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ロシアによるウクライナ侵略戦争をめぐって

今回の
戦争を主体的に捉えるために

論点の整理に向
けて

 2月24日に発動されたロシアによるウクライナ侵略戦争から1ヶ月以上が過ぎた。ウクライナ側は戦力に勝るロシア軍の猛攻に耐え続けているが、戦争の長期化とともに破壊と殺戮は強度を増し、民間人の犠牲も拡大し続けている。この事態をどうとらえるべきなのか。情勢は現在進行形であり流動的だが、世界の秩序と平和にかかわる深刻な危機を招いていることは言うまでもない。当該地域と直接的な関係も専門的な知見もなく、もとより明快な結論なども備えていないとはいえ、今回の戦争にかかわって重要と思われるいくつかの論点を提示し、それをめぐる議論を整理しておきたい。



「降伏すべき」論をめぐって


 日本の中で大きな論点の一つとなったのは、ウクライナの抵抗をめぐる評価である。この間、テレビのワイドショーやSNSなどで、タレントがロシアの侵略に抵抗するウクライナの対応を批判し、抵抗せず降伏を呼びかける光景が見られた。

 兵力に劣るウクライナが抵抗を続ければ一般人の犠牲が拡大するばかり。それよりも、降伏することで戦争を停止し、犠牲を減らした方がいい。ロシアの支配を受け入れたとしても、長期的に状況を転換することは不可能ではない。それもこれも、命あっての物種なのだから――。

 口頭や短文のため十分に論拠を捉えられるわけではないが、おおむね上記の内容として括ることができるだろう。ただ、当事者たちのこれまでの言動もあってか、基本的にはメディア業界で耳目を引くことを狙った言説と受け取られているようだ。

 他方、専門家の立場から類似の提起を行う例もある。2000年代初頭に国連の職員として東ティモールやシエラレオネ、アフガニスタンなど紛争地で紛争処理、武装解除に携わった経験を持つ伊勢崎賢治は次のように述べている。

 「ゼレンスキーは市民にも戦闘を呼びかけ、成人男性の国外退避を禁じ、希望者には無差別に武器を配っている。これを第二次大戦中にナチスドイツと戦った「パルチザン」のイメージと重ね、欧州でも戦前回帰の大熱狂になっている。パルチザンというのは、非正規戦闘員だ。大戦後、人類はその反省からジュネーブ諸条約をつくり、戦闘員と非戦闘員は区別しなければいけないと、戦前より更に厳密に定義した。(中略)

 国家が扇動して「市民よ銃をとれ」というのは、現代ではやってはいけないことだ。敵から見れば「国家が戦闘員といっているのだから誰でも容赦なく撃てる」となる。(中略)

 こういう話をすると「ロシアのいいなりになれというのか?」「ウクライナの主権はどうなる?」という人がいる。だが国家主権が、西側につくか、東側につくかというだけで市民を犠牲にするようなことはしてはいけない。これは二択問題ではない。その他の緩衝国家がやってきたように中立という主権国家の選択肢もあるのだ。(中略)

 中立国としての生き方の話をすれば、例えばフィンランドは、ロシア寄りの中立国だったが、自由と民主主義を重んじる西側陣営にいる。(中略)ロシアとの長い国境線を共有しているからこその選択だ。」(「ウクライナ危機に国際社会はどう向き合うべきか 緩衝国家・日本も迫られる平和構築の課題 東京外国語大学教授・伊勢崎賢治氏に聞く」『長周新聞』2022年3月17日)

 「降伏すべし」と明言しているわけではないが、ウクライナ側が中立化を受け入れ、ロシア側の顔を立てる形で早期停戦を達成することで、可能な限り犠牲を少なくし得ると考える点では、基本的な構図は共通していると見てよい。

 こうした見解に対しては、国際政治、国際法の立場から少なからず批判が投げかけられている。かいつまんで言えば、以下のようにまとめることができる。

 ・主権国家は自衛権を有しており、自衛のために武力を用いて抵抗することは合法かつ正当である。

 ・ロシアの行為は明白な国際法違反であり、侵略戦争である。侵略を受けた側が譲歩すれば、侵略の肯定、国際秩序の破壊につながってしまう。

 もちろん、伊勢崎が国際法の規定を知らないはずはない。むしろ承知の上で、事態の正否(あるいは善悪)よりも人命を最優先するが故の提案なのかもしれない。だが、紛争停止の技術論としても、率直に言って疑問符がつく。たしかに、ウクライナが抵抗しなければ戦闘行為は遠からず収束するだろうが、それはロシアによる武力制圧、占領の受け入れと同義である。ウクライナは「勝者の裁き」を甘受せざるを得ない。第三国などの調停を経た上での停戦であればともかく、武力で勝敗が決してしまえばロシアによるウクライナの実質的属国化は避けられない。その下で何が行われるか、チェチェンやシリアといった実例に示されている。

 その上で、犠牲を考慮しつつも抵抗を選ぶのか、あくまで犠牲の回避を目指すのか。いずれにせよ、それを決めるのは当事者であるウクライナの人々である。

 ちなみに、伊勢崎が中立国の例として挙げているフィンランドは1939年~40年にかけてソ連との戦争を経験している(冬戦争)。あからさまな侵略戦争のため、ソ連は世界から非難を浴び、当時の国際連盟からも追放された。戦争そのものは抗戦むなしくフィンランドの敗北に終わり、国土の約1割を割譲せざるを得なくなったものの、フィンランドの国家の独立と防衛力の確保は辛くも維持された。つまり、中立は必ずしも自然に与えられるものではないのである。

 日本の歴史も振り返る必要がある。日本は1931年、ソ連(当時)の南下を防ぐために中国東北部の支配を目的として満洲事変を引き起こし、翌32年には傀儡国家「満洲国」を建設する。1933年には日本と中国が停戦協定を結び、境界となる河北省東部地域に非武装地帯を設置するも、2年後には日本が再び同地域に傀儡政権を建設し、さらに中国全体へと食指を伸ばす。その行く末が1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争である。その結果、関係各国による経済制裁を招き、日本は苦境を打開するため1941年の対米開戦に突き進むことになった。

 この際、仮に中国側が抗日戦争を継続せず日本と妥協した場合、中国全土が傀儡国家化した可能性が高く、その過程で相当な破壊や殺戮が行われたことは想像に難くない。実際、早くも1937年末から38年初にかけて、非戦闘員の大規模な虐殺を伴う南京戦が行われている。これに対して、蒋介石政権は徹底抗戦によって日中戦争を国際化し、英国、米国、ソ連といった大国の介入を引き出す方針を進めた。それを象徴するのが、当時の駐米大使・胡適による「日本切腹、中国介錯」戦略である。

 すなわち、戦力面で劣勢な中国は短期的かつ単独で日本を敗退させることはできない。日本に打ち勝つためのカギは二つ。一つは戦争の長期化に伴う兵力や財政など日本側の疲弊であり(日本切腹)、もう一つは中国に対する国際的な同情や大国の危機感による日本への包囲網、参戦である(中国介錯)。その機が熟すために、中国は数年間、単独で苦しい戦争に耐えなければならない、と。(劉紅「胡適の「主和」主張―満州事変から盧溝橋事件初期まで」、近代東西言語文化接触研究会『或問』第36号、2019年12月)

 胡適の主張そのままではないにせよ、蒋介石政権の抗日方針は長期戦、持久戦、国際化を基本として戦われた。それに伴って、戦闘員、非戦闘員いずれの犠牲も拡大したことは確かである。しかし、だから中国側は抵抗すべきでなかっただどと言えるだろうか。侵略したのは日本軍であり、それを後押ししたのは日本国民なのだ。

 戦争の死者・負傷者がほぼすべて戦闘員だった第一次世界大戦に対し、第二次世界大戦の犠牲者の割合は戦闘員と非戦闘員がほぼ拮抗した。伊勢崎も指摘するように、その惨状を踏まえ、戦時における戦闘員と非戦闘員の区別、非戦闘員の保護を定めたジュネーブ諸条約が成立した。だが、それ以降も非戦闘員の犠牲は絶えない。その大きな要因は、第二次大戦後には主権国家同士の交戦という意味での戦争が影を潜め、内戦や地域紛争が多勢を占めるようになったことが挙げられる。そもそも戦闘員と非戦闘員の区別が困難な事例が主流になってきたわけだ。

 もっとも、表面的には当時の南ベトナムにおける政権側と反政権側の内戦だったベトナム戦争にしても、実質的には政権側を支える米国と反政権側を支える北ベトナムとの戦争であり、1960年代中盤以降は米軍が北ベトナム領内に繰り返し無差別爆撃を行った結果、数多くの非戦闘員が犠牲を強いられた。その中には、正式な戦闘員ではないが戦闘に従事・協力した人もいる。あるいは、枯葉剤の影響など犠牲は後の世代にまで及んだ。これだけの犠牲を払っても継続された抵抗は否定されるべきか。当事者にしか回答できない問いだろう。


抵抗と暴力、個人と国家をめぐって

 今回の場合でも、ウクライナの人々が自らの意思として戦闘を拒否する場合、それが尊重されるべきことは間違いない。ただし、ウクライナでは2013年に廃止された徴兵制が、2014年に生じたロシアによるクリミア半島併合、東部ドンバスでの武力衝突を契機に復活している。また今回の侵略戦争に伴って、ゼレンスキー大統領は2月24日に国民総動員令に署名し、18歳から60歳の男性国民に対してウクライナからの出国が全面的に禁止された。

 例外規定もあり、必ずしも軍事的動員(戦闘参加)と直結しない模様だが、法的な強制であることは間違いない。この間、日本のメディアでは英雄的に抗戦を続けるウクライナ人の姿に焦点が当てられているが、当然ながら、それがすべてではない。以下は、ウクライナ在住のある日本人の話である。

 「戦争がイヤで海外へ移住した人もいます。あまり報じられていませんが、戦いを嫌がるウクライナ人も私たちは見てきました。(中略)「国民総動員令」が出されていますが、3人以上の子どもを抱えている男性は、例外的に国外に脱出できるんです。そのため、最近では養子縁組を結んで子どもを3人以上にする成人男性が出てきています。/あとは「病気のため海外で治療しないといけない」という人も特例で出国が認められているので、偽の病気の証明書をお金で買って国外に出ようとする人もいて、問題になっていますね。」

 「やはり徴兵経験のない、戦争自体を知らない人に1週間程度の訓練で「戦地に行け」と言っても、なかなか行けない人だっている。中には女装をして隠れて過ごしていたり、ウクライナ中を逃げ回っている若者だっています。やっぱり地方に行けば行くほど、みなさん「戦争が起きている」という実感もないですから。こればかりは仕方ないと思います。」

 「法律として国民総動員令が出ているので国外には出られませんが、戦争に参加しないといけない義務はありません。ただ、参加しないことに対して周りの目というか……親族などから恨みつらみや陰口を言われている人もいます。」(「《徴兵拒否のため病気を偽装、女装して避難する男も》ウクライナ侵攻から1ヵ月、現地在住邦人が語る“国民総動員の現実”」『文春オンライン』2022年3月28日)

 それだけでなく、非暴力の立場から積極的に戦争参加を拒否する動きもあるようだ。この点について、米国のジャーナリスト、マイク・ラドウィッグ(Mike Ludwig)は2人のウクライナ人の事例を紹介している(War Is Forcing Ukrainian Leftists to Make Difficult Decisions About Violence, Truthout, Mar. 5, 2022.)。

 1人はウクライナ平和主義者運動(Ukrainian Pacifist Movement)事務局長であり、良心的兵役拒否欧州総局(European Bureau for Conscientious Objection)理事でもあるユーリイ・シェリアジェンコ(Yurii Sheliazhenko)。

ユーリイ・シェリアジェンコ
 「彼は、武器を持つことを拒否し、ロシア軍の進攻をかわすために隣人とともに火炎瓶を作ることを拒否し、「多くの嫌がらせ」を経験してきた。」

 「シェリアジェンコは、これまで何百、何千もの民間人の命を奪った致命的な戦争について、双方の右派民族主義者を非難している。彼と仲間の平和活動家たちはウクライナの極右ウェブサイトでロシアの支援する分離主義者との戦争に反対する裏切り者として攻撃され、「ブラックリスト」入りし、街頭でネオナチに襲われたこともある。」

 「シェリアジェンコと各地で活動する平和活動家たちは、非暴力による市民的不服従を含む戦術で、強制的な徴兵制に反対し続けている。」

 「シェリアジェンコは、官僚的なお役所仕事と兵役以外の代替案に対する差別的な対応が、宗教者にとってさえ良心的兵役拒否の妨げになっていると述べた。さらに、米国の活動家は人種、性別、年齢に関係なく、あらゆる民間人の紛争地帯からの避難を呼びかけ、紛争激化につながる武器をウクライナに持ち込まない支援団体を援助するため寄付すべきだと語った。」

 自らの宗教的、政治的、思想的信条に基づいて非暴力を選択し、積極的に兵役を拒否する「良心的兵役拒否」について、日本では宗教的な側面を除き、これまであまり問題にされてこなかったように思われる。今回の戦争に関連しても、こうした動きへの言及は皆無と言って過言ではない。確かに、“祖国存亡の危機”にあって個人の自己保存と国家の自衛はあたかも重るように見えるが、一方で、強制力を持った国家は自らの自衛のために否応なく個人を動員しもする。

 台湾出身の作家・李琴峰は、こうした個人と国家の重ならなさを鋭く突いている(「国家に領有される個人」『朝日新聞』202年3月29日)。そこで彼女は今回の戦争を受け、「眼前の事態に対する論評ではなく、あくまで私個人の体験や思考に過ぎない」と断りつつ、台湾の高校時代に体験した「軍事訓練」の記憶をたどっていく。中国の圧力を受ける台湾の高校では、教育課程の中に軍事訓練(男子)、従軍介護(女子)が組み込まれているという。その上で、彼女はこう記す。

 「私の身体は私だけのものではなく、国家という得体のしれない巨大なものによって領有されている。必要があれば、国家はいつでも私の身体を徴用し、法律の下、「愛国」「国を守る」という大義名分の下で、好きなように使うことができ、場合によっては死なせることができる。」

 「私はウクライナを侵略したロシアを非難する。その行為はウクライナの人々の自由を大きく害しているからだ。もし中国が台湾や日本に侵攻したら、私は中国を非難する。その行為は私の自由、そして私の人生に登場した多くの素敵な人たちの自由を大きく害するからだ。しかし、それを防ぐために自分自身の自由を国家権力に献上せよと声がかかったら、私はそれを拒否する。」

 今回の戦争に便乗するかのように、東アジアにおける危機の到来がまことしやかに語られ、国家の安全保障ばかりが焦点化される現状であればこそ、重要な論点と言える。

 とはいえ、その場合「自由を大きく害する」事態はいかにして解消できるのか。ウクライナでは、まさに侵略戦争として暴力が一方的に押し付けられ、自由が封じられている。究極の自由の奪=死を免れ、自由を回復するには、何らかの形で暴力をはねのけなくてはならない。とすれば、そのために個人として強制力を行使することはあり得ないのだろうか。実際、ロシアの侵略に抵抗するウクライナの人々の中で「国を守る」と公言する人は少なくない。だが、それは必ずしも機構や体制としての国家を守ろうとしているわけではなく、むしろ家族、友人、故郷など自らにかかわる関係総体として国家を表象しているとも考えられる。個人と国家の重なりと重ならなさを慎重に腑分けしなくてはならない。

 さて、ラドウィッグが紹介するもう1人は、「イリヤ(Ilya)」である。ロシアの政治的抑圧から逃れ、ロシアの侵攻に対する抵抗を決意したアナキストであり、そのため身元を隠す必要があるという。彼はウクライナはじめ各国のアナキスト、左派の仲間とともに戦闘訓練に従事しており、ウクライナ軍の下で一定の自治権を持ち、自主的な民兵のように活動する領土防衛部隊の一つに加わっている(ゼレンスキー大統領は2月27日、海外の志願者からなる「国際」外国人部隊の編成を表明)。

 「イリヤと同志たちは、「明らかに多くの欠点と腐ったシステムがある」ウクライナ国家に幻想を抱いてはいない。しかし、ウクライナ、ロシア、東部の親露派分離主義者は2014年以来、低強度の戦争を行っており、イリヤは他の多くの左派と同様に、プーチン流の残忍な権威主義を押し付けかねない「ロシア帝国主義の侵略」が現時点での最大の共通の脅威だと考えている。」

 「「敵が自分を攻撃しているとき、反戦平和主義の立場をとることは非常に困難です。自分自身を守る必要があるからです」とイリヤはインタビューで述べている。」

 「「私が推定する限り、ウクライナではほとんどの進歩的、社会的、左翼的、自由主義的な運動は、現在ロシアの侵略に反対していますが、それは必ずしもウクライナ国家と連帯することを意味しません」とイリヤは言う。」

 シェリアジェンコもイリヤも侵略戦争に反対する点は変わらない。また、戦争への抵抗と国家の自衛とを同一視しない点も同じといえるだろう。しかし、自らの目的を実現する方法は大きく異なる。この点について、ラドウィッグはこう記している。

 「シェリアジェンコとイリヤの異なる道は、ウクライナの活動家や進歩的な社会運動が直面する困難でしばしば極めて限定的な選択肢を物語っている。注目すべきは、自己防衛や政治における暴力の役割に関して見解が違っていても、彼らが互いに敵対するのではなく、むしろ補完するような積極的な闘いに向かったことだ。」

 とはいえ、文中では明確な「敵対」もない代わりに具体的な「補完」のありようも窺えない。両者が互いの取り組みについて意見を述べる場面もなく、相互了解が存在しているのかも定かではない。著者ラドウィッグからすれば、客観的に相互補完的な構図が生じているのかもしれない。いずれにせよ、この戦争が終わって初めて明らかになるはずである。


「どっちもどっち」論をめぐって

 今回の戦争をめぐって、もう一つの論点として挙げられるのは戦争そのものの評価、あるいは戦争の原因ないし責任に関する議論である。すでに見たように、ロシアは国際法に違反して主権国家に侵略戦争を仕掛ており、その点について議論の余地はない。とはいえ、あらゆる事象には一定の背景がある。この点をどう考えるかによって今回の戦争に対する評価も大きく変わってくる。ロシアにすべての責任を帰するのか、それともウクライナやNATO(北大西洋条約機構)諸国にも責任を問うべきか、そうした中で「ロシアも悪いがNATOも悪い」「どっちもどっち」「ロシアとNATOの代理戦争」といった評価も生じてくる。典型的な例として、再び伊勢崎賢治の発言を取り上げる。

 「そして、この戦争の構造は、根本的に“いびつ”なのです。プーチンは、ゼレンスキーではなく、その後ろにいるアメリカとNATOを見据えている。でもそのアメリカとNATOは参戦しない。武器を供与することしかしない。この戦争は、ロシアという強大な核保有国に対するアメリカとNATOの代理戦争なのです。しかし、ウクライナ人だけに戦わせ、そしてウクライナ市民が死ぬ。/代理戦争である限り、この戦争の構造は、東西冷戦終結後から始まったNATOの東方拡大にまで遡らなければなりません。」(「ウクライナの徹底抗戦。全面支援か?停戦仲介か?とるべき態度は〈菅野志桜里×伊勢崎賢治対談〉」『The Tokyo Post』2022年4月4日)

 ここで触れられている「NATOの東方拡大」については別途考えたいが、大まかに言って、NATOを率いる米国がウクライナを唆し、ロシアに挑発を繰り返した結果として戦争が起きた――との捉え方である。こうした見解は日本国内に限られたものではなく、とりわけ帝国主義への対抗を掲げる左派勢力に強くみられる傾向である。

 例えば、米国の社会主義勢力であるアメリカ民主社会主義者(DSA)は開戦後の声明(On Russia’s Invasion of Ukraine, FEBRUARY 26, 2022.)で、「アメリカ民主社会主義者は、ロシアのウクライナ侵攻を非難し、この危機を解決するために即時の外交と非エスカレーションを求める。(中略)私たちは、即時停戦とウクライナからのロシア軍の全面撤退を強く求める」とする一方で、「DSAは米国がNATOから撤退し、この紛争の舞台となった帝国主義的拡張主義を終わらせるよう求めることを再確認する」と主張している。

 この場合、「代理戦争」とまでは言っていないが、米国のNATOを通じた「帝国主義的拡張主義」が今回の戦争を招いた要因と指摘されている。自国の帝国主義的対外戦略を批判するのは、左派の原則的な立場だと言えよう。さらに言えば、一見して「国家対国家」の構図に見える戦争も、本質的な動因は帝国主義同士の市場再分割の欲望であるがゆえに、双方の兵士・労働者は敵対するのではなく連帯し、銃口は各々の支配階級にこそ向けるべきといった、第一次大戦をめぐるレーニンの指摘の影響をうかがうこともできる。

 こうした立場は開戦以前にはさらに鮮明であり、ロシアとウクライナの間で緊張が高まっていた時期にDSA国際委員会(IC)が出した声明「ウクライナと東欧における米国の軍事化と介入主義に反対し、NATO拡張主義の停止を求める」(DSA IC opposes US militarization and interventionism in Ukraine and Eastern Europe and calls for an end to NATO expansionism, JANUARY 31, 2022.)では、ロシア側の動きや背景には触れないまま、表題にあるとおり「米国の軍事化と介入主義」がもっぱら批判され、結論部では次のように述べられている。

 「DSA国際委員会は米国に対し、この地域で進行中の軍事化を撤回し、ロシアに対する制裁の実施を避け、NATOの拡張主義を終わらせるための国際的に合意した約束を守り、ウクライナが中立国家として留まることを保証するよう要請している。これらの措置は、この紛争が核保有国間のより大きな地域戦争に飛び火することなく、解決をもたらすための外交にとって極めて重要である。」


「キエフからの手紙」をめぐって

 以上のような姿勢に疑義を投げかけたのが、ウクライナの左派系ネット誌『コモンズ( / commons)』(※)の編集者であり、政治組織「社会運動( / social movement)」に所属する活動家でもあるタラス・ビロウス(Taras Bilous)である。

タラス・ビロウス
 ロシア語話者の多い東部ドンバスに生まれた彼は、ウクライナ語話者で民族主義者の家庭で育った。父親は経済的衰退や旧共産党指導部への反感から、1990年代には極右に関わるようになった。反ロシア的であると同時に反米的な考えも持つという。2014年にドンバスで内戦が始まると、父親は極右民兵組織エイダー大隊に志願したが、彼は「国家のためではなく、人類のより良い未来のために戦いたい」との考えから、逆に左派となった。父親は彼の「平和主義」を見下し、彼が反極右のデモに参加したりすると気まずい関係になったという。

 そんなビロウスは開戦直後、「西側(欧米)左派へのキエフから手紙」(A letter to the Western Left from Kyiv, Commons, 25.02.2022.)と題する文章を公表した。彼が疑義を呈したのは次のような人々である。

 「「NATOのウクライナ侵略」を想像し、ロシアの侵略を見抜けなかった人々、例えばアメリカ民主社会主義者ニューオリンズ支部のような人々。/あるいは、DSA国際委員会は、ロシアに対して一言も批判的な言葉を発しない恥ずべき声明を発表した。(中略)/あるいは、ウクライナがミンスク合意を履行していないと批判し、ロシアといわゆる「人民共和国」による合意の違反について沈黙を守った人々。/あるいは、ウクライナにおける極右の影響力を誇張する一方で「人民共和国」の極右には気づかず、プーチンの保守的、民族主義的、権威主義的な政策を批判するのを避けた人々。起きていることの責任の一端は、あなた方にある。」

 こうした人々の姿勢について、彼は「陣営主義(campism)」と指摘する。基本的には冷戦以後も「東・西」の陣営が存在し、その対立を通じて世界を解釈する観点を指す用語だが、さらに言えば自国帝国主義批判という当為に固執した結果、自国帝国主義と対立する側の意図や問題点を不問に付す、ないしは低く見積もってしまう傾向と言える。

 ただし、だからと言って彼はNATOや米国を認めているわけではない。

 「冷戦終結後、NATOが防衛機能を失い、攻撃的な政策に走ったことは知っている。NATOの東方拡大が核軍縮や共同安全保障の形成に向けた努力を台無しにしたことも知っている。」

 それでもなお、重大な問題が見落とされているという。

 「西側左派は、世界第2位の核兵器を保有するロシアの「正当な安全保障上の懸念」を何度支持しただろうか。そして、2014年にプーチンが決定的に踏みにじった紙切れ(ブダペスト覚書)と、米露の圧力で核兵器を交換しなければならなかったウクライナの安全保障上の懸念を何度想起しただろうか。左翼のNATO批判者たちは、NATO拡大がもたらした変化の主な犠牲者がウクライナだと気づいたことがあるだろうか。」

 これは先に触れたDSA国際委員会の結論部分、すなわち「核保有国間のより大きな地域戦争に飛び火することなく、解決をもたらすために」「ウクライナが中立国家として留まることを保証する」という要請に対応している。極論すれば、核保有国や経済大国を主要なアクターとする国際関係の舞台では弱小国の人々が置かれた現状、人々が抱く要望などは考慮する必要もなく、あたかもゲームのコマのように操作可能と捉えられかねないことになる。

 こう批判した上で、彼は以下のように問題提起をする。

 「左派は二つの帝国主義の間で新たな均衡を求めるのではなく、国際安全保障秩序の民主化のために闘わなければならない。私たちはグローバルな政策と国際安全保障のグローバルなシステムを必要としている。後者については国連がある。確かに、国連には多くの欠陥があり、公正性について批判されることも少なくない。しかし、批判は何事か異議を唱えるためにも、改善のためにも用いることができる。国連について、私たちに必要なのは後者だ。国連の改革と民主化について、左派のビジョンが必要なのだ。」

 現行の国際秩序が孕む限界や問題、それをどのように改善していくのか、あるいは改善で済むのか。これも今回の戦争をめぐる大きな論点だが、ここでは紹介にとどめ、別の機会に検討を期したい。
 
 (※)当研究所の『NEWS LETTER』(2022.4.1)に掲載した「ウクライナの社会主義者が語るロシアの侵攻に驚かなかった理由」の著者ヴォロディミル・アルティウク(Volodymyr Artiukh)は、『コモンズ』の元編集長。


「見取り図」をめぐって


 その後、ビロウスはキエフに滞在しながら侵略戦争に抵抗する活動に参加しているそうだ。ドイツの左派系ネット誌『分析と批評(analyse & kritik)』がインタビューを掲載している(“The Left in the West must rethink”a conversation with Taras Bilous, analyse & kritik, 13.03.2022.)。

 「私はキエフの、ある程度安全な場所にいます。戦争が始まって最初の数日はショックでした。混乱して何もできませんでした。その後、領土防衛部隊に入ろうとしましたが、現状では私のような戦闘経験のない人間には容易ではありません。いまは反権威主義的なアナキスト系のボランティア団体に所属し、人道支援の手伝いや防衛部隊の支援をしています。」

 ビロウスはもともとアナキストではないが、所属していた「社会運動」グループが大きな混乱に陥ったため、現状に至ったという。「アナキストは平時の組織化には大きな問題がありますが、こうした非常時にはうまく機能するのです」とのことだ。

 開戦後の状況を踏まえ、彼は今後の展開について次のように語っている。

 「ロシア政府の要求とウクライナ社会の要求との間の矛盾は解消しがたいものです。どんな合意が可能なのか、私には分かりません。ロシアの侵略に対する社会の抵抗は非常に強く、ゼレンスキーがロシアに譲歩しようとしても、現状では不可能です。そうした譲歩はウクライナ社会には受け入れられないでしょう。ゲリラ戦が起きるでしょう。戦争は一方の敗北でしか終わらないと思います。」

 その上で、彼は改めて西側左派が再考すべき点を二つ指摘する。

 「プーチンの行動が西側の政策に対する反応としてのみ理解されるものではないことは、未だにそうした理解がありますが、徐々に理解されつつあると思います。多くの左派が依然として気づいていないのは、西側とロシアの間にある国々の人々もまた、自らの政治的主体性と自らの運命を決定する権利を持っているということです。西側左派の多くは未だに、西側とロシアの対立という観点からしか、これらの人々を見ないという間違いを犯しています。」

 「もう一つの問題は、ウクライナでの戦争で苦しんでいる人々を犠牲者としてしか描いていないことです。それは間違いです。多くの人が抵抗しています。人々を犠牲者としてしか見ないのは、西側左派の非常にありがちな間違いです。それは1990年代のNATOの東方拡大に対する左派の視点にも明らかで、米国による計画として理解されています。この理解は、東欧諸国からの圧力によって生じたものでもあるという事実を無視しています。NATOの東方拡大は単に西側が主導しただけではなく、東欧諸国の大多数の人々の利害(interest)に対応するものでした。だからといって、西側左派がNATOの東方拡大を支持すべきだというわけではありません。しかし、東欧の多くの人々がNATO加盟を安全保障(safety guarantee)と見なしていることを理解する必要があります。」

 なぜ、こうした齟齬が生じるのか。ビロウスは次のように指摘する。

 「左派の多くにとって、視点を変えるのは難しいと思います。それは理解できます。(というのも)あなた方は主に、西側の利益のために行われる戦争に抗議してきました。(しかし)私たちは8年間、東部(ドンバス)での戦争とともに生きてきたのです。だから、私たちには自分たちの立場を考え直す時間がありました。でも、状況はあっという間に変わるということを、左派はもっと理解する必要があると思います。もし左派がロシアの侵略に対してNATOを非難し続けるなら、状況の変化を理解していないことを自ら示しているのです。」

 ビロウスの主張を受け入れるべきか、躊躇する向きもあるだろう。反論があっても不思議ではない。当事者の言葉は貴重だが、同時に当事者ゆえの制約を顧慮する必要もある。何より戦時下なのだ。

 とはいえ、私たちはビロウスをはじめウクライナの少なからぬ人々にとって戦争が8年前から続いていた事実を認識していただろうか。さらに言えば、ウクライナの歴史や社会のありよう、さまざまな立場の人々の存在、そうした人々が何を考えてきたか、いま何を考えているか――等々について関心を払ってきただろうか。

 もちろん、世界の隅々にまで注意を払い、あらゆる背景を顧慮することなどできるはずもない。かく言う私自身、まったく不十分な認識しか持っていないのが実情である。そうした場合、これまでに獲得された一定の知見をもとに、出来合いの見取り図のようなものを用いて、ある現象を一定のパターンの中で理解することはあり得る話である。そうでもしなければ、私たちは日々生じる出来事を処理しきれないからだ。

 しかし、注意しなければならないのは、「出来合い」である以上、その見取り図は対象となる出来事が抱える固有性や特有性を多かれ少なかれ捨象することによって汎用性を得ていることである。その際、できる限り固有性や特有性を吸収し、それによって見取り図を更新していくことが望ましい。逆に、「出来合い」であることを忘れて見取り図を絶対化してしまえば、固有性や特有性を拒絶し、見取り図に合わせて現実を歪める恐れすらある。ビロウスの主張はそうした意味における問題提起であり、正面から受け止める必要があると思う。

 「現時点では、左派は自国政府がロシアに圧力をかけるよう要求すべきです。制裁なら何でも支持しないといけないわけではありませんが、優先順位を明確にすることが重要です。現時点で優先順位は戦争を止めるようにロシアに圧力をかけることです。社会運動は戦争に反対する抗議行動を支持し、避難の必要な人々を支援すべきです。そして、物質的な支援はすでに行われています。アナキスト団体がその組織化をしていますが、その他にも多くのグループがあり、それが役立っています。左派政党について言うと、ウクライナの債務免除を要求すべきだと思います。左派政党は戦争のさまざまな側面について非常に異なる立場をとっていますが、これは統一的な要求になり得ると思います。個人的には、欧米諸国が航空機を含む武器をさらに供与することにも賛成ですが、これはあらゆる左派政党が合意できる要求でないのは理解しています。」

 インタビューの終わりに、ビロウスはこう述べている。武器供与の件は剣呑だが、それに賛同できない側の事情も承知した上でのことだ。とすれば、私たちもそうした切実さの背景にまで踏み込んで、彼の置かれた状況を理解する努力が求められる。彼は決して誰彼構わず問題提起しているわけではない。


「二重基準」をめぐって

 今回の戦争に対しては、以下のとおり国連で複数回にわたって非難決議が行われた。

2月26日:安全保障理事会
 安保理は拒否権を持つ5つの常任理事国(米・英・仏・中・露)を含む15ヶ国で構成される。ロシアを非難し即時撤退を求める決議案は、11ヶ国が賛成、中国、インド、UAE(アラブ首長国連邦)が棄権したが、ロシアが拒否権を行使し廃案となった。

3月2日:国連総会
 193の国連加盟国で構成され、拒否権はなし。ロシアを非難し、即時撤退を求める決議案は、141ヶ国の賛成で採択されたが、5ヶ国(ロシア、ベラルーシ、シリア、北朝鮮、エリトリア)が反対し、35ヶ国が棄権、12ヶ国は無投票だった。
 安保理で棄権したUAEが賛成に転じた一方、棄権が相応のボリュームとなった。とりわけ棄権の約45%を南アフリカ、スーダンなどアフリカ諸国が占めたことが注目を呼んだ。(左表参照)

3月24日:国連総会
 ウクライナでの民間人保護と人道支援を求める決議案。ウクライナの「切迫した」人権状況はロシアによる侵攻の結果だと明記し、ロシアを非難した。賛成が140ヶ国で反対は5ヶ国(ロシア、ベラルーシ、北朝鮮、シリア、エリトリア)。棄権38ヶ国の内訳では、やはりアフリカ諸国が目立つ。

4月7日:国連総会
 国連人権理事会におけるロシアの理事国資格を停止する決議案。投票結果は賛成が93ヶ国、反対が24ヶ国、棄権が58ヶ国。前2回の総会決議に比べて中国が初めて反対票を投じたこと、反対・棄権を選んだ国がかなり増えたことが注目を集めた。
(右表参照)

 ロシアがどのように言い繕ったとしても、今回の戦争が国連憲章を軸とする国際法に違反していることは疑えない。とすれば、本来はロシアを除く国連加盟国が一体となってロシアを非難し、その圧力によってロシア軍のウクライナからの撤兵を実現することが望まれる。ルール違反を許さないことによって国際秩序を維持し、戦争の惨禍を防ぐこと、これこそが国連設立の主眼だったはずである。

 にもかかわらず、現実に一体となることは難しい。それは、国連加盟国がいずれも領土内の排他的統治権を認められた主権国家の集合であり、普遍的原則と同時に個別の国家的利害に基づいて行動するからである。さらに言えば、各々が同等の主権国家とはいえ軍事、経済など各国の力は平等ではないが故に、大国の影響力に応じて弱小国は自らの身の振り方を決めざるを得ない面もある。

 上に挙げた決議は、いずれも米欧主導で提案されたものであり、有体に言えば米国の同盟国や友好国が賛成に回り、非同盟・非友好国が反対や棄権に回ったと見てよい。

 ただし、各国の置かれた状況によって、必ずしも期待された通りに振る舞うとは限らない。この間、UAEやサウジアラビアといった米国と親密な国々が共同歩調をとらなかったことが注目を集めた。だが、もちろん反米に転じたわけではない。気候変動・エネルギー政策の転換や内政面への注文、中東地域への関与の低下など米国の長期的な傾向、とりわけトランプ政権からバイデン政権への変化に対する不満・不信から、“揺さぶり”をかけたものと思われる。

 また、ロシアの影響力の問題もある。自らの「特別軍事作戦」が正当であり、非難される理由はないとするロシアは、影響力を及ぼし得る諸国に対して立場の共有、少なくとも中立を求めることになる。例えば、インドは旧ソ連時代から友好関係にあり、軍事的な支援を行ってきたことで知られる。アフリカ諸国について言えば食糧用小麦の輸出、紛争を抱える国々へ武器輸出や民間警備会社の派遣などを通じて影響力を高めてきた。

 さらに、主に途上国における「人権」の内政に与える影響にも注意が必要である。すでに見たように、3月2日の国連総会決議と4月7日のそれを比べれば、反対・棄権票を投じた国の数は有意に増えていることが分かる。主に政治・経済的な不安定性を抱える途上国にとって、「人権」を理由に統治の正当性に疑義を呈されることへの強い拒否感を見ることができるだろう。

 さらに考えるべきは、こうした動きの底流に米欧主導の国際秩序に対する不信、反撥が窺えることである。この点について、中東政治を専門とする酒井啓子(千葉大学教授)は次のように指摘する(「「侵攻」をめぐる二重基準 ゆがめられる国際規範」『毎日新聞』電子版、 2022年4月14日)。

 「20年間という時を経た米国とロシアの今の行動の相似性をとらえれば、さまざまな矛盾が浮き彫りになる。何より、同じ大国による軍事介入でありながら国際社会の反応がこうも違うかという、主として非欧米世界からの欧米の「二重基準」に対する批判は、見逃せない。」

 ここで「相似性」とされているのは、2001年の「9・11」を受けた米国によるアフガニスタン、イラクへの侵攻である。とりわけ対イラク戦については国連で疑問や反対意見がありながらも強行され、主な理由とされた「大量破壊兵器の開発」「国際テロ組織との連携」についても後に偽情報に基づいていたことが判明し、軍事力行使の正当性が根本的に覆ったことは記憶に新しい。

 また、戦時はもちろん10年以上に及ぶ占領統治の過程でも、非戦闘員への被害や人権侵害などが数多く報告されている。にも関わらず、米国の政策決定者について、国内外で責任が問われた試しがない。これは明らかに「二重基準」であり、それに対する不信や反撥が、この間の国連決議をめぐる動向にも何らかの形で現れていると見られる。

 もちろん、酒井は「だから“どっちもどっち”」などと言っているわけではない。逆である。

 「20年間の「対テロ戦争」で多大な負担と損害を被った結果、米国は「介入は割に合わない」と結論づけ、介入先から撤退した。だが、米国が多用した正当化の論理は、そのままロシアに引き継がれている。」

 細部を見ればまったく同じではないとはいえ、米国の振る舞いは弱小国、自らの秩序に盾つく国々に対して情け容赦なく、時に非道極まりないものだったことは疑えない。にもかかわらず、その非道は不問に付され続けた。現在のロシアは、非道を正す枠組みを作るよりも、米国の非道が許されるなら自らにも同じ権利が与えられて然るべき、との動機で動いている。言わば米国の“劣化コピー”である。

 「そのことの含意はきわめて深刻だ。なぜなら、国際規範が大国によって徹底的にゆがめられ、恣意的に利用されてきたために、規範としての信頼性が失われているからだ。今、国際規範が無力なのは、それがただの大国の武力による利益追求を正当化する口実でしかないと、矮小化されているからである。」

 現在の戦争が一刻も早く停止されるべきであり、侵略者の敗北をもって終結されるべきことは言うまでもない。しかし、第二次世界大戦が、内実はともかく「ファシズムに対する民主主義の勝利」と総括されたように、今回の戦争が「権威主義に対する民主主義の勝利」と総括されるだろうか。酒井の指摘する「20年間」に何らかの形でケリがつけられない限り、残念ながら危機が再び頭をもたげてくると言わざるを得ない。

                                             (山口 協:当研究所代表)

  


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