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短期集中研究講座報告―ウイルスと現代社会 ②

新型インフルエンザの社会学

 「ウイルスと現代社会」をテーマにした短期集中研究講座。第二回目は2010年10月9日、臨床脳生理学が専門で医療社会学や医療人類学専門にも造詣の深い美馬達哉さん(京都大学医学研究科准教授)に、ご報告いただいた。以下は、その概要である。(構成・文責は当研究所)


はじめに

 私は大学では脳について研究し、医師としては神経内科で認知症やパーキンソン病の診療をしていますが、今回は医療そのものから少し距離を置いて、医療と社会との関係を考える医療社会学の観点から、お話ししたいと思います。今日のお話は、新型インフルエンザを一つの例として、大規模な流行病に社会がどう対応するかということが主な内容です。

 ご存知のように、2009年5月に神戸で国内初の新型インフルエンザ感染が確認されたこともあり、とくに関西でマスクが非常に流行しました。誰も彼もがマスクをつけ、マスクをせずに電車に乗ると他の乗客から睨まれる、そんな状況まで生まれました。

 現実に罹患した人数は結果として非常に少なく、病気自体も恐れるほど重症のものではないのに、何か怖いというイメージや感情が広がっていく。こうした状況は、特にマスメディアの発達した現代社会では起こりやすいのかもしれません。

 医者でありコラムニストでもあるアメリカのマーク・シーゲルは、こうした病気への恐怖をレストランの「今日のメニュー」に例えました。つまり、さまざまな病気があり、それらは病原体も症状も異なっているにもかかわらず、社会においては「恐怖の対象」として、あたかも「今日のメニュー」のように次々と提示されるということです。例えば、映画『アウトブレイク』の元になったエボラ熱のように、感染すれば非常に死亡率が高いとはいえ、もともとアフリカの奥地で猿しか罹らないような、「先進国」に入ることはまずない病気でも、映画になるほど恐れられるわけです。

 病気によって原因も違えば症状も違い、流行る場所も違うにもかかわらず、メディアの中では同じように「恐怖の対象」として表現されるのです。どうしてそうなるのかを理解するには、医療や医学の視点からでは十分ではありません。社会が病気に対してどんな対応をしたかという、社会学的な視角から考える必要があるのです。そうした視点から新型インフルエンザを見ることで、病気そのもの以上に今の社会のあり方が見えてくるというのが、今回の話の中心です。


新型インフルエンザの社会学

 問題の新型インフルエンザですが、現時点では結果が明らかになっています。当初は「数百万人が死ぬ」とか「病院がパンクしてしまう」とか、大袈裟な話が飛び交いましたが、実際は違いました。現実の病気よりも恐怖という感情の方がはるかに大きい状態だったことがはっきりしています。また、新型インフルエンザに対して行われた対策も決して科学的・合理的ではなく、実際にはほとんど役に立たなかったようです。

 具体的には以下の三点が挙げらます。

 一つは、治療や予防に有効だと信じられている対策についてです。先ほど挙げたマスクでも、本来マスクは風邪になった人が自分の口からウイルスが出るのを抑えるもので、外からくるウイルスを防ぐものではありません。実際、日常生活の中で着けっぱなしというわけにはいかず、食事などの機会には外します。しかし、誰もがマスクを着ける状況が生まれました。

 また、マスクに限らず、対策として行われたこと、検疫でも、ワクチンでも、タミフルなどの抗ウイルス薬でもいいですが、それらが実際に期待通りの成果を生み出したか、を冷静に評価することが必要です。どんな技術でもそうですが、実験室で効果があったからといって、実際に社会の中で効果があるとは限りません。実際の社会において治療や予防を行う場合には、医学だけでなくさまざまな要素が関わってきます。たとえば、治療や予防で薬やワクチンを使う場合、いまの社会制度では、医学の論理だけではなく商業の論理が介在するのは避けられません。それらを含めた場合、科学的に期待された通りのことが達成できるかどうか難しいという問題があります。

 二番目は、対策が実際に期待通りの成果を生みし、有効だと判断された場合、役に立つものなら何でもしていいのかという問題です。言い換えれば、そうした対策が個人の自律やプライバシーを侵害したり、特定の社会的価値観を強制したりすることになったときどう判断するかという問題です。ワクチンを例に取れば、ワクチンには一定の予防効果とともに副作用があります。健康という個人的なことについて、リスクもあるものを、国が強制すべきなのか、本人が選択すべきなのか、と言う問題は決着が付いていません。また、もし副作用が生じた場合は誰が補償すべきかという問題もあります。作った企業か、それともワクチンを認可した国か、どちらでしょうか。

 あるいは、例えばエイズに感染した人がいるとして、感染者の個人情報を国家がどこまで把握する必要があるのでしょうか。そうした情報が漏れたり流用されたりする恐れはないのでしょうか。個人の健康と社会政策、公と私の相克ないし矛盾といった問題が出てくるでしょう。

 三つ目は価値観の問題に関わります。つまり、その状況に対して本当に治療や予防は必要なのかということです。ガンや天然痘といった命に関わる重い病気なら、ほとんどの方が予防が必要だと思うでしょう。インフルエンザの場合はどうでしょうか。たしかに、お年寄りや乳幼児なら肺炎を起こして命に関わるかもしれません。でも30代~50代くらいの中堅層の健康な人なら、数日寝ていれば済む場合がほとんどです。税金を使った対策であるなら、どこまで予防や治療が必要かという問題が出てくるはずです。

 今日で言えばタバコが象徴的ですね。肺ガンなどの原因だと言われていますが、自動車の排気ガスと比べて、どちらが健康に影響を与えているか、必ずしも明らかではありません。にもかかわらず、現代ではタバコだけが悪者になっています。自動車を中心とする便利な社会を否定することは、現代社会の基本的価値観に背いているからです。言い換えれば、何を治療と考えるか、何を予防と考えるかは、社会の価値観に大きく関わっているわけです。

 以上の三つの点は、新型インフルエンザを社会学の立場から考える基本になります。


「モラルパニック」という視点

 もう一つ、「モラルパニック(道徳パニック)」という考え方を紹介しておきましょう。今回はこのモラルパニックを中心に新型インフルエンザを考えてみます。

 モラルパニックとは、1972年に英国の社会学者スタンリー・コーエンが使い出した言葉です。その元になったのは、60年代のイギリスで、若者たちが海岸に集まって大騒ぎをしたという事件です。そんな話はいつの時代もあるものですが、それが突然、何かのきっかけで新聞に取り上げられ、どんどん大きい事件になってしまった。

 数十人が集まって騒いだだけなのに、「今の若者はこれだから駄目だ」とか、「社会の退廃の徴だ」という形で問題になり、そこから「法と秩序を強化して社会の価値観を明確にしないといけない」、あるいは「権威に対する尊敬を若者に教え込まないといけない」といった宣伝に使われたという歴史がありました。

 コーエンはこの経過を検討し、世間一般の中に特定の個人や集団の行為に対して「彼らは道徳や常識から逸脱し、社会全般の脅威となっている」という誤解や偏見、誇張された認識が広がることによって社会不安が起こり、これら「危険な」動きを排除して社会や道徳を守ろうとして集団パニックが発生することを「モラルパニック」と呼びました。

 これは一種のメディアによる大衆心理の操作といえます。ただし、時の政権が意図的に操作したという意味ではありません。新奇なものを追い求めるというメディアの性質によって事態がエスカレートし、その中で実際の社会の変化が起きてしまうという側面も強いでしょう。

 モラルパニックの特徴は三つあります。第一に、ある事件が現実に与える脅威とは不釣合いに大きく取り上げられること、第二に、医師や法律家や評論家といった、いわゆる専門家や識者の言葉によって、「問題」として承認されるということ、そして第三に、突然に生じた新しい出来事として大々的に取り上げられ、そうであるが故にパニックが起きるということです。

 こうした観点から見て、新型インフルエンザをめぐる状況はどうだったでしょうか。

 第一に、感染の規模や病気の重症度に比べて、現時点から見る限りでは、規模が不釣合いに大きかったと言えるでしょう。少なくとも、日本中が巻き込まれたり、あるいは学校が次々休みになったりするほどに見合う病気ではありませんでした。また、当時は感染症の専門家がさまざまなことを言いましたが、いまでは、それは極めて大袈裟な話だったと分かります。さらに、マスメディアは新型インフルエンザを突然現れた事態として取り上げたわけですが、実際には新しいものでなく、10年~20年ごとに必ず起きる現象でした。流行の繰り返しというのは、インフルエンザウイルスの性質によります。


インフルエンザのしくみ

 ここで、インフルエンザについて簡単に説明しておきます。インフルエンザはウイルスが原因で起きる病気です。人のインフルエンザには「A型、B型、C型」の三種類ありますが、流行するのはA型が多いとされます。もともと免疫も1年くらいしか効きませんが、その上に突然変異を起こして違うタイプになるので、また流行するのです。

 さらに、ウイルスの性質によって、三種類の型の各々に数種類の分類があります。A型の場合には、鳥インフルエンザのH5N1型や新型インフルエンザのH1N1型のように「H○N×型」という形で表され、Hで15種類、Nで9種類あります。つまり、全体では100種類以上です。すべてに対応するワクチンなど、現在の医学ではとても用意できません。

 ウイルスは細菌と違って単独では生きられず、生物に寄生して初めて増殖できます。そこで、インフルエンザ・ウイルスの場合は5月~7月頃に、その年の冬から翌年の春にかけて流行りそうなタイプのウイルスを探してきて、それを有精卵に植え込んで増殖させてワクチンを作ります。だから、ワクチンも一種の宝くじのようなものであり、予想通りのタイプが流行る保障はありません。外れればワクチンを打っても無意味です。

 付け加えると、インフルエンザは人間の病気と思われるかもしれませんが、実は人間以外のさまざまな動物にも感染します。今回の新型インフルエンザは豚のインフルエンザでしたが、その前は鳥インフルエンザが流行りました。おそらく、インフルエンザはもともと人間ではなく鳥の病気で、それが時々人間の世界に入ってくると考えた方が正しいのではないかとも言われています。時々流行するのはそういう理由にもよります。

 世界的流行を「パンデミー」と呼びますが、それが起きるのは、人類が免疫を持たないタイプが現れたときです。インフルエンザに罹った場合、1年くらいで強い免疫は消えますが、弱い免疫は体内にしばらく残ります。インフルエンザの流行は10年~20年単位で繰り返しますから、少しずつ免疫が残ることになります。したがって、ウイルスが残存している免疫に適合するタイプならば大流行には至りません。しかし、新しいタイプが現れたり、数十年間ぶりのタイプだったりすると、免疫を持っている人がほとんどおらず、爆発的に広がり得ることになります。とくに今日では、飛行機をはじめグローバルな移動が増え、また人口が都市に集中して人口密度が上がっているため、18世紀~19世紀に比べて飛躍的に拡大する可能性が大きいとも言われます。


パンデミーの歴史

 歴史的に見ると、感染症の大流行によって人類が甚大な影響を被った事例は数多く確認できます。とくに有名なのが南アメリカです。南アメリカに侵入したヨーロッパ人は、同時に天然痘や麻疹を持ち込みました。その結果、とりわけ麻疹が大流行し、南アメリカの先住民社会に壊滅的打撃を与えました。ご存じのように、麻疹は子どもが罹った場合には高熱が出るくらいですが、大人が罹ると重症になります。それまで麻疹が皆無だった南アメリカに突然麻疹が持ち込まれることで、20代、30代の成人が次々に発病して人口が急減し、インカ帝国の滅亡につながる事態が生じたという説もあります。

 インフルエンザのパンデミーで最も有名なのが、第一次世界大戦時の「スペイン風邪」です。これは、第一次世界大戦という要因が大きく影響しています。というのも、まず戦争になれば物資が不足して栄養状態も悪くなりがちです。また、第一次大戦では戦車が発明されたため、それまでの歩兵や騎兵による白兵戦と異なり、穴を掘って鉄条網を引いて戦車を防ぐ塹壕戦が主流になります。兵士は塹壕の泥水の中で待機しますから、健康には非常に悪いわけです。つまり、もともと戦争で栄養状態が悪いところに、環境の悪い塹壕戦によってスペイン風邪が爆発的に流行り、しかも終戦後に兵士が復員して故郷に病気を持ち帰りました。その結果、第一次大戦の死者数を上回る4000万人以上の死者を出したと言われています。

 この時のインフルエンザ・ウイルスはH1N1型でした。09年の新型インフルエンザもH1N1型だったので、スペイン風邪のように世界で数千万人の死者が出るのでは、と恐れられたわけです。


最近の流行例について

 最近の流行例についても振り返っておきます。記憶に残っているところでは、1997年の鳥インフルエンザが挙げられるでしょう。97年3月に香港の養鶏場で鶏にインフルエンザが発生し、家禽を殺処分する事態になりました。さらに、5月に肺炎で死亡した三歳児から鶏が罹ったのと同じH5N1型のウイルスが発見されたため、鳥から人間に感染したことが分かり、対人感染が広がっていくのでは、と問題になったのです。

 その後、冬になって同様の事態が生じたため、最終的に香港では数百万羽の鶏を全て処分することになりました。その結果、鳥から人への感染もなくなったわけです。結局、この際に人間で発症したのは18名でした。ただ、そのうち6人が死亡したので、死亡率は約30%です。かなり高率ではないかということで、大きな問題になりました。

 次に問題になったのが、2002年~03年にかけて中国南部を中心に猛威を振るったSARS(重症急性呼吸器症候群)です。新型肺炎とも呼ばれました。もともと、02年の11月頃から、広東省で数百人規模の肺炎が流行っているという話が現れていました。入院した患者から看護師や医師にうつって大問題になる状況があったそうです。にもかかわらず、中国政府はその後3カ月ほど情報を統制していました。ところが03年2月頃、ベトナムのハノイで同様の病気が発生したことを契機に、世界保健機関(WHO)は中国政府に先んじて、ベトナムや香港や広東省でSARSが集団発生していると発表し、流行地域への渡航規制を勧告したため、にわかに世界的な問題となりました。

 結局、その夏に流行が終わるまで、SARSの感染は台湾やシンガポールやカナダなどにも拡大しました。発症者の総数はおよそ8000人で、スペイン風邪には遠く及びませんが、死亡者は700~800人で死亡率は約1割ですから、かなり重い病気だったことは間違いありません。

 ちなみに、SARSのウイルスはコロナ・ウイルスという種類で、インフルエンザとは無関係です。ただ、もともとハクビシンなど動物の病気である点は共通しています。つまり、新しい病気と言っても、地球環境の全体から見れば、新種が生まれたわけではなく、人間にとっての新しさであり、動物の中だけで広がっていたウイルスに触れたことで、大規模な流行に至ったわけです。こうした人間と動物で共通の病気は「人獣共通感染症」と呼ばれますが、実は感染症の6割にのぼると言われています。

 SARSの流行とほぼ同時期くらいに、日本でも鳥インフルエンザが大流行し、家禽の大量死という事態が生じました。しかし、97年の香港とは違って鳥から人間には感染しておらず、死者も出ませんでした。しかし悲惨なことに、ある養鶏業者が、自分の養鶏場で鶏の大量死が起きていながら、それを隠していたのではないかと疑惑を持たれ、社会的なバッシングを受ける形になり、社長が自殺したという事件がありました。

 翌04年の冬には、ベトナムで鳥インフルエンザが大流行し、タイ、カンボジア、中国、インドネシア、日本、北朝鮮でも流行が現れました。その後は西に進んでロシア、中央アジア、06年にはインドネシアとエジプトで流行するという具合で、鳥インフルエンザの流行はだいたい1年~2年ごとに起きています。


09年の新型インフルエンザ

 97年の香港でも、その後のエジプトやインドネシアでも、鳥から人への感染は散発的にはありますが、それが人から人への感染へと進むことはほとんどありませんでした。

 新型インフルエンザが発生したのは09年です。しかも、鳥からの感染を注意していたら、実際には豚からやってきました。専門家の予測と言っても、それほどあてにならないわけです。

 09年の新型インフルエンザをめぐる経過を簡単にたどっておきます。4月頃から、メキシコで豚由来のA型インフルエンザが人に感染し、多くの人々が入院して、肺炎で死んだ人もいるという情報がアメリカ経由で出てきました。それで、日本では08年に施行された感染症予防法に基づき、成田や関空などの空港では25日から、メキシコ、カナダ、アメリカから来る飛行機を中心に、水際作戦と称して検疫が強化され始めました。

 この結果、5月9日に成田での検疫で、カナダから帰国した高校生ら3人の感染が初めて確認されます。水際でくいとめていたはずが、5月16日になって、兵庫と大阪で国内初の感染が確認されます。それ以降は、各地で学級閉鎖や休校措置が行われたり、大勢が集まる催しが中止になったり、マスクをする人が増えたりする形で、事態が緊迫していくことになります。

 6月12日になると、WHOが世界的流行の最高段階である「フェーズ6」を宣言しました。しかし、6月19日あたりには発症者数が増え続けていくため、患者を隔離したり、病院で特殊な対処をするといった運用指針が現実に合わなくなってきます。8月15日に肺炎で最初の死亡者が出て、同19日には、当時の舛添厚労相が新型インフルエンザの流行宣言を行います。通常は冬に流行るインフルエンザが、真夏に流行することが問題視されました。それ以降、8月後半には、感染症外来などの医療体制が限界に近くなり、10月くらいからは、冬に備えてワクチンをどうするかという問題が出てきました。おおむね4月から9月くらいまで、約半年にわたる騒動でした。

 こうして振り返ると、さも大変な事態だったように思えますが、グラフで発症者の数をたどる限り、毎年の年末から春先にかけて流行する季節性のインフルエンザに比べて飛躍的に増えたわけではありません。インフルエンザ患者は毎年4月くらいから急激に減っていきますが、その減り方が少し鈍ったというところで新型インフルエンザの流行を確認できるくらいです。だから、今から客観的に見れば「流行」とは言えないような状況でした。

 おそらく、例年なら春風邪をひいたとか、連休疲れで熱が出たとかいうことで済ませていた人々が、メディアの取り上げ方や社会の見る目が変わったために、熱っぽいなと思ったら、とりあえず病院で検査を受け、インフルエンザだと分かったというからくりでしょう。

 また、死亡率については、国によってカウントの仕方が違うため、必ずしも正確とは言えませんが、おおむね10万人あたりの死者は0.2から1人とのことです。だから、それほど高率とは言えません。とくに、日本では10万人に0.16人、つまり100万人に1~2人いるかどうかなので、それほど怖い病気ではありません。一方で、たとえば全身麻酔は副作用で数千人に一人は必ず死にますから、死亡率で言えば、全身麻酔する手術はインフルエンザよりはるかに怖いわけです。


新型インフルエンザの対策をめぐって

 こうした一連の経過の中で、どのような対策が取られたのか、という社会的側面を、一部繰り返しになりますが確認しておきます。まず、検疫について言えば、4月28日から5月21日にかけて、メキシコ、アメリカ、カナダの北米三カ国からの全便について、検疫機関が調査を行いました。カードを配って熱や咳の有無を尋ね、必要なら検査をしたり、機中に乗客を留め置いたりしました。ただ、それ以降はあまりに数が多く、とうてい手が回らなくなったために、6月から9月にかけて検疫体制はどんどん緩んでいきました。最終的に、隔離された人は全部で11名。ホテルなどに留め置く「停留」は約60名です。

 ちなみに、諸外国はどうだったか見ておきます。行政の取りまとめによれば、回答のあった56カ国のうち、海外旅行は控えようといった感じで注意を促したのが半分くらい。検疫を行ったのは34カ国で約6割。その中で詳しく答えた17カ国を見ると、空港で検疫をしたのが10カ国で、患者を発見したのは4カ国です。隔離を実施したのは15カ国で、停留は約10カ国です。効果があったとの回答は9カ国、証拠がないとの回答が7カ国です。ただし、効果といっても客観的な調査によるものではなく、主観的な感想レベルです。

 医療体制としては、タミフルやリレンザといった抗インフルエンザ・ウイルス薬の備蓄も行われました。タミフルは05年度、06年度くらいから、つまり東南アジアなどで鳥インフルエンザが流行り始めた頃から数百万人分、あるいは1000万人分くらい備蓄していたわけですが、08年度くらいからさらに増やし始めました。合計で3000万人分くらいを備蓄したはずです。ただ、使用期限があるので、古くなったものは処分せざるを得ません。リレンザという新しい薬も、確保でき次第数十万人分を備蓄していきました。

 タミフル3000万人分は、政府調達で600億円になります。こうなると、かなりの先進国でなければ買えません。アフリカのサハラ以南の国では、国の一人あたりの医療費が数ドルという国も多いですから、タミフルを1錠か2錠買っただけで、その年の一人あたりの公衆衛生予算を使い切ってしまうことになります。2008年あたりまで、医療保険制度でインフルエンザ治療が行われた日本は、世界のタミフルの8割くらいを使っていたと言われています。

 その他にはワクチンです。流行り始めたのが4月なので、ウイルス株を決めて有精卵に植えて増やしてワクチンを作ると、最短でも数カ月から半年かかります。実際に10月頃から投与可能となり、まずは医療従事者や高齢者、持病のある人からという形で態勢を作りましたが、流行が終わったので不要になり、結局は大量に余りました。


モラルパニックと新型インフルエンザ

 以上の経過をふまえて、先ほどお話ししたモラルパニック、あるいは社会という視点から新型インフルエンザをめぐる世の中の動きを見直してみます。

 第一に、新型インフルエンザというものが、マスメディアで喧伝されたように新しい出来事だったのでしょうか。いままで示してきたとおり、新型と言うわりには実は新しくなく、10年~20年周期で繰り返すものだと分かります。20世紀初めから見ていくと、スペイン風邪があり、アジア風邪があり、香港風邪があります。その上で、今回の新型インフルエンザがあります。つまり、一定のパターンのインフルエンザ・ウイルスが流行ると、ちょうど一世代が二世代くらい後になって、人々が免疫を持っていない、違うパターンのものが現れるわけです。その繰り返しと言えます。

 スペイン風邪の死亡者は4000万人ですが、それ以降のアジア風邪は100万人くらい、1968年の香港風邪は75万人くらいです。だから、インフルエンザが大流行した場合、死亡者の規模は数百万人と予測されていました。今回はそうではありませんでした。

 次に、専門家による対策が有効だったのかどうか、この点では、先ほど挙げた検疫強化、抗ウイルス剤タミフル、ワクチンの三つを例に考えてみましょう。インフルエンザに対する検疫の有効性については長らく議論されており、実際には有効ではないと言われています。そもそも検疫の基本的な仕組みは、入港した船を港に停泊させ、人を船の中に潜伏期間のあいだ留め置いて病気の有無を確認した上で上陸させるものでした。検疫(quarantine)の原語はラテン語で「40日」という意味です。14世紀の中世イタリアでペストが流行った際、都市国家ベネチアが、入港する船舶に対して40日間港に停泊させ、ペストが発生しないと確認できたら貿易を行ったのです。そこで、40日のquarantineに検疫という意味が加わることになりました。当時は中央アジアを通って運んできた香辛料などを、トルコかモロッコあたりで船に積み込み、地中海を通ってベネチアの港に入るという経路でした。長期間かけて来るわけですから、検疫期間の40日は「誤差」と言えます。しかし、現在ではそんなことはとうてい不可能です。

 検疫が科学的に有効であるためには、いくつか条件が必要になります。一つは、乗客の中で誰が病気か、素人でも空港で瞬時に判断できなければなりません。いちいち医師が診察していては、ジャンボ機が着くたびに大混雑になります。しかし、ここが難しい点です。ペストや天然痘や麻疹のような病気なら、身体の表面に症状が現れます。あるいは、表面的に分からなくても、チフスや赤痢やコレラのように症状を聞いて想像がつくものもあります。要するに、医師でない検疫官が見て、ほぼ確実に診断できるような病気でなければだめです。ところが、インフルエンザは発熱だけなので、普通の風邪と見分けがつきません。

 もう一つの条件は、潜伏期間の問題です。感染症には感染から発症までの潜伏期間があり、だいたいは数日かそれ以上です。その間、身体の中にウイルスや細菌がいて、他人に伝染させることはできるが、本人には症状が出ていないわけです。そうした潜伏期間にある人を、臨床的症状だけで検疫するのは不可能です。インフルエンザの潜伏期間は3日から一週間とされていますから、本人も伝染しているかどうか知らずに飛行機で来て、検疫を通過して3日か4日後に症状が出る場合が考えられます。その間に他人にうつす可能性があるのですから、検疫の意味がありません。

 三つ目の条件は、不顕性感染がないことです。感染しただけで、病気を発症しないことを不顕性感染と言います。インフルエンザの場合、ウイルスに感染したからといって全員が発症するわけではありません。本人に抵抗力があれば、少しだるくなったりするだけで発熱しない場合も多いからです。コレラや天然痘なら、感染者のほとんどが発症しますから、その場合は検疫も有効です。しかし、インフルエンザの場合、健康な人なら30%~40%は感染しても発症しないと言われます。これでは検疫は不可能です。


対策の「有効性」をめぐって

 次に、抗ウイルス薬タミフルですが、これも問題含みです。ご存知のように、タミフルの副作用として、窓から飛び降りるといった異常行動があると指摘されています。この点は現在も論争中です。というのも、インフルエンザになった後、インフルエンザのウイルスが脳に入って脳炎になって窓から飛び降りたりする精神症状が出ているのか、タミフルの副作用でそうなっているのか、よく分かっていないのが実情なのです。

 そもそも、タミフルの薬効そのものはウイルスの増殖を止める効果です。しかし、それが社会の中で人間に使用した場合に効くかどうかは、さまざまな要素に左右されます。というのも、ウイルスを破壊するわけではなく増殖を止めるだけなので、ウイルスが増殖した後に飲んでも効果がないからです。期限は48時間です。発熱して48時間以内に服用しないと効かないばかりか、逆に耐性ウイルスを作る危険があると言われています。

 48時間以内に服用というのは、そう簡単ではありません。たとえば、高齢者は一般に体温も低く代謝も低いので、発熱が確認しづらいことが多いです。その結果、後手後手になって遅れて服用し、耐性ウイルスを増やすことにもなりかねません。子どもの場合でも、発熱していても元気だったり、発熱に無自覚だったりするので、48時間以降でないと分からない場合も多いでしょう。家族が日中働きに出ていれば、子どもの受診は丸一日遅れることもあるかもしれません。

 また、ウイルスの増殖を防ぐことと、人間の死亡率が減少することとの関連は、実験では確認されていません。ウイルスの増殖が止まれば死亡率が減ると考えがちですが、逆に副作用で死亡率が増える場合もあるのです。これには、多くの人を対象とした厳密な科学実験が必要です。ところが、そもそもインフルエンザの死亡率が100万人に1人くらいなので、仮に抗ウイルス薬を飲んだ100万人のうち死者が0に減ったとしても、ほとんど誤差の範囲かもしれません。理論上は役立つということでも、実際に社会の中でどうかは確認されていないのです。

 ワクチンも同じです。ワクチンの接種とインフルエンザの流行防止について、科学的に因果関係が証明されているわけではありません。1980年代頃、ワクチンの接種が強制から任意という形で事実上は中止になりましたが、その決め手となった検証が、群馬県前橋市の学校で行われました。一方は生徒全員にワクチンを接種させた学校、もう一方は全く接種させていない別の学校、二つの学校のうちどちらでインフルエンザが流行り、学級閉鎖が多かったかを調べたのです。すると、結果として変わりはありませんでした。

 また、ワクチンそのものの効果は1年なので、標準的な医学としては、その年に打ってその年に効果があるかどうかという見方しかしていません。しかし、人間は1年単位で生きているわけではないので、ワクチンのような形で弱い中途半端な免疫をつけるよりも、むしろインフルエンザに実際に罹って強い免疫をつけた方が、数年後のためにはいいという説もあります。

 ともあれ、天然痘や破傷風、麻疹や天然痘やおたふく風邪のように一回打てば済むものについては、ワクチンが有効であることは確かです。しかし、インフルエンザのように種類が多く、何回も感染する病気に、ワクチンという対策が適した手法かどうか、そう簡単に結論は出ないのです。


一つの教訓

 さらに言えば、ワクチンなどの対策が成功したか失敗したか、判断も容易ではありません。もちろん、問題が起きる前に予防的に規制をかける「予防原則」は必要ですが、ただ、実際は危険ではなかったのに予防措置を講じて何も起きなかった状態と、実際に危険性があって予防原則のお陰で何も起きなかった状態とは極めて判別が難しいからです。事後的な対策の場合には、正否の判断も比較的つきやすいでしょう。しかし予防の場合には、予防したから防げたのか、そもそも予防する必要のないものだったのか、実際には検証できないのです。

 この点で最も有名なのが、過去にアメリカで起きた「豚インフルエンザ事件」です。1976年2月、ある陸軍基地で新兵の間にインフルエンザが流行し、志願兵1人が肺炎で死亡したことが発端でした。死んだ兵士を調べると、スペイン風邪と同じH1N1型のインフルエンザ・ウイルスが検出されました。当たり前ですが、検査した軍医は上司へ報告します。当初は危険性を示唆する程度の内容だった報告が、ホワイトハウスに届く段階では「スペイン風邪から考えて、アメリカだけで死者100万人」といった推定が加わりました。

 そこで、アメリカ政府は1億3000万ドルの予算で全住民に予防ワクチンを接種させる計画を立てました。そして、2月から12月までに4000万人以上がワクチン接種を受けました。しかし、そのワクチンは副作用が多く、手足が麻痺して動かなくなる「ギラン・バレー症候群」が多発しました。400人以上に副作用が現れ、うち17人が死亡という結果でした。一方、その年には豚インフルエンザの流行は起きず、犠牲者は2月に死亡した兵士1人だけだったのです。こうしてワクチン接種計画は中止され、政府は損害賠償を請求されることになりました。

 これは、素早く立案実行された予防計画として見れば成功例です。しかし、結果から見れば明らかに失敗です。予防対策には、そんな問題もあるのです。


病気やウイルスとどう向き合うか

 最後に、医療と社会という観点から見て、医者や感染症の専門家の発言権や社会的規定力が社会的に大きくなったことを考え直してみましょう。一見すれば、科学的に政策を立てることは当然だと思われるかもしれません。しかし、たとえばタミフルに600億円の税金を使うかどうかは、医学の問題だけに限定できるでしょうか。

 ダムをめぐる問題を考えてみましょう。これまでダムと言えば治水・利水の問題で、専門家が科学的に決めるべきだとされていましたが、いまでは様変わりしています。流域の住民の声なども含め、さまざまな角度から判断すべきだと言われ始めています。

 それと同じく、たしかに感染症は医学の問題だとしても、専門家だけに任せておけばいいのか、税金をどのように投入するか、社会の中でどんな対策を行うのか。そうした問題については、医者や感染症の専門家だけに任せることはできないのです。

 専門家の力が強くなることには、リスクを取り扱うときの私たちの考え方に起因しています。「もうすぐ大流行が起きるかもしれない」といった切迫した状況に直面すると、迅速な決断が必要となり、議会で議論したりアセスメントをしたりするよりも、とりあえず目に見える対策をすべきだと発想しがちになります。専門家の主張に従えば時間はかからず、対策をする際の裏付けを与えてくれます。しかし、繰り返しますが、専門家その主張が実際に正しかったのかどうか、後から検証するのは非常に困難です。

 医者は病気やウイルスの専門家ではあっても、どんな企業がどのように医薬品やワクチンを作っているかという問題については門外漢です。実際に社会の中で医療対策を決める場合には、限られた公衆衛生予算の分配や、あるいはワクチンの配布の順位など、医学的ではない問題も検討しなければなりません。そうした時に、医者だけに頼っていると、とんでもない方向に進んでしまう怖れがあることを意識しておいてください。

 もちろん、非専門家である民衆や政治が専門家をコントロールするのは容易ではありません。ただ、第一歩として、病気を恐怖の対象として、あるいは悪の象徴という形で過剰に恐れたりするのではなく、むしろそうした見方から自由になる方向を見出していくべきだと考えています。

 病気が好ましいものでないのは、言うまでもありません。しかし、人間も生き物である以上、病気やウイルスと無関係に生きることはできません。むしろ、現実には「共生」していかなければならないのです。とすれば、忌避したり過剰に恐れたり、逆に専門家に任せれば解決すると捉えるのではなく、冷静かつ主体的に病気やウイルスと向き合うことこそ、モラルパニックを回避する道なのではないかと思えるのです。   (おわり)


参加者の感想
「恐怖という疫病」をどう治療するか


 「恐怖という疫病」のタイトルから始まった美馬先生のお話は、とても興味深いものでした。実際はそれほど恐れる必要もないのに、「恐怖」という感情だけが流行病のように広がってゆく。まさに09年5月に新型インフルエンザの感染が確認された後の日本の情景です。電車に乗っているほとんどの人はマスクをし、マスク無しの人は肩身を狭くしている、そんな奇妙な風景が日本のあちこちで見受けられました。

 振り返るに、09年の新型インフルエンザの流行に対して、なぜ人々があれほど神経質にならざるをえなかったのか? それはひとえに、新型インフルエンザの正確な情報が一般に伝わらなかったことだと思います。発症場所のメキシコでは死者もでて、強毒性ではないかと騒がれ、スペイン風邪による死者数が常に引き合いに出されて、いかに多くの人が亡くなっているか、マスコミ報道を通じて何度も耳にすれば、圧倒的多数の人が自分の命に係わる脅威として新型インフルエンザをとらえたのも、無理からぬこと。もちろん「うがい、手洗いの励行、少しの体調変化でもなるべく早く受診しましょう。もし、新型インフレエンザに罹っていたならタミフルは早期でないと効き目がありません」と言う、テレビに登場した医師の発言が恐怖を後押ししたことも間違いありません。

 インターネットなど情報化社会がますます進展してゆく中で、人々がマスメディアに頼らず情報を獲得したり発信したりすることは、20年前に比べてとても手軽にできるようになっています。しかし、本当に信頼のおける情報は、どれほど増えたのでしょうか? つい最近も、「子宮頸がんを予防するため、ワクチンを接種しよう。その費用は公的負担にしよう」という動きが広まっています。このワクチンもインフルエンザワクチンと同じで、子宮頸がんを引き起こすウィルスは150種類以上あるのに対してワクチンはたった2種類のウィルスにしか効かないこと。ワクチンの副作用がまだ明らかになっていないことなど、様々な問題点を持っています。にも関わらず、政府はワクチン接種に対して補助金を支給するといい、情報を持たない小・中学生の女の子を持つお母さんは、「ワクチンの費用が高くても、がんにならないためには受けたほうがよいですよね」という。

 六ヶ所村をはじめ、原発に関する反対運動を無視して取り上げないマスコミ報道をみても判るように、一般にマスコミの情報はかなりバイアスが掛かっています。花王の『エコナ』の特保取り下げ自主回収をめぐっても、大広告主に都合の悪いことはほとんど報道されません。そんなマスコミ情報に取り巻かれた中でリスク・パニックを防ぐには、日頃より物事を多面的にとらえて判断することが大切だと思います。
                                              (森和樹:㈱ひこばえ)



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