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市民環境研究所から

1960年6月16日、早朝の出来事


 不順な気象に左右されながら季節は進んでいく。50年前の6月はどんな天候だったのかと思い出そうとすると、どんよりとした朝空がぼんやりと出てくる。そのぼんやりとした風景がそれからの人生のはじまりだったのかもしれないと思う。

 それは1960年6月16日の早朝だった。反安保運動の記念日は6月15日だろう。お前は間違って記憶しているのでは。もうトシだから仕方がないだろうが、訂正しておいたほうがよいと思われる方もいるだろう。そうではない。

 6月15日の夕刻から深夜まで、日本の大衆運動、学生運動の転換となった国会突入闘争、樺美智子さんの虐殺、京都でその模様をラジオで聞いていた。あの隊列の中には京都から送り出した同級生が何人もいた。彼らの安否を思いながら一睡もできずにいた夜。東京に行くと両親に伝えたら、勘当だと怒鳴られ、悩んだ友もいたが、彼は今朝、どうしているだろうかと心配しながら、京大教養部吉田分校の教室に、まだ朝が明けないうちに行った。

 当然のことのように何人も仲間が集まり、怒りに震えながら、それほどの議論をした記憶がないが、3人ほどで机と椅子を運び出し、吉田分校の正門の扉を閉め、その後ろに机と椅子を積み上げ、バリケードを構築して抗議行動を開始した。横の小さな通用門は開けておいた。これが京大での最初のバリケードだったのかもしれない。6月16日の早朝のできごとである。

 8時過ぎに教養部の事務長が2、3人の事務職員を伴って現れ、机椅子を片付けるように要求してきた。それからどれくらいの時間を押し問答に費やしたか、いつその場を立ち去ったのか、誰が机や椅子を片付けたかの定かな記憶はないが、机や椅子を運び出した仲間の自治会委員の顔は覚えている。

 その日はビラを作り、街頭での情宣活動に走り回っていたが、何をしたのかの記憶はない。そして、7月になればもはや静かになった構内は夏休みの雰囲気となり、講義に復帰するわけでもなく、友人の故郷である信州は伊那谷の高遠に身を寄せ、疲れを癒し、夏休み明けからのことを思いめぐらしていた。爾来50年が経過したが、その頃の友や仲間に合うことはない。

 2010年6月、鳩山内閣が崩壊し、菅内閣が誕生した。鳩山政権はなにが問題だったのだろうかの分析をするつもりはないが、鳩山政権の崩壊の過程での社会の風潮、というよりもマスメディアとそれに操られた大衆の風潮の浅薄さに50年前を重ねて思う。

 鳩山のたびたびの言葉と考えの振れのみを問題にし、一億総評論家となり、沖縄の基地と日米安保問題の本質を論ずることなく、鳩山のブレだけをあげつらう。安保を、沖縄を、基地を、そして日本の未来を考えることなく、内閣をあげつらっただけではなかったか。

 50年前の日本の社会は、テレビもわずかしかなかった。まして、したり顔の馬鹿なコメンテーターなる人種が登場するテレビ放送などもなく、ひとりひとりが自らの置かれた環境の中で苦悶し、結論を出していた世の中だった気がする。今日6月15日、関西地方もすでに梅雨に入り、朝は雨である。

                                                (石田紀郎)



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