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アソシ研リレーエッセイ

劣化するコミュニケーション


 最近、日常の中で考えざるを得ない問題がある。それは、「コミュニケーション(力・技)の劣化」。一般的に言えば、内外ともにコミュニケーションが存在しているとは到底思えない米軍基地をめぐる鳩山民主党政権の迷走が象徴するように、日本社会全体の深刻な病弊ではあるのだろうが、私が「ヤバイんじゃないか」と思い始めたのは、若い世代の人たちとの接触を通じてだった。

 傍目には、相互に親切で仲が良く、思いやりかばい合っていた人たちが、何かの問題をきっかけに一瞬にして空中分解、それぞれが深い孤立の中に沈み込み、あるいは180度ひっくり返って憎悪のバリヤーを張ってしまう。最初は「シンドイところの話ができていないから」と少し冷ややかに見ていた面もあったのだが、そのうち「違うな」と思うようになってきた。必死に相互理解やコミュニケーションをとろうとしているつもりで、実は一方的に自分の思いだけを言いつのる、あるいは、雰囲気に合わせたりおちゃらけたりが、むしろコミュニケーションの拒絶のため、というのが、若い世代に限らず結構多いのだ。にもかかわらず、本人たちは非常に寂しがりやで、心から誰か解り合える相手を求めている。これは、コミュニケーションの前提、諸々の関係のところが壊れてしまっているのではないか…。

 そんなことを考えていたら、先日、田畑稔さんから「若者の『生きづらさ』へのアプローチ」という小論文をいただき、大いに考えるヒントになった。なるほどなと思ったのは、田畑さんが「土井(隆義)のシャープな解釈」として紹介している以下のくだり。「現在の若者は『自己肯定の基盤が脆弱』で…そのため外部世界と途絶した『島宇宙』のような小さな集団をつくり…たがいに傷つく危険を回避するため…過同調にも似た相互協力に努め、ネガティヴアクションを回避する『優しい関係』でなければならない」。もうひとつ、もう少し考え続けてみたいと思ったのが、「農業社会→近代産業社会(階級と貧困が中心)→再帰的近代社会(個人化とリスク化が中心)」(ウルリヒ・ベック『危険社会』)という視点。詳細は是非田畑さんの論文を読んでほしいのだが、要は「歴史的現在」の中で問題を捉え返すということだろう。

 話は少し飛ぶが、以前に学習会をした『新自由主義』で、デヴィッド・ハーヴェイが「(個人的自由を神聖視した1970年前後の)左翼運動は個人的自由を追求することと社会的公正を追求することとの間にある内在的な緊張関係を認識することも、それに取り組むことも、ましてやそれを克服することもできなかった」と言っているのに、ずっとひっかかっていた。当初は「そうかもしれんな」と「何言うてんねん」が3対7くらいだったのが、今はひっくり返っている。

 「個人化とリスク化」を人間が耐え難いまでに推し進めた新自由主義、それに取り込まれその跳梁跋扈を許してしまった我らが政治的反乱…だとすれば、若者たちが抱える深い闇は、我々の闇でもある。昔話や思いの一方通行が同年代に目立つようになったきたような気がする中で(かく言う私も、娘に「お父ちゃん、会話に関係なく自分の思いばっかり言ってるよ!」とかまされた)、「我ら」に問われているのは、自らの在りようを生きてきた時代とともに歴史的に捉え返し総括することなのだと、当たり前と言えば当たり前のことを改めて痛感。

                                                                                    (津林邦夫:北大阪合同労組)



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