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地域と出会うフィールドワーク 報告

変わりゆく釜ヶ崎を歩く
釜ヶ崎の昔と今、そしてその将来は?

 大阪市西成区の釜ヶ崎(公称「あいりん地区」)は最盛期には2万人の日雇い労働者を抱える寄せ場であり、暴力手配師との闘いや度重なる暴動のイメージがこの街にはあった。しかし現在、釜ヶ崎は労働者の激減、高齢化、生活保護受給者の増加など、その変化も著しい。一方で、将来を見据えた新しい動きも始まりつつある。今回、50年近く釜ヶ崎で日雇い労働者として働きつつ、社会的な活動を続けてこられた水野阿修羅さんに案内をしていただいた。街歩きの概要を報告する。
                                                                                           (下前幸一:当研究所事務局)



JR新今宮駅前に星野リゾート

 東西に走るJR環状線を境にして、南側は釜ヶ崎のある西成区、北側は浪速区になる。新今宮駅のガード下から北の方を望むと、駅からほど近い場所に、巨大な星野リゾートの都市観光ホテルがそびえている。開業は22年の4月とあって外観はほぼ完成しているようだ。白い外壁の巨大な建築が開発途上のような街の風景に異彩を放っている。

■22年4月開業予定の星野リゾート・ホテル
 ホテルの敷地は30年ほど前に化粧品会社から大阪市が譲り受けたもので、府警本部の別館や機動隊の駐車場として使われていたが、新今宮駅周辺の再開発の一環として、星野リゾートに売却した。

 視線を高架下の方へと戻すと、新今宮駅から西へ、南海電鉄新今宮駅に向かって、寂れた歩道が続いている。高架下の壁には最近まで子どもの絵が掲げられていたという。バブルが崩壊した頃、このあたりにはブルーシートを張った小屋が30くらいも並んでいた。それを立ち退かせた後に、予防のために子どもの絵を掲げていたのだ。歩道を占拠していた小屋はなくなり、子どもたちの絵も今は飛ばされてしまって、半ば朽ちたような板張りの風景だ。

 新今宮から新世界、そして釜ヶ崎一帯を大きな観光エリアとして開発する計画が進められているが、星野リゾートはその広告塔のような役目を担うだろう。ホテルの完成、開業と並行して、JR新今宮駅から南海電鉄新今宮駅周辺も再開発の波にさらわれるだろう。どのような将来像が見えてくるだろうか。

 新今宮駅から東を望むと、株式会社マルハンが経営する大きなパチンコ店が交差点の一角を占領している。ここは1997年~2007年、都市型立体遊園地フェスティバルゲートがあったところ。大阪市の土地に第三セクターが運営していた。フェスティバルゲートは巨額の赤字を出して破綻するのだが、それには2001年のUSJ開業による影響とともに、野宿者排除と暴力団対策として大量のガードマンを雇った人件費がかさんだためとも言われている。

 紆余曲折の後、大阪市は土地売却の競売をおこない、株式会社マルハンのみが入札・落札した。売却にあたって、大阪市はマルハンに5年間はパチンコ店をやらないという条件を付けた。当時、新世界・新今宮界隈には中小のパチンコ屋がたくさんあったからだ。マルハンは時間をかけて施設の解体を行い、一時は韓流テーマパーク建設の計画もあったが、在特会(在日特権を許さない市民の会)のデモなどにより挫折、5年目にパチンコ店を開業した。

 大阪市による民間資本への土地の売却という二つの事例だが、釜ヶ崎におけるあいりん総合センターの建て替えを巡って、その跡地を業者に売ってしまう恐れがあり、それを阻止するために大阪市との間で跡地利用についての話し合いが続けられている。


釜ヶ崎の成り立ち

 JR新今宮駅から1キロほど北に「オタロード」と呼ばれるエリアがある。地下鉄日本橋駅周辺は、東京の秋葉原と並ぶ電化製品の街「でんでんタウン」とも呼ばれてきたが、最近はメイドカフェやフィギュア、アニメグッズの店も多く、オタクの人が集まるので、地元の人がオタロードとネーミングして街づくりをしている。

 実はそのあたりは明治時代まで簡易旅館街(木賃宿)、ドヤ街だった。簡易旅館の付近には長屋が密集し、「貧民の巣窟」とも言われていた。今から130年ほど前に、そこでコレラが大発生した。大阪市は原因が簡易旅館や長屋の「流行病の巣窟」にあるとして、130年前に条例で簡易旅館の営業を禁止した。禁止は大阪市内で、当時の大阪市内の範囲は南は環状線までで、そこから南は今宮村という村だった。営業を禁止された簡易旅館の経営者が今宮村に移動してきたというのが釜ヶ崎の始まりだ。

 一方で、簡易旅館の営業はできないけれども、残された建物は日払いアパートとして使用された。旅館とアパートの違いは布団があるかないかだ。星野リゾートの近くに、大隅アパートというビルが建っている。そこは最近まで日払いアパートだった。アパートだから布団を置いていなかった。しかしホテルとして利用する人は布団がないと困るから、別の部屋に布団を用意して、貸し布団として別料金をとっていた。今はそのような規制はなくなったが。

 日払いアパートやそれにルーツを持つホテルが浪速区にはたくさんある。環状線北側のエリアが今後どのように変わっていくのかが注目される。このエリアは大阪市内で一番外国人の流入が激しいところだ。日本橋の電気店がどんどんつぶれてマンションになっている。入るのは外国人という状態で、そのエリアに縁の深い釜ヶ崎がどう変わっていくのかは、これからの課題だ。



あいりんシェルターとコロナワクチン接種

 あいりんシェルターは、あいりん臨時夜間緊急避難所として大阪市からの委託事業でNPO釜ヶ崎支援機構が運営している。誰でも泊まれるが、コロナの影響で、一応チェックされて登録制になっている。中には二段ベッドがずらっと並んでいて、だいたい500人が泊まれるが、今は150人ぐらいが利用している。コロナ感染者もたまに出たりしているが、クラスターにはなっていない。消毒などの感染対策は徹底していて、今も閉鎖されずに続いている。

 コロナワクチンは住民票をもとに接種券が発行されていたので、当初は路上生活者や住民票のない人は接種できないという問題があったが、大阪市との交渉の結果、シェルターを住所にすればワクチン接種が可能となった。それで現在では、路上にいる人でもワクチン接種した人が少なくない。シェルターでは生活保護の申請などもサポートしている。

 釜ヶ崎にこのシェルターができたのは、バブル崩壊がきっかけだ。仕事がなくて野宿者があふれた結果、寝場所を求めて1000人以上の人々があいりん総合センターを占拠したことがあった。センターは夕方6時にはシャッターが下ろされるけれども、1ヶ所だけ出入りできるようにして、センターを占拠した。朝は求人者が来るので布団を引き上げた。そのような状況の中で、大阪市と交渉して、現在の場所に自分たちでテントを建て、1000人以上がそこに寝泊まりをした。さらに現在のシェルターが建設され、その管理をNPOが受託し、運営している。
 ■あいりんシェルター

 シェルターの隣には生活道路事務局がある。高齢者特別清掃事業(特掃)といって、55歳以上の人たちが、釜ヶ崎地域での道路清掃や、大阪府内・市内の公共用地や河川敷などの除草・清掃の仕事にここから毎朝出かける。登録順に月に4~5回仕事に就ける。バブル崩壊後の失業対策と高齢化対策として行われているもので、大阪府・市から受託してNPOが運営している。


新今宮文庫と三徳寮

 あいりんシェルターの並びに新今宮文庫という図書館がある。身分証明書なしでも本を貸してくれる図書館だ。この街のあちこちに新今宮文庫とハンコが押された本が転がっている。逆に言うと、置いてある本もいろいろ寄付されたもので、返ってこないのは織り込み済みのユニークな図書館だ。

 大阪市教育委員会からの委託で社会福祉法人・大阪自疆館が運営しているが、この建物は、もとは新今宮小中学校として建てられた。この街には昔、住民票がなくて就学できない子どもが200人ぐらいいたという。それが第一次暴動をきっかけにして問題になり、学校をつくれという運動が起こった。最初はビルの4階5階だったのだが、運動場も給食室もプールもない。あまりにひどいということで、この校舎が建てられた。屋上にはプールもある。

 ところが開校して3年ぐらいの頃に、東京の山谷で、こういうエリアに子どもがいるのは教育上良くないということで、エリア外に散らばらせるという施策が行われた。大阪市もそれを真似して、この街にいる住民票のない子どもたちに対して、公営住宅をあっせんして、外に出してしまった。それで釜ヶ崎には子どもがいなくなって、わずか10年で学校は閉鎖になった。1984年のことだ。

 図書館が併設されているのは、高齢者と野宿者のための施設、三徳寮だ。大阪市の各福祉事務所で、住むところがないのだと相談すると、ここを紹介され、大阪中からここに集められる。食事つきの無料シェルターで、大阪自彊館が大阪市から委託を受けて管理・運営をしている。屋上のプールは、今は高齢者のための畑になってしまった。


あいりん総合センター脇の段ボールハウス

 あいりん総合センターは1970年に、大阪府、市、国が共同で建設。西成労働福祉センターやあいりん労働公共職業安定所、売店、食堂などに加え、大阪社会医療センター附属病院や市営住宅が併設されている。耐震性の問題から建て替えが決まり、2019年4月24日に閉鎖された。

 あいりん総合センターは当初、2019年3月31日に閉鎖される予定だった。しかし、求職の場としてだけではなく、休息の場、憩いの場、交流の場として、センターを居場所とする釜ヶ崎の労働者たちによってほぼ1ヶ月のあいだ占拠された。その間の事情について、自ら段ボールハウスに寝泊まりし、支援の活動を続けている方に話をうかがった。

■あいりん総合センター
 センターの1階と3階、二つのフロアが労働施設で、1階には建設を中心に港湾の倉庫など、日雇いの求人の車が朝2時くらいから6時半くらいまで来ていた。またセンター北側には7時くらいまで、飯場での長期の求人の車が来ていた。1階には大きなスペースがあるので、求職だけでなく、野宿の人や梅雨などで仕事にあぶれた人が休息したり、くつろいだりもできた。また3階には、仕事にあぶれた時に日雇い専門の雇用保険を受け取ったり、各種技能研修を行う施設も入っていた。5階から上には、催促なしの付け払い、実質的にお金がなければタダで医療を受けられるような病院、大阪社会医療センターがあった。センターの北側はそのような施設で、南側は13階までが市営住宅になっていて、その東側にも市営第2住宅があり、それがすべて閉鎖されてしまった。

 当初は、耐震工事をして施設をできる限り使うとの方針だったが、橋下徹氏が大阪市長になって、西成特区構想が2012年に出された。西成区は全国的に見ても生活保護率が非常に高く、また他の区と比べて特に高齢化が進み、子育て層である若い世代が少ないなどの多様な課題があり、その解決のために、教育・子育て支援・環境改善・治安・住宅など、各種の支援や優遇措置など、24区一律の施策ではなく、西成区に特に有効な施策を検討し実施・推進するものだ。その中で、耐震化ではなく、あいりん総合センター関連の施設をすべて解体し、新しくつくり直す方向が打ち出された。

 2019年の3月末に閉鎖が行われようとしたが、反対する労働者たちや外からの支援者たちも含めて、みんなでシャッターの下に座り込んだりして、反対の声をあげた。夜の12時くらいまで続けているうちに、センターの守衛が諦めて帰っていった。思いがけずセンターの占拠となったが、自分たちでトイレの管理をしたり、ごみを集めて掃除をしながら、テントを中に張って寝床を作ったりした。大きな施設なので、映画の上映会やライブのイベントなどもやった。24日後の4月24日に、何百人もの警察官が規制する中で、大阪府と国の職員が強制的に追い出にかかった。みんな追い出され、シャッターを閉められ、当初はセンターのまわりに100人ぐらいは寝ていたが、そのあとは50人ぐらいになり、2年半ぐらいここで支援の活動を続けている。

 大阪府はセンターの敷地を不法に占拠しているとして、路上生活者ら22人に立ち退きを求めて、大阪地裁に提訴。大阪地裁は12月2日に立ち退き命令の判決を言い渡した。一方で、支援者たちが恐れていた仮執行宣言は認めなかった。訴訟は今後も継続する見込みで、成り行きが注目されるところだ。


ベトナム人の集住エリア

 釜ヶ崎の西寄りを南北に南海線が走っている。その高架から西側のエリア、地名では花園1丁目、2丁目のあたりにはベトナム人専用の食材屋さんやレストランが集まり、ベトナム人村になっている。レストランには日本語のニューはなく、端的にベトナム人を相手にした店であることが分かる。

 このあたりはもともと簡易旅館はなく、靴の問屋街だった。西側を南北に走る国道26号線を越えたさらに西には日本最大の被差別部落があり、靴屋が多いため、その靴を扱う問屋街だった。しかし今は、外国から靴が大量に輸入されるようになり、靴の問屋はみなダメになってしまった。その後はマンションになったが、差別感情から日本人は入居しないので、ベトナム人たちが入るようになった。

 八尾市の安中町に、インドシナ難民で来日したベトナム人たちのコミュニティーがある。その規模は約1000人とも言われている。インドシナ難民受け入れの施設は姫路にあったが、八尾市のその地域には工場が多くあり、また雇用促進住宅があったことが大きい。安中町から西成区の花園へ、多くのベトナム人が移ってきた。駅前で便利だということもあるだろう。また、インドシナ難民だけではなく、技能実習生をはじめとして、新しく日本に流入してきたベトナム人も多いだろう。


いまみや小中一貫校あたり

 大阪市立新今宮小学校・今宮中学校(愛称:いまみや小中一貫校)はもともと今宮中学校だったが、児童数の減少に伴って地域の3つの小学校を統合し、小中一貫校にしたものだ。西成特区構想に従って、橋下市長がここを特別扱いにし、校区を越えて大阪市内どこからでも通うことができるようになっている。1年生から英語教育を行なったり、全員にタブレットを配るなど教育は充実しているが、この街への差別があるので、日本人子弟はあまり来ない。今、増えているのは外国人の子どもたちだ。

 いまみや小中一貫校の南側歩道。バブルが崩壊した時に、ここには多くの野宿者が布団を敷いて寝ていた。歩道と車道を隔てるポールが間隔を置いて立っているので、夜中に寝ていてもクルマに轢かれない。当時の中学校は、生徒の通学路だから移動するようにと説得したが、話にならないということで、中学校の塀に穴の開いた水道管を設置した。歩道を水浸しにすれば移動するだろうと。しかし、野宿者たちもしたたかで、歩道にビールケースを並べて、その上に布団を敷いたという。結局、最終的には機動隊によって強制排除された。この街でも、機動隊による強制排除は唯一のことだ。一部の人は道路を隔てた中学校のテニスコートに移動して、そこにテント村を作った。そこも最終的には強制排除されて、いまは誰もいない。


大和中央病院と貧困ビジネスについて

 いまみや小中一貫校の歩道から西の方を眺めると、国道26号線の向こう側に大和中央病院という大きな病院が見える。現在のように大きくなる前は、地下鉄花園町駅近くの小さな病院だった。大きくなった理由は、この街で路上から救急車で運ばれる人を受け入れる病院になったからだ。救急車で運ばれた人がお金を持っていない場合は、大阪社会医療センターと同じく大阪市が補填することになっている。いろいろな検査や治療を行っても取りっぱぐれもなくて、儲かる仕組みになっている。

 しかし、こんなに立派な病院になると、もう路上の救急車は受け入れなくなって、今は杏林という業者が、この街の南に新しく病院を建てている。

 ただ、そうしたことを最初に始めたのは大和中央病院ではなく、元祖は我孫子にある阪和病院だ。阪和病院は、患者をこの街の路上からわざわざ搬送して大儲けしていた。患者の扱いがあまりに酷かったので、労働者たちがデモをかけたこともある。日本大学付属病院の建て替え計画を巡って背任容疑で逮捕された籔本雅巳容疑者は阪和病院(医療法人・錦秀会)の理事長を務めていた。

 阪和病院は初代で、大和中央病院が二代目。杏林が三代目だ。貧困ビジネスで儲ける一つの典型だ。


あいりん労働公共職業安定所

 あいりん総合センターが閉鎖されて、あいりん職安は南海線の高架下に仮移転している。壁には、厚生労働省あいりん労働公共職業安定所と記してある。なぜ普通の職安のようにハローワークと記していないかというと、ここでは普通の仕事の紹介はしていないからだ。日雇い専門の職安なのだが、紹介もほとんどしていない。釜ヶ崎地域合同労働組合(釜合労)の稲垣浩さんは仕事の紹介をしろと職安を訴えて、裁判には勝ったが、現実には今もほとんど紹介はしていない。雇用保険の給付金を払うためだけに存在する職安だ。

 ■あいりん職業安定所
 昔は日本中に日雇い専門の労働出張所があったが、今は全国に5ヶ所しかない。東京に2ヶ所、横浜に1ヶ所、大阪に2ヶ所、そのうちの1つ。あいりん総合センターの中に職安があったとき、日雇い雇用保険の手帳を持っていたのが最大24000人。今ここで日雇い雇用保険の手帳を持っている人は600人。それが今の釜ヶ崎の現実だ。

 高架下の並びに休憩所が作られている。ここは朝5時から夕方5時まで、365日開いている。一方、東京の山谷にある玉姫職安には休憩所もなく、朝の1時間だけ東京都の仕事を紹介して、あとは閉鎖されてしまうという。横浜にも日雇い職安があるが、雇用保険を払うだけで、仕事の紹介はなにもしていない。日雇い労働力という括り自体が、政策上なくなっている状況だ。派遣で働いている人は、日雇いなのに日雇いとしてまとめられてはいない。

 職安から道を隔てて、「作業員募集」という大きな看板を掲げたビルが建っている。大建という業者がホテルを買い上げて、社宅、いわゆる飯場にしているものだ。食事つきの飯場として機能している。大建はもともと山口組系の業者だが、法律を守る優秀業者とされている。今は仕事があるから、朝には事務所前に若い人が100人ぐらいも集まっている。

 この街が日雇い労働者の街でなくなる一方で、こういう業者がいることで労働者の街として残っていくだろうと言われている。


簡易宿舎(ドヤ)の昔と今

 釜ヶ崎の中心部にあるホテル日進。十字路の道端から建物の南側の窓を見ると6階建てに見えるが、実は3階建てだ。一つの階を上下二段にしてある。上の部屋には廊下からはしごで入る。

 このホテルは70年大阪万博のために建てられた。64年の東京オリンピックに必要な労働力は東北からの出稼ぎで賄えたが、大阪は東北からの出稼ぎは期待できないので、日本中に働き手を求めた。それまで男性単身者の部屋は大部屋が主流だったが、個室の需要に応じて考えられたのがこのスタイル。窓一つが一部屋で一畳。カプセルホテルの元祖だ。

■ホテル日進
 問題なのは窓の位置の違い。建物の西側部分は新しく建てられたところで、窓柵は1階にしかない。古い部分の窓は上階にだけ窓柵があって下にはない。その理由は、覚醒剤中毒者の飛び降り防止だ。ところが、下階が火事になった時に上階の人が逃げられず、焼死する事件が起きた。それで、新しい部分には上階に窓柵を付けないようになった。新しいところは一畳の部屋はなくて、最低でも二畳か三畳。

 労働者が高齢化し、あるいは少なくなって、簡易宿舎はいろいろな方向に変化している。

 JR新今宮駅に近い北部には、立派な有料老人ホームができている。道路の向かいには、高齢者向けのマンション。どちらも建て替える前は木造二階建ての労働者向けのドヤだった。マンションは一階が食堂になっていて、ケアする人たちが詰めている。こういうスタイルが増えている。

 一方で三畳で500円の簡易旅館が今もある。そこはこの街でも一番安いが、冷暖房なしだから、冬はまだしも夏は窓がないので地獄だ。扇風機の貸し出しは1日100円。その近所には、インバウンド専門のちょっと高級なホテルも建てられている。最低7000円で、昔ながらのドヤとは対照的な光景だ。

 簡易旅館を利用する人が少なくなって、今、ドヤの所有者たちは無料食堂や炊き出しを売り物にして、そこに来た人を宿泊者として囲い込んでいる。それが商売として成り立つというので、新しく準貧困ビジネスグループが流入してきている。

 釜ヶ崎の中心あたり、四角公園に面して、今は閉ざされたアパートがある。1階が店舗で、2階が四畳半のアパートになっていた。実は女性専用のアパートで、ミナミで夜働く女性たちが住んでいた。この街には60年代までは女性が多かったのだ。母子家庭も多かったが、アパートに風呂はなく、みんな銭湯に行っていた。それで新しい人はすぐに分かり、支援で「こどもの里」などにつながった。しかし今では、ミナミで働く女性たちはミナミ周辺のワンルームマンションに移っていった。ワンルームマンションには風呂もついているので、孤立しがちだ。それでいろいろ悲惨な事件も起きている。

 釜ヶ崎の東側を南北に走る堺筋の東側には中級ホテルとともに、バックパッカー向けのホテルが点在する。バブルが崩壊して労働者やテキ屋の宿泊客がいなくなり、所有者がバックパッカーの聖地と言われるバンコクのカオサン通りに倣って「日本のカオサン」にしようとした。金はないが、特色のある外国人が宿泊し、テレビで取り上げられたこともある。

 また、簡易宿舎を改造して、アート系の若者が集まるシェアハウスとして利用されているところもある一方で、空き家を中国人が買いあげて民泊にしているところもある。


釜ヶ崎解放会館あたり

 釜ヶ崎解放会館は稲垣浩さんたち釜ヶ崎地域合同労働組合や釜ヶ崎炊き出しの会の事務所があり、上階はアパートとして利用されている。釜ヶ崎炊き出しの会は1975年以来、毎日欠かすことなく炊き出しを行っている。

 解放会館は、飯場や簡易旅館を転々とする労働者の住民登録を引き受け、その数は3500人にも上っていた。労働者は日本中を移動するので、住民登録が面倒で、ここに登録しておけば、雇用保険の取得や免許の切り替えなどにも便利だということで、西成区役所も黙認していた。ところが元警察官による詐欺事件をきっかけにマスコミが騒ぎ、大阪市役所は職権で住民票を削除したということがあった。

 解放会館のあるあたりは釜ヶ崎のほぼ中央に位置し、労働者や元労働者への支援施設が多い。「希望の家」はキリスト教のルーテル教会が運営している。アルコール依存症やギャンブル依存症の人たちの回復プログラムを行っている。

 「こどもの里」は、カトリックが運営する子どもたちのための施設。釜ヶ崎に特有の子どもたちの「しんどさ」「生き辛さ」を受け止め、子どもたちの遊び場、居場所を守る活動をしている。「さとにきたらええやん」という映画にもなっていて、その活動やユニークな子どもたちの姿が評判になった。

 三角公園にほど近い「ふるさとの家」はカトリックが運営する労働者のための休憩所。もともとはサントリーの鳥井さんが無料の診療所をやっていたと言われている。以前は食堂だったそうだが、今は1階が調理場としてインスタントラーメンを自炊できる。2階が休憩場所になっている。

 福祉関係の新しい動きとして、株式会社Cyclo(シクロ)が運営する精神障害者のためのグループホームがある。建物の一階はビール工場になっている。

 支援活動の中で、アルコール依存症の人が多く、「わしらが酒のことを一番よく知ってる」と言うので、みんなで酒を造ることになったという。名付けて「西成ライオットエール」。ライオットつまり「暴動」を逆手に取っている。前は小さな工場だったが、評判がよく、新しいビール工場を作った。

 毎週木曜日の昼にはここで炊き出しも行っている。この会社はC1からC6までこのようなグループホームを作って、特に精神障害を抱えた人たちがたくさん利用している。それでまた日本中から利用者が集まっている。


新しい文化的な動きも始まっている

 あいりん総合センター近くの南海線高架下の壁にポップな絵が描いてあるのは、ラッパーのSINGO★西成が総合プロデューサーを務め、プロのアーティストに描いてもらったウォールアート。街のイメージアップや来訪者を増やすこと、また落書きの予防も目的にして、いろいろな場所で取り組まれている。街の子どもたちも彩色で参加している。

 ■高架下のウォールアート
 また、ライブハウスとして難波屋が有名になったけれども、そこの店員だった人たちが経営している居酒屋が二軒ならんでいる所がある。一つはライブをやる居酒屋、もう一つの居酒屋はいろんな情報発信をし、イベントや会合も開催している。オーナーはキューバが大好きで、店名は「グランマ号」。周辺の活動家のたまり場になっている。

 難波屋は建て替え中て、ライブは別の場所でやっているが、難波屋がライブをやることで、この街にいろんな人が集まってきた。いろんな人が来ては出て行く、そういう新しい動きも定着しつつある。

 三角公園内と周辺ではさまざまな若い人が路上ライブをしているが、警察も邪魔しにはこないそうだ。

 釜ヶ崎の東寄りを南北に走っている阪堺電鉄阪堺線の高架下には、「やまき」という立ち食いのホルモン屋がある。食べログなどで有名になって、昼間から大勢の人が並ぶ人気店になっている。また、やまきに倣って、ホルモン屋がいくつかできて、それぞれ賑わいを見せている。


中国人のカラオケ通り

 阪堺線の東側一帯は太子町になる。太子町の東側には新世界から飛田遊郭まで通じる商店街が続いている。ここには中国人が経営するカラオケ居酒屋が犇めいている。一角に大阪華商会と看板が出ているビルがある。大阪華商会はこのあたりの中国人居酒屋を束ねていて、アーケードの東西南北の入り口に門を建ててチャイナタウンにしようと言い出したが、住民の反対も多く挫折したという経緯がある。

 太子町という地名は聖徳太子に由来する。江戸時代にはこの付近に首切り場があり、四天王寺のお墓があった。四天王寺は聖徳太子が作ったので、太子の地名になっている。明治時代に首切り場が廃止されて、このあたりは小さな町工場が犇めくスラムとなった。水はけが悪く、また交通の便も悪い場所だ。中国やインドからの輸入品に押され、町工場がやがて廃れて、旅館街になっていった。そこに中国人が進出してきたという構図だ。

 昔は天王寺駅までアーケードが東へ続いていたが、阿倍野再開発によってダメになってしまい、阿倍野区側は全部シャッター街という状態だ。阿倍野のキューズモールがひとり勝ちで、小さな商店は全部つぶれてしまった。

 もう一つ知っておくべきは、この通りは昔はゲイ相手の店が何軒もあったことだ。付近にはゲイ専門の旅館もあった。ゲイのたまり場のクラブもあった。しかし今、ゲイの店は梅田の堂山町に移ってしまって、この通りには残っていない。かろうじて新世界にゲイ横丁が残っているのが、その名残。


ひと花センター、どーんと西成、ココルーム

 「ひと花センター」は、厚生労働省が始めた事業。65歳以上の単身生活保護受給者を対象に、地域のお手伝いや趣味の講座など、様々な生活支援のプログラムを実施している。アルコール依存やギャンブル依存の人が多いので、孤立を防ぎ、地域とのつながりをつくって、いきいきと暮らすことを目的としている。

 一方で、最近は65歳以下の若い人で、精神的にいろいろな問題を抱えて、生活保護で暮らしている人も多い。そこで、「どーん!と西成」という65歳以下を対象にした大阪市の事業も始まっている。どちらもNPOが運営を引き受けている。

■ひと花センター前での水野阿修羅さん
 ちなみに、建物はもと保育所だった。この地域に子どもたちがいなくなって閉鎖されていたものだ。

 カラオケ通りの一角に、「ココルーム」がある。NPO「こえとことばとこころの部屋」が運営している。喫茶店の振りをしているが、釜ヶ崎芸術大学や保健室などを開き、またゲストハウスも運営している。「生きることは表現」ととらえ、様々な人たちが出会う場であることを実践している。

 ここが釜ヶ崎街歩きの終点だ。最後は、ココルームにて、締めの質疑応答。



排除された人が集まる街として

 
【質問】水野さんはジェントリフィケーションについて、どのように考えておられますか。
 
※ジェントリフィケーションとは、再開発による都市の 「高級化」のこと。それに伴って古くからの住民や低所得 者層が排除される事例が多く、問題視されている。

 
【水野】昔は、簡易旅館は労働者で埋まっていました。日本中流動する労働者も、十日契約といったら、十日過ぎたら釜ヶ崎に帰ってきた。しかし今は飯場の待遇が良くなって、労働者は戻って来なくなってしまった。

 山谷の場合が典型ですが、ホテルにはもう生活保護の人しかいない。簡易旅館がどんどんつぶされて、今、山谷はマンションブームです。ファミリーマンションが多くなると、野宿者排除の条件が強まる。

 そうならないためにはタワーマンション、ファミリーマンションを建てさせないことが必要です。あいりん総合センターの跡地を絶対に売らせないこと。あそこにタワーマンションみたいなものが建ってしまったら、絶対やばい。部屋代が上がって、簡易旅館はつぶされてしまう。そうさせないためにはどうしたらいいか。高齢者とかインバウンドとかバックパッカーとか、流動する人たちを受け入れる街として残していくことが一つ。

 もう一つは扱いの難しい人を受け入れるために、サポーティブハウス、サポート付きの高齢者用マンションが作られ、日本中から問い合わせが来ています。というのは、多くの業者が扱いかねて、この街に紹介という形で送ってくるからです。この街の簡易旅館の経営者は昔から扱いの難しい人には慣れているので、ケアマンションやサポーティブハウスという形で生き延びてきています。

 さらに、もう一つはサブカルチャーの動きがあります。路上ライブや居酒屋のライブが盛んですが、たとえば、まだ芽の出ない若いミュージシャンやアーティストがこの街にやって来て、この街でもまれながら成長していく。成長して出て行って、また新しい人が入ってくるという動きができれば、そういうのが私はジェントリフィケーションに対して抵抗する手段になるのかなと考えています。

 
【質問】高齢者アパートが何軒もありましたが、それはもともとの持ち主が売ってしまって、別の経営者が建てたということでしょうか。

 
【水野】半々ですね。新しく特養(特別養護老人ホーム)を建てるような業者が東京から進出してきたりもしています。けれども、このエリアに対する社会的差別はなくなっていないので、よそから普通の入居者は入ってこないんです。そこで、問題を抱えた人を日本中から入居者として集めてこよう、となっている。だから、日本中から排除された人が集まる街として、受け入れる箱モノがある限り、私はなんとかジェントリフィケーションを阻止できるんじゃないかとも考えます。

 【質問】前に、リーマンショックぐらいの時に釜ヶ崎に来て、炊き出しの行列も公園を2周3周するぐらいの風景を見ていたんですが、今はコロナで不況と言われていますけれども、リーマンの時と比べてどんな感じでしょうか。

 【水野】意外と来ないんです。相談会などもいろいろやっているんですが、全然来ない。野宿する人も増えていないですし、炊き出しにもあまり並ばない。稲垣さんの所の炊き出しも、だいたい30人ぐらいで止まっている。

 一方で、街のあちこちでいろんな炊き出しが行われています。炊き出しをやりたいと言ってくるグループは増えている。なにかをやりたいと思う人たちがここに集まってくるようです。

 
【質問】以前に比べて、防犯カメラが少なくなったような気がするんですが。

 
【水野】逆です。ものすごく増えました。今はカメラ型ではなくて、提灯型なんです。私がチェックした限りで、この地域に、民間のもあわせて100台ありました。『定点観測釜ヶ崎』という写真集が出ているけれども、そこに80ヶ所ぐらいの監視カメラの位置図が掲載されています。

 
【質問】星野リゾートができて、大阪万博で、西成の様子ががらっと変わるかもしれない。ある意味で、分岐点みたいになりそうですね。

 
【水野】70年の大阪万博は、ここに労働者が集まるきっかけになったのですが、今度はあんまり人は集まらないと思います。と言うのは、関西新空港が作られるときに、ドヤの経営者はまた人が集まるだろうと期待して、ドヤを高層化したんです。ところが、日本中から労働者は集まったけれども、関西空港の周辺に宿舎がたくさん建てられて、工事が終わると日本中にまた散って行っちゃったんです。おそらく今度も同じだと思います。確かに人手は要るけれども、日本中から職人さんが集まって、終わったらまた散っていくという。だから70年万博みたいなことはないと思います。

 
【質問】臨時の職安には求人の車が何台も来るんですか。

 
【水野】今は、10台もないですね。労働者も100人もいないですね。

 労働者も携帯を持っているので、前日に手配が行きます。スマホを持っていれば、地図まで出ますから、もう紙の手配書をもらう必要がないんですよ。

 飛田の中に、渥美組という日本最大の人夫出しの事務所があるんですけれども、渥美組は関東に飯場を10ヶ所持っている。大きな主要駅の駅前に必ず現地の事務所をつくっている。それで、ネットで手配しているんです。だから、東京では宿舎手配とネット手配と二股をかけていて、ものすごい勢力になっています。


参加者の感想


このままの釜ヶ崎が残るように


 20年近く前、僕がよつ葉(関西よつ葉連絡会)に入ってすぐ、「炊き出しの会」の稲垣さんのアテンドでフィールドワークに参加しました。

 その時は、人の数も多く露店もたくさんあって、そこからすると、街の雰囲気は大きく変わりましたね。“面”として可視化できる状態から、“点”として孤立することで、いろいろな事が見えづらくなっているように思います。

 当時のフィールドワークでは、稲垣さんの立ち位置もあって「こんなことが許されるのか!?」という視点で構成されていたような気がします。今回は、水野さんのアテンドで「暮らしや文化」の面から釜ヶ崎を案内してもらい、いろいろも問題含みではあっても、このままの釜ヶ崎を残していきたいという水野さんの想いが伝わってきました。

 就労の確保や生活の支援という視点だけでなく、望んでその状態にあることを尊重するという視点。大切にしたいと思います。

                                    (松原竜生:関西よつ葉連絡会事務局)


奪われてはならない尊厳や幸福

 10年ほど前、知り合いと1週間釜ヶ崎の宿泊所で過ごしたことがあるのですが、その頃よりすごく治安が良くなっている、というのが第一印象でした。

 その背景や現状の話を聞かせていただき、考えさせられるようなことばかりでした。

 治安が良くなるのは良いことだと思いますが、それに伴い生活に困る人がでるのはマイナスではないかと思ってしまいました。行政が取り組もうとしていることに対して、法的には正しいと思いますが、行政として一人一人の思いに寄り添うことはできなかったのかと……。

 野宿者に対して、今までは、その人たちが好きでそういう生活をしていると思っていたので、嫌悪感などありませんでした。

 社会に出てもしんどいことばかりで、自分の好きな時に最低限レベルで働き、衣食住をすませているのは、その人の価値観であって、他人がとやかく言うことではないですし、その人の尊厳であると思います。そういった点から行政は、人の幸福を奪っているように感じました。

                                      (梅田竜二:阪和産地直送センター)


思っていたイメージが変わった

 最近では、ユーチューバーの方も多く取り上げている釜ヶ崎。話を聞くことはあったのですが、実際に現地に行くのは初めてのことでした。

 水野阿修羅さんにいろいろな所を案内していただき、自分が思っていたイメージが変わったところもありました。

 よく暴動がある所というイメージもありましたが、労働者の高齢化があり、福祉関係の施設も増えてきているとのことでした。

 飲食店も、若いお客さんが並んでいたりして、楽しそうな雰囲気の所もありました。

 限られた時間の中ではありましたが、すごく勉強になる話をいろいろとしてくださり、楽しい時間をありがとうございました。

                                       (真鍋昌誠:大阪産地直送センター)



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