●タルー族の祭り
●Dan-Bahaduru氏(78)
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連載 ネパール・タライ平原の村から ⑥

変貌する村の歴史:その2

 今年からネパールの農村で生活を始めた、元よつ葉農産社員の藤井君による、ネパールの人々の暮らしや農業に関する定期報告。今回は、その6回目である。



 前回は、タライ平原の開拓地・カワソティへ移住して来た山岳民の、あるお年寄りの話から、村の歴史を紹介しました。今回は、インド・ネパール国境付近に分布し、元々このあたりで暮らして来た先住民・タルー族の老人、Dan-Bahaduru氏(78歳)の話から、村の歴史を見てみたいと思います。

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 イギリス植民地下のインドが独立する1947年頃まで、サイやヒョウが棲息するジャングルだったタライには、タルー族の集落だけが点在していました。集落の起源については、どうやら不明です。先祖代々、マラリア感染地帯のタライで暮らしてきたタルー族は、一般にマラリアに対する抗体を持っているとされていますが、これも十分な根拠は不明です。

 Dan-Bahaduru氏は「ザミンダール」と呼ばれる大地主の家で生まれたとのことです。ザミンダールの下には、農地を所有しない農民がおり、彼らは無償で働く代わり、食料や住居が保障されるという慣習的な関係があったと言われています。

 Dan-Bahaduru氏は若い頃に疫病等で多くの兄弟姉妹を失ったため、両親が精霊崇拝(アニミズム)の教えに従い、点在する別の集落へ引っ越しと言います。さらに、身内で土地を巡る騒動があり、土地登録手続きのため、一人で何度か郡庁まで足を運ばなければいけないことになりました。

 ところが、当時の郡庁までは徒歩で往復一週間も要する上、その道のりは、野獣や伝染病にかかる恐れがある命懸けの旅を意味しました。結局、彼はあきらめて農地を全て失う経験をしたそうです。その後は自分自身がザミンダールの下で十年以上働き、時にポーター(荷役)として穀物を山岳部へ往復一ヶ月以上かけて運ぶ仕事を続けたとのことです。

 このように、交通が発達していない時代は、山岳部から降りてくる人々との間で、互いに自給できないモノを交換する「交易」が発達していたようです。開拓前の1950年代までは、主に農閉期に交易地に赴き、平野部の穀物を山岳部の農産品やチベットの塩と交換することで、暮らしを成り立たたせていたという話です。

 その後1960年代から、首都カトマンドゥからインドまでの道路が開通するなど近代化が進み、移住政策も実施される中で、農地改革によりDan-Bahaduru氏をはじめとするタルー族の多くは、十分な農地を手に入れることができました。しかし、その一方で、現金を持たず文字を知らないため、教育を受けた高位カーストの移住者による高利貸しによって、あるいは酒や賭博のツケとして、土地を奪われたり低価格で土地を売ってしまったりと、農地を失ったタルー族も多数いたとのことです。

 物々交換による交易の時代から、輸入・販売による「流通」の時代へと移行した現在。かつて村の家々では、農地の周囲はすべて伐採した木材で囲っていましたが、今では薪や木材が不足している状況があります。また、以前は幹線道路沿いから離れた水田や水が確保しやすい溜め池の近くの方が地価は高かったようですが、今ではそうした土地は不便とされ、舗装された道路沿いの方が地価が高いなど、価値の逆転も生じています。

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 現在でも、移住者が住む地域が多い幹線道路沿いからほんの少し奥地へ行けば、移住者と混じることなく暮らすタルー族の集落があります。水田地帯が広がり、牛車が走り、彼らの暮らしは今も昔も変わらないかのように感じられます。しかし現実には、タライにあるどの村もどの人々も国策による大きな影響を受け、国境を接するインドをはじめ、その先にグローバルに広がる世界市場からさまざまな影響を受けて今日に至っています。村の村人も、自らを取り巻くより広い世界との関係の中で、それぞれの歴史を紡ぎ出しているのです。 
                                          (藤井牧人)



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