●タライ平原の村で。左がTilさん。
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連載 ネパール・タライ平原の村から(1)

なぜネパールへ行こうと思ったのか

 関西よつ葉連絡会の農産品担当会社「よつば農産」で働いていた藤井君が、農業をするためネパールに旅立った。以前からの計画だったという。日本社会にとって、テレビのニュースや観光などでしかなじみのないネパール。人々の暮らしは、農業はどうなのか。藤井君に定期報告をお願いした。


 僕はNGOでもなく国際協力の技術者でもなく、環境保護者でもなく、有機農業者でもなく、これといった看板を背負うこともなく、ネパールの農村で、相方のTil(04年アジア学院研修生)と2010年2月から、一農民として暮らしています。

 「こうなった」経緯の始まりは、20歳の時。現実から逃避したいとか、未知なところへ行きたいというような単純な動機から、スリランカの村で長期滞在。テレビの向こう側で見た貧困や開発援助の対象とされている人達に、反対に「お世話になった」ことが、今思えばアジアに魅了された全ての始まりのような気がします。

 帰国して数年後、今度は機会あって栃木県にあるアジア学院(Asian Rural Institute)でアジア・アフリカの人達と共同生活をしながら、有機農業について学んだ。エリート研修生もいたけど、アウトカースト(被差別階層)で、孤児院で育った研修生や、目の前で家族を失った難民のルームメイト。都市部からバス1日と徒歩3日かかる山岳部で働いていたTil…。様々なバックグラウンドを背負った人達がたくましく、明るく生きていた。近代化の温床の上で育った僕は、きっとそういうところに魅力を感じ、そういうところならどこへでも行って、「生きてみたい」と思った。

 そして05年から数ヶ月、Tilの所属するネパールNGOのモデルファームで一緒に働いた。収穫時期や収量に関係なく、記録さえ付ければ、毎月一定の給料が出た。貧しい村のためと銘打って、ドナー(資金提供者)のため、プロジェクトのために働いていた。

 しかし、そもそも村の誰が展示場(モデル)を作ってくれと言ったものか。もうすでに村の人達は農業について、いろんな知恵を持っていた。そういう中でNGOの方針には馴染まず。Tilと共にそこを離れ、本人の地元、家族の住むタライ平原へ戻った。村の農家と同じように、自分の家の土地を耕すことにした。家族単位を基本とし、時に収量が不足したり、時に収入が不足したり、近隣の人と関わってこそ、ホンモノの生きた農場じゃないか、と考えた。

 ただ現実的な問題として、ネパールにおいて僕自身は外国人であること。日本へ戻って農業をするか、ネパールで農業をするか、というところで、決断できないまま帰国。その後06年から、よつ葉で3年働くことになったのですが、働き始めてすぐ、やっぱり既に見て来た好きだと思う農業…。野菜がある、果樹がある、米がある、ワラを牛にやる、牛糞を畑に撒く、ヤギがいる、蜂蜜を獲る、牛乳を搾る、家畜をつぶす、薪を集める、種を採取する、調理する、野菜を売る、隣の家に分ける…。トマトを作るとか、ほうれん草を作る農業というより、暮らし「そのもの」を作るような農業がしたいと思い立って、今日に至った。

 これから、彼らがどれだけ遅れているか、どれだけ貧しいか、ということを分析し語る立場より、一庶民として、そこでの暮らしの中にどっぷりと浸かってみたいと思う。もちろん、対等を装っても、実際は経済的に強い立場にいる矛盾を抱えつつ…。 
                                                       (藤井牧人)



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