草の根レベルの懐疑には、もっともな根拠がある。両社会の指導者は、和平という共通の目標に向かっているどころか、お互い食い違う目的を追求しているからだ。
昔と同じ狼
ガザ撤退に猛烈に反対する入植者やラビから「裏切り者」呼ばわりされながら、シャロンは、これまで数十年にわたる軍人生活・政治家生活の中で一貫して追求してきた目的を、今も執拗に追い求めている。つまり、可能な限りの多くの領土をイスラエル・ユダヤ人の支配下に置き、そこに住むアラブ人人口を可能な限り最小とすること。経験によって鍛えられた兵士であるシャロンは、目的達成のためには、すでに獲ったものを犠牲として手放す場合もあることを熟知していた。だから2003年後半、一種の戦略的後退をする必要が生じたと判断したのだった。
盛り上がる国内・国際批判を和らげるためには、自分で作り育成してきたが、維持するのが厄介なガザ地区の一握りの入植地を手放す必要があった。疎らな飛び地に8000人程度の入植者がいたって、多産でどんどん増加し、すでに100万人に達するパレスチナ人人口に囲まれていては、影が薄い。それをスチナ人人口に囲まれていては、影が薄い。それを犠牲にすることで、人口20万人以上になる西岸地区の100箇所以上の入植地を確保でき、さらに拡大できると、シャロンは踏んだのだった。西岸地区の入植地をバイパス道路で繋げば、国際社会のコンセンサスでパレスチナ国となる領土をズタズタに引き裂き、領土的連続性のないタコツボ国家となり、イスラエルの西岸地区全土への支配権が確保されるという計算だ。
もちろんシャロンの描く像は、パレスチナ人の基本的な期待と真っ向から矛盾する。彼らは、西岸地区全体とガザ回廊を領土とし、東エルサレムを首都とする国家を、最低限のものと考えているのだ。アブ・マゼンはそういう国家を暴力なしで樹立することに、自分の政治生命(身体的生命だって危ない)を賭けているのだ。
だから、単純な『イェディオト・アハロノト』紙が描いたように1本のロープを渡る2人の綱渡り芸人というよりは、シャロンがロープの端を握っており、もし圧倒的な外部からの介入がない場合には、そのロープでアブ・マゼンの首を締めると描いた方が適切であったろう。
外交官フリーダム・ファイター
1960年代にアラファトとともにファタハを設立、ついにはパレスチナ民族運動の指導者となった多くの古参兵と同じように、マハムード・アッバスは「アブ」(父親)の名称を得、その名で世界に知られるようになった―アブ・マゼンとして。
どちらかと言うとぱっとしない、カリスマ性に欠ける人物で、これまで武装闘争にかかわったことがなく、アラファトの後継者としてはあまり似つかわしくないと言える。パレスチナ事情に詳しい消息筋は、もしもイスラエル内閣が第一次インティファーダのときにカリスマ性が強い戦闘的活動家サラハ・ハラフ(アブ・ジハド)を暗殺する決定をしていなければ、彼がアラファトの後継者になっていたであろうと、しばしば口にする。(もし彼が後継者になっていれば、なかなかアブ・マゼンの言うことを聞かない民兵の統制は、もっと容易になっていただろう。)
アブ・マゼンは、何もしないことで大統領になった―しかも、イスラエルや米国から見て好ましい候補者であった。これは、パレスチナの政治舞台では致命的な欠陥であったはずだ。ところが、彼は何とかうまく切り抜けている。
戦争疲れしたパレスチナ社会は、アブ・マゼンにやらせてみようとしたのだ(熱狂的に彼を支持したわけではない)。交渉によって占領終結を獲得する力が彼にあると信じたわけではなかったが、例え数ヶ月の静寂でも、4年以上も戦争と流血と弾圧のために大きな犠牲を払ってきたパレスチナ人にとって、望ましい目標であった。
アブ・マゼンの政策の中心には、二重の武力行使否定がある。パレスチナ人武装グループに対しては、自爆攻撃―軍への武力攻撃も―はパレスチナの利益に反すると、執拗に言い続けた。同時にイスラエルと米国に対しては、自分は「テロリスト組織を解体する」ために武装グループと武力衝突する気はない、と言った。このため、彼はすべての武装グループや民兵組織に包括的休戦に署名させる戦術をとった。そうすることで、国際社会におけるパレスチナの正当性を回復させ、アラファト時代末期の孤立状態から脱しようとしたのだ。そして、願わくば、外交交渉の再開と、占領終結へ向かって目に見える成果をあげようとしたのだ。僅かでも目に見える成果があがれば、休戦が強化され、武装グループはもっと武器使用を控えるようになるだろう、と計算した。
アブ・マゼン戦術の第一部―つまり、やや安定した休戦の実現―が素早く実現したので、イスラエル人、国際社会、およびかなりのパレスチナ人は驚いた。もちろん、これにはパレスチナ各派やアラブ諸国の協力が必要だったが、アブ・マゼンはそれをとりつけた。第二部―つまり、占領終結へ向かって目に見える成果―が遅々としていることには、誰も驚いていない。それが実現するためには、イスラエル政府の思い切った善意が必要だし、それがない場合は、強力な国際社会の圧力、とりわけ米国がシャロンに強い圧力をかける必要がある。
アブ・マゼンには時間的余裕がなかった。彼が大統領就任宣誓をしたとき、ガザ回廊付近では紛争がどんどんエスカレーションしている真っ最中だった。パレスチナ人の手作りロケットに対し、イスラエルの最新式米国製ミサイルがヘリコプターから、毎日のように発射されていた。将軍たちは、ガザへの大規模侵攻の準備をしている真っ最中だった。その上、シャロンお抱えのプロパガンダ屋やジャーナリストが、新パレスチナ指導者は「善意だが無能」で、パレスチナ人を統率できていない、という宣伝を流していた。
しかし、アブ・マゼンは迅速だった。すぐにガザへ行って、政治各派や民兵組織指導者と日夜マラソン交渉を敢行。同時に、パレスチナ治安部隊をガザの「不安定地帯」に展開した。民兵たちは黙って譲歩し、手製ロケット弾のイスラエル領への撃ち込みが止んだ。不承不承シャロンは、イスラエルの侵攻作戦の中止を宣言せざるを得なかった。
ことの性格上、アブ・マゼンのマラソン交渉は、ガザの武装勢力と一部の西岸地区の勢力に限られた。もっと急進的な勢力、特にシリアに拠点をもつ追放指導者との交渉はなかった。この脱落の脅威が、数週間後に顕在化した。テルアビブの海岸通りで自爆攻撃があり、5人のイスラエル民間人が死んだ。イスラエル市民生活を目標にした数ヶ月ぶりの自爆攻撃だった。ダマスカスに拠点をもつイスラム聖戦が実行声明を出した―アブ・マゼンと交渉して武力行使を控えていたガザのイスラム聖戦指導者は当然、当惑した。
幸い、アブ・マゼンへの信頼が高まっていて、イスラエルの報復攻撃を未然に防ぐことができた。アラファト時代だったら、イスラエルは、待ってましたとばかり数十倍規模の報復攻撃をしていたであろう。
国際社会の監視の目もあり、また、こともあろうにイスラエル軍の将軍からの自粛要請もあって、シャロンは「小休止の継続」を決定した。アブ・マゼンはその機を利用して、再びパレスチナ各派との話し合いを展開した。エジプト政府の後援でカイロで会議を開き、ダマスカスにいる勢力を丁重に招いた。
この動きのプラスになったのは、レバノン前首相ハリリ暗殺事件に伴うレバノン情勢の変化であった。シリアは国際社会からテロリズム支援を非難されたので、自国にいるパレスチナ勢力に停戦を受け入れるように圧力をかけざるを得なくなった。同じことが、インティファーダのときにますますパレスチナ急進派と関係を深めていったヒズボラにも言える。
かくして、パレスチナ人同士の内部折衝2週間の後、アブ・マゼンは全体会議を招集、そこで各派はイスラエルに対する武力攻撃を差し控えることに正式に合意したのであった。
そこで使用されたアラビヤ語は、「フドナ」(停戦)ではなく「タハディーヤ」(静寂)であった。2003年のフドナには苦々しい思い出があった。停戦と言いながら、イスラエル軍が「逮捕に抵抗した指名手配中のテロリスト」を次々と殺害していったために、崩れてしまったのだ。カイロ会議で採用された「タハディーヤ」では、民兵はイスラエルの停戦違反に対して「制限的報復」をする権利を留保することが明示された。
実際、それが実行された。4月上旬、イスラエル兵がラファで3人のパレスチナ人少年を射殺(「武器密輸のため」という口実を後にでっち上げた)したのに対し、民兵たちはガザ回廊のイスラエル入植地に対し砲弾を撃ち込んだ。軍の将軍たちは、不快な気分ではあったが、無視することにしたようだ―砲弾攻撃は1日で終わったし、それに、子馬が1頭死んだ以外は、人的被害ゼロであったから。
対決でなく、取り込みを
できもしない約束をしたと、アブ・マゼンを責めることはできない。彼は最初からきっぱりと、「テロリスト組織を解体する」ためにパレスチナ各派や民兵と武力対立する気はない、と宣言していた。彼には、このインティファーダの4年間、パレスチナの各地で活動してきた大勢の地域民兵、それぞれ地元に拠点をもち、英雄として地元民から尊敬されている民兵を、武装解除する気もなければ、それをする軍事的裏付けも、政治的支援もない。その上民兵の多くは、中央の統制から離れて久しいとはいうものの、アブ・マゼン自身が長を勤めるファタハのメンバーである。
彼は、力で押さえ込むのでなく、彼らを再編成したパレスチナ治安部隊の正規隊員として給料を支払って雇用するなど、取り込む方法をとった―そして、かなり成功している。さらに、治安部隊の隊長たちは、これら民兵指導者たちを、過去4年間に多くの命を奪ってきたイスラエルの暗殺リストやマンハント・リストから外す労をとって、全部とはいえないが、そこそこ成功している。
取り込み戦術は、政党政治の分野でも効を成した。反対派政党や政治的派閥―とりわけ、その中でも最大で最強のハマス―は、7月に予定されているパレスチナ議会選挙に平等な資格で参加できることに前向きである。それを実効あらしめるために、アブ・マゼンは、選挙制度を以前の完全地方区選挙制から、地方区選挙と全国区選挙の混合制度に変えた。この変化は、はっきりしたイデオロギーを掲げる党や、草の根大衆組織にとってやや有利となる―特にハマスにとっては。選挙参加は確かにハマスに大きな影響を与え、指導層は対イスラエル停戦維持―少なくとも7月の選挙日までは―を選択する動機ともなった(選挙日がたまたまシャロンのガザ撤退予定日と近いのは、偶然かどうかは分からない)。イスラエル軍諜報部は、実際にハマスが立候補者選びや集票活動に専念していることを、渋々確認した。ハマス軍事部門の自爆攻撃計画は、凍結された。
理論的には、ブッシュ―アラブ民主化の新指導者ブッシュは、パレスチナ社会で起きていることに喜ぶべきであろう。さまざまな候補者が有権者の支持を求めて競い合う多党制選挙、選挙当日まで最終結果が不明である公明正大な選挙に、手を叩いて喜ぶべきであろう。しかし、ブッシュにとって気に入らないのは、この民主主義選挙の主たる立役者がハマスであることだ。ハマスは、米国のテロリスト団体リストの筆頭になるからである。長年米国は、中東に関する国連決議を、ハマスを危険なテログループとして非難していないと難癖をつけて、すべて拒否権を行使してきたのだ。ワシントンのお偉方は、パレスチナ社会の研究者が10年も前に進言できた事実を正面から取り上げようとはしない。つまり、仮にパレスチナ社会が安定した二大政党社会になるとすれば、ハマスがその一翼を担うという事実観測を。
世界中がハマスをテロリストとしてブラックリスト化しているけれど、ハマス関係者で銃を握ったことがあるのはごく一握りの人々で、自爆攻撃に関与した人はもっと僅かである。パレスチナ社会では、ハマスは基本的には政治的・社会的勢力で、住民のかなりの層の支持を集め、無比の慈善や社会事業ネットワーク(この点は米国の官憲は知らないか、知っていてもわざと無視しているようだ。9.11以来、官憲はハマスと関係していると見た慈善事業をことごとく弾圧している)を経営している。
ハマスを選挙へ誘い込むことが、パレスチナ社会の統一を維持し、破壊的な内戦を避けて、イスラエルや国際社会が彼らに突きつけている暴力停止を実現する唯一の方法であったのかもしれない。しかし、この政治家的な配慮は、アブ・マゼンが党首を勤めるファタの政治的権益にとっては、かなりの犠牲となった。選挙戦が社会の草の根レベルへ降りてくると、ハマスの優位が目立つようになった。ファタにとってかなりの強敵となり、悪くすると全面的勝利を奪われる可能性もうわさされ、ファタ指導者は心穏やかでなかった。
ファタハ体制の終焉
40周年記念日を祝ったばかりのファタハは、1960年代後半以降、名実ともにパレスチナ民族解放運動の指導部で、1994年以降はPA(パレスチナ自治政府)を完全支配してきた。過去様々な英雄的・歴史的偉業を成し遂げてきたが、現在、ファタハの古株指導者の中には、堕落し、貧しい社会の中で豪奢な生活をしているという評判の者も少なくない。彼らに対する批判は、ファタハ内部からも噴出している。
ファタハは旧世代、つまり長年の亡命生活の後オスロー合意を受けて帰ってきた古参兵と、インティファーダで主役を演じた若い世代との間で分裂している。後者は、ファタハの政策決定中枢部から疎外されているという不満を抱いている。それぞれの陣営は、それぞれさらに、主として地理的基盤に基づいて、多くの敵対しあう下位集団や派閥に分かれている。ファタハ指導部―事実上PAの指導部でもある―も、厄介な憲政規定で大統領と首相を擁し、その間の権限や任務分担に関し曖昧なので、問題が多い。この不備な規定は、パレスチナ人が作ったのではない。2年前、アラファトの権限を制限するという目的で、外国の圧力で無理やり押し付けられたものだ。パレスチナの憲法にあたる法律で正式に明記されているので、アブ・マゼンと彼の長年の同志兼ライバルであるアハマド・クレイ(アブ・アラ)首相との間の軋轢を増加させている。
ハマスも多くの派閥や下位グループに分かれているが、ファタハよりはるかに統一を保っている。最高指導者アハマド・ヤッシン師とアブド・エル・アジズ・ランティシがイスラエルによって「ターゲット・キリング」されたにもかかわらず、大方の予期に反して統一を保っている。ハマスは、多くのパレスチナ人―単に少数の宗教的狂信者たちだけに限らず―にとって、一貫した指導層を持ち、一貫したイデオロギーを持ち、金銭面での腐敗がない政党になりつつある。このイメージは、1月の第1回地方選挙でさらに強化された。ハマスは、特にガザ回廊では、ファタハに完勝、地方議会議席を大幅に獲得した。選出されたハマス議員や首長は、住民や外部の観測筋から、ファタハ前任者よりは好感の目で見られている。
全国議会選挙まであと3ヶ月、ファタハ指導部は大慌てで、内部の協力体制の再建や、各選挙区での魅力的立候補者の選定、そして草の根支援の発掘など、懸命となった。各大学での学生自治会選挙では、そこそこの成果を収めた―学生団体の選挙は、民族解放闘争における学生の目覚しい役割のせいで、単なる大学を超える影響力がある。
しかし、全国議会選挙のリハーサルとも見られた5月初旬の第2回地方選挙では、ファタハの心配が倍増した。確かに選挙が行われた町や村では過半数を獲得したが、それは主として小さな町での得票のおかげで、大都市の多くではハマスが優勢であった。特に、ガザ回廊のラファ市と西岸地区のカルキリヤではハマスの大勝利。これは偶然ではなく、ラファはイスラエル軍の数度にわたる侵攻で大破壊、カルキリヤは周囲を8メートルの高さの分離壁で囲まれ窒息寸前の町であった。苛立つ現場のファタハ指導者や本部のアブ・マゼンたちは、何か民衆に訴えるような目立つ業績を作ろうと必死になったが、そう簡単には実現できなかった。結局、7月選挙を何や彼やの口実で引き伸ばそうしている有様。
一般のパレスチナ人の目から見て、アブ・マゼン大統領就任はこれまでのところ大きな失敗ではなかったが、同時に大成功というわけでもなかった。予定されているイスラエルのガザ撤退は、彼の外交成果でも彼が国際社会に働きかけた結果でもない。彼の就任以前にシャロンが一方的に宣言したものなのだ。いずれにせよ、ガザ撤退を成果とするかどうかについては、パレスチナ人はあいまいである。かりに成果と見ても、それは武装闘争、特にハマスの武装闘争の賜物とみる傾向が強い。
頭隠して尻隠さずのアジェンダ
この数ヶ月にイスラエルを訪問した外国の政治家―インティファーダが休止したとたん急にその数が増えた―は、みんな同じことをシャロンに言う。アブ・マゼンがパレスチナの代表になったことは、イスラエル・パレスチナ両社会および中東全域にとって絶好の機会だ、と。だから、イスラエルは可能な限り新パレスチナ指導者を支援し、彼がパレスチナ人民に見せることができるようなはっきりした成果を与えるべきだ、と。次々と訪イスラエルしてきたヨーロッパの外相も、同じことを言った。ロシア首脳のイスラエル訪問としては初めてのプーチン大統領も、イスラエルの長年の戦略パートナーだが最近やや関係がよくないトルコのエルドガン首相も、同じことを言った。そして、シャロンがテキサスのクローフォード牧場へブッシュ大統領を訪問し、大々的に宣伝されたが、どちらかというとかなり気まずい雰囲気で行われた会談でも、ブッシュ大統領からほぼ同じようなことを言われた。
こういう進言に対し、シャロンは物知り顔でうなずき、できる限りのことをするつもりだと答え、最後に決まり文句「治安が許す範囲内で」をつけ加えるのが、常だった。イスラエルの政治家、特にシャロンのことをよく知っている人なら、この決まり文句がそれまでに言った約束や誓言を全部否定するものであることを、常識として知っている。
シャロンは、公の場や外国首脳の前で何と言おうと、ホワイトハウスで歓待されるような新パレスチナ指導者に手を貸す気など毛頭ない。それどころか、そういう指導者の出現は、西岸地区の大部分をわがものにしょうとするアジェンダにとって、戦略的脅威である。シャロンにとっては、アブ・マゼンが消えて流血の混乱が生じるか、交渉パートナーにできないような人物が指導者になることが、最善のシナリオである。たぶん彼は、ハマスが選挙で勝利することを心待ちにしているのかもしれない。
しかし、アブ・マゼンへの協力を「治安上の必要」を口実にずるずる引き延ばしているのは、彼の部下である将軍の多くが彼にもっと協力的になれと進言している事実を考慮すると、あまり真実味がない。かつて「敗北感をパレスチナ人の脳裏に叩き込め」と扇動していたモシェ・ヤアロン参謀長は、ここ2年間で、軍事力使用オプションはほぼ底をついたので、外交手段に戻ってパレスチナ人と交渉した方がよい、という結論に達したようである。彼は、アラファト時代に首相になったアブ・マゼンを無視したことは折角の機会を逃したことで、現在アブ・マゼンがトップになったのはその過ちを直す絶好の機会だ、と公然と口にしている。たぶんそのために彼は、国民への充分な説明もなくシャロンから馘首にされたのであろう。ヤアロンの後任者空軍司令官ダン・ハルツは、シャロンの考えに同調する人物である。
「血で汚れた手」
シャルム・エル・シェイクの記念撮影で、シャロンには、パレスチナ人への二つの義務ができた。パレスチナ人囚人の釈放と、占領地からの撤退である。その上、2003年6月のアカバ会談で生じた義務、つまり西岸地区の不法入植前哨地の解体が、まだ実行されないままで残っている。シャロン独特の手法で、この三つの義務の履行をぐずぐず引き伸ばしてきた。
囚人問題に関しては、オスローの蜜月期でも、イスラエルとパレスチナの考え方に大きな隔たりがあった。パレスチナ人にとっては、彼らは戦争捕虜であって、戦争が終われば全員釈放されるべきであった。一般のパレスチナ人は彼らを英雄視していて、パレスチナの政治家は民衆の支持を得るためには、自分の主張は彼ら戦争捕虜の主張と同じであると言わなければならなかった。一方、イスラエルでは、彼らはテロリスト、極悪非道の殺人犯と見なされている。この発想は、とりわけ極右のデマゴギーでよく見られるが、必ずしも極右だけに限られた見方ではない。特に扇動的なデマゴギーは、これら囚人が「血で汚れた手」を持っているとするものだ。イスラエルの公式定義では、「血で汚れた手」は、実際に銃の引き金を引いた人、あるいは爆弾を仕掛けた人を指すばかりでなく、イスラエル人が死亡した事件に直接・間接に関係した人物全員を指す(イスラエルのスパイとして働いたパレスチナ人の死亡の場合は、これにあてはまらない)。さらに、忘れてはならないことは、パレスチナ人加害者に関しては、イスラエルの政治的・法律的システムは、民間人殺害と軍人殺害との間に区別を設けていないし、民間人居住地区への攻撃と、戦闘状態の中での銃撃との間にも区別を設けていないことだ。どちらの場合でも、彼らは「血で汚れた手」のテロリストと扱われる。
もしこの基準をパレスチナ人住宅地を爆撃するイスラエル空軍パイロットに当てはめれば、何千、何万人というイスラエル人―パイロットはもちろん、すべての搭乗員、地上整備員、部品調達などをする後方業務員、軍の作戦本部のお偉方、戦略決定や命令を出す政治家や役人などが、「血で汚れた手」を持っていることになる。もちろん、彼らの誰1人としてパレスチナの刑務所で服役していないが…。
長年パレスチナ人の悲憤となっているのは、1980年代、あるいは1970年代からずっとイスラエルに捕われたままになっているファタハ戦士のことだ。彼らは、オスロー時代のときですら、「血で汚れた手」の故に釈放されなかった。現在、ファタハの上層部がイスラエルとの対談者となっているのに、彼らが依然として囚人として捕われているのは、一般のパレスチナ人の目には大きな不公正に見える。この数十年間の紆余曲折の間、世界が捕われの身のファタハ戦士の存在を忘れていたときでも、パレスチナ人は決して彼らのことを忘れなかった。シャルム・エル・シェイク会談の直後、アブ・マゼンは、これら長期にわたって囚人となっている戦士を例え1人か2人でも釈放してくれれば、大きな前進への1歩となり、パレスチナ人の間で自分の平和路線への支持が拡大する、と直接シャロンにも言い、また数人の仲介者を通じてイスラエル側に伝えた。数百人の「軽犯罪囚人」の釈放よりもはるかに和平にとって役立つ、と説明した。(パレスチナ人囚人の釈放を国際社会から迫られたとき、今日明日にでも釈放する予定の微罪囚人を釈放するのが、イスラエルの常套手段。)
少なくとも幾人かのイスラエル治安機関の長に、長期収容囚人の釈放に賛成する気配が見られた。彼らの意見では、これらの囚人は高年齢(中には70歳を越えている者もいる)で、その多くはアブ・マゼン路線支持を表明しており、例外として「血で汚れた手」ルールから除外してよいのではないか、というものであった。シャロン自身も、この提案を少しは考慮したようでもある―少なくとも、新聞報道ではそう書かれていた。しかし、翌日になると、彼は「まだその時機ではない」と宣言した。その代わり、刑務所と収容所にいる約8000人のうちから500人の囚人を、「現行基準と手続きに従って」釈放することを決定した。釈放囚人リストは、パレスチナ側と相談も交渉もなしで、一方的に作られた。例によって、微罪で短期服役している者ばかりであった。
パレスチナ側は、アメリカとヨーロッパに訴えた。すぐさまシャロンは、囚人釈放に関する基本的基準をパレスチナと交渉すると約束した。一見前向きに見えたが、実際は、そういう交渉はほとんど行われず、稀に行われた交渉でも、イスラエル側はそれまでの姿勢を1歩も譲らなかった。
その間、現地イスラエル軍はパレスチナの町や村を襲い、パレスチナ人活動家の逮捕を続けた―もっとも、休戦が宣言されてからは、その回数が減ったのは事実であるが。
風化
もう一つのイスラエルの義務―占領しているパレスチナの都市や村からの撤退―についても、同様に進展がない。2003年にシャロンも正式に受け入れたロードマップのもとでは、イスラエル軍は、2000年9月のインティファーダ勃発時にいた位置にまで後退することになっていた。しかし、これもシャロンにとっては、「治安状況に鑑みて」行うものであった。シャルム・エル・シェイク会談でシャロンは、西岸地区の主要8都市のうちの3都市―ナブルス、ジェニン、ヘブロン―については、軍隊引き上げの除外地とした。これらの3都市は「テロリストの温床地」で、「直接的脅威に対処するため、イスラエル軍は引き続き行動の自由を保持する」としたのだ。残る5都市については、「PAの行動次第で、徐々に実行する」とした。実際にこれが意味したことは、例えばインティファーダ最盛期でも一切暴力事件がなかった最も静かな都市エリコに関しても、数ヶ月の辛らつで消耗する長い交渉を重ねた後に、やっと軍引き上げが同意されたという実状である。エリコの次に交渉対象となったトゥルカルムの場合は、もっと長い時間がかかった。
交渉難航の一番大きな原因は、イスラエルが対象都市周辺の村落もいっしょにして明け渡すことに難色を示したこと、および対象都市を封じ込めるために周辺に設置していた道路封鎖を解くことを嫌がったためであった。やがて明らかになったのは、パレスチナに返還する土地は、インティファーダ勃発前にパレスチナが統括していた西岸地区の土地の18%以下に抑える、というシャロンの意図であった。
シャルム・エル・シェイクのぎくしゃくした軍隊引き上げ交渉は、結局、5都市のうち2都市だけをパレスチナに引き渡すことの合意だけで、残りは物別れに終わった。次に問題となったのは、イスラエルが指名手配している民兵をパレスチナ治安部隊に編入するというパレスチナ側の方針であった。イスラエル側はこれに激しく反対、民兵の「完全武装解除」を要求した。パレスチナ側は、自分たちの目的は内戦を勃発させることではなく、中央政府指揮下の統一パレスチナ治安部隊を編成することだ、と反論した。
引き渡しが決定された2都市についても、イスラエル軍と治安機関は「テロ攻撃の危険があるときは、いつでも軍が一方的に市内に入って捜索と逮捕をする権利を留保する」とした―「テロ攻撃の危険」がいつ、どこにあるかは、イスラエル軍と治安機関が一方的に判断する、というのである。
4月になると、イスラエル軍のパレスチナ領への進撃と「テロ容疑者」の逮捕が、再び増加した。軍は、パレスチナ側の休戦違反が多いのと、「イスラエルを攻撃する企み」を諜報機関が入手したからだ、と説明する。一方、パレスチナ側(およびイスラエルの幾人かのテレビ解説者)は、イスラエル人の襲撃でパレスチナ人が殺されたことに対する報復だ、と反論。イスラエル軍は、「逮捕に抵抗した」のでやむなく殺害した場合もある、と発表。しかし、サッカーに興じていた子ども2人が射殺されたのは、分離壁建設工事用のブルドーザーに石を投げただけの理由であった。こういう事件の後は、ガザからカッサム・ロケットがイスラエルの町スデロトへ報復として撃ちこまれる。
こういうことの繰り返しの中で、両者に仮に何某かの期待があったとしても、それは事実上ゼロに近くなっていった。パレスチナ人もイスラエル人も、現在の「静寂」を一時的なもの、せいぜい今年の第二半期に予定されている2大イベント―パレスチナの選挙とイスラエルのガザ撤退―まで続けばよい方だと思っている。うわさによれば、両社会の軍人筋は、着々と作戦計画や武器調達や部隊配置を用意しているという。
実際に終了したもう一つの占領
前レバノン首相ハリリが暗殺された瞬間から、イスラエル政府は、証拠確認などそっちのけで、シリア非難の大騒ぎを始めた。しばらくの間、イスラエルのマスコミの焦点はアブ・マゼンからアサドへ移った。
過去3年間、アサドは、いわゆる「和平攻勢」をシャロン政府に仕掛け、繰り返し交渉再開を提案していた。国際メディアのインタビューの中で、何度もそういう提案をした。さらに、著名な国際人、例えば米国やヨーロッパのビジネスマンや、米議員や、トルコの首相などを介して、具体的な提案を提示した。少なくとも一度は、エジプトの故サダト大統領を真似て、イスラエル国会で演説することすら申し出たようである。シリアの提案を真面目に考慮してもよいと思うイスラエル政治家やコラムニストもいたし、イスラエル国防軍の将軍も同じ意見を持っていた。しかし、シャロンは、ゴラン高原返還が嫌だったので、シリアとの交渉を頭から拒否した。ゴラン高原は1967年の戦争でシリアから奪取、占領、もとの住民を追い出してイスラエル人を入植、1981年にイスラエル領に編入した。
シリアの提案は、シャロンにとって、一々言い訳を考え出さなくてはならない迷惑以外の何ものでもなかった。最初シリアは、2001年4月の米主催のシェファードタウン会談決裂(イスラエルは原則としてゴラン高原撤退に同意したが、国境線をどこに引くかで意見が合わなかった)時を出発点として、交渉再開することを提案した。シャロンは、「前提条件なしの交渉」でないとだめだ、と返答した。不甲斐ないシリアは、急に「前提条件なしの交渉」でよいと妥協した。とたんにイスラエルは、交渉が始まる前に次々とイスラエル側の前提条件を出した。シリア政府はレバノンのヒズボラ支援を止めること、ヒズボラとイスラム聖戦派のダマスカス事務所を閉鎖すること、これらの組織やその他のパレスチナ武装組織との関係を打ち切る約束をすること、等々。シャロン支持の学識人は、シリア軍は今や時代遅れの軍隊で、イスラエルにとって脅威ではない、従ってわざわざ和平交渉をやる必要もないし、ましてやそのために譲歩を行う必要はさらさらない、と進言していた。ガザ撤退提案に気をよくしているハト派や国際社会には、「首相は、身一つで南北両前線の撤退問題を同時に処理するのは困難」という説明を認め、理解した。
言うまでもないが、アサドが、特にイラクの反米闘争を支持しているとして、どんどんブッシュの悪人リストの中で大きくなっていったのは、シャロンにとってありがたいことである。『イェディオト・アハロノト』によれば、米政府筋はアサドを「新アラファト」と規定し、イスラエル・シリア和平交渉を望むどころか反対している、という。だから、ハリリ殺害から数分も経たないうちに、イスラエル政府スポークスマンやメディア・コメンテーターが一斉にシリア非難の大合唱を始めたのである。「あの汚らしい殺し屋と話し合って、領土をくれてやることを主張する人がいるとは考えられない! ばかもいい加減にせよ!」と、シャロンの友人で長年彼の代弁者であったテレビ・コメンテーターのウリ・ダンが吼えた。イスラエルのマスコミは、レバノンの反シリア「杉の革命」運動を、国際メディア以上の熱心さで報道した。実際、レバノンの法律ではイスラエルが敵国と規定されてイスラエル人は入国できないのに、外国のパスポートを不正入手してベイルートへ記者を送り込んだメディアもあった。またイスラエル政府は、5月の選挙の前にシリア軍がレバノンを撤退するよう、やかましく主張した。「外国軍占領下で民主的選挙が行われるとは考えられえない」というのであるが、最近のパレスチナ選挙が、イスラエル軍が町や村を包囲し、時には襲撃や逮捕をする中で行われたことを忘れているようだ。
しかし、いよいよシリアが外の要求に応じて、軍の撤退を事実として始め出した頃から、シャロン政府閣僚や側近たちの発言に、一抹の不安が見え始めた。一つには、ベイルートで展開されている大衆デモや対抗デモを見ていると、どうもヒズボラがレバノン政治情勢の中で最も強力でまとまっていることが分かってきたのだ。おそらく、シリア撤退後は、彼らの勢力が衰退するどころか、増大する可能性の方が大きいことが分かったからだ。それに、もっと原則的で基本的なことだが、一方でアサドの苦境を喜びながら、他方アサドがイスラエルに不利な前例を作るという不安感である―つまり、国際社会の圧力で中東の国が長期にわたる占領を終えたという前例が作られるのだ。シリア軍の占領の完全終結―「最後の1兵まで、すべてのレバノン領から引き上げる」―のは、シャロンのごく一部のパレスチナ占領地から引き上げるという「柔軟性」と好対照をなす。「国際社会から大きな圧力を受けたシリアは幸いだ。占領に必然的に付随する堕落と残忍性から一挙に解放されることになったシリアは幸いだ」と、著名なジャーナリスト、B.ミハエルが『イェディオト・アハロノト』に書いた。
理由はともかく、シリアのレバノン撤退に関する儀式は、イスラエル・メディアでは2〜3行の事実報告しかされなかった。それから1週間後、アサドは再び「和平攻勢」に出、ローマ法王の葬儀のときにモシェ・カツアヴ(イスラエル大統領)と会って握手した。イスラエルでは大統領は単なる名目職であるが、カツアヴはピースメーカーとして自分の名をあげたいという野心が前々からあったので、スポークスマンを通じてシリア大統領との会談を誇らしげに発表した。しかし、結果は、首相府から「テロ支援国家に正当性を与える行為」と冷たくあしらわれただけであった。
しかし、挫折したアサドには思わぬ助っ人がいた―その1人がウラディミール・プーチンである。ロシア大統領としてイスラエルを公式訪問したとき、プーチンは、イスラエルの反対を全く意に介さないで、物議をかもしていた地対空ミサイルのシリアへの売却を行う決意を表明した。「だから、みなさん、今後はあなた方の国の戦闘機がシリア大統領府の上空を自由に飛び回ることは難しくなるよ」と、イスラエルTVのゴールデンアワーのインタビューで笑いながら語ったものだ。エルサレムでのシャロンとの非公開会談でも、同じことを言ったといわれる。首相顧問たちは、個人的には、ロシアのミサイルが圧倒的にイスラエルに有利な軍事バランスを変えるものではないと言っているが、ロシアのシリアへのミサイル売却、およびプーチンがそれをこれ見よがしに誇示したことは、将来への警告と見られた。ロシアがグローバル・パワーとして、再び自己主張し始めたのだ。
左派からの免責
もしシャロンがすでに明らかにしている意図―2006年の選挙に出馬して首相第3期を勤める―を実現したいなら、シリア問題を外交的・軍事的問題として取り組む必要があるだろう。しかし、目下のところ、彼の頭痛の種はパレスチナ問題である。パレスチナはかなりの国際的同情を得ており、いくらイスラエルが軍事的に優勢な立場にあっても、武力で制圧するわけにはいかない。国内的には現在、シャロンは左派からの反対を気にする必要はないし、あのテレビ2の影響力の強いコメンテーター、アムノン・アヴラモヴィッチの支持も得ている。アヴラモヴィッチは1982年、当時国防相だったシャロンを罷免する強力なキャンペーンを展開した人物である。現在彼は、ガザ撤退が完了するまではジャーナリストはシャロンの味方をし、彼のイメージを損なう事実の報道を自主規制すべきだ、と公に宣言している。
一方、永遠の指導者シモン・ペレスの労働党は、連立内閣の中で、事実上シャロンのリクード党以上にシャロンの忠実な部分となっている。アメリカ風市民運動体のピースナウも、最近始めた世論形成運動の中で、シャロンに和平派認可お墨付きを与えた―「シャロン首相はガザ撤退に向け懸命に努力していますが、入植者やその支持者たちが妨害しているのです。みなさんはどちらの味方をしますか?」。しかし、労働党とピースナウがガザ撤退支持の集会を呼びかけたとき、惨めな失敗に終わった。たいていそのような呼びかけには「足で賛成票を投じた」(参加した)何万人という平和運動支持者が、ほとんど集会に来なかったのだ。反シャロン極右グループのボイコット呼びかけに応じたからではない。多くの人々は、これが本当に自分たちの運動であると感じられないのと、どちらにせよシャロンは自分たちの積極的支持を必要としていないし、また支持する価値もないと、本能的に感じ取っているからだった。
確かにシャロンは、左派を味方につける担保として、右派と厳しい闘いをするという犠牲を払った。かつては彼の強力な支持基盤(個人的友人も多くいた)であった入植者は、入植活動の障害となるものをすべて排除してくれた「ブルドーザー」としてシャロンを崇めていた。今やその「ブルドーザー」が自分たちに向かってくると、入植者たちは抗議する。シャロンの方は、俺は誤解されている、と嘆く。彼自身の目には、彼は依然として「入植者の父」である。大多数の入植者を助け、さらに大きくするために、ごく少数の「子どもたち」を苦渋の選択として犠牲にしなければならない、悲劇の父なのである。これは、その場しのぎの弁解というより、どうも本音のように聞こえる。
ガザ撤退・ガザ入植地解体を全面に出しながら、シャロンはそれ以上の熱心さで、西岸地区のパレスチナ人の土地を奪っている。手段の正・不正などお構いなしに、機会さえあれば入植地を拡大し、分離壁や柵を作って肥沃な土地を囲い込んでいった。彼がガザ撤退を閣議決定しようと決議案を提出したとき、分離壁の新建設ルートを図示した書面をそれに添付した。新たに西岸地区の約8%を囲い込み、そこからパレスチナ人を追い出す計画書であった。労働党は、ガザ撤退と壁建設をいっしょにしたパッケージ全体に、何の呵責もなく賛成した。
ところが、それから数週間後、独立心の強い戦闘的弁護士タリア・サッソンが、西岸地区における入植地拡大に関する長文のレポートを出した(実は、シャロン自身が米政府の機嫌をとるために作成依頼したレポートであった)。このレポートの中で、サッソンは、本来政府が違法としている入植「前哨地」建設を、政府各省庁が助成・便宜供与を行っているメカニズムを、詳細に書いた。さらに、公金が入植地に流れ込む回路を切断する具体的提案も書いた。シャロンはサッソンを誉め、レポートを歓迎すると言った―そして、レポートが提案する改善策が何一つ実行されないように、そして記述されている悪しき慣行がそのまま続行されるように、周到な手を打ったのである。しかし、そういうシャロンの援助にもかかわらず、入植者はシャロンに感謝しなかった。彼らが開いた集会では、シャロンへの悪口が続々と発せられた。ガザ撤退を「追放」とか「民族浄化」とか「人間性に対する犯罪」と呼び、「兵士はそれに加担すべきではない」と呼びかけた。入植者の呼びかけに若者集団が応じ、「独裁者シャロン粉砕!」と叫んで、テルアビブへの高速道路上でタイヤを燃やし、大交通渋滞を引き起こした。
2月と3月には、入植者は彼らの議会ロビー(リクード党反乱分子で、リクード議員の1/3以上の数)を動員して、ガザ撤退阻止と内閣打倒の二股攻勢を仕掛けた。さらに、国民投票法案の通過を目指してロビー活動や街頭活動を強めた。それが通過すれば、少なくとも半年はガザ撤退を遅らすことができるし、うまくいけば撤退回避できると考えたのだ。国民投票を経ないでガザ撤退を強行すれば流血の内戦になるという脅しを背景にして、この活動は続けられた。もう一方で、政府予算案に反対する運動も行った。予算案否決は、イスラエルの法律のもとでは、自動的にシャロン内閣不信任となり、総選挙が行われることになる。
数ヶ月間、イスラエルの各紙はあれやこれやの憶測や噂で賑わった。シャロン側のコラムニスト軍団も動き出し、左派議員に予算案に賛成投票するように呼びかけた(予算案は決定的に新保守主義性格のものであった)。メレツ・ヤハド党首ヨッシ・ベイリンはいち早く自党4人が予算案に賛成すると表明したので、シャロン贔屓のマスコミから大いに称賛された。3月最終週の投票では、かなりの寝返りを出したものの、左派政党の支持によって、シャロンの予算案は通過した。
涙、そして団地
新聞は「賽は投げられた」というヘッドラインで予算案通過を報道。とたんに、文字通り一晩でシャロンは新方針に転じた。入植者との和解をこれ見よがしに進めたのだ。1年以上も関係を切断していたガザ入植地の代表をエルサレムの政庁へ招き、情感のこもった会見をした。翌日の新聞は、入植者と話しているとき首相は本当に涙を流した、と伝えた。涙の他にもっと多くのものを、ガザ撤退に協力してくれれば返礼として提供する、と首相は提案した。国会が定めた手厚い補償金をさらに上乗せし、入植地の代替地として魅力的なニツアニム地域への移転をも提案した(これには環境運動団体がすぐに反応し、反対声明を出した。かつてはイスラエル海岸線のうちで最も独特な動植物に富んでいた地区で、今や都市化の影響で絶滅寸前だとはいえ、まだ最後の地中海砂丘として残っている環境に、取り返しのつかない損傷を与える、という理由で)。入植地の役所全体をそのまま代替地に移転し、役人も全員給料と現職身分を保証する、というのだ。さらに、撤退予定期日(7月20日)が、西暦70年の神殿破壊をユダヤ教徒が嘆く日と重なるということを、シャロンは突然発見した。こんなことは、ユダヤ歴を見れば誰だって簡単に分かることで、もうとっくの昔にシャロンに進言していたはずだが、シャロンは重大発見をしたとして、「信心深い入植者の気持ちを考慮して」撤退期日をほぼ1ヶ月先送りすると発表した(これが、首相が本気でガザ撤退を考えているのではないことの証として取り沙汰された)。
最初、首相や政府役人と出会った入植者は「分裂派」と見なされ、「戦列を離脱した」と激しく非難された。しかしすぐに、正式なガザ入植者指導層も、補償金の上乗せや新代替地への移転方法などを積極的に討議し、交渉するようになった。「民族浄化」だとか、動乱や内戦を叫ぶ入植者は、ほとんど西岸地区の入植者であった。シャロンは西岸地区入植地を閉じる気はまったくないにもかかわらず、ガザが先例になることを恐れたからであった。『イェディオト・アハロノト』が第二の「配置換え」計画があるらしいという記事を出したものだから、彼らの心配は募る一方だったのだ。
シャロンは、新聞が何を書こうと第二の入植地撤廃はない、と懸命に説明や約束をした。新聞やテレビのインタービューを次々と行って、入植者を勇敢な開拓者だと褒めちぎり、維持するばかりでなく拡大する入植地を個別に名前まで出して、彼らを安心させようとした。実際に、エルサレムの東にある大規模なマアレ・アドゥミム入植地の3500棟の団地建設計画を発表して、国際社会から轟々たる非難を受ける危ない橋を渡ったほどである。このような大規模な入植地拡大は、シャロン自身も同意している「ロードマップ」の文面に違反し、その精神に逆らうものであった。この新団地建設位置は、パレスチナ人が大勢住んでいる東エルサレムを西岸地区から完全隔離するような戦略配置になっている。マアレ・アドゥミム入植地そのものが、西岸地区の中に楔を打ち込むような配置になっていて、西岸地区の北部と南部を隔離している。その上新たな団地建設は、ブッシュ政府も認めている領土的一体性のあるパレスチナ国家樹立にとって、大きな妨害である。たまたまこの発表は、シャロンの訪米直前であった。テキサス州クローフォードのブッシュの牧場での会見は、少なくとも集まった記者団の前では、入植拡大全般の問題とマアレ・アドゥミム入植地拡大という個別問題で、ブッシュとシャロンが意見不一致であることを特徴づけた。しかし一対一の非公開会談の席では、シャロンは、3500棟の団地建設には予備的認可を与えただけで、自分としては「早くても2008年まで」は、問題となっている土地に新たな建造物を作る気持ちはない、と説明した。米側は何となく納得して、この問題は世界の注意から外れてしまった。
全般的に見て、シャロンは、国際外交舞台で大きな代償を支払わないで、入植地問題では点数を稼いだ、とコラムニストのナハム・バルネアは書いている。
我らを我ら自身から救い給え!
ガザ撤退問題で社会が二分して内戦が起きる可能性があるという話は、もはや使い古した決まり文句となり、実際の期日が近づいてくるにつれ、その可能性はますます薄れていった。入植者は民衆動員に失敗、彼らの味方についたのは同類項の宗教的・国粋的・メシア思想の狂信者だけであった。一般民衆は、ガザ撤退を支持する傾向にある―熱心にというわけではなく、同じ話が1年以上にもわたって繰り返され、もううんざりして、早くやってしまえという形での支持である。新聞の第一面は、相変わらず軍や警察の強制執行準備の記事や、補償金をめぐる過熱した交渉や、強硬反対派の暴力への対策の記事で賑わっている。しかし同時に、事後に起きるであろう戦いに関する記事もだんだん増えてきている。新聞が、いったんは「もう終わった問題」扱いにしていた「分離壁」をめぐる闘争に、再び注意を向け始めたのは、偶然ではない。
今年の6月4日で、占領が38年間続いたことになる。これは、イスラエル建国後57年の歴史の2/3である。現在シャロンの同盟者となっている左派は、ガザ撤退を占領終結の始まりと見て、イスラエル史の大きな分水嶺となると考えている(極右も同じ見方をしているが、彼らにとってそれはまさに大惨事である)。シャロンの考えは、まったく違う。「過ぎ越しの祭り」から「建国記念日」までの間に行なった一連のインタビューの中で、彼は、ガザ入植地解体と西岸地区入植地拡大を同時に行う、と宣言した。西岸地区を「イスラエル人が多数住んでいる完全な国土にする」というのだ。
相反する二つの考えのうち一方が間違っているのは明らかで、ガザ撤退後にそれが判明するだろう。前者(左派の期待)の方向へ進めば、シャロンの命運が尽きるだろうが、後者(シャロンの意図)の方向へ進めば、ガザ撤退は占領終結の端緒となるという前提にすべてを賭けているアブ・マゼンが危うくなる。
これまでのところ、アブ・マゼンは友人の米国から言葉以外には何も受け取っていない。確かに、パレスチナ人にとって心地よい言葉ではある。ブッシュは、パレスチナ国家は領土的一体性を持つべきで、個々に隔離された飛び地の寄せ集めは国家ではない、と言ったのだ。しかし、その言葉を裏打ちする行動はほとんどない。ブッシュの前で約束してもう2年にもなる不法入植前哨地撤去についても、シャロンが破廉恥にも約束不履行でいるのに、米国は何もしない。何もしないばかりか、例えば、3月に行われたロンドン会議のような外国からのイスラエルへの和平圧力に関しては、それを避ける手助けをシャロンにしてやっているのだ。もっともロンドン会議そのものは、イラク派兵でイメージ・ダウンしたトニー・ブレアーの英国民向け選挙キャンペーンにすぎなかったが。
このような状態がガザ撤退後も続けば、シャロンの期待どおり、現在の比較的「静寂」は破れるだろう。すでにイスラエル軍の将軍たちは、西岸地区で予期されるゲリラ活動を弾圧する「鉄拳作戦」を立て、それをマスコミにリークしている。さらに、ネゲフ砂漠の長いエジプト国境線を閉じるために、かなりの数の兵を派遣する手筈にもなっている。これは、(軍の発表によれば)そこを通って多量の武器弾薬がパレスチナへ密輸されているからである。また、イスラエル軍が、撤去したばかりのガザへ再侵攻するシナリオも用意されている。もしこういう計画やシナリオが現実のものとなれば、再び暴力と流血のサイクルで多くの民衆が死ぬことになる。次の「静寂」までにはかなり長い時間がかかるだろう。
善意の人々がそういう破局を招かないように働きかける時間は、僅かだが、まだ残っている。誠意のある外交官や政治家に呼びかけ、パレスチナとイスラエルの草の根の人民に和平へ向かって立ち上がるように呼びかけよう。世界の人々、特に無能で乱暴な指導者を抱えて困っている国々の人民に、協力と連帯を呼びかけよう。残る時間は少ない。