●『長い20世紀』
●土佐弘之さん
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研究会報告―グローバリゼーション研究会

『長い20世紀』と今日の世界

 グローバリゼーション研究会では、この間、米国の歴史社会学者ジョヴァンニ・アリギ(1937年~2009年)の著作『長い20世紀-資本、権力、そして現代の系譜』の読書会を行ってきた。同書は、アメリカの覇権時代を「長い20世紀」と捉え、それに先行するイタリア・ジェノヴァ、オランダ、イギリスという三つの覇権と比較しながら、その特徴と限界を描いたものである。「9.11」から「リーマン・ショック」を経て、アメリカが覇権を握る世界秩序には明らかな陰りが見える中、アメリカの覇権の後に何が来るのか。現代の世界に生きる我々にとって、アリギの見解はどのような意味を持つのか。こうした点を考えるべく、去る9月24日、監訳者の土佐弘之さん(神戸大学大学院国際協力研究科教授、国際関係論、政治社会学)にお越しいただき、概括的にお話を伺った。以下は、その概要である。


はじめに

 今日は、基本的に四点にわたってお話ししたいと思います。一つ目は、アリギの考え方、世界観の形成過程について簡単に紹介します。二つ目は、そうして形成された彼の世界観の中でも、とくにユニークな点は何かを考えてみたい。彼は俗に言う「ネオ・スミス的マルクス主義者」といったラベルを貼られているように、流通史観を重視し、とりわけ高等金融(ハイ・ファイナンス、投機的金融)を重視しています。そうした考え方を取り上げます。三つ目は、彼のもう一つのユニークな観点として、地政学と絡めた形で資本主義の問題を読み取っていくところ、つまり「ジオ・ヒストリー」の視点に注目したいと思います。『長い20世紀』の中では、資本の論理と領域の論理との間の絡み合い、その変遷をめぐる部分です。

 その絡みでもう一点、これは現在の状況と関わりますが、いわゆる金融拡大(financial expansion)の終局面という事態の持つ意味に関する論争、とくにアリギとアントニオ・ネグリとの論争について触れたいと思います。ネグリはアリギを執拗に攻撃しており、この間は『〈帝国〉』『マルチチュード』に次ぐ三部作の最後Commonwealth(未邦訳)でも、繰り返し批判しています。簡単に言えば、アリギの見方は単なるサイクル史観じゃないか、ということですね。つまり、金融拡大の終局面と言っても、それが次の質的に新しい過程の始まりなのか、次の物質的生産拡大(material expansion)の再開への過渡期なのか、いわば金融資本主義の性格に対する捉え方の差に関わる話になります。時間があれば、これに関連して、いま問題になっているトービン税など、金融資本への規制強化を求める草の根の運動がどういう意味を持ってくるのかについても、お話ししたいと思います。

 最後に四つ目は、第一点に関係しますが、アリギと南北問題の関係について考えてみたいと思います。もともとアフリカ研究からスタートしたこともあって、アリギは常に南北問題を軸にした考え方を堅持していました。最後の著書『北京のアダム・スミス(Adam Smith in Beijing)』(邦訳近刊予定)では、それがさらに全面展開されていますが、そのあたりを含めて考えてみたいと思います。


アリギの世界観形成

 では、まずアリギの世界観の形成について、晩年にデヴィッド・ハーヴェイが行ったインタビューから、生い立ちをたどる形で見ていきたいと思います(註1)。アリギはイタリア人で、1937年にミラノに生まれました。最初は経済学を勉強し、いわゆる近代経済学、新古典派経済学を専攻しています。その後、アフリカへフィールドワークに行きます。彼がアフリカで最初に訪れたのは、ローデシア(現在のジンバブエ)でした。当時は、白人が牛耳る一種のアパルトヘイト国家です。そこで垣間見たアフリカの現実、そして、それまで学んだ経済学が全く役に立たないことに愕然とし、その衝撃から事実上、経済学を放棄してしまいます。こうして、後に専門とする歴史社会学へと向かっていくわけです。
土佐さん
 その後、タンザニアのダルエスサラーム大学に行きます。1966年、彼が30歳前後のことです。当時のダルエスサラーム大学は、いわゆるアフリカのラディカリズムの拠点みたいな所だったようです。ご存知かもしれませんが、従属論の起爆剤の役割を果たしたとされるウォルター・ロドニー、あるいは、後に同僚になるイマニュエル・ウォーラーステイン。さらに、サミール・アミン。いわゆる第三世界派のネオマルクス主義の中心人物たちが集まっていて、かなり触発されたようです。

 このように、アリギの世界観の形成には、アフリカの現実そのものとの出会いはもちろん、アフリカをフィールドにするラディカルな知識人との接触という、二つのアフリカ体験が大きな影響を与えていたことが分かります。さらに言えば、その関連で、アメリカにおける「ブラック・ムーブメント(黒人運動)」に連なる人々の著作からも大きな影響を受けたそうです。

 それから3年後の1969年に、彼はイタリアに帰りますが、そこでいわゆる「68年革命」の残り火に遭遇する。とくにイタリアの場合には、いわゆる「アウトノミア運動」の流れが強く存在していた。アントニオ・ネグリもその一角を占めていました。あるいは、グラムシ系の思想や運動が再興してくる。そういったものと遭遇したわけです。

 こうしてみると、彼が活躍したのはアメリカですが、バックボーンとしては、一つはアフリカ体験、もう一つはイタリア新左翼との遭遇が大きい。それらをベースにして、独自の理論を開いていったと見ることができます。


アリギのユニークさ:市場の評価

 そうして形成された彼の世界観、理論ですが、その中で一番ユニークな所はどこかといえば、もちろん論者によって多様ですが、一つは「ネオ・スミス的なマルクス主義史観」とも言われるように、水平的な市場における交換を非常に積極的に評価する点です。この点は、とくに『北京のアダム・スミス』で鮮明ですが、アリギにはアダム・スミスの再評価という問題意識があります。従来のマルクス主義では、アダム・スミスを評価すること自体がタブーに近いはずですが、アリギはアダム・スミスを再評価する立場からマルクス主義を再構成していると言えます。

 こうした考え方には、フェルナン・ブローデルの影響があります(註2)。ブローデルは市場と高等金融とを分けて考え、市場はもともと水平的で、情報・資本・商品を横の関係で自由に交換することを通じて人間の能力を発展させるものと捉えます。これに対して、高等金融として組織化された形で資本主義が登場してくると同時に、不平等をはじめとする様々な問題が形成・再生産・拡大していくのであって、市場そのものには本質的な問題はないという立場です。新古典派の多くも、だいたいこうした考え方だと思います。

 こうした考え方をめぐっては、資本主義の起源・形成過程と関わって、論争が存在します。ただ、私の専門領域からは完全に逸脱しているので、あまり踏み込むことはできません。ごく一般的な常識として触れたいと思います。まず、アリギの説に従うと、資本主義の起源は、世界交易と高等金融とのつながりの部分で見ていけば、だいたい説明できるということになります。

 ところが、これに対して米国のマルクス主義経済学者ロバート・ブレンナーが批判を加えています。これは、すでに20~30年前から、ウォーラーステインとの間でもずいぶん議論されていますが、ブレンナーの批判は要するに、生産関係的な視点が全く欠落している、ということです。とくに重要なのは、地主と農業労働者への分解という形で生じた農業における階級闘争、それから後の産業資本主義における資本家とプロレタリアートの分岐。そうした生産関係的な視点、階級闘争的な視点が全く欠落している点が問題だというのが、ブレンナーの一貫した主張です。

 私自身の理解では、両方が同時に起きてくる過程を見るべきだと思います。イギリス国内だけで見ても分からない。それこそ植民地から銀が大量に流入するといった世界的な交易の大きな変革があり、そこに高等金融が直結して、それと同時に農業資本主義の編成が生じていく。この両方を見るべきでしょう。資本主義の起源をめぐる論争も、いわば上を見るか下を見るかという話で、アリギの場合、とくに『長い20世紀』では、あえて高等金融など上の部分だけに焦点を当てて長い歴史を説明しています。これが「ネオ・スミス的」と言われる所以です。

 ちなみに、ここはウォーラーステインとの違いにも関わってきます。アリギもウォーラーステインも、ヘゲモニーの変遷という点で歴史を抑えている点は同じですが、ウォーラーステインは第一のヘゲモニーをジェノバに置かず、スペインないしポルトガルに置いています。ところが、アリギはジェノバに置いている。これは、大きな違いです。ヘゲモニーの始点を高等金融のネットワークが形成されたことに求め、それは北部イタリアの諸都市のネットワークが背景になったと見ています。

 これは要するに、領域・領土と直結しないで資本主義が形成されるということですが、そうした当時の資本主義の特性は、今日の世界で起きている脱領土的な高等金融によるネットワークとよく似ている。いま世界大に生じている問題の原型は、実は北イタリアで生まれたと見ることもできるわけです。

 だから、明らかにウォーラーステインの議論とは違います。ウォーラーステインの場合は領土とつながったヘゲモニーの変遷が中心ですが、アリギの場合はスペインやポルトガルを無視してジェノバに起源を求める。言い換えれば、資本の論理と領土の論理をどう関係づけるかという点で、アリギの方がより複雑、ダイナミックな事態の把握になります。

 たとえば、ジェノバのサイクルは脱領土的な資本の論理で形成されてくるようなヘゲモニーだったのが、徐々に領土の論理とセットになっていく。その典型的な例がパクス・ブリタニカ(註3)です。それが後にパクス・アメリカーナが崩壊していく過程で、徐々に領土の論理と資本の論理が再び乖離する形で大きく変わってくる。

 これは、今日の状況を考える上で重要です。というのも、今日の状態は非常に変則的な時期だからです。アリギが指摘しているように、アメリカの突出した軍事力と、東アジアで増大していく経済的な力との間に大きな乖離が現れている。たとえば、よく言われますが、アメリカ国債を主要に買っているのは中国と日本です。アメリカは1970年代以降、ドルと金との兌換が停止した結果、価値の裏付けのないドルを大量に刷って、それで借金を賄う構造になっている。ところが、結局それがどこで賄われているかと言えば、東アジアです。つまり、東アジアが経済的な力を蓄える一方でアメリカは軍事力だけを確保しているという、そうした異常な事態が続いている。それを捉える上で、資本の論理と領土との論理との複雑な絡み合いというアリギの把握は一つのヒントになると思います。この点も、アリギのユニークさとして挙げられるでしょう。


アリギのユニークさ:地政学的観点

 アリギは『長い20世紀』で、ある蓄積システム・サイクルが生産拡大から金融拡大を経て次の蓄積システム・サイクルに移るという形で、歴史的なヘゲモニーの変遷を描いています。ネグリが言うように、それは一見すると単なるサイクルの入れ替わりのように見えますが、そうではない。単純なサイクル論ではありません。アリギが亡くなる直前に書いた『長い20世紀』の第二版の「あとがき」に、下記の表が載っています。「世界資本主義の進化の範型」(Evolutionary Patterns of World Capitalism)という、一種の進化論的な段階分けによって世界資本主義の変化を示したものです。そこでは「指導的統治組織」(Leading Govern-mental Organization)として、世界資本主義を主導的に推進していく政体が「都市国家」(City-state)から「国民国家」(Nation-state)へ、さらには「世界国家」(World-state)へ、という形で発展していくと捉えられています。「都市国家」は、ジェノバなど北イタリアの都市国家群です。そこから「国民国家」として、まずオランダが現れる。そして、オランダからイギリスへと移行する。アメリカは「国民国家」から「世界国家」への過渡期に位置すると捉えられています。

 こうした変化を何によって捉えるのか、それについては、保護(Protection)、生産(Production)、取引(Transaction)、再生産(Reproduction)という四つの面に関して、各々に関するコストがシステムの中に内部化されているか否かによって、各段階の質的な差異が判断されている。言い換えれば、四つのいずれもが内部化されていく過程を通じて、より高度な指導的統治組織の形態になっていくというのが、彼の考え方です。つまり、単にサイクルを描いて行きつ戻りつしているのではなく、行きつ戻りつしながら、より高度の組織が編成されていくと考えている。そうした考え方の背景の一つには、資本主義自体が革新的な力、時には既存のシステムを破壊するような創造力を持っていて、それによって高次の段階に飛躍していくという、シュンペーター流の資本主義論のようなものを取り込んでいることが挙げられます。このように、アリギという人はブローデルも取り入れれば、シュンペーター取り入れる、あらゆるものを取り入れています。

 それこそ資本の論理と領土の論理で言えば、領土の論理に関する観点はアルフレッド・マハンなどの地政学の見方も取り入れています。たとえば、ヘゲモニーとカウンターヘゲモニーという構図で世界の歴史を見ていくと、オランダ以降の世界のヘゲモニーは海洋国家が握っており、そのカウンターヘゲモニーとして大陸国家が位置している。具体的には、イギリスに対するフランス、アメリカに対する旧ソ連。そうしたマハン流の地政学の考え方も取り入れる。そこが、一般的な左派系の思想家とは異なる点です。

 こうした領土の論理を重視する点は、デヴィッド・ハーヴェイと通じる部分です。おそらくハーヴェイ経由でネオ・マルクス主義的な地理学の考え方に触れたのでしょう。ハーヴェイは「空間的定位(spatial fix)」という言い方をしていますが、いったん空間的に定位すると、簡単にはそこから移れない。つまり、脱領土と言っても、場所や土地によって人間や社会のあり様はかなり違ってくるし、いくら資本が自由に動くと言っても、いったん投下されれば、そこから動くのは容易ではない。そうした意味では、彼はいわゆる地政学だけではなく地理学の観点についても、世界システム論の視点の中に取り入れたと言えます。このあたりは、アントニオ・ネグリとまったく違う点です。

 だから、地政学や地理学の観点を踏まえて、アメリカのヘゲモニーが徐々に衰退していく中で、次にヘゲモニーが移行していく先を考えると、やはり東アジア、その中でも中国ということになるわけです。こうした背景があるために、『北京のアダム・スミス』で中国の台頭を非常に重視した書き方になっているとも言えます。

 もっとも、『長い20世紀』の終章にあるように、アリギも一直線でヘゲモニーが中国に移行するとは考えていません。比較的すんなりと中国に移行していくというシナリオの他に、欧米がこれまでのヘゲモニーを維持するために同盟を組んで中国に対抗する、あるいは、ヘゲモニー競争のカオスに突入し、次の秩序が生まれるまで、下手すると世界戦争を含めた血みどろの戦いが支配する、そうした三つのシナリオを描います。


中国へのゲモニー移行をめぐって

 ただ、中国へのゲモニー移行という考え方については、アリギの世界観が大きく影響していることも見る必要があります。最初に触れたように、彼の世界観形成の原点にはアフリカ体験を通じた南北問題があり、そこから、いわば「南」の復活という意味で中国に過度の期待を持っている面があるからです。

 要するに、ヨーロッパで形成された資本主義のアジアへの浸透、つまり「ウエスタン・インパクト」よりも前に、すでに中国は大きな市場ネットワークを形成しており、それが今になって比再び開花している。たとえば、東南アジアをはじめとした草の根の華僑・華商ネットワーク、つまり中華世界の市場ネットワークが形成してきた長い歴史を見れば、そうした流れが潜在的に続いてきたと言えるのではないか、ということです。日本でも浜下武志さんをはじめ、社会経済史の研究者がこうした主張をしています。

 アリギが要点としているのが、先ほど紹介したようにブローデルの影響を受けた観点です。つまり、ヨーロッパ型の蓄積モデルとは異なる、水平的な市場関係に依拠した、より平等なグローバル秩序の可能性を、中国に見ているわけです。

 アリギによれば、歴史的に見て、ヨーロッパの資本主義には植民地支配が不可避だったけれども、ところが中国の場合、とくに漢民族の王朝は基本的に、チベットやウイグルなどの周辺部を除いて、資本蓄積に向けて領土を拡大するために海外へ進出することはなかった。その点で、中国の場合は基本的には、ヨーロッパ型の暴力に基づく原始的な蓄積、ハーヴェイの表現では「収奪による蓄積(accumulation with disposition)」とは違う蓄積、いわば「収奪なき資本的蓄積」(accumulation without disposition)の方向性を示している。そうした蓄積に基づく市場経済が世界大に広がれば、世界は従来よりも公正な政治経済秩序に変わっていくかもしれない。それは「南」にとって希望の星と見ることができるのではないか、ということです。

 ごく単純化しましたが、『長い20世紀』や、とりわけ『北京のアダム・スミス』では、こうした意味での中国期待論が色濃く現れています。中国に対するさまざまな批判を踏まえ、いわゆる労使紛争など多くの問題についても触れながら、その上でなお、水平的な市場ネットワークの重要性を中国に投影してみたかったのでしょう。

 もちろん、こうした見解には異論も多いと思います。中国の現状が、果たして水平的な市場に基づく関係と言えるのかどうか。たとえば、デヴィッド・ハーヴェイは今日の中国を新自由主義の一形態と捉えていますが、現在アフリカで行っているような資源確保のための進出などを見ても、従来の資本主義と質的に違うと言えるのか、大いに疑問です。歴史的な経緯と現在の中国政府の振る舞いとは分けて考えるべきかもしれませんが、現実には二つの側面は連動していますから。

 ただ、『長い20世紀』で言えば、初版の出た1994年当時は日本経済が失墜する前だったこともあって、「日本を先頭とする東アジア」という展望を記していたくらいですから、アリギの捉え方も時代状況によって変化している面がある。歴史社会学者の場合、よく見られることです。過去については非常に面白い解釈するのに、将来予測に関しては疑問に感じる事例は少なくない。その意味で、 彼の未来予測については差し引いて見るべきかもしれません。


金融拡大の現局面をめぐって

 最後の論点は、今日の金融拡大をどう捉えるかというもので、私自身が最も興味のある話です。アリギの議論によると、金融拡大は物質的な生産拡大が終わった時に生じます。マルクスの『資本論』で言えば、利潤を生む仕組みとして、いわゆる商業資本的なサイクルと、金融・金貸しのサイクルという二つのサイクルが考えられている。商業資本的なサイクルの場合は、物質的な生産拡大の段階で拡大していき、やがて飽和状態になると金貸しのサイクルに移って金融拡大。ヘゲモニーが終焉に向かう時には、だいたい金貸しのサイクルに移行するわけです。たとえば、イギリスの場合は、「世界の工場」と言われた時代から、ヘゲモニーが衰退するにつれて金融センターとしての「シティ」を軸とする形に移っていきました。アメリカも80年代以降はイギリスと同じような状態になって、金貸しのサイクルに移行し、金融拡大が進行した。その意味では、アリギが主張する通りのサイクル間移行があったことは間違いありません。

 ただし、アメリカのヘゲモニーの衰退に伴う金融拡大の現局面をどう捉えるのかについて、アリギの見方には批判も少なくありません。この点では、たとえばクリスティアン・マラッツィといった一部のイタリアの批判的な政治経済学者が興味深い議論をしています(註4)。簡単に紹介します。まず、現在の資本主義はポスト・フォーディズム段階に入って、新しいタイプの認知資本主義、つまり知識生産というものとリンクした形でのファイナンシャル・レント(単なる利子とも異なる金融的地代)が非常に重要になっているという認識があります。たとえば、アメリカの金融拡大でとくに質的な転換点は、年金などがいわゆる投機市場と連結したことです。つまり、我々の生活そのものが金融資本の、ファイナンシャル・レントの餌食になり、不安定さが増していくという傾向がある。これは従来にないものでしょう。金融拡大と一言で言えない、何か新しい質の金融ガバナンス(統治)に突入しつつある、そういう意味で新しい金融拡大の時期に入ってしまっていると捉えられるわけです。

 ネグリも基本的に新しい局面に入っていると見ている。だから、いわゆるフォーディズム期の労働運動については軽視して、金融システムの新たな質的変化を過大に強調する傾向がある。それと比べると、アリギの議論は、金融システムそのものの質的変化の重要性について、晩年にはそれほど強調しなかった。いまの状況を見たらどう考えたか、考え方が変わったのか、興味のあるところです。私自身は、金融拡大の現局面を考える場合、マラッツィなどの方が的を射ていると思います。

 先ほど触れたように、金融工学といったものが発達し、金融市場とわれわれの年金やローンなど全てが統合され、ファイナンシャル・レントそのものが一種の地代として内部化され、不可欠になってしまった結果、事態としては金融拡大は終わっても、ファイナンシャル・レントによって世の中が回るシステムそのものは変えられない状況になっている。だからこそ、破綻した金融機関に次から次に税金を投入しなければならないわけでしょう。たしかに、アリギの言う、長いサイクルで繰り返されている金融拡大局面と次のヘゲモニーという部分は間違っていなだろうけれども、そのシステムの質が大きく変化してきているという点は捉え切れていないように思います。


安全保障と「みかじめの論理」

 もう一点、彼の議論にある、軍事的なヘゲモニーと経済的なヘゲモニーの連関をどう捉えるのかという問題について、日本の安全保障を例にとって、「みかじめ料(protection racket)」というものを軸に考えたらどうなるか、私の論文に沿って補足しておきます(註5)。

 ホッブズの契約論に見られるように、そもそも安全保障の論理自体が、基本的には「守ってやるから従え」という「みかじめの論理」と考えられます。それを行うのが慈悲深い支配者である限りは、そんなに大きな問題にはなりませんが、ヘゲモニーが失墜し、だんだん余裕がなくなってくると、慈悲深い支配者も無慈悲な支配者になってくる。そういう端境期に起きたのが、まさしくアフガン・イラク戦争ですね。

 こうした状態を、アリギはインドの歴史学者ラナジット・グハの言葉を使って、「ヘゲモニーなき支配(domination without hegemony)」と名付けています。いわゆるグラムシ的なヘゲモニーが欠落した同意なき支配、言い換えれば赤裸々な権力=武力による支配ですね。ヘゲモニーが失墜する中で、アメリカは基本的にこの路線に入っていく。その中で、日米安保はどう位置づけられるか、ということです。

 日米安保は基本的に「みかじめの論理」で成り立っています。「日米同盟」と言われたりしますが、非対称的な同盟であって本当の同盟ではない。まさに「保護してやるから言うことを聞け」ですね。敗戦によって、日本は事実上アメリカの従属的同盟国になったと言えますが、さらに沖縄もいわば日本の従属的同盟国として連鎖している。だからこそ沖縄の基地問題があるわけです。

 そうした中で、アメリカのヘゲモニーが衰退してくると、日本としてはアメリカのヘゲモニーに魅力を感じなくなる一方で、アメリカとしてはヘゲモニーを維持するためにも「みかじめの論理」に固執するようになります。みかじめ料の取り立ては厳しくなるし、従わなければしっぺ返しも厳しくなる。こうした形で、「同盟」関係が徐々に揺らいできていると思います。

 「みかじめの論理」がうまく機能していたのは、言うまでもなく冷戦期です。つまり、朝鮮戦争からベトナム戦争にいたる戦争が現に存在し、火の粉がいつ飛んでくるか分からない。もちろん、その背景には、民族解放闘争や社会主義運動の隆盛がある。日本国内でも、1950年代から60年代にかけては、革命が起きかねない状況だった。だからこそ、アメリカにさまざまな負担をさせられ、みかじめ料を取り立てられても従順に従い、その見返りに援助や投資が落ち、それをテコに高度成長化していく好循環があったわけです。

 ところが、冷戦が終わり、アメリカのヘゲモニーが失墜するにつれて、こうした好循環は破綻していきます。日本では、いまだに北朝鮮や中国に対する脅威論を背景にして日米「同盟」を堅持しようとする考え方が強いですが、世界全体で見ると、大きく揺らぎが出てきている。とくにラテンアメリカでは、2003年にプエルトリコ、09年にはエクアドルといった形で、いわゆる反米軍基地運動が拡大した。韓国でもそうです。アメリカのみかじめの威力は、確実に落ちてきています。

 繰り返しになりますが、金融拡大が終焉期を迎え、アメリカのヘゲモニーが衰退の過程に入り、そのヘゲモニーを支えてきた、「みかじめの論理」に基づく非対称的な同盟関係が揺らいでいる。その一つの現れとして、世界各地での反基地運動があり、とくに日本の場合、政権交代という偶発的な条件が絡んで、より前面に出てきたのだと言えます。その意味で、やや強引かもしれませんが、日米安保の問題や沖縄の基地問題についても、アリギの長期的な視点から捉え返すことができると思います。

 ただ、先ほど触れた三つのシナリオと一緒で、この後どうなるか、断言はできません。シナリオの一つにあったように、仮に米中間が相克状態になったとすれば、日本は当然その中に巻き込まれていくわけですから、それほど楽観的に、脱基地ですんなり行くとは言えませんが、少なくとも以前よりは状況がオープンになってきている、今後の方向性をめぐる選択肢が広がりつつある時期にさしかかっていることは間違いないと思います。


ヘゲモニーの危機と可能性

 最後に、アリギの議論とは直接関連しませんが、金融拡大の局面をどう捉えるかという問題と関わって、これも別の拙稿の内容に沿う形で金融資本への規制強化を求める草の根の運動(いわゆるglobal justice movement)の持つ意味について触れたいと思います。(註6)

 金融拡大の終末期、とくに今回のようなグローバルな金融危機を受けて、現在生じている状況は、カール・ポランニーが「二重運動」と呼んだような事態、つまり規制緩和が行きすぎたために、社会防衛という反応が現れている状態です。たとえば、オバマや民主党政権は、公的資金をつぎ込んでケインズ主義的な経済政策を重ねると同時に、金融の規制強化を行っている。これはアリギの言うように、一つのサイクルと見ることができるかもしれません。

 ただ、この動きには二つの流れがあると思います。一つは、これまでの新自由主義的な金融政策と本質的に変わらない、いわば金融市場の安定のための規制強化です。たとえば、世界経済のガバナンスについて協議する枠組みとして、これまではG7(先進7ヶ国)やG8(主要8ヶ国)がありましたが、最近では中国やブラジル、インドや南アフリカなど新興国を含めたG20(20ヶ国)も設立され、ここで主要な方向性が決まるようになってきています。世界の金融ガバナンスについても、これまでは主にIMF(国際通貨基金)が舵取りをしてきましたが、90年代以降、たとえばFSF(金融安定化フォーラム)のように、新たな国際機構が必要になってきます。つまり、ヘゲモニーが失墜しているために、メンバーを増やしたり新たな枠組み作ったりして、従来のガバナンスを補完する。そうした形で金融の規制強化の動きが生じているわけです。

 もう一つ、グローバルな金融ガバナンスそのものを変えようという議論もあります。たとえば、フランスのATTAC(註7)などから出された国際的な通貨取引への課税、いわゆる「トービン税」の導入です。もともと金融市場の安定化のために構想された面が大きいトービン税ですが、98年にATTACが設立されて以降は、グローバルな金融秩序の変革とともに、貧困や飢餓の撲滅、教育の促進といった世界的問題の解決に向けた資金の調達という面が強調され出した。いわば、下からグローバル金融秩序を変えていく動きです。

 おもしろいことに、そうした動きに合わせて、それに便乗するカウンターヘゲモニーが出てきました。一つは、フランスとブラジルが中軸になって、2002年あたりから現れ始めたものです。もう一つは国連です。当時のアナン事務総長などが、MDG(ミレニアム開発目標)(註8)を達成するための財源として国際連帯税を導入しようと呼びかけました。それに連動する形で、フランスではシラク大統領の肝いりで、2004年から05年にかけて導入に向けた具体的な動きが始まった。最初に手掛けたのは国際線の航空券に課税する航空券税ですが、現在では、まさしく通貨取引税を含め、投機的な金融活動そのものに規制をかけ、金融市場の安定化にとどまらず、グローバルな再分配に繋げていくようなところまで射程に入れているようです。

 こうして、フランスやブラジルを筆頭に、アフリカのフランス語圏の諸国などが連携を組み出しました。アジアで最初に加わったのは、韓国とカンボジアだけです。最近になって、スペインや南アフリカ、日本なども加わり、カウンターヘゲモニーのブロックのような集まりができてきました。日本は、自民党政権時代はまったく興味を示しませんでしたが、民主党政権に変わってから積極的になったようです。

 こうした動きがどこまで進むのか、どれほど効果を発揮するのか、決して楽観視はできません。しかし、一定の変化が生じつつあるのは事実だと思います。たとえば、一昨年のG20ピッツバーグ・サミットで、ドイツの財務大臣が通貨取引税の導入を提起したり、それを受ける形でイギリスの金融当局のトップ「金融サービス機構」のターナー会長がトービン税に賛同したという記事が新聞に出ていました。このように、オルター・グローバリゼーション運動とカウンターヘゲモニーブロックの力によって、従来の新自由主義的な金融支配体制そのものが、少しずつ変化する兆しが生じていると思います。

 言い換えれば、金融拡大の終焉期に入り、ヘゲモニー危機になっているからこそ、金融ガバナンスそのものを変えるチャンスが生じているわけです。ただ、オルター・グローバリゼーション運動のような草の根だけでは事態は動きませんから、フランスやブラジルなどのカウンターヘゲモニーブロックが連動する形が望ましい。フランスとしてはアメリカやイギリスに意趣返しをしたいと思っているのでしょうが、そのお陰で、現実の政治過程の中で少しずつ変化の兆候が現れているわけです。こうした動きが今後どうなっていくのか、大きなポイントだと思います。

 もちろん、こうした再分配の強化について、単に現状を維持するだけで無意味だ、といった意見もありますが、逆に、再分配さえなくていいのか、疑問です。たとえば、日本で平均寿命が約80歳なのに対して南部アフリカでは約40歳という、どう考えてもアンフェアな状況が存在する。あるいは、地球上で一年間に数億人が餓死していると言われている。決して食料が足りないわけではなく、分配の問題なのは明らかです。だから、最低限、再分配のシステムを構築する方向に向かわなければならない。

 金融拡大の終焉期だからこそ、かつてに比べれば、金融活動に対する規制強化を通じて、そうした方向に向かう可能性も高まっているし、実際にその兆候は現れている。今後それがどう進むかは、我々の力量にかかっていると言えるでしょう。       (文責は当研究所にあります)


【註】
 (1)The winding paths of capital、『ニューレフト・レビュー』第56号、2009年4/5月。デヴィッド・ハーヴェイは『新自由主義―その歴史的展開と現在』(作品社、2007年)の著者。

 (2)1902年~85年。フランスの歴史学者。経済や地理的条件が世界史に果たす役割に注目し、歴史の構造分析を重視する社会史を提唱した「アナール学派」の中心人物。

 (3)「イギリスの平和」。19世紀半ばから20世紀初頭の大英帝国の最盛期、イギリスの覇権による「平和」を示した表現。

 (4)クリスティアン・マラッツィ『資本と言語―ニューエコノミーのサイクルと危機』人文書院、2010年。

 (5)土佐弘之「非対称的同盟における見ヶ〆(みかじめ)の政治」『法律時報増刊:安保改定50年―軍事同盟のない世界へ』(日本評論社、2010年)所収。

 (6)土佐弘之「グローバル・ジャスティスの政治―金融拡大局面終焉期における規制強化を中心に」加藤哲朗・丹野清人編『民主主義・平和・地球政治(21世紀への挑戦)』(日本経済評論社、2010年)所収。

 (7)アタック。新自由主義グローバリゼーションに対抗し、「もう一つの世界」を求める市民運動。フランスで生まれ、日本を含む世界各地に組織がある。

 (8)2000年9月の国連ミレニアム・サミットで採択された「国連ミレニアム宣言」と、90年代に開催された主要な国際会議やサミットで採択された国際開発目標を一つの共通の枠組みとしてまとめたもの。平和と安全、開発と貧困、環境、人権などをテーマに、2015年までに達成すべき8つの目標を掲げている。



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