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連載 ネパール・タライ平原の村から(126)
一枚の写真が語りかけるもの⑥

ネパールの農村で暮らす、元よつば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その126回目。



 現地で暮らした12年を下地に、妻ティルさんの生活史に重ねながら、ネパールの急速な近代化の一断片を書き留めたいと思います。

 90年代後半から04年まで、当時30歳前後のティルさんはNGOスタッフとして山岳部の僻地ラスワ郡ガッタラン村に派遣されました。標高2200メートルにある集落で、タマン語話者のタマン人約250軒が固まって暮らす村がフィールドでした。今でこそずいぶん様子は変わったけれども、ポツンと一軒家じゃ生きていけない土地だったのですよ。

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 ネパール語話者であるティルさんは住み込み当初、村から見て異質な存在だったと同時に、ティルさん本人にとっても村は異文化であったようです。

 例えば「集落内で誰か亡くなれば、遺体は集落の外れではなく煙が集落に立ち込めるくらいぐんと近くで焼いていた」と。チベット仏教の僧侶「ラマが死者は自分たちの土地で焼くのか葬儀場所を決めるけれど、“空”と言えば鳥葬を意味していた」。鳥葬というのは、魂が抜けた遺体を天に送り届ける方法とネットに載ってありました。

 大麦など穀物とチベットの岩塩を交換する旅にでる、全てタマンの村人によって演出されたキャラバンというネパール映画があるのですが、そこで鳥葬のシーンが少し映されてあります。村外へ遺体を運び、ラマが読経する中、食べやすいように断片化した遺体の臭いを嗅ぎつけたハゲワシが、上空を旋回しているシーンでした。高地の植生、荒野で火葬に使う薪が不足してあることとも関係があるようですが現在、鳥葬はもう見られません。多分、法的に禁止されているかも知れません。

 そんな集落で当時は電気もなく「部屋を間借りしていたけれど、一人は心細いのでよく村人が寝泊まりに来てた。夕食には必ず子どもらが一人か二人、カマドのところに座ったりして覗きに来ていた」。

 「そうした中に週一回必ず来る片眼の視力を失っている子がいた。その子がカマドのそばでいつものように私の隣にただ座っていたある日。冗談で将来、大人になったら何をするのか、とタマン語で夢を尋ねた。そしたら“あぁ、大人になったら結婚して子育てして農業するだけさ”、と妙に大人じみた返事で、6歳か7歳の少年が集落でのお決まりのライフコースをサラリと語っていたのが忘れられない」。

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 この写真は、もう片方の眼は守らなければと、ティルさんがこの少年をカトマンドゥの眼科専門医に連れて行き、受診治療させた時に撮った写真だそうです。そのため少年はサングラスをかけております。家族だけではその費用を賄うことができず、ティルさんもなけなしのおカネをはたいたとのことです。
■タマン人の民族衣装「アンドン」を着たティルさんと少年。カトマンドウで。

 子どもらはみなたくましく、共同の水汲み場では「タワシ替わりのチャッパル(ゴム草履)で身体を擦るように洗っていた」そうです。そんなムラで、開発援助機関による業績やプロジェクトよりも村内の一人として意識する訳でもなく、おつきあいしていた姿が伝わってくる話でした。

 さて、幼くして結婚して子育てして農業するだけと語っていたこの少年。現在はトレッキングガイドとしてライセンスを取得して村外で働いているそうで、結婚もされてないとのことです。

                (藤井牧人)


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