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駒込 武さんインタビュー 報告

日本を「小さな島々」として位置づけ直す
台湾との関りから見えてくるもの

 米中対立の中で焦眉の的となっている台湾。「台湾有事は日本有事」などと勇ましい声も耳にする。しかし、日本の私たちは台湾について、台湾に生きる人々について、かつての歴史も含めて何を知っているのだろうか。日本における台湾認識には大きな欠落があるのではないか――。台湾社会のダイナミックな変化、日本と台湾の関りをたどる中から何が見えてくるのか、何を見出すべきなのか。昨年、台湾の政治学者・呉叡人さんの論考を翻訳・刊行された駒込武さんにお話をうかがった。
                                                                (聞き手:山口 協[当研究所代表])



はじめに

 ――研究分野とテーマについて教えてください。台湾についてはいつ頃、どんなきっかけで関心を持たれたのでしょうか。

 
駒込:研究分野は植民地教育史、台湾近現代史です。ただ、最初から台湾を専門にするつもりではありませんでした。大学で教育学部に行き、日本の植民地支配と教育の関係について研究するつもりでしたが、まず思い浮かんだのは朝鮮半島であり、中国東北部、旧満洲でした。

 そもそもは、1980年代に岩波書店の雑誌『世界』で掲載されていた「韓国からの通信」
(注1)などを読んで、独裁政権下の民主化運動、そこに生きる人びとの姿にひかれ、朝鮮史の研究をしたいと思ったのがきっかけです。

 ただ、大学に入ってみると、すでに朝鮮史には相当の研究蓄積があったのに比べて、旧満洲については圧倒的に手薄で、まさに始まったばかりの状態でした。そこで、どちらかというと旧満洲の教育史に比重を置いて、中国の東北地方に資料調査に行ったりしていました。

 そうした中で1989年の天安門事件
(注2)に遭遇するわけです。一時的に渡航できなくなってしまい、調査のために予約していた北京行きの飛行機もキャンセルせざるを得ませんでした。それで、今から思うと大変失礼な話ですが、「仕方ないから台湾にでも行くか」という感じで、あまり予備知識もないままに台湾を訪れました。

 ところが、行ってみると、台湾の歴史は本当に複雑で、日本との関わりも深いにもかかわらず、自分たちは何も知らなかったことに気づかされました。その経験から、日本植民地支配下の教育史を中心に台湾の研究を始めることになったわけです。

 とはいえ当時、台湾の歴史については、頼りになる書籍は少なかったですね。わずかに、戴国煇さん、黄昭堂さん、許世楷さんなど
(注3)、台湾から1950年代60年代に留学した人たちを中心に、一定の研究はありましたが、日本人の中で台湾史を研究している人は若林正丈さんや近藤正己さんなど本当にごくわずかでした。

■駒込 武さん:京都大大学院教育学研究科教授
1962年生まれ。東京大大学院教育学研究科博士課程修了。専攻は教育史、台湾近現代史。安保関連法制に反対する「自由と平和のための京大有志の会」の呼びかけ人を務めたほか、大学の新自由主義改革に抗する取り組みにも尽力。
 というのも、戦後の台湾では、台湾の歴史については研究されないし、学校で教えられてもこなかったんですよ。戦後の台湾を統治した蒋介石が率いる中国国民党(注4)とすれば、台湾は中華民国の一部であり、あくまで学ぶべき歴史は中国史、国語も台湾語ではなく中国語なんです。だから、1989年の時点で言えば、台湾には「台湾史研究」なるものはほとんど存在しませんでした。わずかに、清朝の周辺部として清代の台湾史に言及するものはあっても、日本統治時代を含む台湾の近現代史については、ほとんど研究されていなかったんですね。


日本の台湾統治をめぐって

 ――日本は50年にわたって台湾を植民地統治しましたが、日本ではその内実について、朝鮮半島と比べて、きちんと伝えられていないように思います。内実はどんなものだったのでしょうか。


 
駒込:話し出すときりがありませんから、朝鮮との比較で、特徴のポイントだけ紹介します。

 私の専門である教育史で例を挙げると、朝鮮の場合は日本が正式に植民地化した1910年の「併合」直前の段階で、私立の学校が2000校以上ありました。民族系やキリスト教系の団体が建てたものです。日本側から見て「勝手に建てたもの=私立」とされましたが、朝鮮の人々が相互に協力してお金を出し合い、近代化していく世界で生き残るためには近代的な学校、近代的な教養が必要だと考えて建てた学校です。それが2000校以上ありました。

 一方で、台湾の場合は1920年ぐらいになっても、私立の学校は全部で20校ぐらいしかない。人口が朝鮮の5分の1くらいという点を考慮しても、私立学校数が二桁違うわけです。この違いを考えると、朝鮮と台湾の植民地化のタイミングが決定的に大きな意味を持っていることが分かります。

 台湾は1895年に植民地化されました。その前から「洋務運動」と呼ばれる近代化政策は始まっていたが、まだほとんど広まっていませんでした。朝鮮では1894年に「甲午改革」
(注5)が始まりますが、この時点では近代的な学校はほとんどありませんでした。伝統的な科挙のシステムに対応した書堂や書院があっただけです。日清戦争の結果や台湾の植民地化などを目撃する中で、1895年から1910年の間に膨大な数の近代的な学校が作られていったわけです。

 つまり、1895年の時点では、台湾と朝鮮にはそんなに大きな状況の違いはなかった。しかし、台湾はその時点で植民地化されたために、台湾の人々がもとからあった書院のような在来の学びの場を植民地支配下で私立の学校として改組して再興したいという要求を出しても、総督府は認めませんでした。台湾人が私立学校を作ろうとしなかったのではなく、許されなかったんです。

 近代という時代への対応を植物の種を播いて育てることに例えれば、台湾は種が播かれて芽が出てきたところを、いきなり日本の支配者が蓋をして日光を当てず、水もやらず、民間社会が近代的な教養を獲得するための力を抑えつけてしまったと言えます。それに対して、朝鮮の場合は1905年以来保護国化されてしまったものの、「併合」という完全植民地化までの間に自主的な近代化をある程度成し遂げて、一つの大きな木へと成長させていたわけです。だから、朝鮮総督府が私立学校を弾圧する際には、まるで木をなぎ倒すような強引なやり方になり、分かりやすい強権的な支配になった一方、台湾の場合はまだ芽のうちに蓋をされてしまったので、傍目には弾圧が分かりにくくなったと言えるでしょう。

 ――日本では、台湾の植民地統治について「良いこともした」「欧米の植民地とは違う」と言う人がいます。

 
駒込:私は日本とイギリスの植民地政策の比較研究をしたことがあり、大英帝国の教育政策についていろんな研究を読みました。非常に印象的だったのは、植民地支配を悪かったと捉える研究は本当に少なく、負の側面はあってもバランス・シートをとれば最終的にはプラスだと総括していることでした。イギリスの植民地の人々はイギリスの素晴らしい政治思想や文学に接することができたので、日本のように遅れた国家の植民地にされた人々よりもはるかに幸福だったというような言い方もなされています。つまり、「うちは良いことをしてあげた」「他の国の植民地支配より良かった」みたいな言い方こそ、まさに植民者の言説なんですね。「日本の植民地は欧米の植民地とは違う」という言い方は、「イギリスの植民地は(日本を含む)他国の植民地とは違う」という言い方を実はなぞっているわけです。

 イギリスの場合も、日本の場合も、支配された人々の自己決定権を否定した点に変わりはありません。近代化するにしても、橋一つ架けるにしても、支配者が自分たちにとって必要だから作る。被支配者は自己決定を禁じられ、決定に参加することはできません。決定するのは常に支配者です。

 私は、台湾を代表する知識人である林茂生(1887~1947)という人物について研究しました。彼は初めの内は日本植民地支配下の教育を歓迎していましたが、途中から「これは台湾人のためにはならない、むしろこんな教育を受けたら台湾人は人格が崩壊してしまう」と批判しました。そのため、1930年代になると、「非国民だ」として日本人官民から激しく攻撃された人です。戦後に今度は蒋介石の国民党政府と衝突して殺されてしまいますが、彼が息子に告げた言葉が残っています。「日本人は一般大衆の生活水準を改善した。しかし、わたしたちが自分自身を管理し、政治に参与することを意図的に防いだ。さらに不幸なことは、台湾人がただ一種類の政治体制しか知らないことだ。それは殖民政府である」と。日本も国民党も外来の植民地支配者だということです。

 つまり、植民地支配の本質とは自己決定の否定であり、学校の数が増えたとか生産力が上がったとかいうことは、そうした自己決定から疎外された人々の怒り、憤りに応えるものには全くなっていないということです。

 ――植民地統治を美化するような日本の風潮の背景には、台湾の存在そのものが日本社会から無視されてきたことがあると思います。そこにどんな理由があるでしょうか。

 
駒込:これは難しい問題です。私自身も、たまたま天安門事件がなければ台湾のことは視野に入ってこなかったわけで、なぜそうだったのか、今でも考え続けています。

 いくつか重層的な要因があると思いますが、一つは「左翼としてのバイアス(偏向)」だと思います。私も含めてということになるでしょうが、日本のいわゆる「左翼」は戦後の冷戦構造の中で、アジアについて言えば基本的には中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国に期待と夢をつなぐ傾向があったわけですね。中国については文化大革命、さらには天安門事件があって、中国革命(1949年)を礼賛していた人たちも疑問を抱き始めた部分があります。ただ、それでも一般的には、台湾の人々についてなかなか視野に入ってこなかった。

 もう一つ大きな問題は、「戦争責任」と「植民地支配責任」の問題です。今でこそこの2つの言葉を区別するようになりましたが、90年代ぐらいまでは、「戦争責任」については盛んに言われながら、「植民地支配責任」についてはあまり言われてこなかったと思います。近現代の日本とアジアとの関係が「戦争責任」の問題に還元されてしまい、そこでは日中戦争の問題が大きな比重を占めました。日本は中国にひどいことをした、と。戦後日本に復員した多くの日本人元兵士の中にも、不十分ながら中国大陸での残虐行為に対する後ろめたさや罪の意識はあったと思います。そうした戦争責任への意識に加えて、中国が革命で新たな国作りを始めたので大きな関心を集めたのでしょう。

 ただ、「戦争責任」という着目の仕方ですと、日本統治時代に台湾の人々が中国大陸の人々とはまったく異なる歴史的経験をしたことは、すっぽり抜け落ちてしまっています。

 侵略戦争、たとえば日中戦争では、中国人と日本人は文字通り敵として対峙します。ところが、植民地支配の場合、長期にわたる暴力の中で被支配者を共犯関係に組み込んでいくんですね。

 たとえば、戦後中国大陸から来た人が台湾の人を見て驚いたのは、中国語が話せずに日本語で話していることです。逆に大陸で日本軍と対峙していた人は、当然日本語がわからない。それで「こいつらは何者だ?」となるわけですが、日本語が話せてしまうこと事実それ自体、一種の共犯関係を生きてきた、生きてこざるを得なかったことの一例です。台湾人をそうした状態に追い込んだのは日本の植民地支配であり、「植民地責任」として考えるべき問題です。ところが、全体として言えば、すべてが「戦争責任」の中に集約されるような議論がなされてきました。そのため、中国と台湾の関係では、台湾の人々に固有の歴史的経験、固有の困難について考えにくかったのではないかと思います。

 三つ目は「在日」の問題です。朝鮮半島の人々は戦前戦中に数多く日本に移住して、戦後も在日朝鮮人として生きている人たちが何十万人とおられます。その中には歴史研究者として日本の植民地支配を告発した人たちもいるわけですね。ところが、台湾の場合、戦前戦中に台湾から日本へ、定住者としてはあまり来ていないんですね。それよりも、台湾人は戦争中、東南アジアや南洋諸島に盛んに行っています。

 そういう違いもあって、在日台湾人は在日朝鮮人に比べて圧倒的に数が少ないし、日本社会に対する思想的、政治的な影響も、在日朝鮮人に比べると少なかったと思います。

 関連して言うと、戦後の韓国と台湾は戦後長らく軍事独裁政権が続き、ひどい抑圧体制だったという点は共通しています。日本の植民地支配を経験したということも共通しています。韓国独裁政権は表面的には「反日」だったとしても、実は日本植民地時代の「親日派」と呼ばれる人々が支配の中枢に生き残っていたことが知られています。日本の陸軍士官学校を卒業した朴正煕はその象徴ですね。ところが、蒋介石、蒋経国統治下の台湾では戦後すぐに在来の台湾人をいわば全体として「親日派」とみなし、1947年の2・28事件
(注6)ではとくにインテリを中心に2万人近く殺した上で、それから40年近く戒厳令を続けたわけです。戒厳令下では、軍法裁判で弁護士もつけず、証拠なしでいくらでも死刑という状況でした。

 そうした中で、たとえば韓国については抵抗者やキリスト者が密かに状況を外部に伝え、それが「韓国からの通信」として日本で公開され、韓国民衆の姿が日本社会に伝わったわけです。しかし、台湾の場合、1980年代後半まではそもそも民間レベルで「通信」を交わすこと自体も困難だった。そういう事情もあります。

 ――朝鮮半島の場合、かつて「大韓帝国」が存在し、民族と国家の一体化があった上で日本が植民地支配したわけで、復帰すべきところが明らかです。それに比べると、台湾の場合はどこに復帰するのか、はっきりとしていなかった面もあったのではないでしょうか。

 
駒込:1895年の時点では、ほぼ確実に「台湾人」としての意識はなかったと思います。もちろん台湾に住んでいる人々という意識はあるけれども、それは必ずしも重要な意味を持つものではなかったでしょう。日本人にさんざん差別され抑圧され、やっと解放されたと思ったら今度は国民党に差別され抑圧される中で、「台湾人」という意識が生まれてくる。朝鮮半島との大きな違いだと思います。

 ただし、世界史的に見れば、実は台湾のようなケースは少なくありません。たとえば「インドネシア人」や「ケニア人」も最初からあったものではなく、植民地支配の中で、支配の抵抗の中で生まれてきたものです。日本と朝鮮という関係の中だけで考えていると、そうしたことが非常に分かりにくいわけです。


「台湾=親日」の背景にあるもの

 ――ともあれ、戦後の日本の中で台湾の存在は見えにくく、植民地支配の責任問題も問われないまま、なぜか「台湾=親日」といったイメージがずっと流通している状態です。

 
駒込:これもいくつか次元があって、日本統治時代を経験した人の素朴なノスタルジアとしての「親日」と、一部の在日台湾人と日本の右翼によって戦略的に作り出されたものとしての〈親日〉があると思うんです。

 最近は少なくなりましたが、台湾に行くと、日本時代を経験したおじいちゃんおばあちゃんに「日本人だ、懐かしい」と日本語で話しかけられることがあります。そこでお話を聞くと、日本に対する感情はとてもアンビバレント(両義的)です。植民地支配下で、先に近代化していた日本・日本人に憧れたり、もっと言えば、日本人みたいになりたいと感じていた人もいます。でも、一方でひどく差別されたという思いもある。しかし、国民党・蒋介石政権のように、自分自身の日本人性みたいなものを全否定することはできない。ひどく差別されたからこそ、そして戦後も外側から日本人性を否定されたからこそ、その中で生きてきた自分たちの中にある日本人性みたいなものをむしろ大切にしたいと感じる、すごく複雑な思いがあると思うんです。

 台湾のおじいちゃんおばあちゃんにとって日本語は自分たちの人生で一番良い時代、青年時代・子ども時代に覚えた言葉ですが、戦後の台湾ではそれを話すことが禁じられていたわけですね。そうした経験を半世紀にわたって経てきた上で語っている。そうした背景も重要だと思います。その点で、「日本は良かった、日本が好きだ」という語りには、自分たちが戦後日本に見放され、国民党統治下でいかにひどい目にあったか訴えたいという思いもあるのだと思います。

 それともう一つ、戦略的に作り出された〈台湾=親日〉のイメージには、李登輝
(注7)の存在が大きく影響していると思います。台湾では1987年に戒厳令が解除され、翌88年に台湾生まれの人間として初めて李登輝が台湾政治のトップになりました。ただし、彼は中国再統一(中国による台湾統合)を党是とする国民党の主席でありながら、実際には、むしろ中国大陸=本土という建前を降ろし、台湾=本土と捉える動き(本土化)を進めようとしました。

 日本から見る李登輝は、例えば司馬遼太郎や小林よしのりと一緒になって機嫌よくやっている好々爺という感じですが、台湾での動きを見ていると、政治戦略に長けた策士だと感じます。その点で言うと、彼は台湾の安全保障の一つとして、「台湾は中国の一部ではない」と世界に周知することを重視し、そのために利用できるものは何でも利用しようとしたんでしょう。

 そうした台湾の状況を受けて、かつては国民党政府の下で政治弾圧と闘い、亡命するようにして日本に定住した台湾人の一部
(注8)が、目的のためには手段を選ばず「日本は素晴らしい。台湾は日本が大好き」と宣伝し、「台湾は中国の一部ではない」という認識を浸透させようとした。そうした動きの影響もあります。

 ――お話に出ましたが、日本で台湾問題が注目された一つのきっかけが、2000年に出た小林よしのりの『台湾論』だったと思います。それ以降、戦前の日本と台湾の結びつきをテコにして、それを現在に直結させようという一種のプロジェクトが進んできたように感じています。ただ、一方で駒込さんも含め、それに対する批判も提起されました。私自身、そうした論議の中で台湾について改めて考えるようになった面があります。

 
駒込:そうですね。2000年には総統(大統領に相当)選挙で陳水扁が勝利し、初めて野党民進党(注9)の政権が成立する中で、李登輝も国民党を離れて台湾独立の立場を明確にし、台連(台湾団結連盟)(注10)が動き始めます。小林よしのりの『台湾論』も、そうした現実の政治の中で、国際的な世論対策の一環として現れたものだと思います。

 小林よしのり『台湾論』への批判として、東アジア文史哲ネットワーク編『〈小林よしのり『台湾論』〉を超えて:台湾への新しい視座』(2001年)という本の編集に参加したことがあります。小林の『台湾論』は政治的に間違っているだけでなく、歴史的にも無理な解釈や、基本的な事実の欠落などが明らかで、とうてい許し難いものです。その評価はいまも変わりません。ただ、後になって、小林を批判する側にも問題が含まれていたことに気づきました。

 この本が出たのと同時期に、執筆陣が集まって、小林よしのり批判のシンポジウムを台湾で開催したことがありました。日本側の取りまとめ役は丸川哲史さん、台湾側は陳光興さんでした。陳さんは中華人民共和国との統合を目指すラディカルな統一派です。当日になって初めて気づいたんですが、陳さんを含めて台湾側の発言者はほぼ外省人
(注11)でした。しかも、発言を聞いてみると、彼らは台湾の歴史についてほとんど知らず、小林よしのりを批判するよりも「台湾独立」という発想を批判したいことが分かったわけです。非常に違和感を覚えました。

 ――1945年以降、日本政府や右派勢力は最初は蒋介石の国民党政権を擁護していましたが、李登輝の登場以降、いつの間にか、しかも総括抜きに立場を変え、現在は民進党政権を支援しています。他方で左派勢力は、これも総括抜きに台湾の自立を認めるようになったり、これまで通りだったりですが、それほど精彩はありません。そうした転換を見ても、日本における台湾認識には大きな問題があったと思います。

 
駒込:右派については、かつて岸信介と蒋介石の密接な関係がありました。同じような形で蔡英文政権と自民党政権がつながっているかというと、そんなことは全然ないと思います。自民党政権は中国との関係上、台湾に利用価値があるから蔡英文政権を利用しているところがあると思います。蔡英文政権の方も、安倍晋三が「台湾有事は日本有事」と発言した際に表面上は「安倍先生ありがとう」というメッセージを発しましたが、これも利用できるところは利用するという以上のものではないと思います。まさに狐と狸の化かし合いですね。

 むしろ、左派の方が罪深いかもしれません。左派からすると、「台湾独立」は社会主義中国を否定するものということになります。現在の中国に対する批判はあっても、「台湾独立」と言った瞬間に「ナショナリスト、右翼、反共」というレッテルを貼られてしまいがちです。

 私の友人である呉叡人さん
(注12)は、ベネディクト・アンダーソン(注13)への手紙の中で、こうしたレッテルへの戸惑いを記しています。

 日本でも小林よしのりと連携した在日台湾独立派の活動のために「台湾独立派=右翼=反共」というイメージが流布しています。ですが、それは政治的につくられたイメージです。そこで見落とされているのは、「台湾独立」という思いの根底には反植民地主義、反帝国主義、言い換えれば「自己決定」への願いがあることです。これは台湾社会の中で日本時代から連綿と、100年以上にわたる歴史の中で形作られてきた願いです。

 例えば、先に触れた林茂生の息子の林宗義が1970年代にカナダに亡命し、台湾人民自決運動を始めます。その中で、非常に面白く感じたのが、アメリカの新聞に出した意見広告です。「台北の政府に告げる。北京の政府に告げる。全世界に告げる」という形で呼びかけ、台北の政府に対しては「戒厳令を解除せよ、政治犯を解放せよ」と呼びかける一方、北京の政府に対しては「すべての抑圧された者の解放というあなた方の主張と私たちの主張は一致する。その原理を私たちにも適用して欲しい」と主張するんです。

 つまり大事なのは、統一か独立かではなくて、統一するにしても独立するにしても、それを誰が決めるのかという問題です。中華人民共和国と一緒になるか、台湾共和国を作るか、それとも現状維持か、住民投票で決めましょうと。台湾の運命なんだから台湾人に決めさせろと。

 台湾の歴史を振り返ると、日清戦争で台湾割譲が行われますが、台湾の人たちには一言の相談もありませんでした。1945年に日本が敗北し、国民党政府に渡されたときも、台湾の人たちの意思に関わりなく蒋介石が勝手に決めているわけです。

 では現在、中華人民共和国はと言えば、誰の目にも明らかなように、中国に帰属するか否か台湾の人民が決めるべきだという主張は、頭から相手にしていません。台湾は中国の一部である、それが正しい認識である、ということを大前提としている。しかし、台湾の人々の経験や意思を問おうとしない姿勢は台湾の人々からすれば、まさに帝国主義にほかなりません。

 そうした中国の姿勢こそが、台湾の人々に「中国の一部にはなりたくない」という思いを強めさせる原因でもあります。日本の左翼も、この点をきちんと理解することが必要だと思います。


呉叡人さんの人と思想

 ――いまお名前が出ましたが、駒込さんは昨年、呉叡人さんの著作を翻訳・刊行されましたね。まず、呉叡人さんの人となり、駒込さんとのご関係について、紹介していただけますか。

 
駒込:呉叡人さんとは初めから友だちというわけではありませんでした。彼は2003年にシカゴ大学で博士号をとりますが、日本統治時代の台湾の歴史について論じた博士論文の中で、私の最初の著書『植民地帝国日本の文化統合』(1996年)を徹底的に批判しているんですね。

 大まかに言うと、日本は台湾を統合しよう、文字通り本気で日本帝国の一部にしようとしていた、というのが呉叡人さんの解釈です。一方、戦争末期には止むを得ずそういう動きが始まるけれども、基本的には差別化して排除して底辺に置くのが日本の方針だ、たとえば総督府の中で「台湾人も日本人と同じだ。一視同仁だ」なんて言っていたけれども建前でしかなく、嘘っぱちなんだというのが私の主張です。現在も基本的にはそうだと思っています。
呉叡人/駒込武訳
『台湾、あるいは孤立無援の島の思想』 みすず書房、2021年

 ただ、呉叡人さんは「たとえ建前でもそれを信じて、日本人になりたいと心底思った台湾人もいた、お前の理論ではそれを説明できないだろう」と言うわけですね。それはその通りだと思いました。そこで、二冊目の単著『世界史のなかの台湾植民地支配』(2015年)では、「建前だった」という言い方は適切ではなかったと考え直しました。たとえば、先に挙げた林茂生にも日本人になりたいと心底思った時期があったりしました。また林茂生の論文から、日本人に同化したいと思って精神的に錯乱していった台湾人も少なからずいたことがうかがわれます。そうした事実も論じられる必要があると考えたんです。その意味で、二冊目の本には、最初の本に対する呉叡人さんからの批判に私が応答した部分もあると思います。

 その時期、私は雑誌『前夜』に「台湾史をめぐる旅」という連載をしていましたが、掲載されるごとに彼に送りました。その内容は、台湾の「統一/独立問題」を考えながら、それ自体の是非ではなく、政治的思惑に絡め取られない、しかし政治を批判できるような歴史像をどう描けるか、そんな模索だったと思います。それをめぐって呉叡人さんが感想をくれたりして、徐々に対話が深まっていき、その後2010年代ぐらいには、台湾に行くたびに一緒にお酒を飲むようになりました。

 こうして、お互いに批判も含めて議論する中で、私はある時期から呉叡人さんの思想を日本に紹介しなくてはいけないと思って、翻訳をぼちぼち始めたわけなんです。

 ――呉叡人さんは研究者であり、思想家でもあり、さまざまな社会運動にも関わってこれられたことから、運動の理論的支柱と見なされているそうですが、どのような影響を与えてきたんでしょうか

 
駒込:実はよく分からないんですよ。2016年、呉叡人さんが来日するついでに京都大学に来てもらって、ひまわり運動(注14)を考える集会(「いま、問い直す台湾「ひまわり運動」―民主主義の作り方」)をやりました。ひまわり運動の中心だった学生たちも何人か来てくれました。その時、私がチラシに呉叡人さんを「ひまわり運動の理論的支柱」として書いたら、学生たちから「それはちょっと言い過ぎだ」と言われたんですね。台湾の広い意味での自治、自決、独立に向けた運動に大きな影響を与えている知識人の一人であることは確かですが、「理論的支柱」とまで言えるのかどうか。

 日本で「台湾独立派」と言うと、右翼的な人たちを思い浮かべますが、台湾だと「独立派」の中でも右から左まで膨大なグラデーションがあるように私は感じています。その中で呉叡人さんは、ざっくり言って最左翼、「左翼台湾独立派」といった位置づけと言ってよいと思います。中華人民共和国政府を批判する点では独立派はみんな同じだけれども、ともすれば反共、反社会主義の方に流れてしまう傾向を戒めるというのでしょうか、彼は台湾の中でそういうグループを作ると同時に、そうしたグループがまた彼を支えている。そう言えるのではないかと思います。

 若い人たちは、そんな彼に一定の敬意を払いつつ、一方で世代が異なるが故のギャップも感じているようです。呉叡人さんからすれば、自分たちの世代は中華民国に徹底的に洗脳され、洗脳から脱出して現在の立場に立ったのに、今の若者世代は最初から「私たちは台湾人です。当たり前でしょ」というわけで、そこは意識のギャップがありますね。

 ――ちなみに、「独立」が根本的には自己決定の問題であることを踏まえた上で、具体的には主権国家としての存立を目指しているんでしょうか。あるいは、それにとどまらないものを含んでいるんでしょうか。

 
駒込:実際には台湾はすでに主権国家なんだけれども、国連をはじめとする国際秩序で認められていない。逆に、それが認められれば独立達成ということではないでしょうか。その上で、国号は「中華民国」のままか「台湾共和国」かとか、いろいろ問題はあると思うんですが、呉叡人さんはそういう実務的な話はあまりしていないと思います。

 それよりも、自己決定という点で言えば、すでに台湾は主権国家であり、社会をより民主化し多元化することで、その状態を確固としたものにしようと考えていると思います。また、彼の本の中には「自主独立なるものの結合」という考え方があります。日本が現在のままで、「はい、台湾独立おめでとう」と認めるんじゃなくて、日本自身がアメリカから自主独立を果たし、お互い自主独立したものとして同盟を結ぶ、そんなイメージだと思います。

 その意味では、一番低い次元では国連で主権国家と認められることを求めつつ、他方で、大国中心の既存の国際秩序を全体として「自主独立なるものの結合」に組み替えていくことを目指しているといえるように思います。

 ――自主独立が認められない地域はチベットとか新疆もそうだし、世界各地にあるわけですが、現在の主権国家体制では、そういう包み込めない部分がどうしても出てきてしまう。つまり、主権国家体制そのものが非常に限界を抱えているように思います。だとすれば、「独立」と言ったとき、現状のシステムをベースにして、それに新たに一つ付け加えるだけにはとどまらないことになりますね。

 
駒込:そうですね。私の解説でも、そのあたりをうまく書ければよかったなと思います。最低限の政治要求として、既存のシステムの中で認めてほしいとは思うけれども、同時にそれは「琉球共和国」も「台湾共和国」も入れるような、新しい秩序でないといけないということですね。

 ――呉叡人さんと関係の深い思想家、研究家はいらっしゃるんでしょうか。そうした人たちは、台湾の中でどんな影響力を持っているんでしょうか。

 
駒込:同じような考え方の人としては、呉介民さんが挙げられます。最近、川上桃子さんとの共編で『中国ファクターの政治社会学:台湾への影響力の浸透』が日本語に翻訳されました。そのほかにも彼がごく親しくしている知識人グループがありますが、ほとんど日本では知られていない人たちです。

 影響力に関して言えば、呉叡人さんは日本の学者ではありえないぐらい社会運動の最前線にいますね。それから政党との関わりでは国民党とはもちろん、民進党とも距離をもっています。比較的立場が近いのが台湾基進党というミニ政党です。立法院議員はいなくて、市会議員が何人かいるぐらいですが、大まかに左派台湾独立派の動きを一つの政党として表現しようとするものと言えます。

 ただ、呉叡人さんが影響力を持つのは基進党に投票するごくわずかな人たちかと言うと、そうではないと思います。選挙で民進党に投票するか否かはともかく、全体として今の蔡英文政権をよりまともな方に向かせようとする、ある種の存在感のある知識人勢力があって、その中でかなり重要な位置を占めているとは思いますね。

 2016年以降、蔡英文政権が素朴現実主義的な国際政治論に引っ張られて、どんどん妥協的になっていった中で、突如として香港での弾圧があり、それを契機に蔡英文政権が中国政府との対決姿勢を強めていった流れがありました。その際、あちこちで香港問題について活発にスピーチをして歩いたのが呉叡人さんです。

 ――沖縄と台湾とは構図は違いますが立場としては非常に似ていて、両者がどう関わるのか、今後の東アジアで重要なポイントになってくると思います。その点に関して、以前、呉叡人さんも含めてリモートで行われたシンポジウム(注15)を拝見しました。本の中では理想主義的な部分が押し出されていますが、シンポジウムの中では現実政治の中での苦しさみたいなものを吐露されていたと記憶しています。そのあたりは呉叡人さんだからこその煩悶なのか、あるいは台湾の中でもそれなりに重要な問題として共有されているのでしょうか。

 
駒込:呉叡人さんの論を日本で紹介するにあたって、とくに沖縄の自主独立を支持し、米軍基地に反対し、永世中立を目指すという部分が、日本社会では重要な意味を持つだろうなと思っていました。実際、そこに焦点を当てた書評を書いてくれた方もいます。ありがたいなと思いつつ、そこだけに光が当たってしまうことへの戸惑いもあります。あの文章は呉叡人さんが日本人向けに書いたものではなく、台湾の人々に対して書いたものであることは、もっと理解される必要があると思います。

 彼と話をすると、中国人民解放軍が攻めてくる可能性をリアルに感じていることが分かります。実際、戦闘機も台北の近くまで飛んできている。アメリカと結んで対抗するしかない、政府がアメリカから武器を買いまくるのも当然と感じてしまう状況が現実にあるわけです。

 それでも台湾社会がすごいなと思うのは、少なくともそれと同じくらいの強さで、本当にそれでいいのかというベクトルが働いていることです。軍事には軍事で張り合っても未来はないじゃないかと。軍事的な脅威をリアルに感じながらも、だからこそ「軍備増強だ、アメリカと連携だ!」という力と、その方向に未来はないという力とが、ギリギリの均衡状態にあるんですね(ただ、最近は少しずつ前者の現実主義に引きずられつつあるようです)。

 たぶん日本が同じような立場に置かれたら、もっと極端なパニックが起こり、もっと極端な思想統制になるはずです。それが台湾の場合はギリギリ踏みとどまっている状態なんだと思います。、呉叡人さんからすると、沖縄と連携して永世中立を実現したいという部分だけ見て日本人が「すばらしい思想だ」なんて言うのは、なんとものんきな話で、そもそも中国の軍事的脅威を分かっていない、ということですよね。

 だから、呉叡人さんはシンポジウムの後、アメリカの軍事的戦略家の書いたものを読めと言って、私の所に送ってくれたりしました。中国の台湾侵攻作戦が軍事戦略的にどういう形で展開される可能性があるのかを考察したものです。

 ――日本では、そういう意味での二重の緊張関係は見えてきませんね。中国の脅威については周知の通りですが、角を突き合わせるだけでは仕方ないじゃないかという声が、台湾に広範に存在しているということは、なかなか伝わってこないですよね。

 
駒込:その点で言えば、日本で中国の脅威を叫んだり、敵基地攻撃能力を唱えている人の方が、実は現実を見ていないのではないかと思います。たとえば食糧自給率の問題をとっても、あるいは膨大な原発の存在をとっても、軍事的なリアリティーを踏まえているならばこれをなんとかしなくてはならない、食糧自給率を上げて、全原発を廃炉にするということが最低限必要なはずなのに、そうした議論はなされないままただ憲法9条を改正して自衛隊を増強せよ、となる。こうした論が軍事的なリアリティーを踏まえているとは思えないんですよね。おそらく、戦争になっても台湾と沖縄が戦場になるぐらいだろう、日本本土は大丈夫だというような、ある種の割り切りがあるんでしょう。それは、左派と言われる人の中にも結構あるように思います。

 ――日本は台湾を主体として見ておらず、あくまでも道具としてしか見ていない、その象徴という気がします。

 
駒込:その点では、まさに沖縄に対する見方と同じなんです。


呼びかけに応える

 ――最後に、呉叡人さんの本が日本に対してどんな問題提起をしているのか、訳者の駒込さんが一番伝えたいところを紹介していただけますか。


 
駒込:「香港に栄光あれ」(注16)という歌声――現在ほとんど聞こえてこなくなってしまいましたが――と「Black Lives Matter」(注17)という声を同時に聞き届けることかなと思っています。

 例えば、日本の左翼で、沖縄の米軍基地反対運動について「中国からお金が出ているんだろう」なんて言う人はいないですよね。それは右翼の語りです。ところが、香港や台湾については、左翼の中にもそんな見方をする人がいます。香港独立とか台湾独立を唱える人々は、CIA(米中央情報局)に買収されているんだろう、という見方です。もしも買収ということが本当にあったとしても、それはごく一部の人々だと思います。台湾のひまわり運動、あるいは香港の街頭の運動、沖縄の反基地運動、人びとの姿や声に接すれば、お金や陰謀に操られているわけがないことは分かるはずです。それなのに、大国に操られた人々という枠組みの中でだけ解釈してしまう。そんな状況は、なんとか克服していかなくてはいけないと思っています。

 この間、アメリカと中国は対立しているように見えながらも、かつての帝国主義国がそうだったように、自分たちの利権の範囲をめぐって争っているに過ぎません。呉叡人さんは現在の中国について、新自由主義に止まらず「新帝国主義」という言葉で規定しています。その上で、現在の世界の本質的な対立軸は、そんな帝国主義同士の縄張り争いではなくて、そうした帝国・大国によって周縁化されてきた人々が、相互に敵対させられながらも、なんとか横につながっていこうとする動きだとして、「琉球弧」あるいは「黒潮の流れに沿った島々」の連帯を呼びかけているわけです。

 帝国であろうとする側と、帝国からの自立を目指そうとする島々の人々との間にこそ、本質的な対立軸があるんだ、私自身も、そう訴えていきたいですね。

 その点では、同じ日本でも、沖縄や奄美と、いわゆる本土の島々は違うわけです。本土の島々をどうしたら「小さく」できるか、奄美、沖縄、台湾、あるいは済州島につながる「小さな島々」として日本列島を位置づけ直していくことが必要だろうと思います。

 そのために、私たちは「共和国の思想」をもっと理解する必要があるとも思います。日本本土の多くの人は、国といえば帝国あるいは天皇の国しか思い浮かばないの状況ですが、自分たちで共和国をつくるという発想がもっと必要なのだと思います。

 もちろん、呉叡人さんも注意深く書いているように、たとえ共和国ができたとしても、それが新たな抑圧に転化する恐れは十分あります。必然的とすら言えるかもしれません。すべての国家の廃絶というのが究極の理想でもあるだろうと思います。でも、だから今のままでいいというわけではありません。少なくとも、私たちの近くで共和国を作ろうとしてきた営み、琉球共和国、台湾共和国を作ろうとしてきた人々の思いを理解しようとする必要があるのではないか。呉叡人さんは日本人に対してそのように呼びかけているのだろうし、その呼びかけに応えたいと思います。

                           (2022年2月4日、リモートにて実施)


【注】

 (1)軍事独裁政権下にあった70年~80年代の韓国の政治・社会状況、民主化を求める知識人や民衆の声、動きを伝えた。筆者「T・K生」は、72年から約20年間、日本で亡命生活を送った池明観・翰林大学元教授(2022年1月没)。

 (2)1989年6月4日、民主化を要求し、北京の天安門広場で座り込みを続ける学生や市民を政府が武力で弾圧した事件。

 (3)戴国煇(1931~2000)1955~96年、日本で研究教育を行い立教大学教授などを務める。その後、台湾に帰還。著作に『台湾と台湾人』、『華僑』、『日本人とアジア』など。黄昭堂(1932~2011)1958~98年、日本で研究教育を行い昭和大学教授などを務める。95年には台湾で台湾独立建国連盟主席に就任。著作に『台湾民主国の研究』、『台湾総督府』など。許世楷(1934~)1958~92年、日本で研究教育を行い津田塾大学教授などを務める。2004年には台北駐日経済文化代表処代表(駐日代表)に就任。著作に『日本統治下の台湾:抵抗と弾圧』など。

 (4)1919年10月10日、孫文が中華革命党を改組して結党。1928年、蒋介石の指導下、南京に国民政府を樹立。中国共産党との対抗・協力を繰り返し、日本の中国侵略に抵抗。第二次大戦後、共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾へ移動。以降、2000年まで台湾で政権を掌握。

 (5)1894年(甲午の年)から翌年にかけて行われた朝鮮の政治改革。

 (6)1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、国民党支配に対する台湾人の反乱事件。

 (7)1923~2020、台湾の政治家。日本統治下の台湾に生まれ、日本の大学で学ぶ。戦後、蒋介石の息子・蒋経国に農業専門家として抜擢され、1971年に国民党入党。1984年には政府の副総統となり、88年には蒋の死去で総統に就任。96年には初の直接選挙に勝利、2000年まで総統。退任後は台湾独立の主張を強め、2001年に国民党を除籍。

 (8)テレビコメンテーターとしてタカ派的な主張を展開した金美齢、日本の近代史を美化し嫌韓・反中の書籍を量産する黄文雄など。こうした在日台湾独立派の歴史的経緯については、森宣雄『台湾/日本―連鎖するコロニアリズム』(インパクト出版会、2001年)が詳しい。

 (9)民主進歩党。台湾の政党。中国国民党独裁下の1986年、非合法状態で結党。1989年に合法化される。権威主義体制に対して政治改革と民主化を求め、中国との関係では独立を含む台湾の自決を主張。環境保護、反原発、人権などに積極的。

 (10)2001年、国民党の中の台湾本土派の立法委員(国会議員)が離党して結成。

 (11)1949年、共産党との内戦に敗れた国民党とともに大陸から台湾に渡った人々とその子孫。逆に、第二次大戦前から台湾に暮らしてきた人々は「本省人」と呼ばれる。

 (12)1962年、台湾桃園生まれ。台湾大学政治系卒、シカゴ大学政治学博士。中央研究院台湾史研究所副研究員。

 (13)1936~2015、英国出身の政治学者。米コーネル大学名誉教授。専門は比較政治、東南アジアとくにインドネシアの政治。代表著作は『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』。

 (14)「ひまわり学生運動」とも言う。2014年3月18日~4月10日、中国・台湾の「サービス貿易協定」の白紙撤回を求め、学生らが立法院(国会に相当)を占拠。巧みなメディア戦略と組織力を発揮し、発効延期を勝ち取った。

 (15)「香港、台湾、沖縄、そして「日本」-新たな世界を夢想するオンライン対話」(2021年4月3日)、YouTubeで視聴可能。

 (16)2019年に発表された広東語の楽曲「願榮光歸香港」。同年の香港での逃亡犯条例改正案に巡るデモをきっかけに作成される。デモのテーマソング、香港のテーマソングとして大流行したが、香港当局は「香港独立を扇動するもの」として批判した。

 (17)米国のアフリカ系コミュニティから生まれた、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える主張および運動。2020年5月の「ジョージ・フロイド事件」を契機に、差別抑圧からの解放を目指すスローガンとして世界的に拡散した。



[資料]台湾略年表

【先史時代】
マレー・ポリネシア系の先住民が暮らす。

【前近代】
17世紀以降、中国大陸から漢民族住民が移住。
1624年:オランダ東インド会社、台湾島南部地域を制圧。
1662年:明朝の再興を掲げる鄭成功がオランダ東インド会社を放逐。
1683年:清朝が台湾制圧し、福建省に編入。

【日本統治時代】
1895年:日清戦争で清朝が敗北。下関条約で台湾を日本に割譲。
1898年:匪徒刑罰令を制定、多数が集結して実力行使を使用とする場合には死刑。
1915年:漢族系住民による抗日武装計画・西来庵事件(タパニー事件)発生。
1919年:田健治郎が文官として初めて台湾総督に就任。台湾教育令制定。
1921年:台湾における自治の実現を目指して帝国議会に第1回「台湾議会設置請願書」提出。
     自治の担い手を養成するための文化的啓蒙団体・台湾文化協会結成。
1923年:政治集会、結社、デモなどを取り締まる治安警察法を台湾にも施行。
     台湾文化協会のリーダー蒋渭水らを起訴。
1929年:台湾共産党、文化協会、農民組合の関係者らを一斉検挙。
1930年:先住民による抗日武装蜂起・霧社事件発生。
1931年:台湾人初の政治結社・台湾民衆党に解散命令。
1934年:神社参拝への圧力強化、キリスト教系学校への排撃運動。
1936年:予備役の海軍大将小林躋造が台湾総督。武官総督制の復活。
1941年:大政翼賛会の台湾版・皇民奉公会の発足。
1943年:カイロ宣言において台湾の中華民国への返還という方針。
1944年:台湾人にも徴兵制度を適用。台湾人にも衆議院選挙の選挙権を付与。
1945年:日本の敗戦。中華民国政府(国民党政権)が台湾に上陸。

【国民党統治時代】
1947年:国民党政権に対する台湾人の反乱・228事件発生。
1949年:国民党、共産党との内戦に敗北。国民党政権が台湾へ移転、戒厳令を実施。
     以降、当局による白色テロ頻発。
1952年:日本との平和条約(日華平和条約)調印。
1954年:中国人民解放軍が金門島などを砲撃(第一次台湾海峡危機)。
1971年:国際連合総会にて、中華民国が「中国」の代表権を喪失。国連から脱退。
1972年:日本が中華人民共和国と国交樹立。日華平和条約が終了。日本と国交断絶。
1975年:蒋介石死亡。
1978年:蒋経国(蒋介石の息子)が総統に就任。
1979年:米国が中華人民共和国と国交樹立。米国と国交断絶。
     雑誌『美麗島』グループによる民主化活動への弾圧・美麗島事件。
1981年:鄧小平が「一国家二制度」に基づく中国と台湾の統一を提案。
1986年:非合法、当局黙認の下で野党・民主進歩党(民進党)結成。
1987年:38年続いていた戒厳令を解除。
1988年:蒋経国死去。李登輝副総統が台湾出身者として初めて総統に就任。
1990年:政治の民主化を求める野百合学生運動発生。

【ポスト民主化時代】
1996年:中国人民解放軍が台湾海峡で軍事演習(第三次台湾海峡危機)。
     初の直接選挙による総統選で李登輝が当選。
2000年:民進党の陳水扁が総統に選出、国民党が初めて野党となる。
2008年:国民党の馬英九が総統に選出。
     馬英九による集会結社の統制に抗議して野苺学生運動発生。
2014年:対中経済関係の深化に対抗し立法院を占拠した、ひまわり学生運動発生。
2016年:民進党の蔡英文が総統に選出。
2020年:民進党の蔡英文が総統に再選。



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