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アソシ研リレーエッセイ
里剛(さとつよし)がめざした居場所づくり



 2月21日早朝、1970年代から北大阪合同労組の活動をきっかけに、能勢農場建設を共に闘って来た同志、里剛が突然逝った。ここ数年、能勢町森上で始めていた居場所づくりの一つであった、シェアハウスの自室で倒れていたという。その前日、僕は2週間近く入院を余儀なくされていたコロナ感染中等症専門病棟から、増え続ける入院患者に押し出されるカタチで退院して来ていた。その二つの出来事に何の関係もありはしない。けれど、一時はICUに運び込まれた病院からの生還の次の日、里剛の死は心に深くつき刺さって、今も、突然痛みが甦る。

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 豊中市、箕面市を中心によつ葉の配送を担う㈱産地直送センターの職員として働いていた里剛が、能勢町に家族と一緒に移り住んだのは、それまで能勢農場が担っていた能勢町や亀岡市のよつ葉の配達を、㈱能勢産直センターを新たに設立して、その代表に就任したのがきっかけだった。当時、能勢農場が配達していたよつ葉の会員数は能勢町だけで200戸を越えていた。世帯数組織率5%に近い会員数だったけれど、そのほとんどが、よつ葉牛乳と、当時は能勢町に工場があった大北食品の豆腐だけを配る配達で、よつ葉のカタログを届けていたのは、ほんの一握り。配送センターとして自立するには売上げも小さく、会社経営は赤字続きだった。でも、本人はあまり気に止める様子もなく、会議を開いて対策を論議することもなく、毎日の配達に精を出していた。当然、会社は行き詰まる。

 こういう時、かっての能勢農場、よつ葉界隈では、「天の声」が鳴り響くことがちょくちょくあった。

 「あんた、もう社長辞めたら」

 数年後、里剛が再び能勢町に帰って来たのは、能勢農場から分社した㈱能勢食肉センターが担う、能勢とよつ葉の物流センターとをつなぐ配送便の運転手としてである。以来、定年退職となった3年前まで、およそ20年近く、彼は、日曜日から金曜日まで、毎日2往復、能勢農場と亀岡市東別院町の物流センターの間を走り続けて来た。能勢の地場野菜や、食肉センターの出荷する食肉を運ぶだけではなく、よつ葉にとって大切な2つの地域をつなぐ役割を、あの真ん丸い顔とお腹で担ってきたように思う。

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 そんな里剛が、定年前から構想をあたため、定年後に始めたのが、それまで集めて来た古本、古CDを並べ、貸し出す古本屋だった。能勢町森上の借家を2ヶ所借りて、昼間は畑仕事に精を出し、夕方から夜に店を開けて、訪れる多様な人たちとの交流を楽しんでいた。

 屋号は「アソシ書房」。

 町内に新規就農してきた若者たちや、地元の農家。昨年4月の町会議員選挙で、能勢農場やよつ葉が応援し当選した町議の支持者や友人たち。行き場があまりなかった多様な人たちが店を訪れ、話しがはずんだ。

 そんな時、同じ森上に住居兼店舗の古い家が売りに出て、すぐ購入。ここで自身も寝泊りしながら、シェアハウスとして運営し始めて間もない。彼が、この場所をどんな空間にしようとしていたのか、直接聞くことはなかった。たぶん、問うたとしても、明確な言葉が返って来たかどうかは分からない。でも、自身の存在を唯一、めざす場所づくりの姿として示すことで、言葉では語れぬ空間を生み出していたように思う。だから、彼の不在を埋める方策はない。その遺志を受け継ぐために、僕は、僕自身の生き方、自分のやれるカタチで引き受けていくしかないということだ。

 納豆かけご飯とカニカマボコに缶ビール。今夜もまた、うまそうに飲んでるよな里剛!

                      (津田道夫:㈱能勢食肉センター)



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