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      地域と出会うフィールドワーク 報告
「ウトロで生きる、ウトロで出会う」

    ウトロの歴史と人びとの歩みから学ぶこと


 京都府宇治市のウトロは在日朝鮮人の集住地区。戦時中、飛行場建設のために集められた朝鮮人労働者の飯場がその原型だ。戦後、住民たちは上下水道などのインフラもない厳しい状況の中、手を携えて暮らしを紡いできた。「不法占拠」を理由とした立ち退き攻撃に見舞われながら、住民たちのたたかいとそれを支援する日韓の市民や韓国政府の協力で解決の道が開かれ、この4月には地区の歴史を伝えるウトロ平和祈念館が開館した。当研究所は6月25日にフィールドワークを行い、祈念館副館長の金秀煥さんにウトロの歴史の解説、館内展示およびウトロ地区の案内をしていただいた。以下、金さんのお話を中心に紹介する。



金秀煥副館長のお話

 みなさん、こんにちは。金秀煥と申します。ウトロ平和祈念館の副館長をさせていただいています。4月30日に祈念館が開館して2ヶ月弱ですが、来館者が3000人を超えて、たくさんの方々にお越しいただいて、嬉しく思っています。

 私は在日朝鮮人です。在日コリアンや在日韓国人や、いろいろな呼び方がありますが、朝鮮半島の出身で日本に住んでいる者として、在日朝鮮人と言っています。今、46歳で在日3世になります。私の祖父母が戦争中に日本に渡ってきて、私のアボジ(父)、オモニ(母)も日本で生まれて、私の子どもは在日4世になります。

 私自身は12年前からここウトロ地区にある生活センター(南山城同胞生活相談センター)で、この地区の人々や周辺の在日の方々の生活支援をしていました。そういう経緯でこの祈念館建設に携わり、副館長をさせていただいています。


ウトロ地区の歴史的な背景

 さて、ウトロ地区の歴史についてですが、戦争中に国策として京都飛行場がこの地域に建設されました。そのための労働者として集められた朝鮮半島出身者たちの飯場(簡易宿舎)がこの地区の原型になります。戦後もそのまま定着した人たちが住み続けて、現在も住民の95%を朝鮮半島にルーツのある人々が占めていて、在日の集住率が極めて高い集落になっています。

 このような在日朝鮮人の集落ができた背景として、そもそも朝鮮人たちはなぜ日本に来たのかという理解がまず必要になってきます。それに関して、大きく二つの理由、流れがあります。

■平和祈念館でのレクチャーの様子
 一つは強制的に連れてこられた人たちがいます。国家総動員体制の中で朝鮮人労務動員計画というのが1939年に政府の施策として推進される。最初は「良い働き口があるよ」とかいう形で連れて行くのですが、戦争末期になると人攫いのような連行も行われたと言われています。それにはかなり議論はあるのですが、そこに当時人びとの自由意思があったのかどうかが大事なポイントになってきます。「騙されて連れて行かれた」ないしは「経済的に苦しくて行かざるをえなかった」また「無理やり連れて行かれた」など、さまざまな人がいますが、自由な意思で日本に来たわけではないことがまず一点あると思います。

 それともう一つ、39年以前にも朝鮮から来ている人たちがいます。彼ら彼女らは動員されたわけではないので、自由意思による出稼ぎ労働者かと言うと、そうとは言えません。1910年に日本が朝鮮を日韓併合という形で日本のものにしてしまい、植民地支配が始まります。多くの日本人が植民者として朝鮮半島に行き、いっぱいお金儲けをする。植民地支配の中で、富が植民者の方に偏り、一方で朝鮮の人たちは困窮します。生まれ育った朝鮮では生活ができず、日本に来た人たちがたくさんいます。

 さて、このように当時の植民地支配や戦争を背景にして、日本に来ざるをえなかった人たちですが、戦時中は日本人も生活が困難で、朝鮮の人たちはさらに差別を受けていて、二級市民のように扱われていました。朝鮮人は日本人よりも劣るとされて、仕事もできない、家も借りられない。また、戦争がひどくなってくると徴用や徴兵に駆り出されることになります。当時は朝鮮人も日本国民とされていたので、炭鉱や軍隊に、徴用、徴兵に行かないといけない。しかし、そういうところは、いったん駆り出されると生きて帰れないほど過酷な状況だという当時の認識がありました。国策事業の飛行場建設で働けば、それが免除されるという触れ込みで、労働者たちが集められたわけです。このようにウトロに来た人たちは、いわゆる強制連行や労務動員ではなかったとしても、自由意思による単なる出稼ぎ労働者ではなくて、日本の植民地支配や戦時体制の中で、選択の余地がない社会構造の中で集められた人たちなのです。ウトロという集落ができた背景として、植民地支配と戦争の存在をまず考えていただきたいと思います。


戦後、民族教育が行われた

 1945年8月15日、戦争が終わりました。それは在日朝鮮人たちにとっては戦争からの解放であると同時に、植民地支配からの解放でもありました。しかし一方で、それと同時に飛行場建設は中止され、ここの人たちは失業者として放置されてしまいます。戦争が終わり、やっと自分たちは解放されると、男性たちはすごく喜んだそうです。いろんなところでお酒を飲んで、どんちゃん騒ぎをしますが、女性たちは全然喜べない。なぜかと言うと、生活がかかっているからです。解放されても、それまであった仕事がなくなってしまう。戦時中も生活は大変だったのに、もっともっと大変な状況で、女性たちは全然喜べなかった。終戦後、そういう先行きのわからない生活がこのウトロ地区で始まることになります。とても厳しい生活が続くのですが、みなさんにぜひともお伝えしたいのは、戦後のこの地区の特徴として、民族教育が行われたということです。

 ここに住んでいる在日朝鮮人の子どもたちに朝鮮の言葉、文化、歴史を教えるための、自分たちの学校をつくったのです。先日、来館されたある大学の学生たちがこんな質問をしました。「この人たちは戦争が終わって、仕事もなくなり家族も食べられない。そういう状況でなぜ自分たちの学校をつくったのですか」と。その答えは、こうです。植民地支配の中で、朝鮮人たちは朝鮮語の使用、朝鮮語による教育を禁じられていた。それから解放されたので、民族性を回復するために民族教育を行った。また、ここで終戦を迎えた人たちは、いずれ故郷に帰るという思いを持っていました。とくに、子どもたちが朝鮮へ帰った時に不便なく生活ができるように、そういう思いで学校をつくったのです。自分たちが食べることよりも、子どもたちにちゃんと学んでほしい。親たちにはそんな強い思いがあったのです。

 そのような教育も1949年、当時は日本がアメリカの占領下にあったので、GHQ(連合国軍総司令部)の命令によって強制解散を余儀なくされました。そうした激動をくぐりつつ、それでも一生懸命つないでいく、そういう記録も上階の展示の中でご覧いただけると思います。


ひどい貧困と差別の経験

 他方で、戦争が終わった後も、在日の人びとにはひどい差別がありました。いろいろな形でしたが、子どもたちは学校でいじめにあうのです。今でこそキムチはスーパー、コンビニでもたくさん並んでいますが、当時は差別の象徴としてありました。変な臭いがするということで、ニンニクの臭いに慣れていない当時の日本の人たちには、嫌な臭いとして忌避されていました。特に学校で子どもたちが弁当にキムチを入れてくると、「また朝鮮人が臭いものを持ってきている」と言って、クラスでいじめられる。その子どもは親に、「お願いだから弁当にキムチを入れないで」と訴える。

 でも、次の日の弁当がまた臭いがすると言われます。弁当を開けたらキムチが入っていて、そのキムチは水で洗ってある。おいしくないです。でもその親はちょっとでも臭いを消すためにキムチを水で洗ったのです。子どもはそれが分からないから、「あんなに言ったのにまたキムチを入れて、しかも水で洗っておいしくもないものをなぜ入れるのか」と怒って、親によく文句を言った。そんな話をされていたけれども、子どもは大きくなって初めて分かる。あのとき、それでもキムチを入れた理由は、ほかに入れるものがなかったからだと。貧しかったので、それしか入れられない。それでも水で洗って入れる親の気持ちを考えると、本当に悪いことをしたと、後にその子は考えるのですが、そういう暮らしだったのです。

 いじめの経験を男の人に聞くと、またちょっと違っていて、男の人はいじめられたのはだいたい低学年までで、高学年や中学になって身体が大きくなると、倍返しをしてやったという話も聞きます。そうやっていじめを撃退したのですが、日本人にとってはそれは嫌な思い出になっています。だからウトロの人間は汚いとか、危険だ、怖いという偏見が生まれます。子どものいじめとはいえ、確かに足を踏まれているわけです。足を踏まれた経験は人間みんな覚えています。足を踏んだ人はあまり覚えていない。いじめる側、差別する側は無意識ですが、される側はすごく心の傷を受けます。こういうことが子どもたちの中でもあって、そういうふうに偏見というのは広まっていくのだと思います。

 学校を卒業すると、次に就職の問題があります。仕事をする上でも、朝鮮人、韓国人はなかなか仕事に就けない。よく地区の方がおっしゃるのは、自分たちは差別をされるので、仕事をしても日本人の3倍働いて、やっと食っていける。それで一生懸命働いたと言います。一生懸命働きますから、上の人に認められて、正規で雇うから戸籍を持ってこいと言われる。外国人で戸籍がないので、持っていけない。朝鮮人だと言うと雇ってもらえないので、そこから職を転々としたという人もたくさんいます。

 祈念館が始まって、最近かかってきた電話があります。年配の日本人の方で、地元にあるユニチカの工場で働いていたけれども、当時、朝鮮の人たちは本当に苦労をしていたと。彼らは一生懸命働いても、誰も正規雇用されない。非正規のまま雇われて、日本人たちはみんな出世をして正規雇用をされるけれども、使い捨てのように使われて、それを自分は見ていたので、すごく申し訳ないという思いを持っている。祈念館ができて、そういう思いをしっかり伝えたいし、今後そういうことがないように、祈念館を応援していきたいと、そういう思いを話されました。


インフラ整備における差別

 2008年の統計によると、当時この地区内に70世帯、180人ほどの人が住んでいました。その時点で、上水道を使っているのが26戸、井戸水を使っているのが36戸、約半数です。どういうことかと言うと、この地区はずっと上水・下水が整備されていなかったのです。宇治市では1960年代から70年代前半にかけて、水道が整備されていきます。しかしこの地区は朝鮮人の集落であり、また、過去に飛行場をつくっていた日本国際航空工業という会社の所有地を日産車体が引き継いだもので、つまり民有地だったので、インフラ整備がまったくなされない状況でした。それはただ単に、周りが上水道を使って、この地区だけが井戸水、それだけで済む問題ではありません。周りで上水道を整備するための工事が行われると、地下水が濁ってきます。だから今まで使っていた井戸水すら使えなくなる。だからもっともっと深く掘っていって、しばらくはきれいな水が出ますが、また汚れる。このように差別は人びとの間に階層をつくるのですが、そこからいろいろな不利益が拡大していくので、社会の階層化というのはとても危険で、とても深刻な問題なのです。

 そういった状況の中でずっと水道が引かれないままだったのですが、それはおかしいじゃないかということを、日本の人たちが気づいたのです。このウトロ地区だけが井戸水で生活しているのは深刻な人権問題であると、日本の人たちが地元で運動を展開しました。その時に掲げたのが、ウトロ地区の井戸水の生活は「かわいそうだから改善してあげましょう」ではなくて、「宇治市全体の恥である」という訴えです。かわいそうな人たちを助けるのではなくて、この問題が存在しているこの社会が恥ずかしい。だから「私たちの問題だ」と運動に取り組んだのが、ウトロ支援の始まりです。そこから運動が展開されていきました。

 このような差別構造に関して、住民や支援の人たちが声をあげながら、問題が改善されていくことになります。しかし、ウトロ地区に上水道が引かれるのは1988年なのですが、2008年の時点でも上水道を使っていない人がいます。それはなぜかと言うと、行政は道路に上水道の本管を入れるところまでやりますが、本管を自分の家に繋ぐのはみんな自費でやらないといけません。ただ、ここである事件が起こります。この土地の立ち退きを求める裁判です。


土地問題の経過とウトロのたたかい

 先ほども言いましたが、飛行場は国が国策として進めながらも、工事や建設は民間の企業にさせました。戦争体制が解除される中で、土地は民間に払い下げられ、日産車体がこの土地の所有権を持っていました。ただ、日産車体も土地は所有していても、すでに人びとが住んでいるし、過去の経緯などを鑑みれば追い出すこともできません。それで、ここの土地を不動産会社に売ってしまいます。その結果、日産車体は、問題は自分たちとは関係がないことになる。土地を買った不動産会社も過去の経緯などには関係がないので、ただ土地の所有権を振りかざして、住民たちに立ち退きを求める裁判を起こします。

 裁判は民事裁判の形で、ただただ土地の所有権を争う裁判になってしまいます。でも、ここに住んでいる人たちは、冒頭に申しあげたとおり、植民地支配や戦争の中でここに来た人たち、そういう背景のある人たちです。また、戦後も行政のインフラ整備や様々なことで差別され、大変な思いをされてきて、その中でも生活を築いてきた事実がある。そういう事実が一切認定されずに、ただ法律上の土地所有権だけが判断されて、裁判で明け渡しの命令を受けることになったのです。

 最高裁が判断を下すのが2000年ですが、ここの住人たちはその判決を受けても、明け渡しの命令がまったく理解ができない。「なんで?」という反応です。日本人の支援者たちも、ありえない判決だとして支援を続けます。住民たちは諦めずにたたかうのですが、どのようにたたかったかというと、「私たちはここで住んでたたかう」と主張したのです。ここに住み続けながら、ここの土地問題の解決を社会に訴える。法治国家である日本の司法の最高機関まで「出て行け」と言ったのですが、それを受け入れずに、今までここで住み、生活をしてきたので、これからもここで住むという当たり前の自分たちの要求を貫き、実践していきました。

 以上のような経過をたどるのですが、その後、ウトロ住民のこのような状況に対して、国際社会から、住民たちに対する追い出しは国際的に見ると深刻な問題である、といった批判が起こります。差別によって住民たちの人権、居住権、生活権が守られていないとして、国連の社会権規約委員会から日本政府が是正勧告を受けたり、国連人権委員会の特別報告者をはじめいろいろな人たちが、これは日本政府が救済しないといけない問題だと、さまざまな勧告を送りました。しかし、まったく改善される兆しはありませんでした。


韓国の市民と政府による支援

 そういった中で、この問題に対して大きな転機となったのが、2005年以降、韓国でもこのウトロの問題が大きく広まって、支援運動が始まったことです。深刻な人権侵害で在外同胞たちが苦しんでいるこの問題を解決しないといけないと、運動が広がったのです。しかし、当時の韓国の人たちにとって、海外にいるかわいそうな人たちを助けようという動機ではありませんでした。日本の支援の人たちが自分たちの問題だと捉えたように、韓国の人たちも、「海外の在外同胞の問題だけれども、自分たちの問題でもあるのだ」と考えました。

 1965年に日韓条約とともに日韓協定が結ばれました。それによって、韓国政府と日本政府は国交を結んだのですが、過去の歴史問題については最終的に完全に解決したという合意をします。日本政府は過去の植民地支配や戦争についての謝罪と賠償はせずに、経済協力金の名目で3億ドル相当の経済援助を韓国に出す。それが韓国の経済発展に影響を与えるのですが、歴史問題をしっかり見つめ直して、それを反省するのではなくて、経済援助によって過去の歴史問題をなかったことにしてしまったわけです。今、韓国との間で生じている徴用工の問題などでも、その時に済んだことだから今さら何も言うな、それが日本政府の論理です。

 ウトロの問題も同様です。韓国の市民たちは、韓国政府が日本政府と経済援助で歴史問題を妥協し、問題の本質的な解決に対して道を閉ざしてしまった、その韓国の国民の一人として責任を負っていると考えました。自分たちの今の豊かな社会ができる過程で、その代償として歴史問題を切り捨ててしまった、その責任が国民の一人としてあるので、それを改善するために、自分たちの問題として取り組まなければならないと考えて、韓国でも大きな運動が起きたのです。

■平和祈念館と移築された飯場(右)
 こうしてウトロを救うための募金運動が始まったのですが、その中で、とても有名な人たちも参加しています。ちょっと前に話題になったテレビドラマ『愛の不時着』の主人公を演じたヒョンビンさんをはじめ、多くの芸能人の人たちが運動に参加してくれました。たくさんの市民がこのウトロ・キャンペーンに協力して、韓国の市民たち15万人が募金して、日本円で6000万円を集めるという、爆発的な力を発揮しました。そういう市民たちの動きに合わせて、韓国政府もこの問題に国家として関与します。2007年末に国会で30億ウォンのウトロ支援金が可決されます。当時はウォンの価値が高く、日本円で3億6000万円の価値があって、ウトロ地区の一部を買い取ることになりました。その土地に日本の行政が公営住宅をつくって、ここの人たちがウトロ地区でそのまま住める、そういう街づくりが今まさに行われています。これまで1期棟が完成して、2018年から40世帯が入居されました。今は2期棟の建設が行われていて、そこに入る12世帯の人たちが待機をしている状況です。


ウトロ祈念館のメッセージ

 このウトロ地区の問題は、植民地支配と戦争、戦後の差別、いろいろな悲しい苦しい歴史としてあったのですが、それをここの住民たちと日本の市民たち、そして韓国の市民の力で解決策を見出して、そこに韓国政府も日本政府も参加をしながら、新しい歴史をつくった本当に貴重な経験だと思います。今、日韓の歴史問題や、差別の問題、世界的に見ると分断・対立が非常に深刻化している中で、ウトロの平和祈念館が発するメッセージは、すごくシンプルです。「仲良くした方が幸せになれるよ」「争ったり、人を蔑んだり、人を疑ったり、人を排除するのではなくて、みんなが出会って、みんなが力を合わせて、みんなが仲良くなった方が、いい未来ができるよ」というメッセージです。

 ウトロの歴史というのは、人びとの生活の中での歴史なので、いろいろな側面で感じていただきたいと思っています。ウトロ平和祈念館のキャッチフレーズは「ウトロで生きる、ウトロで出会う」というもので、歴史の記録だけではなくて、新しい交流の歴史をみんなと一緒につくっていく、そういう祈念館として運営していきたいと思っています。特にこの1階のフロアは多目的ホールで、ウトロに来られた人たちが、ただ見て帰るだけではなくて、座ってコーヒーでも飲みながら、いろいろ考えたり、ここにいる人たちと出会ったり、住民たちと交流をしたりできるようなスペースになっています。これからたくさんの、とくに若い人たちに来ていただいて、差別のない社会、みんなが仲良くできる社会、誰も取り残されない、みんなが安心できる社会をつくっていく、そういうメッセージを発するところになれればと願っています。


質疑応答から

 
質問:祈念館の場所はもともと何でしたか。

 
金秀煥さん:この場所はウトロ地区の端っこですが、もともと人びとの家があったところで、隣も公営住宅建設のために除却された土地です。韓国政府の支援金と市民募金で土地を買い取ったのですが、市民募金1億2000万円で買い取った土地の上にこの祈念館があります。

 市民募金には韓国の市民募金6000万円も入っています。またある東京の在日1世の方から現金で4000万円の寄付をいただいたこともありました。日本、韓国のいろいろな人びとのカンパによって、このウトロ地区での生活が守られたので、ウトロの人たちも自分たちの生活だけではなくて、ウトロの歴史もしっかり残さないといけないという思いから、祈念館がつくられました。

 最初に祈念館の構想が出てきたのが2007年で、土地問題が本当にどうなるかわからない時でしたが、最初の構想では歴史に対する評価はすごく厳しいものでした。戦争で苦しんだ人たち、差別で苦しんだ人たち、その歴史を残したいという思いが強かったからです。でも、その後、多くの人たちの支援で立ち退き問題が解決して、いろいろな人たちが学びに来られました。たくさんの出会いが生まれて住人たちもすごく喜び、祈念館を単に辛く悲しい事実を伝えるものでなく、それを乗り越えて新しい未来をつくっていくような施設にしたいと思うようになりました。それでガラッと雰囲気が変わりました。

 歴史問題や差別の問題に向き合うことは大事ですが、見た後に頑張ろうと思ってほしい。「戦争や差別があって悲しい、忘れたらダメだ」で終わるのではなくて、みんなが積極的に、前向きになれる、そういう祈念館でありたいと願っています。


祈念館と地区をめぐる

 ウトロの歴史に関するお話に続いて、金さんの案内で祈念館の展示や地区を案内していただいた。

 祈念館の2階には当時の写真やパネル、さまざまな資料などによって、戦前、植民地時代の朝鮮の社会状況やウトロの様子、戦後の生活や土地問題、ウトロを守る住民たちのたたかい、韓国や日本の人たちの支援について解説され、また表現されている。


飛行場建設当時の飯場の写真を見ながら

 
金秀煥さん:統計などは残っていませんが、当時ここで働いていた人の話では、飯場は飛行場の隅っこにあり、そこに朝鮮人労働者が約1300人住んでいました。土木作業自体には2000人ぐらいが携わっていましたが、当時主力は朝鮮人労働者でした。

 ここで働いていた人たちも戦争が終わり、仕事がないので出て行った人たちもいれば、故郷に帰った人たちもいます。一方で、新しくウトロに入ってきた人たちもいます。最終的に裁判が起こる1980年代には約80世帯、380人ぐらいが住んでいました。


ウトロという地名の由来について

 
金秀煥さん:祈念館に来られた人の質問のナンバーワンが「ウトロ」という地名の由来です。江戸時代にはここは「うど口」と言われていました。その口をカタカナのロに読んで、ウトロになったと言われています。ウトロは正式な町名です。北海道のウトロという地名も最近テレビでよく出てきますが、北海道のウトロはアイヌ語が語源です。

 ウトロが正式に文書に出てくるのが1951年。宇治市が始まるにあたって、小倉村に正式な地名をあげるように指令があった時に、初めてこのウトロが出てきます。それまでうど口(宇土口)だったのに、ウトロということになった。このウトロ地区というのはまわりには誰も住んでいない、飯場のバラックしかなかったところです。ということは朝鮮人たちがこれを読み間違えて、ウトロと分かりやすいようにしたのではないか考えています。これは私の推測です。韓国語の話者は濁音の発声が難しいこともあって、ウトロになったのではないかと思います。


植民地朝鮮の苦境と渡日する人びと

 
金秀煥さん:当時、故郷の朝鮮で苦労して、朝鮮人たちが日本に来たのですが、一方で日本人もたくさん朝鮮にいました。在朝日本人です。植民地支配で日本も良いことをしたと言う人がいます。日本が支配したから米の生産高も上がって豊かになったと言いますが、実は朝鮮人の消費量は減っています。つくられた米の多くが日本に送られているのです。

 米の増産といっても、実際に農業をするのは日本人ではなくて朝鮮人です。増産は義務ですから、そのために有償で肥料を使ったり、水利などを整備しなければなりませんが、農民たちには支払いが求められます。しかしお金がないから、日本人から畑を担保にお金を借りる。朝鮮にいた日本人たちが商売で一番儲けたのは金貸し、地主です。朝鮮人に金を貸すと次の年には畑になり、山になって戻ってくる。こういう経済構造の中で土地や畑を奪われ、生活ができなくなって、日本にやって来たわけです。


国籍によるさまざまな差別があった

 
金秀煥さん:JR京都駅の東に、在日朝鮮人と被差別部落の人たちが住む集落がありました。そこに新幹線が通ることになり、「汚い街」が目につくので整備することになって、公営住宅が建てられます。しかし、公営住宅には国籍条項があって、日本国籍がないと入れませんでした。仕方なく在日の人たちはさらに南に流れて、東九条の鴨川べりに集落をつくったのです。

 そのように日本の社会制度は国民のためのもので、在日の人たちは国民年金も入れない、健康保険も入れない、国民金融公庫でお金も借りられない、公営住宅にも入れない状態でした。そういった人たちが追われるように集落をつくったり、あるいはウトロに流れ込んできました。こういう状況が過去にはあったのです。

 ここで紹介しているおばあさんも、外国籍を理由に年金が受け取れないのは不当であると裁判を起こしました。それに対してある人たちは、「保険料も払っていないのに年金をよこせとは、とんでもない奴らだ」と攻撃をします。しかし、保険料を払っていなくても年金がもらえる救済制度があるんです。

 国民年金の制度が始まるのが1961年ですが、その時点ですでに高齢のため25年間の保険料の支払い期間を満たさない人が出てきます。そういう人たちには老齢福祉年金という救済制度があります。もう一つ、1972年まで米国の占領下にあった沖縄でも、国民年金に加入できなかった期間について救済措置が取られました。このような救済措置があるのに、なぜ私たちには適用されないのか、これは差別ではないのかという裁判です。言葉をちょっといじるだけで、彼女はとんでもない人間に映ってしまい、ヘイトスピーチの対象になってしまう。それはとても危険なことなのです。


暮らしを守るために働く女性たち

 
金秀煥さん:ウトロの人たちは差別のために就ける仕事は限られていました。多くの家が土建業や製造業など自分で事業を起こしていました。女性たちも土木工事や日雇い仕事で家族を養いました。日雇いの清掃などの他に、ここは宇治なので、お茶摘みの仕事をしていた女性たちもたくさんいました。「働きは男並み、賃金は女並み」と言われる厳しい仕事でしたが、当時の写真を見ると、すごく表情が優しくて惹かれます。休みなく働く厳しい暮らしの中、子育ても含めて、隣近所でお互いに助け合って暮らしていました。

 ■祈念館の2階に展示された資料
 ウトロの歴史を見ていると、女性たちのたくましい姿が印象的だ。立ち退きの攻撃に対抗して、ウトロを守るために、数々の集会やデモ、パレードに率先して参加し、声をあげた。とりわけ、チマチョゴリ(民族衣装)をまとい、チャンゴ(長鼓)を叩く「ウトロ農楽隊」の姿は印象的だ。在日の女性たちによる朝鮮のリズムが人びとを勇気づける。

 
金秀煥さん:韓国の人たちも含めて、多くの人たちがウトロに学びに来ました。歴史や差別の問題は乗り越えるのが難しいのですが、いろいろな人たちが国籍とか民族とか、すべて乗り越えて、一つになって、みんなでこの地区を守った。そういうウトロの歴史がすごく大事だということで、たくさんの人たちがここに来られます。最後まであきらめなかった人たちと、この社会の問題を自分の問題として受け入れて運動を続けた、その結果がこのウトロ地区であり、この祈念館だと言えると思います。

 2階の展示を見終わって3階へ。3階ではウトロの歴史そのものとも言える1世、2世の方々の肖像、人となりを伝える特別展示が行われている。すでに故人ではあるが、話し声や振る舞い、暮らしの息吹まで伝わってくるようだ。2階の展示も含め、ウトロの歴史が生き生きとと私たちに語りかけてくる。


屋上から旧京都飛行場のあたりを望む


 
金秀煥さん:ずっと向こう、北西の方向3kmぐらいのところに京滋バイパスのジャンクションがあって、その南に小さくイオンの看板が見えます。その辺までが飛行場で、滑走路が続いていました。

 ジャンクションがあったところはもともと巨椋池があって低湿地帯だったので、国は飛行場には向かないと判断していたようですが、京都府が「ぜひやってくれ」と要請したのです。京都には商業や観光はあっても工業がなかったので、京都南部に工業地帯をつくる意向でした。ウトロのあたりは丘状地でしたが、それをぜんぶ削って、機関車とトロッコで向こうまで運んで埋め立てをしていきます。そのようにして飛行場をつくった一方で、ここの土地は削られて全体が低地になり、かつインフラも整備されていない状態になってしまいました。雨が降ると水が全部ここに集まってくる。度重なるウトロの浸水被害は天災ではなくて、実は人災なのです。長い間、何ら対策もとられずに放置されてきました。

 当時の証言の中でも、飛行場の建設には土木の仕事と建築の仕事があって、土木の人と比べて自分たち建設の仕事はマシだったと言う人もいます。当時の生活はひとくくりにはできなくて、いろいろな人たちがいるのです。私たちが見ないといけないのは、社会の構造がどうだったのかです。

 在日朝鮮人の中には、本当に食べることができずに、やむを得ず来た人たちがたくさんいた一方で、金儲けを目的にしてきた人もいるでしょう。でも、そういう人がいるから、差別や問題はなかったと判断するのではなくて、大事なのはその時の社会をつくっていた構造です。その人がどういう社会の中で生きていたか、その中でどういう被害があったのか、やはりそこを見ないといけない。一つの事象だけを取り上げて、歴史全体を見ないのは誤った見方だと思います。

 平和祈念館の入口には移築された飯場がある。長い年月の風雨にさらされて半ば崩れかけていた飯場は、移築とともに手を加えられて、一見さっぱりとして整った小屋という印象。しかし、それは労働者たちの簡易宿舎であり、板張りとトタンのバラックだ。快適な暮らしにはほど遠いものだっただろう。内部には家具はなく、朽ちたような流しが往時の生活をしのばせる。屋外にはウトロの象徴とも言える井戸の手漕ぎポンプ。地区が整備されるに伴って失われていく風景をこの場にとどめている。

■公営住宅の1期棟
 祈念館から西の方に、建築中の公営住宅2期棟とすでに入居が終わっている1期棟を横目に歩いていくと、突き当りに空き地がある。今は何もないところだが、かつて立ち退きを拒否する住民たちの訴えを表した看板が立っていたところだ。その向こうは、まだ未整備の地域。

 
金秀煥さん:ウトロを象徴する看板が立っていたところですが、地区の整備の一環として、道路が通るので、看板を全部外し、ここの建物は除却されました。2007年までは土地立ち退きに反対するたたかいの看板がウトロの人たちの意志を表していましたが、2008年に韓国政府の支援が決まるなど、土地問題が解決することで、これまでのたたかいの看板は外して、みんなが仲良く暮らせる、交流の街にしていこうと、新しい看板が立てられていたのです。
 ■ウトロを象徴する立て看板(2016年頃)

 ウトロのたたかいはここにあった看板が象徴的だったのですが、住民の中には「もうこんなんはやめてくれ、恥ずかしい」と訴える人もいました。そんな中であるおばあさんは、「恥かいて死んだ人間は見たことがない。いまこんな大変な時期やから恥をかいてもたたかわなあかん」と反対しました。でもそれは、この社会によって強要されたたたかいで、そのたたかいの中でこういう生活がしたかったという、ここで暮らす人たちの歴史であり、その思いがそのまま表されている看板なので、大事に倉庫に保管していました。その倉庫が放火事件のターゲットになって、燃やされてしまったのです。


焼け落ちた放火現場で

 2021年8月30日、奈良県桜井市の元病院職員、有本匠吾被告がウトロ地区の家屋に放火。現在、京都地裁で裁判が行われている。報道では、放火には「在日コリアンに恐怖を与える狙いがあった」という。


 
金秀煥さん:放火による被害を受けたのは7軒ですが、そのうち5軒が空き家で、2軒は民家でした。犯人の調書を読んでみると、彼の狙いはそこに保管してあった看板と、もう一つは飯場だったのです。飯場も祈念館に展示するので、飯場と看板を燃やして、祈念館を阻止してやろうと考えていたようです。飯場の解体が6月末だったので、かろうじて無事でした。現在は祈念館の入口に移築されています。

 被害を受けた民家には小学生が二人いて、放火されたのは月曜日の午後4時。平日なので、普段は親が仕事に出ていて、子どもたちだけが家にいて、二階の子ども部屋で遊んでいるのが常でしたが、その日はたまたま子どもたちはよそに遊びに行っていて、親は事情があって家にいました。家の人に聞くと、普段は子どもは二階でイヤホンをしてスマホで遊んでいるそうで、背筋が凍る思いがしました。

 ここはまだ開発されていないところで、下水も都市ガスも入っていません。みなさんの家の横にプロパンボンベを置いています。それに火が点いていたら大惨事になったと恐ろしい思いがしました。実は業者に聞くと、爆発はしなくて火が上がるぐらいだそうですが、当時は知りませんから、住人も本当に怖かったそうです。運よく人命被害がなかったのが、不幸中の幸いでした。

 この火事のニュースを見て、ヤフーコメントで、とんでもないコメントがいっぱい出ています。「全焼したらよかった」とか「なんで死なへんかったか」とか「こいつら悪いことをしている」とか、いわゆるヘイトスピーチです。ウトロの住人はそういうヘイトスピーチやヘイトクライムの標的にされ、人命が奪われてもおかしくない状況になっています。

 ウトロの住人たちにとって放火事件はただの嫌がらせではなくて、いじめであったり、差別であったり、今までの歴史がぶり返すような衝撃的な出来事なのです。一歩一歩このウトロの運動が進んで、さあ祈念館ができるぞという時に、この事件が降りかかったので、とても苦しい思いをされたと思います。

 ただ、放火があったことで、さまざまなメディアの報道もあり、いろいろな支援も集まったという側面もあります。もっとも大切なのは、ここの住民たちが萎縮しなかったことです。

 ふつうこういう形で放火があると、「もう大々的に祈念館なんかやめておこう」、「祈念館なんかがあるからこうなるんやから」と萎縮してしまいます。しかし、ここの人たちに話を聞くと、「だから歴史を教えないとあかん」「ちゃんとした歴史をしっかり教えることによってこういうことがなくなる、だからいい祈念館をつくって二度とこういうことが起こらないようにしないといけない」と、むしろ祈念館がんばれというメッセージをくれたのです。

■放火事件の現場、完全に焼け落ちた家屋
 この事件で重要なのは、犯人はただ空き家に放火したのではなくて、韓国・朝鮮に対する偏見・憎悪を放火によって表したということです。彼はたぶんいろいろな不満を持っている、日本の社会にも不満を持っている。けれど日本の社会には放火しない、このウトロに放火する。いろいろな不満をウトロにぶつける。それがまさに差別です。だから、差別が犯罪であることをしっかり司法が認めて、これ以上このようなことを起こさせないという毅然とした判断をしない限り、私は住民たちに説明ができません。今回の放火事件の裁判は8月30日に判決が出されます。頑張っている人たちが救われるために、皆さんもぜひ注目をお願いします。

                                  (構成・文責=下前幸一:当研究所事務局)


参加者の感想

 今回フィールドワークに参加したのは、私が通っていた小倉小学校がウトロ地区の学区で在日朝鮮人のクラスメイトもいたことが理由です。彼らが直面してきたであろう数多くの困難を身近に感じていながらも、ウトロ地区のことをあまり知らなかったので、もっと詳しく知りたいと思ったからです。

 副館長さんの説明やパネル展示もわかりやすく、戦争中に飛行場建設のために労働者として集められた朝鮮人が貧困と差別の中で助け合いながら生きてきた様子や、民族教育を大切にしたこと、背景に日本の植民地支配があったこと、長年インフラが整備されず市民団体の行動により改善されたことなどが心に残っています。

 私が転校して来た時にいろいろ教えてくれた幼なじみが、「私は朝鮮人! 民族の言語と文化を学びに朝鮮学校に行く」と言って、チョゴリの制服を着て中学に行ったのを思い出しました。

 物事の表層だけを見るのではなく、その背景にあるものが何かを読む力が要るのだと思いました。

                                  (和田 満:㈱よつ葉ホームデリバリー京滋)

  


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