HOME過去号>211号  


アソシ研リレーエッセイ
私はオーガニック信仰を嗤えるか



 最悪のタイミングで私の順番である。これまで世間から手厚い保護を受け続けてきた安倍元首相が呆気なく銃撃された。彼が生前愛していた自己責任論で片づけてあげれば彼も本望だろう。今回の参院選で、泡沫と思われていた右派政党が議席を獲得した。その名は「参政党」。文筆家、古谷経衡氏の「参政党とは何か?『オーガニック信仰』が生んだ異形の右派政党」が分かり易く解説している。それによると、同党は重点政策として、①「子供の教育」、②「食と健康、環境保全」、③「国のまもり」を掲げる。これだけを見るとナチスの焼き直しでしかない。

            ■      ■      ■

 さて、昨年頃から私たちの農園に、②の「食と健康」に似た主張を持つグループが参加している。地域の給食のオーガニック化を目指して野菜づくりを始めた。古谷氏は②を「オーガニック信仰」と表現し、その非科学性を批判するが、このグループに悉く当てはまる。例えば、「ハイブリッド品種」は嫌で「固定種」を育てたいと繰り返すが、これらの言葉の意味すら正確に知らない。「自然農」という標語を掲げているのに、何を栽培するか決めるとき土に相談せず机上で決めてばかりで、味方につけなければならないはずの土壌生物や雑草に関する知識も皆無。

 自然農法に関心がある人たちは、私がナチスのオーガニック信仰について話すと、「なぜ、そうなってしまったんでしょう?」と驚く。しかし驚くことではない。むしろ、自己批判的思考を欠いた運動は必然的に優越意識に向かうと、私は思う。その驚きの裏には、「自分たちと同様にオーガニックを信仰するようなイケてる人たちが悪いことをするはずがない」という類のナイーヴな思い込みがある。自分たちの正義を微塵も疑わない。ここに問題の本質がある。逆に、どんな情報を吹聴されても自己批判的思考は常に自己の信念の正否を検証する。

 「健康」は自己批判的思考を鈍らせる。「健康とは何物にも代え難い」などと絶対視する言説が満ち溢れている。しかし「健康」を至上目的としたオーガニック信仰の先には必ず優生思想との接点がある。これと関連するかのように、参政党の公式マニフェストでは社会連帯が軽んじられている。日本の国際社会における位置に無自覚な一国平和主義はもちろんのこと、社会福祉すら敵視している。しかし、排外主義を放置したり社会福祉を蔑ろにしたまま「オーガニック」を普及させるだけで、果たしてみんなが健康になるだろうか? 健康を害する最大の要因は決して農薬や添加物それ自体などではない。あるいは、釜ヶ崎の住民たちが日本で最も短命であることや結核の罹患率が高いことなどは、かれらにとっては既に「健康」問題ではないのであろうか。この点を忘れれば政治がオーガニック産業の餌食になるだけである。社会連帯なくして真の健康はあり得ない。決して全てのオーガニック信者が社会福祉を否定していると言いたいわけではないが、私の周囲に渦巻く「健康」志向には恐怖しか感じない。

 「健康」とは一体何か。グループ参加者の子どもが学校で健康をテーマとした授業を受けたという。健康とは「元気に遊べること」「辛いことも経験しつつ笑顔でいられること」「何かを頑張れる力」、そして「健康に過ごすために必要なことは助け合い」という意見がクラスメイトから出された。小学3年生がオーガニック信者より達観している。そして「健康とは何か」が定義されたところで初めて「食と健康」の関連性を議論できる。

             ■      ■      ■

 ここまで論じてきたが、それでも私はオーガニック信仰を嘲笑できない。グループの成員はほとんどが子育てに奮闘するママさんたちである。ここに私はジェンダー的不平等を読み取らざるを得ない。つまり、子どもの育ちに関する責任を母親が過剰に負わされているという風潮は根強いのではないか。親族などからの圧力を何とかやり過ごすべく模索した価値基準が「健康」であろう。そして「健康」が明確な定義を欠いたまま絶対視される。母親として「健康」のためにできることは限られている。だから食材に気を遣うしかない。これではオーガニック産業は霊感商法と変わらない。「食と健康」の関係は差別の結果かも知れない。真の社会連帯は立場を異にする者どうしの真摯な相互批判なしには実践できない。だから私は相互批判的関係を構築すべく努めるのみである。

                          (綱島洋之:大阪公立大学)



©2002-2023 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.