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この間の酪農をめぐる状況の一端 報告

地域の農業・畜産に資する関係を目指して
元丹但酪農組合長・塩見忠則さんのお話から

 昨年から新聞・テレビでも頻繁に「酪農危機」が報じられるようになった。基本的な要因はコロナ禍に起因する輸送費の値上がり、ロシアによるウクライナ侵攻や急激な円安がもたらした穀物飼料の価格の高騰などだ。北海道だけの話ではない。私たちの周辺にも、廃業を余儀なくされる酪農家がいる。去る2月6日、そうした一人の元酪農家にお話をうかがった。


はじめに

 インタビューに応じていただいたのは、兵庫県丹波市在住の塩見忠則さん(79)。かつて塩見さんは長らく兵庫丹但酪農農業協同組合(丹但酪農)の組合長を務められ、関西よつ葉連絡会にも牛乳を供給していただいた。昨年秋、そんな塩見さんが酪農家を廃業したとの情報を耳にし、これまでの経緯を振り返っていただこうと考えた。そこで、能勢農場の寺本陽一郎さんにお願いし、お話をうかがう機会をつくっていただいた次第である。

 訪れた丹波市は京都府に隣接する兵庫県東部の内陸に位置し、2004年に旧氷上郡の6町が合併してできた市だ。地勢は山がちで、山々の間に開けた盆地に田畑や人家が集まる中山間地である。塩見さんは、そんな丹波市の氷上町北部で生まれ育ち、長らく酪農を続けてこられた。


高校へ行きながら酪農を

 塩見さんの酪農家人生は、およそ60年前にはじまった。

 「酪農をはじめたのは高校へ行きもって(行きながら)やから、18歳ぐらいやろかな。私が小学校6年生のときに親父が死んだんですわ。ほかは女きょうだいばっかりで、家を守らなアカンから、高校時代から新聞配達をしながらエサ代を稼いで、高校の終わりぐらいには乳搾りよったと思うねやな。」

 「ここらの地域では死んだ親父が一番最初に酪農を始めたんや。そんとき私は小学校2年か3年で、親父が乳搾るんを手伝うてね。その時分は手搾りばっかりやったからね。親父がバケツを置いて乳を搾っとるところに、夏やったら蚊やら虻やらが寄ってきよるから、山で『ムロ(榁)』の木をとってきて燻して、団扇であおいで。そやけど、昔の牛やさかい気性が荒うて、たまに親父が蹴られたりすんねん。ほたら、ワシが怒られんねや(笑)。『ちゃんとせんか!』言うて。そないして育ったさかいに、牛には慣れとったんですわ。」

 「当時、このあたりは酪農家が多かったんですわ。氷上郡全体で2000軒あったね。そやさかいに、岡山からでもここの市場(セリ市)に牛を買いに来よったわ。石生の駅から貨車に牛を積んで岡山に送りよったでなあ。」

■塩見忠則さん
 「ここらはもともと水田地帯やから『水田酪農』言うて、昔から畔草を鎌で刈ってきて、それをエサにして乳搾りよったんや。そやから、そない何頭も飼われへん。だいたいが1頭から2頭くらいの牛飼いで、多頭飼育が増えていくんはその後やったね。」

 父親を亡くした後、塩見家は一たん牛飼いをやめざるを得なくなるが、塩見さんが高校に通うようになって再び乳牛を導入、子牛から成牛へ育てる育成を経て、酪農を中心とした生活へと戻ることになる。

 「その時分は牛乳言うたら貴重でな。それこそ病気にでもならんと飲めんような時代やから、普通の人がいつでも飲めるようなもんやなかったんやな。ものの3頭でも牛飼って乳搾りよったら、学校の校長先生より収入はよかったんや。私も子供をみんな大学にやれたのは酪農のおかげやねん。」

 「結局、乳の量も少なかったんやな。牛の改良も進んでへんし、気性も荒くてな。エサやってても(暴れて)頭にエサ桶かぶりよったぐらいや。いまやったら除角したりするけど、その時分は除角もせえへんから、一突きでもされたら大ケガや。」

 「はじめは26頭やった。それを結婚して10年ほどしてから、40歳ぐらいの時やな、40頭の牛舎にして、それからずっと40頭でやってきたわ。最大で成牛は40頭、育成牛が30頭ほどおった。」


プラントを核に消費者と

 牧歌的な情景が浮かんでくるが、60年にわたって酪農一筋に生きてきた中には少なからぬ紆余曲折があった。その中でも最大の出来事は、当時自身も所属していた氷上郡酪農農業協同組合が生乳を加工する工場(プラント)を建設したことだという。

 「自分らが搾った乳は自分らで売る言うんかな。付加価値をつけて売ろうかと言うて、先人たちがプラントをこしらえて。この地域では、それが一番大きな出来事やったね。自分らで加工して売るさかい、ほかの地域より単価がよかったわけや。」

 プラントができたのは1967年の11月。ただ生乳を搾るだけでは、どうしても買い手の乳業会社に主導権を握られてしまう。しかし、プラントを建設することで生産者(酪農家)自身が牛乳の価格に対して主導権を発揮することができる。生産者にとっての産直のメリットと言えるだろう。しかも、それだけではない。

 「それともう一つ、その時分にいろんな消費者のグループと関係ができたんやな。とくに私とこは低温殺菌牛乳をメインとして消費者と関係をつくっていったんや。最初は神戸の団体やった。」

 「きっかけは、島根県に木次乳業てあるやろ。あそこと取引しよった団体が、近くにも同じ思いで酪農しとるところがある言うて紹介されて、ほんで関係ができたんやったと思うわ。」

 「私はその時分は低温殺菌牛乳を作る部会には入っとらんかったさかい、詳しいことはよう知らんのやけど、えらい基準が厳しい言うて聞いてたわ。そやさかい、対応する酪農家はほんまに泣いとった。最初は乳価もそれほど変わらんかったしな。そやけど、だんだん付加価値もつくようになっていったわね。」

 木次乳業が日本で初めてパスチャライズ(低温殺菌)牛乳を流通・販売したのは1978年のこと。この時期、安心・安全な食べものを求める消費者の要求・運動は急速に高まりを見せていた。中でも、牛乳はその象徴と言える。大手乳業会社が市場を独占し、いまから見れば質の良くない牛乳が堂々とまかり通っていた。そうした状況を打破するため、さまざまな形で生産者と消費者の連携が模索された。関西よつ葉連絡会の成り立ちを振り返っても、当時は比較的質の高い北海道の牛乳を手に入れたいと望む人々の共同購入運動がきっかけだ。氷上郡酪農協の低温殺菌の取り組みもまた、こうした時代背景の中で消費者の要求に応えようとする生産者の営為を示すものだろう。それを可能にしたものこそ、自前の製造プラントだったと言える。


全組合員にNon-GMを呼びかけ

 「その時分はそれだけプラントを持っとる有利性があったんやけど、そやけどリスクもあったんや。私が組合長しとる時や。(生乳の生産)量は増える、(それを)捌かんならん。もともと酪農家やさかい、カネ(売上金)の回収やとか商売は素人に毛が生えたようなもんや。サイト(取引の締め日から支払期日までの期間)が割合長いねんな、牛乳は。そやさかい運転資金どうすんのやとか、いろんな問題が出てきたわ。」

 「そやけど、プラントを核にしてみんな一つになっとったのも事実や。私が組合長になったとき、1990年代初めやったと思うわ、“遺伝子組み換えでない(Non-GM)エサで乳搾ろう”言うて組合の全農家に呼びかけたんや。ほしたら、それを北海道のよつ葉(乳業)が聞きつけて、見学に来たんや。よつ葉の人が言うには、『北海道でも個人でしとるところはあります』と、そやけど『組織としてしとるところは一つもない』言うて、えらい感心して帰らはったわ。」
 ■旧丹但酪農のプラント(2009年撮影)

 「この地域にもエサ屋(飼料会社)があるんやけど、私はそこへ行って『Non-GMのエサをつくってもらえんか』言うて頼んだんよ。ほしたら『そんな高い餌ではやっていかれへんで』ちゅうて言われてな。腹立ったわ。こっちは頑張って差別化していかなと思ってんのに。ほんで、何とか全酪連(全国の酪農業協同組合の連合組織「全国酪農業協同組合連合会」)に頼み込んでエサを用意してもらえることになったんや。」

 「そやから、はじめは全組合員、同じNon-GMのエサでやりかけたんよ。その時分はまだ酪農家の軒数はようけあったんやけど、みんな文句言わんとやってくれた。自分らの牛乳売るためやと思っとったからな。」

 「そやけど、後になってくるとエサの価格差が開いたり、いろんな要因があってちょいちょいやめるもんも出てきたりしてな。ある程度のところで整理せなあかん言うことで、低温殺菌の会員だけにしてもうたんや。『低温殺菌の会員』言うんは組合の中で生産者のグループ。はじめは14~5人おって、月に一回寄って、いろんな情報を交換したりな。」

 「集乳するんでも、それ(Non-GMの生乳)を最初に集乳さして、混ざらんように。二番目やったらどっかしらに残るかもしれんから。そやから朝は早いし、組合員も悔やみよったけどな。隣が(Non-GMを)してへんかったら、自分のところだけ何べんでも集乳してもらわなならんし、手間もコストもかかるんや。ただ、消費者も強力な助っ人みたいな形で支えてくれよったね。」

 「その時分は消費者団体との交流も盛んでな。年に何回か来てくれて、援農や言うて。(飼料の)藁を集めるときやとか、トウモロコシを刈るときやとか。」

 よつ葉乳業がNon-GM飼料の牛乳の製造・販売を開始したのは1999年だから、相当に先んじていたのは間違いない。規模が違うのはたしかだが、逆に小回りのきく規模だからこそ迅速に対応できたとも言える。

 もっとも、塩見さんが「頑張って差別化していかな」と言われるように、このころになると一般市場で流通する牛乳の品質も相当に改善される。牛乳が大衆化するにつれて生産者の乳価も相対的に下降し、酪農に見切りをつける農家も出てくる。そうした状況を背景として2001年、氷上郡酪農協を中心に周辺の複数の酪農協が合併して丹但酪農が設立されることになる。

 「とくに、うちのようなプラントを持っとるところと、持っとらんところとの差が出てきた。そやから“吸収したらな(あかん)”言うことで、最初はどこどこを、次はどこどこをみたいに一つにしてしもうたんやけどね。」

 塩見さんは氷上郡酪農協の時代から組合長を務め、合併して丹但酪農になった後も組合長を続けた。

 「それから県酪(兵庫県酪農農業協同組合)の会長を6年ほどやった。全酪連の理事も6年。そやから家内には苦労さしとるわね。ずっと家を留守にして飛び回っとったさかい。」


関西よつ葉連絡会とのかかわり

 関西よつ葉連絡会全体との付き合いがはじまったのは2005年からである。それ以前は、連絡会を構成する産直センターの一つ、川西産直センターが独自商品として取り扱っていた。川西産直センターの配達エリアに丹但酪農が牛乳を卸していた関係で、何らかのつながりができたようだ。

 この時期、別の産直センターで配達を担当していた、能勢農場の寺本さんによれば、川西産直センターの呼びかけで見学に訪れたことがあったという。

■旧丹但酪農の本部事務所(2009年撮影)
 「当時の代表の一村洋子さんがバスを仕立てて、『こんなところに、よつ葉みたいにしてやっているところがある』言うてね。低温殺菌でやっているとか、地域の酪農家が集まって生産も販売もやっていると聞きました。僕がまだ30代そこそこのころやと思います。その後、『いつまでも北海道よつ葉でええんか、(川西産直センターだけでなく)自分ら独自で牛乳を考えなあかんのちゃうか』って、(関西よつ葉連絡会の中で)牛乳をめぐる論争が起きたのを覚えてますわ。」(寺本さん)

 関西よつ葉連絡会が組織全体として丹但酪農の牛乳を扱うに際して、当時の中川健二・連絡会事務局長は機関紙『ひこばえ通信』(第226号、2005年5月)で以下のように記している。

 「これまでずっと牛乳・乳製品は(中略)北海道の『よつ葉牛乳』を扱ってきました。その意味で今回、近畿・兵庫県の『丹但牛乳』を扱うことは大きな転換とも言うことができますし、今後私たちが『牛乳』について、また『酪農』について考えるために一歩踏み出したことになります。」

 「30年前に私たちが北海道の「よつ葉牛乳」を共同購入したときからくらべれば、ずい分と牛乳や酪農をめぐる環境も変化してきました。(中略)牛乳に対する(消費者会員の)要求や考え方が変わるなかで、牛乳とは何かをもう一度考える良い機会かも知れません。」

 「それから考えなければならないのは酪農の現状です。規模拡大・多頭化・機械化を計り、乳量を増やすために濃厚飼料を多用する。しかも輸入飼料に依存する構造です。この問題は、これから私たちがぜひ考えなければならないでしょう。」

 「今回、牛乳の取り扱いを始める兵庫県の丹波・但馬地域では、循環型の農業に積極的に取り組む農家が多く、そうした農家では自家栽培の牧草を与え、糞尿は堆肥化して田畑に還しています。このような農業の傍ら酪農も行う『有畜複合農業』が残っていて、自家生産の粗飼料や遺伝子組み換えでない配合飼料を与えています。地域農業・地域酪農の再生に元気で頑張っている酪農家の皆さんと酪農農協を応援したいと思います。」

 品物の質だけでなく地域農業のあり方も含め、自分たちが目指す食べものづくりの考え方を共有する生産者組織と連携できることへの期待と喜びが率直に示されていると言えるだろう。


「丹但酪農の時代」の終焉

 とはいえ、残念ながら丹但酪農と関西よつ葉連絡会との連携は必ずしも期待通りには進まなかった。丹但酪農は2013年、生産部門と加工販売部門を分離し、加工販売部門を現在の丹波乳業に譲渡することになった。その背景に何があったのか。酪農家の減少など、生産者側の要因があったのだろうか。

 「いや、その時分は、そこまで(減少)はないわ。乳量もそこそこ集まってきたし。やっぱり販売側の要因やね。ちゅうのは、二回も製品事故を起こしてしもうたからね、学校給食で。テレビまで来よった。あれはまいった。」

 「やっぱり素人は素人やと、そんとき痛感したわ。従業員もこの辺りの、縁故で入ったようなもんばっかりやさかいな。専門に勉強したようなもんは誰もおらへん。そやから言うて、こっちも牛飼いのことは分かってもプラントのことは分からへんからな。」

 「もともとは、ある乳業会社に吸収してもらおう思うて話しとったんよ。そこの会長は農プラ(酪農生産者団体が出資する乳業会社)の親方みたいな人で、酪農家の立場に理解のある人やったでな。そやけど、その時分に大きな取引先が倒産して、ごっつい赤字になって、こんなことしとったら組合員に迷惑かけるさかい畳んでしまおうか言うて、プラントを解体すんのにいくらかかるとか、組合員に返す出資金とか、いろんな計算をして、ほしたら今の丹波乳業の社長が『譲って欲しい』言うてきたんで、譲ることになったんや。二束三文みたいな値段やったけど、それでも組合員には出資金に多少色を付けて返せたんやけどね。」

 地域の酪農家が一丸となって加工販売にも取り組み、小回りを利かせて消費者と連携し、先進的な取り組みを行ってきた。それが丹但酪農の強みだった。しかし、その強みがいつの間にか慣れ合いを生み、弱点へと転化してしまったのである。手作りの良さを生かしつつ、時代の要請として高度な専門性を備えていかなければ市場で生き残ることはできない。また、丹但酪農の取り組みを支えてきたプラントも、年を経るごとに維持管理や整備更新の面でコストが重くのしかかってきたことも推測される。そのあたりに基本的な教訓があることはたしかだろう。

 しかし同時に、生産と消費の連携の内容を問うものでもある。牛乳はじめ製品の質だけでなく「酪農の現状」「地域農業・地域酪農の再生」まで視野に入れた連携を念頭に置きながら、現実の壁はあまりに大きかったと言わざるを得ない。この点をどう考えるか、関西よつ葉連絡会にとっての教訓と言える。


「こんなことなかった」

 プラントの譲渡から3年後の2016年、丹但酪農は組織を解散し、兵庫県酪農農業協同組合(県酪)に統合することになった。それまでの活動に一区切りつけた後も、塩見さんは一人の酪農家として乳牛を育ててきた。しかし昨年、ほぼ60年にわたる酪農家生活に幕を下ろすことになった。直接の要因は言うまでもなく、この間のコロナ禍に起因する輸送費の値上がり、ロシアによるウクライナ侵攻や急激な円安がもたらした穀物飼料の価格の高騰などだ。
 ■2022年7月20日付『日本経済新聞』電子版

 実は、いまから14年前、2008年にも「平成の酪農危機」と言われる出来事があった。オーストラリアでの干ばつ、米国でバイオエタノールの原料用にトウモロコシの需要が急拡大したことを受けて穀物の国際市場が急騰し、飼料価格が歴史的な高値を記録したと言われたものである。ところが現在、飼料価格は当時と比べて1.3倍以上に値上がりしているという。(「牛乳が飲めなくなる? 令和の酪農危機」NHKオンライン、2022年11月1日、参照)

 また、次のような指摘もある。

 「農水省の農業物価指数によると、飼料は7月以降急激に高騰。飼料価格は2020年を100とした指数で、昨年後半から120台と上昇していたが、今年7月からは140を超える水準が続く。配合飼料だけでなく、『粗飼料高騰の影響が一番大きい』(近畿生乳販連)とみる地域もある。」(『日本農業新聞』電子版、2022年12月5日)

 粗飼料とは生草、乾草、わら類、それらを乳酸発酵させたサイレージ(WCS)などを素材とするエサで、いわば牛の主食にあたる。これに対して、濃厚飼料とはトウモロコシや大豆、麦、ふすま(小麦の製粉の際に出る表皮)などからなり、牛の副食(おかず)に相当する。粗飼料で基本的な体格をつくり、濃厚飼料で乳生産の能力(泌乳能力)を増大させる、それぞれの役割がある。かつての水田酪農の時代ならともかく、一定の乳量や乳質を求められる現在では既存の飼料体系から外れることは難しく、下の表に見られるように、生乳生産の費用の中でも突出した割合を占めるのは無理からぬ面もある。

 「この地域で酪農家としても自給飼料を一番確保しとんのはウチやと思うな。親父が死んだときに田んぼ7反ほど持っとったんやけど、それではなかなか食えへん。そやさかい、その時分は金回りの良かった酪農を軸にしながら長い間かけて田んぼを集めて、いまは7町5反ほどになってな。去年でも、そのうち5町ほどはWCS、ソルゴー(飼料作物)やなんかも2町ほどしとったわ。そやから、粗飼料の面ではええんやけど、配合飼料がごっつ上がってきて、平均乳量で(1頭当たり)30キロ搾っとっても非常に厳しい状態になってきたさかいな。こんなことしとったら、また貧乏せなならん。いまやったら借金もなしに止められると思って、家内にも相談せんと決断したんや。家内に言うたんは、やめる1ケ月前。そりゃごっつい怒りよったけど、いまになったら家内も『良かった』言うとるわ。」

 前頁の表に明らかなように、早くから粗飼料の自給に取り組んできた塩見さんでも、配合飼料の価格がこれほどになるとは予想できなかったという。「ほんま、これまでの(経験の)中でもこんなことなかったわ」。塩見さんの率直な感想だ。加えて、現在の状況がいつになったら元に戻るのか、そもそも元に戻るのかどうかも分からない。ご自身の年齢も考えれば、決断が可能なうちに整理をつけようと考えるのは当然でもある。


経営規模を拡大しても……

 では、仮に塩見さんが20~30年若かったとして、酪農を継続しようとするなら、どのようなやり方が考えられるだろうか。

 「前に、近くの谷が売りに出とったんで、牛舎や堆肥舎を建てようと思って買い占めたんや。2町ほどあるわ。そしたら近所にも迷惑をかけへんし、子どもも(酪農を)やりよるかもしれん思ってな。そやけど、いまのところ子どももやるつもりはない言うてな。ほんでも、土地だけ確保しておいたらそのうちどうかなると思って、買うだけ買うてんねや。」

■2023年2月5日付『日本経済新聞』電子版
 牛乳の小売価格はこの20年ほど変化しておらず、生産者が出荷する生乳の価格「乳価」も極めて小幅にしか上がっていない。現状の乳価では40頭や50頭を飼っていては採算が合わず、勢い頭数を増やして経営規模の拡大を通じた効率性が求められることになる。この間、採算ラインの目安として「100頭」との数字が取り沙汰されているそうだが、下の表にあるように、実態もそれに近づいている。

 「ほんでも、そないしよう(100頭ぐらい飼おうと)思うたら、それに見合うようにいろんなものに投資せなあかんわな。人も雇わなあかんしな。何億の投資をせんならん。」

 2014年~15年にバター不足が問題になった際、農水省は酪農・畜産にテコ入れすべく「畜産クラスター事業」を推進した。機械や設備を導入する際に補助金を交付するなどして経営規模の拡大を促し、それを通じて生産性の向上と供給量の増加を図るものだ。塩見さんの周囲でも、同事業に参加して頭数を増やした酪農家がいるという。

 とはいえ、この間のような飼料高騰の場合は、むしろ逆風にもなり得る。

 「大規模なところほど飼料高はこたえるし、設備投資で借金したり人を雇っとるさかい、やめるにやめられん。大変や。」

 クラスター事業の際、農水省は増頭・増産のために補助金を出したが、コロナ禍に伴う学校給食の一時停止、外出制限や外国人観光客の減少による牛乳・乳製品の消費減を受け、この間は逆に減産を奨励する状況になっている。

 「バター不足の時は、国も全酪連も奨励金を出したりいろんなことをしたんやけれども、今度は頭数を減らしたりやとか、若い牛を屠場へ出したら補助金をやるとか、なんやかやして生産量を減らすという考え方や。」


                     酪農家戸数と飼養規模の推移
 ■「日本の酪農の現在~牛乳が生まれる原点のところ~」
      (一社)日本乳業協会ホームページより

 当面は飼料価格が落ち着くまで耐え忍ぶしかない――。それが多くの酪農家の実感だろう。他方で、小規模飼育ながらも自前でバターやチーズ、ヨーグルトやアイスクリームといった“こだわりの乳製品”を加工・販売するような業態なら成り立つ可能性がある。中間が没落して両極化が進む、これが酪農・畜産を取り巻く偽らざる現状のようだ。

 「牛乳言うたら栄養価なんか見ても、非常になくてはならない飲み物やと思うけれども、少子化やとか考えると、(将来的に)なかなか難しいとこあるわな。そこまで持ちこたえられるんか。」


和牛繁殖農家に転身

 酪農をやめたとはいえ、塩見さんは農家を引退したわけではない。時を置かず、和牛の繁殖農家にチャレンジすることになった。素人目に見れば乳牛も和牛も牛は牛。とはいえ、それほど簡単なものでないのは言うまでもない。

 「やっぱり違うね。同じ牛でもホルス(ホルスタイン)と和牛とは正反対みたいなところがあるわ。ホルスは生まれたときから親から離して、人がミルクやって育てるんやけど、和牛は産後しばらくの間は親に付けとるやろ。ほしたら、人が余分にミルクやろう思うても飲みきらへん、親の乳やないと。気性も違うし、いまは多少慣れてきたけど、はじめはどうなんねやろなと思ったわ。」

 「市場へ出すんでも、和牛は系統が重視されるやろ。とくに但馬牛は系統をやかましく言うさかい。そやけど、私はそういう知識があらへん。極端に言うたら『黒かったらええわ』くらいに思うてやっとるさかい、市場に出してもベテランと比べたら値段が下がる。同じ体重をこさえても、(売値が)ちょっと安いな。名前も知られとらんしな。」

 ところで、塩見さんが繁殖農家に転身されたことは、関西よつ葉連絡会の畜産部門である能勢農場にも少なからぬ影響を与えている。

 名称が示すとおり、能勢農場はもともと大阪府能勢町を拠点にF1の肉牛を肥育してきた。F1とはホルスタインのメスに黒毛和牛のオスを掛け合わせた交雑種で、高価な和牛には及ばないが手頃な価格の国産牛肉と位置づけられてきた。

 F1が必要とされるのは酪農の都合にもよる。というのも、乳牛が乳を出すには「妊娠・出産」の過程が欠かせないからだ。乳牛は受精後、約9ヶ月半にわたる妊娠期間を経て子牛を出産する。搾乳がはじまるのはここからで、搾乳期間は約11ヶ月半に及ぶが、次の妊娠・出産・搾乳に備えるべく、出産の2ヶ月後には受精が行われる。このように、妊娠・出産を繰り返すことで母牛は乳を出し続けるのだ。

 つまり1年に1回は子牛が産まれるわけだが、常に乳を出すメスとは限らない。オスが産まれた場合、肉用牛として市場に出しても売値は低い。メスが産まれても飼養可能な頭数には限りがあるし、酪農家が同じように市場に出せば飽和状態になってしまう。だが、黒毛和牛と掛け合わせれば、搾乳に必要な妊娠を確保しつつ一定の市場価格が見込める子牛も確保できる。酪農家にとってF1は、いわばリスク回避の副産物といった役割を果たしてきた。

 能勢農場では当初、市場で子牛を仕入れて肥育農家に販売する仲介業者(博労)を通じてF1を調達していた。しかし、2002年9月に日本でもBSE(牛海綿状脳症)が発生したのをきっかけに、翌年6月には牛の生産履歴を厳格に管理する「牛肉トレーサビリティ法」が成立する。こうした状況を一つの背景として、関西よつ葉連絡会では牛の生産履歴をさらに明確にするとともに、自らの「畜産ビジョン」(※)に沿った肥育体系の確立を目指すべく、能勢農場で肥育するすべての子牛の調達先を一般の生体市場から転換していく。その調達先こそ当時の丹但酪農の酪農家であり、その過程で何くれとなく尽力をいただいたのが組合長の塩見さんだった。2007年ごろのことだという。

 酪農家側には当初、能勢農場側が継続して一定の頭数を引き取ることができるのか訝しむ声もあったが、幸いにも順調に牛を引き取ることができ、信頼関係を深めるきっかけとなった。能勢農場および関西よつ葉連絡会としては、出所のはっきりした、消費地に近い圏域での肉牛生産という「畜産ビジョン」を実現することにもつながった。

 また同時期、丹波市春日町の廃業した畜産施設を斡旋していただき、新たな拠点として春日牧場を設立することができたのも、やはり塩見さんの尽力の賜物である。

 (※)「能勢農場の目指すもの(下)」本誌第210号(2022年6月)参照。


土佐あかうしで連携を

 ところが、それ以降の状況変化は予想をはるかに超えるものだった。F1の引き取りをはじめた当初、子牛を出荷してくれていた酪農家はおよそ37軒。それが、10年ほど経ってみれば5軒へと、すさまじい勢いで減少した。多くは廃業のためだが、廃業はせずとも大規模な酪農家(あるいは会社)の傘下に入ってしまえば、自らの一存でF1を出荷することは難しくなる。

 こうして、能勢農場は昨年、丹波市の酪農家と続けてきたF1子牛の引き取りに終止符を打つことになった。最終決断に至った要因は、やはり塩見さんが酪農をやめたことだという。

 とはいえ、もちろんこれで関係がなくなったわけではない。むしろ、新たな段階が訪れたと言うべきかもしれない。

 能勢農場では、2015年から土佐あかうしの試験放牧をはじめた。そもそもの発端は「畜産ビジョン」を追求する中で、畜舎に牛を並べて濃厚飼料を与え「増体」と「サシ(脂肪交雑)」の具合を競うような近代畜産に疑問を持ち、動物としての牛に相応しい飼養のあり方を模索したことがきっかけだ。言わば、自然環境の側面から持続可能性を考えた故の発想である。

 しかし、丹波市におけるF1子牛の導入が難しくなるにつれ、経済的な持続可能性の面からも検討せざるを得なくなってきた。すなわち、このままでは遠からず全国的にF1子牛の安定した導入が困難になることが予想されるため、それを見越して土佐あかうしへの切り替えを具体化する必要に迫られたわけだ。

 とはいえ、土佐あかうしはF1のように簡単に市場から導入できるわけではない。高知県で改良され、ブランド化されてきただけあって、無原則な繁殖や流通を防ぐべく、県畜産試験場は小規模でも着実に持続的な展開を考えている事業者に限定して繁殖の許可を与えている。幸い、能勢農場はそのお眼鏡にかなったものの、一方で現状では能勢農場には繁殖を行う余裕も技術もない。勢い、信頼できる繁殖農家との連携が必要となる。そう、まさに塩見さんはうってつけの存在なのだ。

 実際、すでに塩見さんの了解は得ており、1月には高知のあかうし市場で塩見さんに預託する予定の子牛も購入済みだという。現状では、まず子牛を育成(おおむね月齢4ヶ月から24ヶ月まで)してもらい、成牛になった段階で種付け(受精)をお願いし、産まれた子牛を月齢9ヶ月まで育ててもらった後、諸経費を含めて能勢農場が買い取る予定だ。当面は10頭をメドに考えているという。

■塩見さんの牛舎には今も乳牛がいる(肉用に出荷の予定)
 「置くところはなんぼでもあるから」と塩見さんは言う。塩見さんと能勢農場との間で土佐あかうしの連携が順調に進めば、農場にとって助かることは言うまでもないが、さらに地域の中でなにがしかの波及効果が生まれるかもしれない。その意味でも新たな段階と言えるだろう。

 すでに見たように、関西よつ葉連絡会と丹但酪農との連携は当初の期待通りに進まず終わった。近場で同じ思いを持って連携していける生産者組織を失ったことは少なからぬ痛手だが、着実に次の展開の芽を残してもいる。その芽をどう育てるのか、地域の農業、地域の畜産に資するような関係をどう築いていくのか、これからの関西よつ葉連絡会にとって重要な課題となることは間違いない。

                                                      (山口 協:当研究所代表)


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