HOME過去号>206号  


市民環境研究所から

沙漠の国の日本人捕虜


 先月の本欄で触れたカザフスタンのコロナ禍と荒れたデモ、どう展開しているのか心配を続けている。そんな中、一人の老人の死を知らされた。

 この30年間はカザフの環境調査が本題であったが、全く知らなかったカザフと日本の関係を教えてくれたのはカザフ在留日本人である。第二次大戦後にソ連の捕虜になった日本軍兵士のシベリア抑留や帰還するまでの辛苦を少しは知っていたが、シベリアから数千キロも西の中央アジアに連行された日本人捕虜のことは知られなかった。

 筆者がアラル海の消滅という20世紀最大の環境改変の調査を始めた頃、日本人の三浦正雄さんにカザフの砂漠の村でお会いした。その後日本に帰国され、故郷の北海道に住んでおられたが、1月19日に89歳で亡くなられたと新聞記者が教えてくれた。

             ▼      ▼      ▼

 アラル海に行く前に、まずはカザフの自然環境と農業を知りたくて、十数名の研究者と基礎的調査を開始した。中国から流れ出し、バルハシ湖に至るイリ川流域のベレケ・コルホーズが受け入れてくれた。

 その村の副村長と話していると、「石田はこの村に来た最初の日本人だが、俺は以前この近くで日本人に会ったことがある」と言った。「雪路で自動車が故障し、途方にくれていると、吹雪の中から日本人が現れ、故障車を村まで運んでくれた」と言う。あまり信用していなかったが、2~3日後に村長と副村長が来て「今から行くぞ。早く乗れ」とジープで走り出した。行き先は三浦さんが住む村だと言う。

 三浦さんは、1932年(昭和7年)生まれ。樺太で農業を営む両親と暮らしていたが、ソ連が参戦しそうになった頃に子供の三浦さんだけ北海道へ帰った。しばらくして両親が恋しくなり樺太に戻ったが、すれ違いに両親は北海道に帰ったという。孤児になった彼はソ連軍に逮捕され、刑務所に入れられ、出所後16歳で列車に乗せられ、カザフスタンのアルマ・アタで放り出された。駅で泣いていると、日本人の捕虜と兵隊がやって来て、カザフ人の家に連れて行かれ、その家の子供として育てられた。職業学校に行ったのち禁猟区の監視員となり、禁猟区の総責任者になった。ところが、高級官僚が禁猟獣を撃った口止め料を受け取らなかったので上級官僚に憎まれるようになり、職を辞して動物飼育のコルホーズで働いていた。

 1988年に彼はソ連の日本訪問団の一員として来日し、故郷の札幌にも行ったが、KGBに尾行されたため兄には会えず、兄が東京まで来てくれて2時間だけ会うことができた。帰国後、兄の娘から手紙が届き、「たいへん喜んでいたが、その後死んでしまった」と書かれていた。いくら返事を出しても届かず、カザフのナザルバエフ大統領にも帰国嘆願書を出したが実現しなかった。筆者が訪ねたのは、ちょうどその頃。「兄は死んだが、その娘が札幌にいると聞いたので探して欲しい」と頼まれ、札幌の知人に頼んで探してもらい、三浦さんからの手紙を渡し、返事をもらって次の訪問の際に持って行った。

 それ以降、筆者はカザフの西端にあるアラル海での仕事に時間を取られ、三浦さんのことは気掛かりだが訪ねる余裕もなく日が過ぎていった。2006年三浦さんが北海道大学で「カザフスタンから帰国して」との講演をされると北大の知人から聞き、馳せ参じて再会できた。一人の少年が戦争の悲惨さを背負い、見知らぬ他国で生き抜いた人生をもっと聞かせていただくべきだったと後悔している。

             ▼      ▼      ▼

 アラル海に流れ込むシルダリア川の中流域にあるケンタウ市では日本兵捕虜が鉱山で過酷な労働をさせられ、現地で38人が死亡した。その戦友たちの慰霊碑を建立したいので協力してほしいと戦友会に頼まれ、カザフ政府への許可申請書や設計図を持って、首都アルマ・アタ市を走り回ったことを久しぶりに思い出した。少しは役に立ったのだろうが、慰霊碑は出来上がり、筆者も碑にタバコを捧げた。

 カザフにはまだまだ日本兵の遺骸が埋められている畑や草原があるとの情報は寄せられるが、残念ながら放置されているようである。戦後は終わっていない、これからも何か少しでも出来ればという気持ちを思い出させてくれた、三浦正雄さんの悲報だった。もう一度会いたかったと悔やみながら、冬空に向かって手を合わせた。

                         (石田紀郎:市民環境研究所)
  


©2002-2022 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.