●加々美光行さん
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活動報告―アソシ研懇話会

歴史を通して見る現代中国

加々美光行さんを囲んで(上)

 この間、世界における中国の存在感がますます大きくなる一方、それをどう見るかについては議論百出の状態にある。ただ、いずれにせよ、1949年以降の中国とくに中国共産党の動きを踏まえ、歴史的な経緯を通じて現在を見ることが重要だろう。そこで7月31日、中国現代史に造詣の深い加々美光行さん(愛知大学現代中国学部教授)にお話を伺った。以下はその概略であり、文責は当研究所にある。

はじめに

 まず、最近出した『裸の共和国』というタイトルの本を紹介します。これは去年の6月、関西地区の古い活動家の方々が再結集して作っているグループ(KCM)に呼ばれ、5時間にわたって講演した内容をテープ起こしし、それを月刊『情況』に連載したものがベースになっています。さらに書籍化する際、新たに中国の民主化問題の現状、2009年に新疆ウイグル自治区ウルムチで起きた民族紛争事件をテーマにしたインタビューを加えました。

 『裸の共和国』というタイトルには、ある経緯が込められています。1995年の年末、中国共産党内部に中共中央を糾弾する『万言書(まんげんしょ)』と呼ばれる文章が駆け巡り、多くの指導者の目に触れることになりました。字数が約一万字で書かれていたため『万言書』と呼ばれたのです。著者は李延明という人で、実は、私の中国人の友人が彼の知り合いでした。そこで、その真意を知るために友人を通じて97年に北京で李延明と対談を行いました。その際、彼が言ったことが、『裸の共和国』という書名に関係しているのです。

 アンデルセンの童話『裸の王様』は、ご存知だと思います。詐欺師に騙された王様が、裸のまま自分では素晴らしい服を着ているつもりで町中を練り歩く。周囲の家来や町中の人々は王様の権威を恐れ、王様が裸であることを知りながら事実を語らず、ただ口々に「素晴らしい衣装」だと誉めそやしました。しかし、ある子どもが正直に「王様は裸だ」と叫んで真実を暴露したのです。ここから、自らの権力におぼれて周囲に諫める者もいなくなった結果、自分を見失った権力者を指して「裸の王様」と呼んだりします。李延明は私に、自分はその「王様は裸だ」と叫んだ子供と同じだと言ったのです。

 中国共産党は改革開放政策を採用した1980年代から今日まで約30年間一貫して、中国は社会主義であると標榜しています。「社会主義の初級段階」と言ったり「社会主義市場経済」と言ったり、表現は変わりますが一貫して社会主義と自己規定しています。ところが民衆の間や一般党員の間では、すでに中国が社会主義を放棄しているのは周知の事実になっているのです。日常の会話では公然とその事実を口にします。にもかかわらず、公開の場では敢えてそれを口に出す人はいない。例えば、党中央委員会や中央政治局、党大会、人民代表大会といった公式の場所で、「もはや中国は社会主義ではない」と、公然と言う人はいないのです。

 それに対して、李延明は『万言書』で、中国は将来、本気で社会主義をやる気があるのか、と質しました。現在の中国が社会主義を放棄しているにもかかわらず、現状を「社会主義初級段階」と表現するのは、社会主義にさらに中級段階や高級段階があることを想定するからではないか。とすれば、将来的には社会主義を実現する気があるのだろう? そうだとすれば、未来の社会主義実現は何によって担保されるのか。社会主義としての中国の国家体制は、すでに危機に瀕している。将来の中国は社会主義的要素を持ち得ない国家になる可能性がある。それでいいのかどうか議論すべきだ。こうしたことを公然と口にした。その意味で、李延明は、自分は「王様は裸だ」と叫んだ子どもと同じだと言ったのです。それで僕はこのタイトルを付けました。


潰えた新民主主義

 この点を考えるには、歴史的に遡る必要があります。毛沢東は1940年に『新民主主義論』を発表します。いわゆる民主主義は、ブルジョア政党が政権を担い、資本主義的な生産関係を軸とするブルジョア民主主義と捉えられます。これに対して、毛沢東の言う新民主主義は、将来的に社会主義・共産主義を目標にする共産党が政権を担う一方、資本主義的な生産関係を軸とする経済政策を推進し、部分的には資本主義的な文化も許容していくものでした。というのも、毛沢東は1940年段階では、共産党が単独で中国全土の権力を掌握できるとは思わず、政権は連合政権のような形になると考えていたからです。つまり、ブルジョア政党である国民党と、社会主義・共産主義を究極目標とする共産党が連合して、抗日戦で日本を倒した後の全国政権を担うという発想でした。1945年8月15日の日本の敗戦直後に毛沢東が出した『連合政府論』も、そういう趣旨で書かれています。共産党の全国単独政権を想定し始めるのは、国共内戦を通じて1948年くらいからのことです。

 この点は、外的な要因もあります。1949年4月、人民解放軍は国民党政権が中央政府を置いていた南京を陥落させます。しかし、その直前に、有名な「スターリン指令」が出されました。人民解放軍が長江を渡って南京を攻略することは認めない、という内容です。すでに、中国共産党による全国解放が展望できる時点にもかかわらず、ソ連のスターリンは実は共産党の単独勝利を望んでいませんでした。というのも、スターリンは、ルーズベルト、チャーチルと行ったヤルタ会談の中で、中国における連合政権を前提に合意していたからです。連合政権の空間的な区分は、おおむね長江を境にして、以北を共産党が以南を国民党が掌握するという想定でした。つまり、朝鮮半島の南北分断とほぼ同じイメージを持っていたと言えます。共産党が南京を占領すれば、その構想全体が崩れます。だから、スターリンは反対したのです。

 もちろん、最終的には人民解放軍が勝利し、1949年10月に中華人民共和国が成立するわけですが、そうなると、新しい国家の下でどういう政策を展開するのかが問われることになります。先ほど触れたように、毛沢東は1940年の『新民主主義論』ではもちろん、45年の『連合政府論』でも、一定の資本主義経済の展開を前提にしていました。この方針は新中国の成立後も生きており、中国共産党が政権を掌握しながら、まずは資本主義的な経済政策を展開し、一定の水準まで経済的発展した後に初めて社会主義への転換を図るという構想が維持されました。当時の一般的なマルクス主義の考え方に従えば、生産力の発展によって生産関係に一定の階級対立が発生します。それを放置すれば、資本家階級が支配的な社会勢力になってしまう。それ故、共産党が政権を握ることで、資本家階級を抑制しつつ経済発展を推進することが可能になる、というわけです。

 毛沢東ですら、当初はこういう新民主主義経済の期間が20年くらいかかると言っており、後に打倒される劉少奇や鄧小平も同じく30年は必要だと言っていました。ところが、1952年には急転換してしまう。毛沢東は52年9月、中国共産党中央書記局会議で新たな総路線を打ち出し、社会主義化の推進を提唱しました。これによって、新民主主義経済は一気におかしくなりました。とくに問題なのは、農業集団化が急速に進められたことです。


新民主主義の復活としての調整政策

 もともと、53年から始まる初級集団化(初級合作社)の段階では、所有制では私的所有を維持しながら農業労働については集団化する形で取り組まれたにもかかわらず、あっという間に中級、高級段階へと進んでしまった。55年を過ぎると私的所有が否定されて集団所有に変わるようになり、56年には農業における私的所有は廃絶されました。農村と同じく都市部でも、やはり56年には私的所有に基づく企業経営が全面的に否定されます。49年10月の新中国の成立から、わずか7年で新民主主義経済は跡形もなく消え去り、社会主義段階へと突入していきました。

 後から振り返れば、どう考えても早すぎた社会主義化と言わざるを得ませんが、当時は誰も言えません。急速な社会主義化に対する批判が公然と言われ始めるのは、ようやく61年、58年8月に始まった人民公社が決定的な破綻を来した段階でのことです。

 人民公社は、英語でピープルズ・コミューンと翻訳されます。農民の生活共同体という意味です。一般に、昔ながらの自然村(集落)が三つくらい合わさって行政単位としての村(行政村)を形成しますが、人民公社は行政村が二つくらい、つまり自然村が六つくらい合わさって作られたものと考えられます。人口は通常で千人から数千人規模、最大規模では一万人近かったと言われています。中国共産党は当初、所有制を集団所有とした上で、集団所有の規模は自然村を単位にするつもりでした。しかし、結局は人民公社の単位まで一気に拡大してしまいました。

 ところが、ご存じのように、人民公社は大失敗に終わります。その理由は後述しますが、いま中国の人口ピラミッドを見ると、歴史的な特徴が鮮明に現れています。人口ピラミッドは通例、どの国でも文字通りピラミッド型をなしています。ところが、中国の場合は途中で急激に凹み、再び膨らんでいる。その凹みは、人民公社の時期に、およそ3000万人にも及ぶ人為的な死が生じたことを示しています。人民公社が始まる前の中国の人口は7億~8億、そのうち3000万と言えば20人~25人に1人くらい、相当な数字です。

 人民公社の失敗を決定的な契機として、一足飛びに共産主義の理想を求める毛沢東の方針は、中共中央の指導部から、口には出さないまでも基本的に否定されます。それを象徴するのが、1962年に行われた中央政治局拡大会議です。これは、名称こそ中央政治局ですが、実際には7000人もが参加したため、通例は「七千人大会」と呼ばれます。中国共産党の全国代表大会でも7000人は参加しませんから、極めて異例の集まりだったことが分かります。

 会議では、劉少奇や鄧小平の主導の下、人民公社を総括して根本的に新しい政策を作りだすために、全国の県レベルに至る党幹部を集めて詳細な報告をさせました。人民公社の誤りがどこにあったか、事実に基づいて明確にすることを通じて、新たな政策を提起しようとしたわけです。実際、ここで毛沢東は事実を突き付けられ、自己批判せざるを得ませんでした。

 一方、ここで劉少奇や鄧小平が提起したのが、調整政策と言われるものです。後に1978年11月末から12月にかけて行われた党の第11期第3回中央委員会総会(三中総会)で改革開放政策が提起され、翌79年から今日に至るまで展開されますが、62年の調整政策はほぼ同じ内容です。「調整」というと、根本的な見直しではなく、多少の手直しと思われるかもしれません。しかし、手直しどころではない。共産党が政治権力を握って資本主義経済を推進する、新民主主義経済の全面的な復活です。

 その中軸に置かれたのは「包産到戸(ほうさんとうこ)」、つまり「農家生産責任請負制」と言われるものです。農家単位で土地耕作を請け負って生産を行い、生産量に応じた比例分配で生産物を上納した残りは農家の収入になる。これは、人民公社の末期に発生した飢饉を克服するため、安徽省の農村で農民自身が自主的に始めたものでした。それを鄧小平が高く評価し、有名な「黄色い猫でも黒い猫でもネズミを獲る猫は良い猫だ」(日本では「白い猫でも黒い猫でも」と言われる)という比喩の下に「三自一包」政策へとまとめました。ちなみに「三自」とは「自留地、自由市場、損益自己負担」、「一包」とは「包産到戸」です。79年以降の改革開放政策で中心となったのも、やはり同様の農業改革でした。


コミューン主義を諦めなかった理由

 ところが、ここで毛沢東は人民公社の失敗を自己批判したにもかかわらず、実はコミューンを諦めていなかったのです。なぜなのか。ユン・チアンの『マオ―誰も知らなかった毛沢東』(講談社、2005年)をはじめ、毛沢東や人民公社を否定する論者は、毛沢東が自分勝手なコミューンの主観的理想を中国社会に強引に押し付けたために大失政を招き、人民に大きな災厄をもたらしたという議論をしがちです。しかし、そんな単純な問題ではない。先ほど紹介した李延明も、毛沢東の全面否定とは決定的に異なる観点から万言書を書いています。

 この点を考える上でも、やはり歴史的状況を振り返る必要があります。1950年の6月に朝鮮戦争が勃発しました。10月に至って、中国は参戦を決定します。新中国の成立から、ようやく1年が過ぎようとする段階、抗日戦争から国共内戦という長い戦いを経て、国土が極度に疲弊し、戦後復興をすべき時期です。そんな時期に、なぜ中国は巨大国家アメリカを敵に回して朝鮮戦争に参戦しなければならなかったか。そこには地理的な問題が絡んでいます。

 私たちは朝鮮世界が朝鮮半島に限定されていると思いがちですが、実は鴨緑江・図們江を越えた中国の旧満州地域、昔は間島と呼ばれ、今は延辺朝鮮族自治州と呼ばれている地域も朝鮮世界です。だから、南の勢力が38度線を越えて北上すれば当然、戦場は中華人民共和国の一部を成している延辺地域にも及び、アメリカ軍も入ってくる。だから、中国が朝鮮戦争の戦火を朝鮮半島に限定しようと思っても、できない状況でした。いまもそうです。南北朝鮮が戦いに巻き込まれたら、延辺は無関係ではいられない。とすれば、吉林省も無関係でいられず、ひいては中国が無関係でいられない。

 それ以外にもさまざまな理由が絡み合い、中国は参戦を余儀なくされていきます。外部要因として一番大きかったのは、スターリンのソ連が第二次世界大戦直後という時期に、場合によっては原子爆弾を用いた戦争になるかもしれない米ソ対決を回避したいと強く願っていたことです。そのため、実質的にソ連が参戦しない中で、中国は独力で対処せざるを得ませんでした。その上、中国は戦争遂行のため、ソ連から莫大な有償軍事支援を受けます。名目は支援ですが、実際は借款です。その総額は米ドルで13億ドル、日本が戦後アメリカから受けた復興支援とほぼ同額です。中国はこうした制約を抱えて朝鮮戦争に参戦し、その結果、アメリカを始めとする西側世界から完全に遮断されてしまうのです。

 1953年3月にスターリンが亡くなり、フルシチョフが新たに権力の座につくと、状況は若干変化します。フルシチョフは翌54年4月に最初の北京訪問を行い、無償の莫大な経済支援・技術支援を表明します。当然、中共中央の指導部には、農業工作部部長だった鄧子恢や劉少奇、鄧小平など、フルシチョフの申し出を歓迎する人たちが多く現れます。毛沢東も当初は、それにほぼ同調します。このあたりは中ソの蜜月、ハネムーンの時代と言われました。

 ところが、1955年5月にワルシャワ条約機構が設立される。これは要するに、ソ連が軍事援助や経済援助を行う代わりに、東欧諸国はソ連に忠誠を誓うものであり、いわばソ連が東欧諸国を自らの衛星国、従属国にする軍事同盟と言えます。こうした事態を受けて、ソ連が中国に対しても同じ対応をしてくるのではないかという、毛沢東の懸念が浮上し始めるわけです。

 一方、ワルシャワ条約機構の設立と前後する55年4月、インドネシアのバンドンで第一回アジア・アフリカ会議(AA会議)が開催されます。会議では、周恩来とインドのネルー首相が主導権を発揮し、第三世界諸国の団結が強調されました。団結の軸とされたのは「非同盟路線」、つまりアメリカを中心とする西側諸国にも、ソ連を中心とする東側諸国にも属さない独自路線です。これがバンドンの理念として打ち出され、中国はそれを積極的に推進していきます。

 この時期にはもう一つ、重要な動きがあります。1954年に「第五福竜丸事件」が起き、アメリカの水爆開発が実証されました。ソ連も同時期に水爆実験に成功しています。これを受けて55年4月、バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインが共同で、全世界の首脳に向けて核の廃絶を訴える「ラッセル=アインシュタイン声明」を発表します。日本の原水禁運動をはじめ、世界で核兵器廃絶運動が始まるきっかけとなりましたが、全体としては、米ソ両国が広島型原爆の何倍もの破壊力を持つ、いわば人類最終兵器を開発したことで、核兵器が支える東西の勢力均衡という冷戦構造が確立されていきます。その中で、フルシチョフのソ連は米ソの平和共存路線を推進していくのです。

 このように、大きな流れとして、戦後の世界が東西冷戦構造の中で米ソの両陣営に分割されていく一方、それに抗するものとして第三世界諸国の非同盟運動が提起され、中国としては非同盟運動を足がかりに、自らの自立性を確保しようと苦闘していた状況が浮かび上がってきます。毛沢東のコミューンへの執着も、そうした自立性を確保するための基盤という面があります。その意味で、当時の中国を取り巻く国際情勢を考慮せず、問題を毛沢東の個人的な性格などに還元してしまえば、重要な論点を見失うでしょう。


ソ連陣営との訣別

 しかし、核兵器を背景にした東西冷戦の中で自立性を確保することは、容易なことではありません。たとえば、仮に再び朝鮮戦争が起きた場合、中国はソ連の核を当てにしないでアメリカの核攻撃と闘わなければならない。この点に関して、毛沢東は「人民戦争論」、つまり敵を広大な中国大陸に引き入れ、人海戦術で持久戦に持ち込み、敵を疲弊させる抗日戦争以来の方式で対処可能としていましたが、人民解放軍の指導部には異なった意見を持つ人が数多くいました。というのも、軍事リアリズムからすれば、核戦争では水爆を数発落とされただけで甚大な被害が生じ、勝負が決まってしまうため、人民戦争方式で対処できるはずがないからです。となれば、中国はソ連と軍事同盟を結び、ソ連の核の傘の下でアメリカとの対抗関係を形成すべきだ、との考え方が台頭してくるのも当然でしょう。

 こうした考え方が明瞭に現れたのが、1957年でした。同年11月、毛沢東や周恩来、劉少奇たちはソ連からロシア革命40周年記念式典に招待され、モスクワを訪問します。そのほか、聶栄臻や彭徳懐など軍事代表団もモスクワを訪問し、毛沢東や周恩来が帰国した後も、そのまま残り、さらにソ連の軍事指導者と協議を重ねました。その結果、軍事技術の協力関係を結ぶだけでなく、むしろ安全保障体制、軍事同盟として、中ソがきちんとしたネットワークを作ることが議論され始めたのです。この動きは、翌58年の3月~4月に開催された中央軍事委員会拡大会議で表面化します。

 もちろん毛沢東は、中国をソ連の衛星国・従属国にするものとして激怒しました。しかも、ちょうどそのころ、北京駐在のソ連大使ユーキンが、ソ連共産党中央の提案として、中ソ共同によるレーダー・サイトの建設、そして合同の潜水艦基地建設や合同艦隊の編成など、空と海にわたるネットワークの形成を求める提案を持ってきたこともあって、毛沢東の怒りはさらに大きくなったのです。

 ソ連は57年~58年にかけて人工衛星スプートニクの開発に成功していましたが、理論上はともかく実際には、ミサイルをワシントンに撃ち込むような技術を持っていませんでした。一方、戦後日本がアメリカの占領下に置かれ、その後も安全保障条約を根拠に、アメリカは日本海の制海権を握っている。いざとなれば、アメリカ海軍が日本海に空母を展開し、ソ連の至近距離から戦闘機を飛ばすことができる。戦闘機に核爆弾を搭載すれば核攻撃も可能です。ところが、ソ連・極東地域は冬になると港が凍結し、北米大陸へ空母を展開するのは難しい。

 となると、ソ連としては、アメリカを抑えるために、中国を含めて制空権を確保する必要がある。加えて、中国には冬も凍結しない港がたくさんあるため、中ソの合同艦隊が実現すればソ連は中国の不凍港を拠点に、日本海などでのアメリカの動きを牽制できる。ソ連の提案は、そういう意味合いが強かったわけです。それで、毛沢東は激怒し、提案を拒否しました。

 こうして中ソ関係は悪化していきます。すでに中国は朝鮮戦争を通じて、アメリカを中心とした西側諸国とは敵対関係にありました。その上にソ連と対立するとなれば、どうやって生き抜くのかという問題が出てきます。先ほど、1955~56年くらいから農業集団化が進み、58年には人民公社が始まって、極めて短期間のうちに社会主義を超えて共産主義の理想まで実現しようという、早すぎる進展に問題があったと言いましたが、そうなった最大の理由がここにあります。要するに、自力更生、他に依存しない自立的な経済を作り上げようとしたからです。

 これは、バンドンのAA会議で謳われた第三世界非同盟の精神と合致していたとも言えます。というのも、本当に東西どちらにも依存しない非同盟の道を選ぶとすれば、自力更生、自立的な経済の形成以外はないからです。ただし、それで非常に高い生産力を実現しようとするのは、いまから見ればどう考えても合理的ではないと言わざるを得ません。なにしろ、西側からは経済援助も技術援助もない。中ソ関係も悪化して、ソ連からの経済援助も期待できない。ないないづくしです。

 にもかかわらず、それは不可能ではないとする考え方が毛沢東の中にはあった。それが、いわゆる「協業の利益」です。協業つまり協同労働によって、1+1が2ではなく3にも4にもなる。毛沢東には青年期から培われた固有の思想として、そうした協業の利益を重視する発想が極めて強くあった。これは言い換えれば、ある種のコミューン思想です。人々の協業の力、協同労働の力が、実質的には近代的な機械力を上回るほどの生産力を作りだすことができる、そういう信念です。


延安整風と大生産運動

 その根拠には、1940年代前半期の経験があったと考えられます。当時、中国共産党の中央根拠地は陝西省延安に置かれており、日本軍と国民党軍から極めて厳しい軍事的・経済的封鎖を受けました。物資がまったく入ってこなくなる時期があり、悪性インフレが起きる可能性もありました。貨幣経済が重要な位置を占め、しかも物資がまったく入ってこないという状況で、何も工夫をこらさなければ、悪性インフレが起き、延安の中央根拠地は崩壊する、そういう危機に見舞われたのです。当時の延安がどれほどの危機に遭遇したか、マーク・セルデンが『延安革命』(ちくま書房、1976年)で、詳細に紹介しています。

 その際、毛沢東は「大生産運動」と呼ばれる運動の号令を発し、飢饉を突破しました。その最初の象徴的な行動が、人民解放軍の王震部隊が南泥湾という湿地帯を開拓し、自ら食料を調達した行動です。これは後年、「南泥湾の奇跡」と言われますが、これを踏まえ、中央根拠地の全ての幹部がデスクワークを中止し、幹部も人民解放軍兵士も一般の農民大衆も分け隔てなくこぞって生産に参加した。これが大生産運動の基軸を形成します。こうした集団労働、協同労働によって、中央根拠地はかろうじて経済崩壊の危機を突破することができた。毛沢東の頭の中には、この経験が深く刻まれていた。それが人民公社につながっていくのです。

 ここで重要なのは、大生産運動に先立って、まずは思想を自由化し、その後に統一する整風運動を行っていることです。整風運動は、その後の中国でも常に行われた一種の思想運動ですが、その原形が延安での整風と言えます。たとえば、会議などで意見の対立が生じる。その際、対立は論理的な形で現れても、背景には感情的なものを含む場合も多い。感情的なものをそのまま表に出すわけにはいかないので、理屈をつけて批判するわけです。しかし、毛沢東は、そんな批判は力にならない。感情も含めて、自分の本心をすべてさらけ出せ。本心でなければ力は出てこない、と。協同労働、協業の爆発的な力を組織するためには、すべてを吐き出す必要がある、と強調しました。

 延安の人たちは誰もが、それを信じて言いたいことを言いました。たとえば、丁玲や「野百合の花」を書いた王実味などです。丁玲は「三八婦人節に思う」という有名な論文を、当時の中国共産党中央機関紙『解放日報』に載せて大きな話題を呼びました。中国共産党の解放区だと言うので延安に来てみたら、やっぱり男が威張っている。本来こういうところでは伝統的な男女関係が否定され、女性が解放されていなければならないのに、ほど遠い状態だ。男性の同志諸君の女性観とは一体なんなのか、こんなことで本当に革命がやれるのか。丁玲は論文で、そう批判した。これが思想自由化の一例です。

 ただし、本心をすべて吐き出した後、そのまま対立した状態にしておくことはできません。毛沢東にとって重要なのは、そうした対立を集団の力に結集し、協業の力に変えていくことです。言い換えれば、本心を個人の本心に留めるのではなく、集団の本心に変えていかなくてはならない。個人の力を集団の力に変えていかなくてはならない。だから、整風、思想整頓と言われるものが必要とされる。それが実際に延安で行われ、その後に大生産運動となって危機を突破したのです。


調整期の再演としての改革開放

 中国では、その後も同じことが繰り返されたと言えます。ソ連との関係悪化がほぼ確実になり、他のどの国にも依存せずに中国の自立的な経済、自立的な国力を作らなくてはならないと考えた時に、毛沢東は延安での経験を想起する。そこで、最初に百花斉放、百家争鳴の思想自由化運動を行いました(1956年~57年)。その際に毛沢東は、皇帝を馬から引き摺り下ろすような勇気をもって中共中央を批判せよ、と言いました。それを信じて、人々は実際に強烈な批判を行いました。

 もちろん、思想自由化で終わるわけではありません。最終的には、それを集団の力に結集していかなければならないため、延安整風と同じことを行います。それが悪名高き「反右派闘争」(1957年)です。百花斉放、百家争鳴で思想の自由化、反右派闘争で思想の統一、それを踏まえて人民公社の建設へと進んでいく。基本的な流れは、延安と同じです。毛沢東は、延安の深刻な危機を突破した経験に依拠して、50年代後半の危機を突破しようとしたのでしょう。ところが、実際には逆の結果を生みました。人民公社は3000万人もの人工的な死者をもたらすことになったのです。

 その結果、大きな批判を浴びましたが、毛沢東は一貫して、コミューン主義に基づいて社会主義や共産主義を目指したこと自体が間違っていたのではなく、原因は分散主義・官僚主義にあると考えていました。たとえば、自分の業績を上げたいために、実際に達成できた以上の成果を上部機関に報告する。経済的な指標やデータといった事実に基づいて生産が展開されていれば問題はなかったのに、党官僚たちが自分の業績を大きく見せようとして、主観的な関心から過大な報告や指標を掲げてしまった。それこそが人民公社の悲劇を生み出した。毛沢東は、そのように問題を整理していきます。

 ところが、劉少奇や鄧小平たちは、そもそも50年代という早期の段階でコミューン主義に基づいて社会主義や共産主義を目指したこと自体が間違っていた、という立場です。つまり、人民公社の大失敗の総括が、毛沢東と劉少奇・鄧小平との間では根本的に違っていた。その違いが1965年に至り、毛沢東にとっては我慢がならないところまできてしまった。

 というのも、60年代の調整期には、後の改革開放の際に行われたのと同じく、生産責任制を軸とする「三自一包」政策が実施され、経済が自由化されていきます。すると、その結果として、官僚の汚職腐敗が始まりました。改革開放後の中国で最も深刻なのが官僚の汚職腐敗であり、これは共産党の党組織が一種の利権配分のネットワークになってしまうのです。実際に、現在の中国共産党はそうした側面が強くなっているわけですが、毛沢東からすれば、その萌芽はこの段階で生じたということでしょう。

 こうして、65年には「党内の資本主義の道を歩む実権派」という文句が生まれます。中国共産党の中枢に至るまで、資本主義の道を歩む実権派が存在する。これらを打倒しなければ革命はひっくり返されてしまう、ということで文化大革命が発動される。それによって、大躍進や人民公社の時と比べれば小規模とはいえ、やはり多数の死者が生み出される。その結果、毛沢東の死後に復活した鄧小平は、再び改革開放政策を行うことになります。

 鄧小平の改革開放政策は、60年代の調整政策を考えれば、何の不思議もありません。というのも、鄧小平からすれば、毛沢東は中国の経済発展段階や生産力水準を考慮せず、一面的に協業の利益、コミューンの利益を夢想したから大失敗せざるをえなかったのであって、マルクス主義の歴史発展観に即して、まず生産力を高め、経済発展を一定の段階に進めることが不可欠なのです。それは、要するに新民主主義経済です。共産党の政権下で資本主義経済を許容し、そのもとで経済発展、生産力発展を目指す方向をとることです。

 鄧小平をはじめとする改革開放派は、その通りに行いました。その結果、皮肉にも、毛沢東が1965年~66年に行った指摘が、ことごとく的中する事態に至りました。つまり、共産党が現在も社会主義綱領なり共産主義綱領なりをどこかに持っているとしても、実質的にはブルジョア政党に変わっている。事実、党は利権分配のネットワークに変質し、党内に巨大な腐敗が起きているではないか、と。こうした毛沢東の指摘は、実質的には89年の天安門(六四)事件が起きる頃には、ほぼ明確になっていたと言えます。



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