●加々美光行『中国の民族問題ー危機の本質』
岩波現代文庫、2008年
●当日の模様
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活動報告―アソシ研懇話会

歴史を通して見る現代中国
加々美光行さんを囲んで(下)

 この間、世界における中国の存在感がますます大きくなる一方、それをどう捉えるかについては議論百出の状態にある。ただ、いずれにせよ、1949年以降の中国とくに中国共産党の動きを踏まえ、歴史的な経緯を通じて現在を見ることが重要だろう。そこで、去る7月31日、中国現代史に造詣の深い加々美光行さん(愛知大学現代中国学部教授)にお話を伺った。前号に引き続き、以下にその概略を紹介する。内容に関する文責は、当研究所にある。


「党内左派」と民主化運動

 今日の中国では、経済面では決定的にブルジョア化し、一般の資本主義諸国よりも資本主義的な体制になっているにもかかわらず、政治面では依然として中国共産党の独裁が続いており、そうした政治面での独裁と経済面での野放図な資本主義的発展とが相まって、汚職腐敗という現象の深刻さがますます深刻化しています。ここに最大の問題があります。したがって、問題を克服するには、少なくとも政治の民主化を達成していく必要があると考えます。

 こうした政治の民主化に対する問題意識は、実は1988年、89年段階で「党内左派」と呼ばれる人たちの中に形成され、かなり多くの民主派が登場してきていました。先に触れたように、毛沢東は『新民主主義論』において民主という概念を資本主義と結びつけ、いわゆる「ブルジョア民主主義」の範囲を超える民主主義については考えていなかったわけですが、そうした限界を打ち破るものだったと言えます。『万言書』を書いた李延明も、そして李延明を紹介してくれた僕の親友も、実は党内左派であり、しかも80年代の民主化運動を支えた人々だったのです。

 こうした人々は旧来の左派ではなく、民主化を達成しようとする強い目的意識を持った新しい左派、つまり「新左派」です。それが、共産党の中でも左派と言われる陣営の中に、かなりの数で存在していました。僕は一時期、「隠れ左派」と呼んだりしました。一言で特徴づければ、旧紅衛兵世代です。文化大革命の時代に紅衛兵だった世代は、だいたい僕と同じくらいの年齢で、現在は60歳の半ばから70歳近くになっています。これらの旧紅衛兵世代は、社会主義やコミューンの理想を全面的に放棄したわけではなく、また毛沢東を全面否定したわけでもありません。もちろん、毛沢東が過ちを犯したことは完全に認めていますが、コミューンの理想まで全面否定すべきとは考えません。旧紅衛兵世代には、そう考える人たちが相当います。

 彼らが最初に行動を起こしたのは、1989年6月4日の六四天安門事件から遡ること13年前、1976年4月5日に起きた第一次天安門事件です。この際、人数は明らかにされていませんが、百万人近くが参加したと言われ、その大部分が旧紅衛兵でした。文化大革命で主導権を握った「四人組」を打倒する闘争へ発展し、結果的に鄧小平の復活、ひいては改革開放政策をもたらすきっかけとなった第一次天安門事件、それを実行したのは文化大革命の実行部隊たる旧紅衛兵だったのです。こうした人々が、その後、80年代に入って民主化運動を担い、支えていくようになります。

 たとえば、80年代の民主化運動の最初期に活躍した魏京生は、北京の紅衛兵組織の中で最もラディカルなセクトの指導者の一人でした。あるいは、日本でも知られた『李一哲の大時報』、これは1974年11月に広東省広州市の街頭に張り出され、中国民主化運動の先駆けになったと言われる大時報(壁新聞)ですが、その執筆者の一人である王希哲も、広東における紅衛兵組織のリーダーの一人でした。

 他にも多くの例がありますが、いずれにせよ1980年代初頭、中国の第一次民主化運動を支えた世代は旧紅衛兵世代なのです。彼らは、かつては毛沢東思想を掲げて激しい造反運動を担いましたが、自らの思想と行為を総括する中で、民主主義とは何か、何が民主化なのか、よく理解していなかったこと、そのために文化大革命の過程で大きな悲劇が生まれたことについて、深刻な自戒の念を抱えました。それが動機となって、80年代以降の民主化運動を支えていくことになるのです。


「社会権」の獲得としての民主化運動

 それに対して、89年の六四天安門事件(第二次天安門事件)は旧紅衛兵世代ではなく、89年当時に北京大学、北京師範大学、中国人民大学など北京の主だった大学に在籍していた大学生が担い手でした。彼らには、社会主義に対する深い理解がなく、社会主義イデオロギーも極めて弱い。しかし、それ以前の旧紅衛兵世代は、どこまで深く理解できているかはともかく、社会主義の思想やイデオロギーに対する極めて強烈な思いを持っています。その社会主義に対する強烈な思いが、民主化の追求につながっていった。『万言書』を書いた李延明も彼を紹介してくれた僕の友人も、そうした人々です。

 こうして始まった80年代の民主化運動が、最終的に六四天安門事件を引き起こしたことについては、ご承知の通りです。私の考えでは、六四天安門事件は、次のような三つの力が働くことによって生じました。一つは、大学生も含めた知識人の中に民主化要求の言説が現れ、しかも言説にとどまらずに運動が生まれたことです。二つは、農民や労働者、地域の住民が生存や就業の権利、医療・福祉を受ける権利を侵害された結果、一般に「社会権」と呼ばれる諸権利を求めて、暴動や争議、紛争が発生したこと。三つは、そうした動きを受けとめる共産党内の勢力が台頭していたこと。これら三つの条件が揃うことで、六四天安門事件のような革命に近い事態が生じたのです。

 六四天安門事件の注目すべき点は、天安門を中心にして百万人を超えるデモ隊が登場したことです。そこには、共産党体制の一翼を担う労働組合(工会)や、イデオロギー機関である中共中央党校の教員、学生まで参加しました。もちろん、労働者も近郊の農民も、あらゆる層が参加しました。そうでなければ百万人を超える巨大なデモは成立しません。いくら旧紅衛兵世代や学生たちが声高に叫んで運動を起こしても、「言論、集会、結社の自由」つまり「自由権」の獲得としての民主化を要求している段階では、現実を変えるような運動にはなりません。しかし、そこに「社会権」の獲得としての民主化という要素が加わることで、共産党の根幹を揺るがすものとなり得たのです。

 ここで、あらためて自由権と社会権について説明しておきましょう。1948年の第3回国連総会で「世界人権宣言」が採択され、その18年後の66年には、第21回国連総会で「国際人権規約」が採択されます。同規約は、通称「A規約」と言われる「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」と「B規約」と言われる「市民的及び政治的権利に関する国際規約」から構成されています。つまり、A規約にある社会権とB規約にある自由権は、相互に不可分なものとして人権を構成していることが改めて確認・強調されたわけです。

 その背景には、流血の犠牲を伴ったアメリカにおける黒人公民権運動の経験がありました。ご存じのように、1862年にリンカーンが奴隷解放令を発表したことで、アメリカの黒人は奴隷から一般市民になり、公民権を獲得したはずでした。ところが実際には、それ以降も黒人はさまざまな差別に苦しめられました。白人主導の社会によって日常生活に不可欠な就業、教育、医療・福祉などの場面からことごとく排除され、「社会権」を全く与えられなかった。奴隷解放令によって「言論、集会、結社の自由」つまり「自由権」は形式的に与えられていても、社会権が全面的に剥奪された状態では、自由権は実際には意味を持ちません。1950年代から60年代にかけて、流血の犠牲を伴って闘われた黒人公民権運動は、この事実を白日の下にさらしました。そうであるが故に、1966年の国際人権規約は、自由権と社会権が不可分一体の関係にあることを確認・強調したわけです。


六四天安門事件に至る道

 中国の場合も同じです。知識人や学生がいくら自由権の獲得としての民主化を叫んでも、農民や労働者にとって有り体に言えば「なんぼのもんだ」ということになる。労働者からすれば、いつでも簡単に首を切られたり、労働災害にあっても何の保障もないような無権利な状況に置かれていることの方が、より重要な問題です。そうした状況を解決せずに、何が言論の自由だ、集会の自由だ、ということになる。実際、80年代に行われてきた民主化運動は、社会権の問題をほとんど提起できませんでした。だから、学生・青年は数多く参加しながらも、農民や労働者、地域の住民と一緒になって闘うような民主化運動には発展しなかったのです。これに対して、六四天安門事件は、学生たちが「官倒」つまり官僚腐敗の問題を取り上げたことで、社会権の問題に触れることになり、その結果として広範な人々の参加へとつながっていきました。

 実は、官僚腐敗の問題について党の最高幹部の中で最初に問題を提起したのは、亡くなった胡耀邦でした。彼は1986年8月の河北省北戴河における中央工作会議で、党の長老たちを目の前にして、官僚腐敗こそがあらゆる民衆抑圧の根源であり、腐敗はまさに党中央、政治局の中にある、と言ったのです。この発言は当然にも、長老たちから激烈な反撥を招きました。その結果、胡耀邦は、同時期に生じていた学生たちの民主化運動に関する対応の手ぬるいと見なされたことも含め、保守派や長老たちから総攻撃を浴び、翌87年1月に共産党総書記の職責を剥奪され、失脚に至ります。これが六四天安門事件の伏線になります。

 ご存じのように、六四天安門事件は学生たちによる胡耀邦の追悼行動から始まりました。胡耀邦は、失脚してから約2年後の89年4月に亡くなりますが、香港の月刊雑誌『争鳴』が死の間際の模様を報じました。それによると、胡耀邦は89年4月に行われた中央政治局の会議に出席した際、教育問題が議題だったにも関わらず、腐敗の問題について突然議論を始めた。それに対して、議長の李鵬が、汚職腐敗の問題は本日の議題ではない、と激しく反論し、激論になった。その最中に胡耀邦は興奮して倒れ、搬送先の病院で亡くなった、と言われています。こうした『争鳴』の記事が北京の学生たちに伝わった結果、学生たちは胡耀邦を追悼すると同時に、中共中央の腐敗を暴露する壁新聞を張り出しました。北京の民衆はこれに喝采し、学生たちの行動に合流するようになったのです。

 一口に「官僚腐敗」と言いますが、高級官僚はもちろん末端の役人まで、日本で言えば区役所の窓口に至るまで腐敗が浸透している。袖の下を渡さなければ、何事も進まないような状態です。教育の問題であれ、就業の問題であれ、福利の問題であれ、何の問題であれ、何か役所を通さないといけないことがあれば、窓口の官僚に袖の下を使わなくてはならないところまで来ていた。その意味で、腐敗の問題は社会権に大きく関わっていたのです。そうした状況は、現在でもさほど変化していないはずです。


社会権を求める民衆の奔流

 以上が民主化運動の基本構造と言えますが、現在の中国で問題なのは、社会権の問題と自由権の問題がばらばらになっていることです。たとえば、今日の中国では、労働争議や農民暴動や住民紛争に関わっている人々は、年間でおよそ600万人と言われています1994年には75万人くらいしか参加していなかったのに、2010年の段階で600万人近くが農民暴動や労働争議や住民紛争に参加している。現状では個々ばらばらに行われているために政権の危機にまで至ってはいませんが、それらがすべて結集すれば、おそらく共産党はたちまち瓦解するでしょう。こうした社会権を求める強烈な民衆の運動、権力側から見れば社会の安定を乱す不穏な運動を放置していていいのか、そうした声が共産党の中で大きくなっています。

 共産党の指導部でそうした声を反映して動いているのが、首相の温家宝です。彼は歴代首相の中でも非常に腰が軽く、大きな災害や事故が起きたりすると、すぐに現場に駆けつけます。党内に「大衆迎合主義」「ポピュリスト」という批判があるくらいです。にも関わらず、現状を放置できないという危機意識から、そうしている。それに対して、胡錦濤国家主席は中間的立場で、あまり明確な態度をしません。だから、中共中央の内部では、温家宝に対する支持勢力と批判勢力が半々ぐらいになっています。

 一方、この間、知識人の間では「新左派・新自由主義」の論争が行われています。この論争について簡単に言うと、中国は党や国家の官僚によって自由主義市場経済の徹底化が妨げられており、そのことによって腐敗が生まれている、というのが新自由主義の立場です。いわゆる西側諸国のように市場経済を徹底すれば、党の腐敗や堕落は克服できるという主張です。それに対して、新左派は自由主義市場経済そのものを問題にします。自由主義市場経済の進展によって貧富の格差が拡大し、腐敗などが生じる原因が生まれている、との立場です。だから、むしろ国家介入の強化によって、あるいはハーバーマスの言う公共圏の強化などによって、それに対処すべきだと主張しています。

 いわば、自由権のあり方をめぐる論争と言えますが、その中で、とくに新左派によって、労働者の運動や農民の運動について問題提起がなされています。しかし、テーマとしては取り上げられてはいても、一連の論争と現実の労働争議や農民暴動とは、結びつくどころか、実態としては何の関わりも持ちえていません。さらに、党中央の内には、社会権を求める民衆の動きを取り上げる新左派の論調を受けとめる勢力は、直接的人脈としてはまったく存在していない。これが80年代との決定的な違いです。だから、どれだけ農民暴動や労働争議について取り上げて侃々諤々の論争をしても、中共中央は何も怖くない。安心して「新左派・新自由主義」論争を放置し得ているのです。

 それに対して、むしろ弾圧されているのは、実は党内左派なのです。たとえば2001年には、党内左派が依拠する『真理の追求』と『中流』という二つの雑誌が、中共中央の命令で突然停刊になりました。その一方で、「新左派・新自由主義」論争の中で新左派が依拠する雑誌『読書』は全く停刊になっていません。その違いは何故なのか。僕が見るところ、現状では明らかに中国の内部に民主化への胎動が起きている。ただ、党内左派を含めた党内における民主化支持のグループが、600万人近い農民や労働者や住民の社会権を求める運動に、直接的に参加したり、あるいは支援したりすれば、流血の事態を伴う党内闘争を引き起こす可能性がある。実際、中国の政治は、まだそうした要素を残しています。それが一党独裁の一つの現れですが、そうであるが故に、党内闘争に波及しかねない動きについては極度に敏感になるわけです。逆に、そこを超える道が開かれれば、一党独裁に代わって多党制が許容されるような状況が来るかもしれません。

 とはいえ、現時点で600万人もの民衆が社会権を求める運動に参加しており、さらに1000万、1500万、2000万と増えても不思議ではない状況にある中で、何の変化も起きないと考える方が不自然でしょう。いつか大きな変化が起きてくるのは間違いありません。そうした兆候に対応しようとする党内の良心的な声も現れ始めており、温家宝がそうした声を反映しているのは、先に触れたとおりです。この点は民族問題にも深く関わってきますが、実はそれらの根底に中国における開発至上主義の問題がある。

 たとえば農地の強制収用や住宅の立ち退き、労働者の権利の侵害など、民衆のさまざまな社会権にたいする侵害の根幹にあるのが、開発至上主義なのです。もちろん、成長率が10%にも達するような、現在の中国の高度な経済発展を可能にしているのも開発至上主義です。しかし同時に、その開発至上主義が600万人にも及ぼうとする民衆の社会権を求める運動を引き起こしてもいるのです。それゆえ、この点に触れないわけにはいきませんが、今日は中身について話す時間がないので、とりあえずの指摘にとどめたいと思います。


社会主義放棄の内実

 
【質問】中国共産党が「社会主義」の看板を掲げていることに関連して、土地の公有制などを根拠に私有財産がないと主張する人がいます。この点について、どうお考えですか。

 【加々美】それは、すでに解決済みの問題です。というのも、たとえば土地で言えば、所有権と使用権を分けて、使用権については相続も売却も可能だし、使用権といっても数十年単位で設定されているため、実質的には所有権と変わらないからです。

 たしかに、形式的には所有権は公有なので、最後は取り上げられるのではないか、バブルが弾けたり大きな経済危機になれば、中共中央の命令で、国家が所有権を取り上げるのではないか、と言う人もいます。しかし、そう思う人が多ければ株は暴落するはずです。中国の市場経済はとうてい維持できません。だから、そうした議論は形式的な意味しか持たないと思います。

 この問題は、もともと農家請負責任制が出てきたとき、土地の権利を田底権と田面権の二つに分けたことから始まっています。田底権が所有権、田面権が使用権。当時は、そうしなければ農家請負責任制ができなかった。現在では「物件法」まで成立しており、土地や建物の使用権は私的所有権として認められることになっています。たとえば、マンションを買ったら物件として所有権が認められる。仮に認められず、相続の対象にならないなら、金や宝石に換えればいい。抜け道はいくらでもあります。

 『万言書』の李延明が「実態は資本主義だ」と批判したのは、使用権と所有権と分けた時点で実質的には公有制を放棄したと言っているわけです。


中国における開発至上主義の問題

 【質問】三点ほどお尋ねします。一つは、李延明が『万言書』で、社会主義の理想に立ち返るべきだと言う時の社会主義は、どういうイメージなのか。二つは、開発至上主義の問題です。現在、これ以上開発すれば地球が崩壊するという危機意識が世界的に拡大し、資本主義的な発展とは異なる発展のあり方について模索が行われています。中国は明らかにアメリカや日本の後追いですが、中国内部で開発や発展の中身をめぐる議論は起きているでしょうか。三つは、社会権を求める民衆の運動に関連して、中国の民主化が進展するためにどう連帯すべきなのか、僕たちが連帯すべきなのはどんな勢力か。以上、ご教示いただければと思います。

 【加々美】党内左派も含め、現在の中国の路線を批判する人が持っている社会主義のイメージは、一つは公共の概念を軸にしたものです。ハーバーマス的な公共圏の概念が、彼らの思考の中核にあると思います。最終的にはコミューン的なものを目指しているでしょう。

 ただ、それを所有の領域まで進め、公有制に戻すべきか否かについては、同じ左派の中でも大きな考え方の違いがあります。たとえば、かつての人民公社には女性の平等を促進したり、高齢者の面倒を全体でみたりするような公共的な機能があったから、そうした機能を再度復活させようという考え方がある。ただ、その場合に公有制を基礎としなければ成り立たないと考えるか、公有制を基礎にしなくても、既存のコミュニティの中にコミューン的な要素を拡充していけば、社会権に関わる多くの問題が解決できると考えるか。そうした違いはありますが、公共ないし公正という概念を重視する点は同じです。

 そうしたイメージにリアリティを与えるような動きもあります。三つ目の問題と関わりますが、たとえばさまざまなNGO(非政府組織)のグループです。中国では現在、「八〇后」という言い方があります。1980年代以降に生まれた「ポスト80年世代」を指しますが、この世代は非常に社会活動が旺盛です。NGO活動を担っているのは、ほとんど「八〇后」世代でしょう。NGOは中央政府が公認したもので25万団体くらいあります。公認を得ていないものも同じくらいあり、合わせれば50万団体ほどになります。世界的に見ても突出しているのではないでしょうか。活動内容は、環境・公害問題をはじめ、エイズ問題など多岐にわたっています。たとえば貴州省などでは、エイズ感染で一つの村落が消滅しそうになっているところもある。そうした現場に入っていき、場合によっては地方政府や中央政府と対立しながらエイズ患者の支援を続けている。

 彼ら自身は、農民暴動を起こす農民や労働争議を起こす労働者と比べれば、必ずしも簒奪されている社会層ではありません。しかし、そういう暴動を起こしたり、争議を起こしたり、訴訟を起こしたりしている人々に、NGOとして支援を続けていることも確かです。彼らは行動面では非常に慎重で、言い換えれば非常に賢い。というのも、かろうじて89年の六四天安門事件の記憶が残っているので、もし自分たちが直接行動に立ち上がったり、表立って結集したりすると、たちまち弾圧を受けることがわかっている。だから側面から支援する。非常にしたたかな面を持っています。その意味で、連絡を取れば相当実りがあると思います。一方、それがポスト90年代の世代になると分かりません。いまの大学生には、六四天安門事件の記憶はほとんどない。そうした面も含めて、ポスト80年代からポスト90年代への社会的な問題意識の継承が課題になると思います。

 開発至上主義について言えば、たとえば一昨年の「リーマンショック」を受けて、中国では人民元で4兆元(日本円で約60兆円)という、アメリカの景気刺激策を超える巨額の財政支出が行われました。ただし、その大半が開発投資でした。そこに最大の問題があります。開発投資ではなく、もっと社会権に密着した、社会福祉や雇用、あるいは農業・農村・農民問題(三農問題)に対する支援として行われていれば、社会的矛盾はある程度解消できるほど巨大な額です。しかし実際には、それが開発投資とされたことで、たしかに経済成長は高い度合いを示していますが、かえって開発に伴う社会的矛盾が高まり、暴動や争議が激化しているのが現状です。

 開発至上主義の問題を振り返ると、1986年12月の国連総会決議で、発展途上国における人権の確立には、国際社会が「発展の権利」を承認しなければならないとする「発展の権利に関する宣言」が採択されました。1991年、六四天安門事件で批判を受けていた中国は、批判をかわすために出版した中国初の人権白書で、これをうまく使ったのです。つまり、人権を確立するためには発展しなければならない、中国は発展権を持つ、と明記しました。翌92年に鄧小平が有名な南方視察講話を行い、それをきっかけに中国は高度成長に突入するわけですが、そこで鄧小平が主張したのも「発展は動かしがたい道理だ」、つまり発展について外からとやかくは言わせない、ということでした。これが今日の開発至上主義につながってきます。

 ところで、「発展の権利」は英語でright of developmentと表現されます。ここが問題です。developmentは「発展」とも「開発」とも翻訳できます。僕は中国の友人たちとシンポジウムをした時に、中国人は発展と開発をまったく同じ概念と捉えているが、開発と発展は決定的に違う、と言いました。発展は基本的に自動詞だから目的語はいらない。誰だって発展する権利はある。しかし、開発という場合には、開発されるものと開発するものがいる。開発資本は外からやってきて、土地を買収したり、農民に強制的な立ち退きを命じたり、環境破壊もお構いなしに平気で山や土地を切り開いたりする。地元の住民や農民が開発の担い手になることはありません。そこに「開発」概念の根本的な問題があるというのが、僕の意見です。ところが、現在の中国では、それらが発展の権利という概念で一括りにされており、そこから開発をより分けて、批判的に見る視点がありません。そこに最大の問題があると言ってもいい。

 中国はいまに至るも、自らの開発至上主義を、発展途上国には発展権(right of development)があるとした国連総会の決議で根拠づけている。また、鄧小平が92年に「発展は動かしがたい道理だ」と言ったことを根拠にしている。しかし、もはやそんな時代ではない。developmentを開発として無条件に肯定する考え方は経済成長至上主義であり、10%近い経済成長率がもたらした負の側面を反省する余地を与えないのです。この点を根本的に見直していかなければ、どのみちいずれは政治的民主化は避けられないわけですから、その際に民主化に向けたソフトランディングできず、ハードランディングが起きてしまう可能性を高める結果になってしまうのです。  =終わり=




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