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  アソシ研リレーエッセイ
  いまなお続く明治の闇



 まとまった休暇が取れる年末年始、普段はできない旅行をすることが多い。昨年末から今年にかけては四国を旅した。高速バスで松山に入り、宇和島を回って前号本欄の執筆者・吉永さんの故郷である高知へ行き、さらに高松を経て帰ってくる旅程である。

 松山では「坂の上の雲ミュージアム」を訪れた。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』をテーマに、主人公である松山出身の軍人・秋山好古、真之兄弟および真之の親友・正岡子規に関連した博物館である。

 司馬遼太郎の歴史観について、世間では「明るい明治、暗い昭和」と評される。長い鎖国を脱し、西洋列強に伍して国民国家建設を進めた明治期を肯定的に捉える一方、泥沼の戦争にのめりこんで自滅した昭和期を否定的に捉える観方を意味する。

 「明るい明治」を象徴するのが『坂の上の雲』。遠くに見える雲(目標)を目指し、当時の若者たちが一心不乱に坂を上っていく、そんな青春群像が描かれている。山場となるのは日露戦争(1904~5年)だ。アジアの小国がヨーロッパの大国に大勝利した祖国防衛戦争と位置づけられ、手が届かないと思われた雲を掴んだ瞬間と捉えられている。

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 ところで今回、宇和島回りを選んだのは、高知の東部、四万十市に訪れたいところがあったからだ。どこかと言えば、幸徳秋水の墓所である。

 1871年、旧幡多郡中村町の商家に生まれた幸徳秋水(本名・傳次郎)は17歳で上京後、同郷の思想家・中江兆民に師事し欧米の社会思想を学んだ。その後、ジャーナリストとして健筆をふるう傍ら社会主義思想の探求を深めていく。

 1903年、勤めていた新聞社『萬朝報』は、折からのロシアとの緊張関係に対して当初は非戦論を唱えていたものの、世論の高まりを受けて開戦論へと転換することになる。それに反対する秋水は同僚の堺利彦らと新たに『平民新聞』を創刊、帝国主義戦戦争反対の論陣を張る。以降、米国訪問を経てアナキズムへの傾倒を深めていく。

 秋水を悲劇が襲うのは1910年。社会主義、アナキズム運動の人脈の中に爆発物関連の容疑で逮捕された人物がいたことから、証拠もないまま、天皇に危害を加えようとしたとの容疑=「大逆罪」に問われることになった。いわゆる「大逆事件」である。

 わずか1ヶ月ほど、しかも一審のみの非公開審理によって、同時に拘束された26人のうち、有期刑となった2人を除く24人が死刑判決を受ける。判決翌日に半数の12人が「特赦」で無期懲役に減刑されたことも含め、事態の異常さを物語る。

 黒幕と目された秋水は減刑されることなく、判決から6日後に刑を執行されることとなる。

 秋水らの拘束の4ヶ月前、日本は韓国併合を行うなど帝国主義的な対外政策を推進していた。国外への強硬策を可能にするには、国内における一元的な統制が不可欠となる。明治の日本はその核として絶対主義的な天皇制を置いた。天皇制に従うどころか君主制の廃止・共和制の実現を目指すような社会主義、アナキズムの信奉者など、どれほど少数だろうと許してはならなかったのだ。

 してみると、司馬のような「明るい明治、暗い昭和」といった捉え方は難しい。明るく見える明治には、同時に底知れない闇が孕まれていたのである。

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 訪れた秋水の墓所は、場所こそ検察施設の隣に位置するものの案内板なども整備され、さすがに「大逆」の圧力を感じさせる雰囲気はなかった。墓の傍らにはメッセージノートや資料を入れた箱が備えられており、資料によれば、地元の「顕彰する会」が記念行事なども行っているという。2000年には市議会で顕彰決議が採択され、市立図書館には関連資料の展示コーナーもある。

 とはいえ、死刑執行から50年後、無期懲役刑に減刑された被告と、刑死した被告の遺族が再審請求を行ったものの、最高裁は有罪・無罪の判断をせずに裁判を打ち切る免訴の判決を下した。「戦前の特殊な事例によって発生した」「大逆罪が既に廃止されている」などの理由という。秋水らの冤罪が未だに晴らされていない事実は、かつての過ちに向き合えない日本国家の歴史的連続性を物語るものだ。

 ちなみに、再審請求を行った元被告・坂本清馬(1885~1975年)の墓は、秋水の墓の並びにある。

                           (山口 協:当研究所代表)



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