HOME過去号>210号  


アソシ研リレーエッセイ
「絶賛見習い期間」を振り返る



 前号本欄の吉永さんの文章は、一種の既視感を覚えるものだった。新たな仕事、しかも畑違いの領域に足を踏み入れる際の不安と興奮。事前の想定が外れたことに対する驚き。それを理性的に了解しようとする悪戦苦闘。そうしたものが窺える。私自身、数年前にはまさに同じような状況下にあった。

 物心つく頃から、どうも自分は世間一般のしきたりにはそぐわない人間であり、無理やり合わせようとすれば自他ともに望ましくない結果をもたらすがゆえに、一般社会の王道を歩むことなど考えず、自らにふさわしいすき間を探し、細々と暮らしていくことになるだろう、とは自覚していたところである。

 たしかに若いころはそれなりにすき間もあり、自分の裁量で自分のペースでこなせばよく、快適に暮らしていくことができた。時代状況もよかったのかもしれない。

 一般には30歳前後を境に、親の世間体攻撃とか相方の「生活を考えろ」圧力とか、あるいは内面の「唯ぼんやりした不安」(芥川龍之介)などが押し寄せ、世間と折り合いをつけざるを得なくなるようだが、幸か不幸か、そうした境目に気づかず、30歳をとうに越した状態で関西よつ葉グループと縁を持ち、当研究所で9年の歳月が瞬く間に過ぎた。

 前代表から打診を受けたのは、そんなある日のことだ。「よつ葉の現場で働いてみてはどうか」と。

            ■      ■      ■

 客観的に見れば、当研究所にくる以前に蓄積していた持ちネタはすでに使い果たし、新たなインプットの足場が必要なのは確かだった。文献や訪問調査などを通じて外部の情報はそれなりに吸収していたものの、それとすり合わせるべきよつ葉内部の具体的な業務、その物質的な規定性については、未だ観念的な了解にとどまっていたのも事実である。このままいけば、上澄みの部分だけをつまみ食いして全体を合理化してしまう恐れが無きにしもあらず。自らを省みて、そうした危険性は十分にあった。

 いずれにせよ、新たな職場として白羽の矢が立ったのは㈱よつば農産である。すでに「よつ葉の地場野菜」に関する知識を(「知識」として)受容していた私としては、願ったりかなったりでもあった。まさに前号本欄で吉永さんが触れていたように、既存の有機農業運動との違いとか、個人でなく地域で把握することの重要性とか、商品のやり取りではなく農家と会員の関係の媒介とかいった考え方を中心に、これこそがよつ葉の食べものに対する思想を具現化した取り組みだと理解していたからである。

 そうした取り組みの実際に関与する興奮、そこに40代半ばにして初めて仕事らしい仕事に就く不安が加わった結果、尋常でない精神状況が形成されたようである。

 すなわち、立て続けに交通事故を起こしたり、朝礼で地場野菜の思想的意義などをアピールしてしまったり、先輩社員に無礼な論争を挑んだり等々である。思い返しても赤面してしまう。

             ■      ■      ■

 とはいえ、具体的に仕事を担うようになると、そうも言っていられなくなる。これも吉永さんが記すとおりだ。「自分の裁量で自分のペース」どころか、野菜の都合が基準となる。自然の産物なのだから、人間の思うとおりに行かないと頭では分かってはいても、過不足や変形、虫害などには悩まされた。

 出荷の時間は決まっており、時間に追われながら段取りを組まなければならない。焦るなと言われても焦らざるを得ず、焦ると必ずミスをする。ミスが重なり自己否定スパイラルに陥ると他人を思いやる余裕がなくなり心がささくれる。それは再び自らに跳ね返り、悪無限的な循環が形成されてしまう。思い返しても情けなさに身がすくむ。

 いま思えば、地場野菜の仕組みの大枠は維持しながらも部分的に改変・調整を加え、集出荷の精度を高め、負担を軽減して別の部分に力を振り向けることも不可能ではなかった。現に、いまそうなっている。だが当時、そんな発想にすら思い至らなかった。

 別の立場、あえて言えば高次の段階に移行してみれば、それまでの悪戦苦闘はあたかも否定の否定によって現時点に移行するための必然的な道程のように見えるが、悪戦苦闘の当事者にとっては五里霧中の暗夜行路でしかなかった。おそらく、いまもなおそんな意識の遍歴の過程にいるのだろう。

                         (山口 協:当研究所代表)



©2002-2022 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.