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市民環境研究所から

武村正義さんとカザフの思い出


 6月半ばから始まった夏は10月半ばになって、やっと秋へと進んでくれた。この暑い夏に、長い間、筆者の相談に乗り、一緒に動いてくださった何人かの方がこの世を去られた。悲しい暑い夏だった。

 2週間ほど前の早朝、友人から武村正義さん死去の情報が届いた。慌てて朝刊を見ると、「元さきがけ代表・武村正義元官房長官死去」と書かれていた。有名な政治家の突然の登場に驚かれた人もおられると思い、どんな関係だったか説明させていただく。

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 1989年に野間宏さんが団長で、作家たちの「環境と文学フォーラム」に部外者の筆者が参加を許され、第2回目のセバン湖会議の帰途にカザフスタンに立ち寄った。そこで「アラル海消滅」というとんでもない環境破壊の実態を知り、筆者のカザフスタン詣が始まった。

 ソ連邦が1991年に崩壊し、カザフスタン共和国が誕生した後、同国の作家で大統領顧問のアリムジャーノフさんを大統領特使として日本に招待した。招待元は「日本カザフ文化経済交流協会」という小さな団体だが、使節団はナザルバエフ大統領から宮澤首相への親書を持参しており、当時の政府と面会し、日本とカザフの友好関係樹立を誓い合った。

 世界で第4番目の湖面積を誇るアラル海が半分以下に縮小し、セミパラチンスクの大草原で数百回も繰り返された原爆実験による人々の放射線障害など、カザフでは多くの環境問題が発生していた。筆者は、これらの環境問題と人々の生活を調査したいと考えていたが、交流を進めるために、ますカザフに日本大使館を設立しなければと、無謀にも民間外交を始めたのである。日本政府は、中央アジア5ケ国ではウズベキスタンにまず大使館を設立する予定とのことだったが、カザフでも同時に設立をしてほしいと請願した。

 特使招待の次は日本の国会議員のカザフ訪問をと考え、少しは面識のある滋賀県選出の国会議員・武村正義さんにお願いすることにした。

 滋賀県知事だった武村さんは「琵琶湖総合開発」事業を進める立場にあり、反対運動に参加していた筆者には良い感情を持っておられないと思っていたが、琵琶湖の富栄養化と汚濁阻止のための「せっけん運動」を共に進めていた細谷卓爾さんの仲介でお会いすることができ、カザフ訪問をお願いした。そして、日ソ友好議員連盟の一員だった武村さんと3名の国会議員と一緒に訪問し、ナザルバエフ大統領との会談も成功し、1993年1月に在カザフスタン日本国大使館が開設された。筆者のような者の提案を受け入れ、日本政府に働きかけ、目的を実現して下さった武村さんに敬意を表しながら、筆者が「アラル海縮小とその影響」を調査すべく、アラル海に頻繁に通い始めたのは1994年からである。

 筆者は大学を定年退職した後、「NPO法人市民環境研究所」を開設し、アラル海問題調査や種々の社会・環境問題の市民運動を続ける拠点とした。ある日、研究所に一人でいた時に、武村さんが秘書の方と一緒に来てくださった。椅子に座るなり、「事務所を開いたと人伝に聞き、どんな貧しい部屋にいるかと心配で見に来たが、なかなか良い研究所だね」と喜んで下さった。その後も何度もお会いしていろんなことを教えていただいた。ある時は「中国の新疆ウイグルに行くが、カザフとの国境も見えるから見に行こうよ」と声をかけてもらい、カザフ族とウイグル族の交わりを見ることができた。

 筆者のような者にも、気軽にお付き合いいただき、大きな仕事を助けていただいた武村さんのご冥福を祈り、氏のようなおおらかな政治家なればこそ出来た足跡をもう一度見つめ直そうと思う。

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 この3日間、愛媛県の松山市から佐田岬あたりを初めて訪ねてきた。いくつもの入江がある海岸沿いの急斜面に開拓された柑橘畑を見学しながら、若い学生や筆者のような老人が、共に農業・農薬を考える2日間のツアーが終わり駐車場に戻ると、白やピンクの花を付けた植物が群生していた。何気なく近寄ると、そこにはなんとアサギマダラの群れが飛び交い、花の蜜を吸って、これから沖縄・台湾の暖かい土地へと続く長旅を支える体力を備えていた。元気で旅してくれと願いつつ、澄み切った青空に向かって武村さんと蝶々たちに別れを告げた。

                          (石田紀郎:市民環境研究所)

  


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