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アソシ研リレーエッセイ

豊かな人生と不全感の劣化


 食べることが、私の関心の中に入って来始めたのはいつ頃だろう。若い頃は、とにかく「空腹が満たされれば、それでいい」と思ってきた。

 結婚して子どもができてからは、共働きだったので料理もしたが、義務として、連れあいに文句を言われない最低限度の工夫をしてきた。だから、料理するのも食べるのも「楽しみ」とは無縁だったような気がする。

 そんな私が、食べる楽しみを知ったきっかけは、「美味しい食事は、人生を豊かにする重要な要素だ」と語る友人の影響だ。彼は、決して贅沢な美食家ではなかったが、いい食材をシンプルに料理して私に食べさせてくれた。

 彼は、硬派な活動家だったが、そういう言葉が似合う人でもあった。当時の私は、彼の言葉を実感を伴って受け入れられなかったが、彼の手料理と語らいは至福の時間で、その快感が食べることの楽しみに繋がっていったように思う。

 料理する楽しさを知ったのも、「ご馳走というのは、客人をもてなすために朝から走り回って用意をする心だ」という、別の友人の酒上の格言だ。

 彼の格言を思い出し、友人を招いての酒席に出す料理を少し時間をかけて、工夫をしてみたら大いにおだてられた。喜んでもらえる快感は、「次はもっと旨いものを」という向上心に火を付け、古本屋で料理本を買い、料理番組を録画するようになった。外に飲みに行っても美味しい料理が出ると、店の人にレシピを聞き、盛りつけの技を真似るようになっていった。

 身内の話で恐縮だが、末弟は、和食レストランのオーナーシェフ。真ん中の弟の連れ合いもプロの料理人だ。だから、滅多にないが実家で三人が揃うと、かなり美味しい料理が食べられる。食べながら、作る手順とポイントに耳を傾け、大阪に帰ってから自分で作ってみる。料理は、疎遠になりがちな兄弟の絆も強めてくれている。

 料理は別の効用も生み出した。心地よい「場」を演出する楽しみだ。楽しい食事は食器、盛りつけ、香りに加え、場の雰囲気、一緒に食べる相手も重要な要素だ。どんな旨い、美しい料理も、鬱陶しい相手となら「旨い」と感じるわけがない。

 もともと大工仕事は好きだったので、時間を見つけて部屋の改造を進めた。壁を塗り換え、床を張り替え、テーブル・座椅子なども手作りした。

 こうして私の生活の質は、料理によってかなり上がったと思うが、困ったこともある。外で呑む機会が偶にあるが、不味いものを食べさせられると、腹立たしく、損した気分になる。「この料理と酒でこの値段?」とがっくりして、楽しい気分が半減してしまうのだ。

 私は前回のリレーエッセーを、「不全感が劣化している自分に気づいた」と締めくくった。

 50才を超えて、「美味しい食事は、人生を豊かにする」との友人の言葉を実感できるようになったが、「不全感が劣化している自分」への不安は、消えない。

                                                (山田洋一:人民新聞)



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