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アソシ研リレーエッセイ
「MINAMATA」とオリエンタリズム



 一時期釣りに熱中し、自宅の京都から月に一度は琵琶湖に行って釣りを楽しんでいました。湖面に浮かぶ水鳥や浅瀬を泳ぐ小魚を眺めながらの釣りは、ほっこりとさせてくれるものですが、高度成長期に日本全国で公害が問題になっていた頃、琵琶湖の水質汚濁も深刻化していました。そこで県民が主体となって行政に対策を要求した結果、工場や事業所に窒素やリンの排出基準を適用し、リンを含む合成洗剤の使用を禁止する条例が制定されました。

 ちょうどその頃、高校の国語の授業で石牟礼道子さんの『苦海浄土―わが水俣病』を読み、琵琶湖を水源にしている水道水を使っている京都の一市民にとって、そこに書かれていることは他人事とは思えませんでした。ずっと記憶に残っているこの作品と同じく、水俣を舞台にした映画「MINAMATA―ミナマタ―」が公開されたので見てみました。

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 アンドリュー・レヴィタス監督、ジョニー・デップ制作・主演の「MINAMATA―ミナマタ―」の物語の構造は、企業による環境破壊で地元の人たちが犠牲になり、それが隠蔽されていることをジョニー・デップ演じるアメリカの写真家ユージン・スミスが明らかにし、世論が動くという物語と、自暴自棄になっているユージンがアジアにルーツを持つ女性とのロマンスで救われるという物語を組み合わせた構成になっています。

 文字と映像という違いはありますが、比較すると、『苦海浄土―わが水俣病』はサブ・タイトルに「わが」とあるように、作中の語り手は水俣を自分のこととして寄り添いながら描いているのに対し「MINAMATA―ミナマタ―」では、観察者である西洋人が、東洋の水俣を観察するように描いており、両者の水俣に対するまなざしに違いがあります。作者や語り手がどの位置からどのようなまなざしで語るのかによって、それを受ける側の解釈も変わってきます。

 西洋がオリエントをどのようなまなざしで語るのか、その構造について分析したのは、エドワード・W・サイードです。サイードは『オリエンタリズム』の中で、中東とヨーロッパの関係性を中心に論じていますが、彼のオリエンタリズム論は、欧米と北アフリカや極東も入れた東方世界との関係性を考えるときにも応用されています。

 サイードによると、「オリエントとは、むしろヨーロッパ人の頭のなかでつくり出されたもの」であり、西洋が自身を「オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有する者」として規定するために、想像上の他者としてオリエントを見ていることを明らかにしています。

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 サイードが詳らかにしたこの観点は、近代以降の西洋の文学や芸術の中で表象されるオリエンタリズムのみならず、東洋を傘下に置き、植民地支配をしていく過程でも見られます。実際に、近代化した西洋が東洋を後進的でエキゾチックな「他者」とみなし、逆に自分たちを先進的で文明化された「自己」と認識していったのと同じ論法で、植民地主義や人種差別主義は正当化されてきました。

 映画「MINAMATA―ミナマタ―」は、水俣を通して環境破壊や経済を優先する企業倫理について社会正義の観点から描こうとしていますが、西洋人が東洋で起こっている問題を解決へ導く、失意の日々を過ごす白人男性がアジア系女性との交流によって自分自身を取り戻すというストーリーの中に、サイードの言うオリエンタリズムがそっと忍び込んでいることは否めないでしょう。

 では、東洋に対してこのようなまなざしで見ていたのは西洋だけでしょうか? 19世紀以降の日本も欧米に対しては後進的でエキゾチックなオリエントとしてふるまう一方、周囲のアジア諸国を遅れたオリエントとみなし、朝鮮半島や台湾、南洋諸島の植民地化を正当化してきました。

 そんな振る舞いをなかなかやめられず、現在も大国意識から逃れられないままの日本ですが、予想以上の国力の凋落がコロナの感染拡大によってあぶり出されました。まずは日本の現状を直視し、アジア及びその他の地域との関係、そしてこれからますます複雑化する国際社会とどう向き合っていくのか考え直す時期にきています。

                 (河村明美:よつ葉ホームデリバリー京都南)



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