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アソシ研リレーエッセイ
地球に降り立つための美術



 連休を利用して直島に行ってきた。直島は瀬戸内にある芸術の島である。直島には安藤忠雄が建築設計をした美術館がいくつかある。安藤忠雄の建築は数年前から好きで、そこから建築全般にも興味をもつようになった。安藤建築の特徴はコンクリート打ちっぱなしで、自然光を取り入れ、時間の経過や気候などに従って室内の明るさや壁に投射される影、光の線が変化するのが特徴である。コンクリートによるダイナミックな設計も魅力である。

 地中美術館はクロード・モネの大作「睡蓮」の展示が中心に据えられている。地中美術館はこの「睡蓮」の購入をきっかけに構想された。美術館というフレームの中から飛び出し、自然の中に作品を設置したものをランド・アートと呼ぶ。また作品を設置し、その空間そのものをも作品とするジャンルをインスタレーションという。

 モネの絵画連作「睡蓮」はインスタレーションの始まりという説もある。美術館の一室を「睡蓮」で囲むことによって鑑賞者が蓮池に囲まれているような錯覚に囚われるからだ。囲まれることによって錯覚が生じ、そこには現実の蓮池との差異が生じる。もちろん、絵画そのものも作品だが、設置の具合によって意味合いが異なってくる。

 地中美術館はモネの「睡蓮」のそのような特質を中心にして、二人のランド・アーティストの作品が展示されている。どの部屋も安藤の特徴である自然光を取り入れることによって、その場や作品自体も表情を変えるものになっている。

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 科学人類学の視点から脱近代のための議論環境を形成してきたフランスの哲学者ブリュノ・ラトゥールが今年10月9日に亡くなった。非常に残念だ。彼は「地球に降り立つことへの7つの反対理由」(『クリティカルゾーン:地球に降り立つことの科学と政治学』序論)と題する文章をドイツで開催された気候変動をテーマにした美術展覧会のカタログに掲載している(邦訳は『美術手帖』2020年6月号、所収)。

 ラトゥールにとって人新世における美術の可能性とはどこにあるのか? 要約すれば、近代人とはローカルとグローバルの双方に軸足を置きながら繁栄してきたのだという。近代人はある特定の場所に暮らし、家族を営み、周囲との関係性を築くが、一方で食料などは行ったこともない遠いさまざまな国から仕入れて、生きるのである。

 また人は自分の土地といいながら、その地にある微生物や植物、酸素などの化合物の営みを知らない。ある専門家に任せてしまっているのである。

 そのような近代人の矛盾を孕んだ営みと現代の地球環境が危機的な状況にあることはつながっているというのである。

 今後、地球の危機的な状況がどのように進行していくかは未知のものと捉え、まるで天動説から地動説に常識が変わったときのようにラトゥールはこれまで地球(チキュウ)として認識していたものとはまったく別のものとして地球(ガイア)を把握しなければならないと言い、そのチキュウと呼んでいた惑星を「クリティカルゾーン」と呼んだ。直訳すれば「危機的な地帯」となる。「地帯」とすることで、もはやわたしたちの認識から遠い存在となっていることを示している。そもそもその認識でさえ、人間本位の都合によるものであって、一義的なものに過ぎないのである。

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 ラトゥールが中心となって提唱したアクターネットワーク理論は、社会的、自然的世界のあらゆるものを絶えず変化するネットワークの結節点として扱う。ある社会的な現象に関わる要因はすべて同一のレベルにあり、社会的な力それ自体は存在しないため、社会現象を説明するために用いることはできない。社会現象を「説明する」のではなく、「記述する」ために「経験的」分析を行うべきとする。

 芸術作品とは断片的に「記述する」ものに過ぎない。このクリティカルゾーン全体に対する認識を提示するものではない。人新世における芸術の役目とは地球というクリティカルゾーンに対する多様な様相を感受する力を養うものとして、ラトゥールは位置づけている。問われているものはアクターネットワーク。人類と自然の新たな関わりのなかで生まれる現象を記述する行為である。

                      (矢板 進:関西よつ葉連絡会事務局)



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