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アソシ研リレーエッセイ

世界地図を見ながら振り返る記憶


 パレスチナ自治区の一つガザへの人道支援物資を積んだトルコの支援船が、イスラエル軍に攻撃された事件は、「ガザ」の存在を再び世界の人々に示す結果となった。ハマスが統治権を掌握しているという理由だけで、イスラエルによって軍事的に封鎖され続けているガザ。パレスチナ和平交渉の当事者としても排除され続けて来たガザが国際世論の焦点に浮上して来た。

 最初、このニュースを聞いた時、「何故、トルコの支援船なのか」がイマイチよく判らなかった。それで、いろいろ調べてみると、トルコの政権交代以降、トルコ、シリア、イラン三国の関係改善が急ピッチで進んで来ていた事実が背景にあることが見えて来た。トルコは元々、世俗主義に染まったイスラム政権が長く続いて来て、イスラエルと共に中東における米国の橋頭堡だった。

 そのトルコが、公正発展党政権に変わって以降、隣国シリア、イランとの関係修復に拍車が掛かって、今年はイスラエルとの共同軍事演習も中止されていたようだ。特にトルコ、シリア国境はクルド民族の生活地域で、トルコのクルド労働者党は、シリア領内に拠点を持って武装紛争を続けて来た歴史を持っている。トルコの親米、親イスラエル路線は、クルド民族の解放紛争が国内政治に及ぼす影響を、できる限り排除したいというトルコ支配層の外交選択でもあったのだ。

 しかし、クルド労働者党議長のオジャラン逮捕、投獄以降、同党の路線変更や内部分裂もあって、シリア、トルコ関係は急激な変化を遂げて来た。今回のガザ支援船へのイスラエル軍の強襲は、そんな変化へのイスラエルのイラ立ちがあったのかもしれない。

 そんな経過もあって、トルコ、シリア、イランの地図を世界地図帳で開いてながめていたら、40年近い昔、この地域を一人旅していた時の事を思い出していた。あれは1972年。ギリシャから始まった陸路の旅だった。トラベラーズチェックに換えて持っていた現金で、飛行機に乗って日本に帰ることが可能な地点まで、東へ向かっての貧乏旅行である。バス、鉄道に乗って、ひたすら動く。駅に近い安宿、YMCA、道中で知り合った人間の宿にコロガリ込む。食事は三食パンとコーラと果物。ひたすら、金を使わず、日本に近づく為だけの毎日だった。列車の三等で疲れて眠り込んで、なけなしの日本円をすっかり盗まれてしまったこともあった。泣きっツラに蜂。車掌に訴えると、何故か一等車に移してくれた。でも後の祭り。

 そしてイスタンブールからトルコ半島を横断しイランへ。間違いかもしれないけれど、確か列車に乗っていたのに、夜、気が付くと、湖の水上を進んでいたという記憶がある。あれは、列車丸ごと運ぶフェリーだったのだろうか。旅を続けていた頃には、自分が通り過ぎて来た地域がクルド族の祖国だったことなど、まったく知りもしなかった。眼の前に広がる風景をじっくりと楽しむ余裕などまったくなかったのだから。

 今、振り返ると、あの時、どうしてあんなに急いでいたのだろうかと不思議に思う。確かに、移動時間が長くなれば持ち金が減る。どこまで日本に近づけば、持ち金で飛べるようになるのか。そんな方程式を身体を駆使して解いているような旅だった。イランからアフガニスタンへ。アフガニスタンからパキスタンへ。

 途中から、どうしても5月13日までには日本に帰りたいと強く思うようになっていた。そして、カラチからパキスタン航空に乗って羽田に着いたのが5月12日。持ち金は限りなくゼロに近く、東京在住の友人に頼み込んで金を借りて、京都に戻ったのが1972年の5月13日だった。

 そして、そんな私の旅とはまったく無関係なところで進んでいた闘争が火を噴いたのが1972年5月30日。イスラエル、ロッド(テルアビブ)空港での日本人三人によるパレスチナ解放闘争支援のゲリラ戦だったのだ。あの時、私の帰国があと半月おそくなっていたら、私のその後の人生も、ちょっと違ったものになっていたのではないのかと、世界地図を見ながら振り返っている。

                                  (津田道夫:研究所代表)



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