グローバリズムと戦う根拠地を<たべもの>を基点として
      ―新たな国民運動の創出に向けて―



 6月26日(日)、東京で「自給を高め、環境を守り育てる日本農業の再構築をめざす『6.26新しい運動構築のための全国円卓会議』」が行われる。日本農業の深刻な危機を背景に呼びかけられた会議の主旨は、まさに「読んで字の如し」。準備に関わってきた兵庫県有機農業研究会の本野一郎さんに、「新しい運動」にかける思いを寄稿してもらった。なお、円卓会議には研究所事務局からも参加予定で、次号で報告を掲載する。(見出し・編集部)

「日本の〈たべもの〉を育てよう」

 国際的な効率化競争を極限まで追い求めることで、人間と人間の関係が壊され、人間と自然の関係も壊され、人間自身が壊れていく、この流れに耐え難い思いを抱き、それを食い止めたいと思う人々に向かって呼びかけが始まっています。これは、グローバリズムと戦う根拠地を〈たべもの〉を基点として創り上げようという提案であり、「日本の〈たべもの〉を育てよう」という国民運動を目指しています。そのキーワードは「自給・環境」です。
 この呼びかけの直接的なきっかけは、今年3月にだされた「食料・農業・農村基本計画」の見直しです。これは新農業基本法(2000年より施行)にもとづき5年ごとに実施されることになっていますが、この内容が悪いのです。ここでは、「競争原理、市場原理」一辺倒の方向のみが強調され、「自給率の向上、多面的機能の重視、環境保全型農業の推進」など、これまで農政の基本であった理念はすっかり影を潜めつつあります。しかも、これとは別に「21世紀新農政」と名づけられた農産物輸出促進と農業の株式会社化、消費者重視など、市場原理のみに立脚した方向だけを強調した文書が、基本計画の閣議決定直前にだされています。ここからは、日本農業をグローバリズムになじませ安楽死させる方向しか見えてきません。農業政策の根幹がこんなことでは、この国の未来が危ぶまれます。
 もともと新農業基本法には、「自然循環機能を重視する」ことや「農村の存在が環境を守る」という面が強調されていましたし、それまでの効率一辺倒の近代農業からの転換を図るという視点が入ったので、少しは期待するところがあったのです。また、食料自給率向上は国家目標という点も確認されましたので、どんな政策転換があるのかにも注目していました。しかしこの5年に起きたことは、まったくの期待はずれといってよい状況です。

「安全と効率」の二律背反

 日本のバブル経済が崩壊していく最中、「東西冷戦」という戦後政治の枠組みに変わり、「地球環境問題」が新たな世界政治の枠組みとして浮上しました。東西ドイツ統一(1990)とソ連邦崩壊(1991)、そして地球サミット(1992)という年表は、私たちにそのことを教えています。つまり「体制間の対立」という軸で資本主義体制の協調を作る仕組みから、「地球環境問題」を軸として「持続可能な発展」=世界市場経済への従属を各国政府に求める仕組みへと転換したのです。
 ここから「環境問題と市場経済」の調和という二律背反が、あらゆる領域に影を落とすようになります。ここで現実に起きたことは、言葉では地球環境原理をいいながら、これを多国籍企業の利益を守るための経済原理にすりかえていくという事態です。つまりアメリカ流グローバリズムが、世界のスタンダードとなっていく過程に私たちはつきあってきました。
 「安全と効率」は二律背反の関係にあることは誰でもわかることです。「命をとるか、お金をとるか」の問いに対して、市場経済のもとでは、議論の余地なくお金です。市場経済の原理によれば、まずお金をとってからでないと、自分の命が守れない仕組みになっています。ですから効率を優先しなければ生きていけない中に、自分や自分の属する組織が身を置いて身動きができない状況が生まれます。ここで人は地獄を見て、壊れていくことになるのです。壊れる人間の軋みが聞こえます。この仕組みの中で「職業倫理」「労働観」が解体していっているのを、私たちは目の当たりに見ています。
 JR西日本福知山線で起きた事故は、効率が安全より優先された結果です。ここでは1秒でも早く到着することが組織の至上命令です。かって国鉄の運転士は、職業意識において誇りを持っていたと私には見えています。それがアクロバット運転を強いられ、その失敗を責められるお仕置き部屋を恐れて、スピードを出しすぎ脱線するという信じがたいことが起きています。国鉄を民営化したJRという組織には、職業倫理の解体を引き起こす力が確実に作用しています。
 私が農業の職業意識を感じる世代は、戦後の食料増産運動に参加していた人たちです。現在、彼らは70歳台後半になっています。職人気質もあり、農業の倫理観を感じられ教えられることが多々ありました。それが、高度経済成長のさ中、農基法農政のもとに近代農業に特化されていく過程で職業意識が解体されていったように思えます。
 酪農では、1キロでも多く乳を出す牛の飼い方と品種が求められています。その中でBSEが生み出されているのです。肉骨粉を餌にするという共食いを強いることがその原因です。1円でも高く売ることを目指した野菜農家は、1円でも安い野菜を求めてスーパーめぐりをする消費者を生み出し、海外輸入の野菜に駆逐されていきます。この過程で、郷土料理の食材であった伝統野菜の種は失われ、食文化は解体し続けています。こうして農業技術は外から与えられ、職業意識が解体していきます。
 稲作は、税金である生産調整協力費を1円でも多く村に落とすことで、生き延びてきました。こうした米づくりは、いま最後の局面を迎えており、企業化するか、集落ごと法人化するかといった議論になっています。これでは水利を基盤とする農村は、持ちこたえられません。別の道が必要です。

 自覚と危機感を共有しながら

 いま、〈いのち〉とそれを支える〈たべもの〉に立ち戻ることが必要だと思えます。自分の暮らしに直接関わる地域に、グローバリズムに対抗できる「抵抗勢力」をきまじめにきちんと作っていかないと、心身の健康さえ守れなくなっています。必要なことは、楽しく心豊かな日常を実現してみる生活力・構想力なのだと思います。お金もうけはそれほどできないにしても、命のほうに比重を置ける空間を押し広げていく、それがかなうような仕掛けを作っていかないと追い込まれる一方です。 「規制緩和、民営化、改革」などと無縁な空間を作っていくためには、農村の仕組みは重要です。競争しかないという人間関係を解体し協同の関係を作っていくためには、命をささえる農地の存在は不可欠です。楽しい集まりには、おいしい素性の知れた食材が必要です。「楽しく伸びやかな農業と食生活」を中心として私たちの生活の仕組みを作りなおしていくことで、競争・効率に対する抵抗力をつけ、人間の力を回復していく、そんな運動が多くの人々の手によって作り出されることを望んでいます。
 経済を生活のなかに埋め込むために、食を生活の中心にすえ、食を生み出すプロセスにこだわり、そこに関わる人間に思いをいたし、個々人の食の自給が、多様な生物相を確保し豊かな文化に連なっていることを実感したいのです。
 暴力と欺瞞とマネーの幻想による世界秩序が、人間を壊しています。その深刻さは、私たちに時間的余裕はないと教えています。その世界秩序は同時に、日本農業を破綻させ、消滅の危機に直面させています。こうした自覚と危機感を共有しながら、国民運動をつくれたらと希望しています。