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市民環境研究所から

農薬問題で共に闘った同志の死


 例年にない酷暑が続くこの8月、真夏日も熱帯夜もない日を探す方が簡単である。老人や病人にはとりわけ厳しく、秋には疲労が噴き出し命を縮める例もあるだろうから、古希を迎えた我が身も無理をせずに毎日を過ごしたいと思っている。

 こんな会話を友人と電話で笑いながら交わした翌日に、悲しい報せがもたらされた。これほどまでに一緒に仕事をした人はいないと言える同志の死である。年齢は一回り上の大先輩だが、同志や盟友と呼ばせていただいても叱られないだろう。元大阪大学講師であり、退職後は市民が創った環境監視研究所の初代の所長になられた中南元さんが7月末に逝去されており、お葬式が終わったあとにご家族から研究所へ連絡があったという。兵庫県三田市の方角に向かってお別れをした。

 高校野球の甲子園大会のテーマ曲が流れ、硬球を打つ金属音と大歓声がテレビから流れる夏休みの学生用大実験室で、中南さんと筆者は必要最低限の言葉は交わすが、ひたすら水や魚から農薬を抽出し、分析する作業を連日続けていた。1970年代後半の毎夏のことである。農薬分析用の実験室がなかった二人は、京大農学部の学生実験室を借用していた。とくに、学生がいなくなる夏休みは、かき入れ時とばかりに休日なしで分析に励んだ。対象の農薬は塩素系農薬全般で、とくに水田用除草剤CNP(商品名MO)がターゲットだった。この農薬は1965年から1996年まで、全国の水田用除草剤の3分の1を占めるほど大量に使用された。北は北海道から南は九州までの試料を相手に、猛暑日をものともせず、仕事をこなした。

 この作業の中で、生物学出身の筆者は分析化学専門の中南さんから分析作業のノウハウを学んだ、というより盗んだ。この仕事はCNP追放の基礎となり、その後この農薬にダイオキシンが含まれることが分かり、さらに新潟県・信濃川流域住民の胆のうガンの原因と推定する研究成果も発表され、ついに姿を消した。中南さんの厳しい仕事の賜物であり、筆者には代えがたい修行だった。

 中南さんと知り合ったのは、いわゆる農薬裁判(ニッソール裁判)が闘われていた和歌山地裁の傍聴席だった。1969年、日本で初めて農民が農薬の被害について国と農薬会社を相手に起こした損害賠償訴訟だ。大学闘争の終わる頃から、中南さんと筆者は別々のルートで傍聴席に座りだした。さらに植村振作さんや故田代実さんらが加わってニッソール中毒研究会を結成し、裁判に必要な文献調査や準備書面作りの議論を始めた。地裁での完全敗訴を乗り越え、1986年に大阪高裁で農薬会社との和解(実質勝訴)に至る20年間、中南さんはその誠実さと頑固さを存分に発揮された。

 日本の農業が最も農薬を多用した1970年代、農薬被害を指摘する者は異端視された時代である。だから、和歌山地裁もこの訴訟を軽視し、年に1度の開廷でお茶を濁していた。これを厳しく批判した中南さんを先頭に、和歌山駅前でビラ配り作戦を展開したことを思い出す。農薬による環境汚染を課題にした中南さんの活動は、餌付けした野猿公園での奇形ザル多発の原因究明へと向かい、ついにヘプタクロールとヘプタクロールエポキシドという農薬が原因物質だと解明した。この頃まで、筆者は一緒に仕事をさせていただいた。

 その後、中南さんは環境監視研究所の所長として、ゴルフ場で使われる農薬の問題やトリハロメタン問題など多くの問題に取り組まれ、農薬による環境汚染の解決に大きく寄与した。化学物質を合成する分野の研究から、合成された化学物質の影響を調べる環境化学分野へと転戦されたその生き様は、多くの人々に感銘を与えた。

 中南さんならどう考え行動されるだろうか、常にそう思ってきた筆者は、最も影響を受けた幸せ者だろう。高校野球とお盆の今日、ふたたび合掌してお別れとする。 

                                              (石田紀郎・市民環境研究所)


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